夏が来れば思い出す、あの匂い。
どこか懐かしく、安らぎを与えてくれるその匂い。
昔はそんなこと微塵にも感じていなかっただろうけど。
今から20年前、私は女体化した。
その時のことは今でもはっきりと覚えている。
私の誕生日は8月のまん真ん中。 ちょうどお盆時期である。
その頃は、まだ祖父母とも健在で、お盆の時期になると避暑がてら1週間ほど泊っていた。
東京という、日陰もないような暑っ苦しい場所にいることなんて苦痛でしかなく、山々に囲まれた祖父母宅に毎年足を運んでいた。
その現象が起きたのは、8月15日の朝。
隣で寝ていた弟の声で起こされた。
「兄ちゃん・・・? いや、どちら様ですか・・・?」
オドオドとした表情をしながら、弟が恐る恐る私に訪ねてくる。
寝起きだった私は、てっきり弟がからかっているものだと思い、「兄貴の彼女です」と冗談半分で答えた。
その答えを聞くやいなや、弟は布団から飛び上がり、両親のいる部屋へ駈け込んでいった。
いつもは冷静に行動するはずなのに、この慌てよう。
「どうしたんだろ?」と頭からクエスチョンマークが消えなかった。
その疑問が解決するのは、それほど時間がかからなかったことは言うまでもない。
その頃、私は弟に見栄を張っており、「童貞なんかじゃねぇぞ」と口うるさく言っていた。
「女のアソコはな・・・」とか、「女はいいぞぉ・・・」とか、さぞかしたっぷり経験したかのような口調で弟に自慢していた。
だけどそんな嘘も、見事に打ち破られる。
破られるというか、女体化してしまったんだから、言い逃れできない。
この時の私の絶望感といったら、半端ないものであった。
弟からは軽蔑の目で見られ、両親からは何故か怒られる。
祖父母は「これも運命」としみじみと語る。
その時、昨晩から点けっぱなしの蚊取り線香の煙の匂いが、どうしようもないくらい強烈に記憶に残ってしまう。
お盆の時期であったから、線香の匂いだか何の匂いだか分からないけど、その匂いが本当にダメになってしまった。
線香の匂いを嗅ぐだけでも、吐き気を催してしまうほどである。
それ以来、我が家では蚊取り線香は一切付けなくなった。
夏の時期、朝起きると全身が痒くなっているのは言うまでもなかった。
それから20年経った今、私は結婚し、子供もいる。
幸せっていえば、幸せ。 それなりに。
「女の子になってよかった?」ってよく聞かれるけど、どうなんだろう。
大抵の人には「よく分からない」と返す。
いい面もあれば、悪い面もある。 どっちつかずだから、曖昧な答えしか返せない。
でも、今それなりの幸せを掴めているんだから、女になってよかったんだろうね。
あの時のトラウマもほとんど消えかかってる。
5年くらい前からは、線香の匂いに対して嫌な感じがなくなった。
・・・旦那が煙草をよく吸っているからなのだろうか・・・?
つい先日、旦那や子供たちとキャンプに出かけ、20年ぶりに蚊取り線香の匂いを味わった。
最初はあのグルグルとした緑の物体に少し抵抗を感じたが、以前ほどの拒絶反応は無い。
むしろ、どこか懐かしさを感じる。
旦那が慣れた手つきで火をつけ、ゆらりゆらりと煙が上がる。
線香と変わらぬこの匂い・・・そう・・・20年前と全く変わらない・・・
しんみりと心に染みるその匂い。 苦い思いをしたあの頃には戻れない。
最終更新:2008年08月02日 15:50