78 名前:ナガ[sage]:2007/07/20(金) 12:13:16.81 ID:fZFeYlWD0
朝の光がカーテンの隙間から差込み、杉浦は小さく呻き、床から上半身を起こした。体のあちこちが痛み、杉浦は思わず舌打ちをする。隣には安物だが床で寝るよりはマシなベッドがあり、そこから穏やかな寝息が聞こえて杉浦の神経がささくれ立つ。
俺は床に寝たのに、と内心吐き捨てつつ立ち上がり、眼鏡をかけた。
度があっていないが、金がないので仕方が無い。仕方が無いが、唱えても新しい眼鏡は手に入らない。ため息が出た。
昨晩、同じ高校に通うクラスメイトの伊藤が「泊めろ」とすごんできたのがそもそもの始まりだった。
伊藤は髪を脱色し、ピアスをつけ、女と遊ぶことしか頭に無いような、そんな男だった。家計が破綻し、兄の援助によって汚いアパートに住み、なんとか高校に通う杉浦からすれば異星人そのもので、杉浦は思わず言いそうになった。
なんじゃこりゃ。
なぜ、クラスメイトというだけの関係で、殆ど会話すらしたことのない男が自分の部屋を知っているのか、しかもなぜ泊めろというのか理解不能だった。ドアを開けて呆然としていると、伊藤は沈黙を了解と受け取ったのかさっさと部屋にあがりこみ、承諾もなしに布団の中に潜り込んだ。
それなりに身長のある男同士が、狭いベッドで共に眠れるわけがない。仕方なく、杉浦は床で寝たのだった。
79 名前:ナガ[sage]:2007/07/20(金) 12:14:25.94 ID:fZFeYlWD0
「伊藤、学校行かないのかよ」
頭まで布団を被った伊藤に声をかけたが、反応は無い。ため息をついて、杉浦は布団を引き上げた。
「いと」
そこで言葉を失う。
昨晩、勝手に入り込んで勝手に眠ったクラスメイトの男は、オンナノコになっていた。
80 名前:ナガ[sage]:2007/07/20(金) 12:14:47.27 ID:fZFeYlWD0
「…は?」
杉浦は目の前の人物を見つめる。この女の子誰だ、伊藤の妹か、従兄弟か。それともそっくりさんな泥棒か。困惑しつつ、ありもしない仮定を並べる。
本当はこれが女体化した伊藤だと分かっている。だが、なかなか認められなかった。
そっと目の前の少女の髪をかきあげ、その横顔を確かめる。やはり、伊藤の顔だった。だが、まつげが長くなったような気がした。唇もわずかに、赤い。
少女が呻き、杉浦は思わず手を引く。少女が目を開け、不満そうに言った。
「もう朝?」
「伊藤だよな」
「あ?俺は伊藤だよ?」
困惑する杉浦を不思議そうに見つめた少女は、上半身を起こし、自分の胸を見て固まった。
「…女になったのか、やっぱ」
やっぱってなんだ、と杉浦は呻いた。
「伊藤は、童貞だったのか?」
伊藤は顔をしかめて頷く。
「朝一番に言うことがそれかよ」
「ごめん」
「…そうだよ、童貞だったんだよ」
伊藤は身体を起こし、あぐらをかいた。仕草が男らしいのに、容姿は女性で多少は違和感があったが、今の女の子はどちらかというと男っぽい子が多いし、と思うと違和感は薄れていった。
81 名前:ナガ[sage]:2007/07/20(金) 12:28:04.84 ID:fZFeYlWD0
「…もてるのに?」
「…無理だった。ちょっと、怖くて」
「そうか」
怖い、という理由で性行為をしなかった伊藤の心境も分からないでもなかった。特に必要と思わなければ無理にすることはない。そう思ってはいるが、杉浦は女体化が嫌で一度だけ性行為をしたことがある。勢いだけでしたから、思い出も何もない。
「とりあえず、家に帰れば」
伊藤は無言で髪をかきむしり、俯いた。
「…嫌なのか?」
尋ねれば、伊藤はかすかに頷く。
杉浦は思わず天井を仰いだ。参った。これには、参った。
一体どうしろと言うのか。女の子とまともに会話さえしたことない自分のベッドの上に、女の子が居る。こんな状況、初めてだ。対処の仕様が無い。
「ずっとここにいさせるわけにはいかないぞ。大家のおばさんがうるさいんだ。それに、ご両親が心配するだろ」
「あんな親」
その一言だけで、杉浦は伊藤が両親との関係が芳しくないことを悟ったが、助けてやれるとは思えなかった。自分の手に負えない。自分自身のことで精一杯なのだから。
「じゃあ、どうするんだ?」
伊藤は無言でシーツを見つめている。解決策さえ持たずに困惑しているような人間を、追い詰めるのは可哀想だった。だからつい、こんなことを言ってしまった。
「…解決策が浮かぶまで、ちょっとの間だけ、ここにいていい」
伊藤が顔を上げ、その視線を受けた杉浦は思わず目をそらした。
「忘れんな。ちょっとの間だけ、だからな」
86 名前:ナガ[sage]:2007/07/20(金) 13:20:24.79 ID:fZFeYlWD0
「なんでもするよ」
顔を洗い、杉浦の作った朝食を口にした伊藤はそう呟いた。杉浦は最初、その「なんでもするよ」は短い間の同居生活における家事分担のことだと思い、早朝のゴミ出しとゴキの始末は任せる―と言いそうになったが、そのまえに伊藤は言った。
「売春でもなんでも、するよ」
思わず箸を落としそうになり、言葉が出なかった。目の前の少女を見つめ、自分が作った目玉焼きを見つめる。目玉焼きの黄身は半熟気味だった。
「…なんで、そうなるかな」
「だって」
杉浦はゆっくりと言い聞かせるように言った。
「売春は、ハイリスクだよ。危険、怖い、辛い」
「…うん」
本当は真っ先に倫理的に訴える言葉が浮かんだが、それは喉の奥で噛み殺すしかなかった。追い詰められている人間には、倫理観を説く前に「危険さ」を強調したほうがよっぽどいい、と思ったからだった。
「とりあえず、嫌でも今できることを決めようよ」
「…うん」
「今俺たちがするのはサ、メシを食って、学校に行くことだ」
まずは些細なことから片付けること。これが、全ての基本だ。
87 名前:ナガ[sage]:2007/07/20(金) 13:20:45.92 ID:fZFeYlWD0
朝食を終え、伊藤はギリギリの時間まで愚図ったが杉浦は強制的に着替えを命じ、玄関で待った。異性が自分の部屋で着替えをしていると思うと多少は落ち着かないものだったが、向こうにいるのはあの伊藤なのだと思い出すとすぐに冷静さを取り戻した。
「…杉浦」
「ん」
振り返ると、そこには白いシャツの裾を腕まくりした伊藤がいた。これが派手な化粧をすればギャルになるのだろうが、化粧をしていない伊藤はただ髪の色が派手な女の子で、ぐれた中学生女子に見えた。
「荷物は?」
「…家、飛び出したから、財布だけ…」
「財布は持ってるんだな」
「うん」
「じゃあ行こう」
家出をしたならますます早めに帰らせないと、とは思ったが、まず今やるべきことから片付けようと思った。まずは、学校へ行かないと。
100 名前:ナガ[sage]:2007/07/20(金) 16:16:58.32 ID:fZFeYlWD0
電車に乗る前に、杉浦は二人分の切符を買い、満員電車に乗り込んだ。下着もまともにつけていないのに、オッサンと密着したり痴漢にあったりするのは可哀想だ。
そう冷静に考え、伊藤を車内の隅に追いやり、その真正面に立った。あまり身長は変わらないが、伊藤が俯いているおかげで目線は合わなくて済む。
「なんかあったら、とりあえず、言ってくれ。助けられるなら助けるから」
「…うん」
しばらくたって、電車の振動に紛れてかすかにありがとう、と言う声が聞こえた。
照れくさくて、その言葉に気付かないふりをしてしまったが、後から後悔した。どういたしまして、ぐらい言えばよかった。
101 名前:ナガ[sage]:2007/07/20(金) 16:17:19.41 ID:fZFeYlWD0
伊藤は始終、胸の前で腕を組んでいた。端から見れば横柄な態度だったが、担任の女性教師がその理由に気付いたためにとくに伊藤は職員室でも咎められることは無かった。
「おうちには、連絡したの?」
「まだ、です」
「そう。…先生、車で送ろうか」
伊藤が答える前に、杉浦は言った。
「そうしろよ。そのほうが話も簡単に進むかもしれない」
伊藤は何か言いたそうだったが、杉浦はあえて無視をし、担任に頭を下げた。
「先生、是非、伊藤を送ってあげてください」
伊藤が隣で呟いたのが聞こえた。
なんで、と。
杉浦も聞きたいと思った。なんで?お前はなんで、俺のもとへ来た?
118 名前:ナガ []:2007/07/20(金) 17:49:07.17 ID:fZFeYlWD0
「彼女と、別れた」
開口一番、そう言った伊藤の姿を杉浦はまじまじと見つめた。
伊藤は学校へきてすぐに担任の車に乗せられて家に帰ったはずなのに、なぜ自分のアパートのドア前にいるのか。
「…そうか。とりあえず、聞きたいことは沢山ある。だけど俺はバイトだから」
杉浦は使い古した腕時計を見た。とりあえず、九時過ぎには戻れるだろう。
「九時にバイト終わるから、来れるんだったらもう一度来てもいい。それか、家に居たくないなら、部屋にいてもいい」
「杉浦の部屋にいる」
「分かった」
杉浦は鍵を取り出し、ドアを開けて先に伊藤を室内に入れた。
「適当にしていていい。冷蔵庫の中にあるもん食ってもいいけど、消費期限には気をつけろな」
「うん」
靴を履き替え、バックの中から取り出した教科書などを玄関に置き、中身を最低限の荷物だけにする。
「じゃあ、鍵は閉めておけ。チャイムを鳴らされても居留守を使え。じゃあ、行くから」
「うん」
伊藤は真面目に頷き、今までのイメージとはかけはなれた、どこか寂しそうな雰囲気を漂わせていた。今日は朝から大人しい、と不思議に思いつつ、杉浦はドアを開けた。
「いってくる」
「うん」
多少なりとも心配だったが、バイトに穴を開けるわけにもいかず、杉浦は仕方なく外へ出た。今日は急いで帰らないといけない。
119 名前:ナガ []:2007/07/20(金) 17:49:37.88 ID:fZFeYlWD0
急いで帰りたいときほど店は込み、うらめしい気持ちでタイムカードを切った。弁当屋でバイトをしているため、余った弁当は貰える。今日は二人分頂いてもいいですか、と言った杉浦を店長にからかわれ、杉浦は足早に店を後にした。
息を切らせて帰り、鍵を差込みドアを開ける。
「伊藤、ごめん、遅くなった」
玄関から声をかげたが反応はなく、杉浦は首を傾げた。
鍵がかかっているのに、帰ったはずがない。寝ているのかと思ったが、すぐに風呂場からの水音に気付いた。
「ああ、風呂か」
なんだ心配した、と思いながら靴を脱ぎ、それからぎょっとした。
風呂?男の部屋で風呂?着替えなんて持ってきてねえだろ、馬鹿!
211 名前:ナガ []:2007/07/21(土) 00:03:31.03 ID:mCITK5Vz0
ベッドの上に寝そべり、杉浦は本を読んでいた。だが、読みなれている本ですら、一向に内容が頭に入らない。
なんで風呂に入るんだ、なんでうちに来たんだ、一体なんなんだお前は。
困惑し、とうとう本を放り出した杉浦は何度も寝返りを打った。
俺は一体どうすればいい。元は男だが、今は女の子を目の前にして、理性がきくのか。俺はそこまで、自分の理性を信じていいんだろうか。
「杉浦」
「え、あ」
ひょこりと顔を出した伊藤のほうを見た杉浦は言葉を失い、うろたえ、それから目を閉じて伊藤に背を向けた。
「な、なな、な、なん、お前」
「ごめん。ジャージ借りた」
「いや、いや、うん」
何でこんなにうろたえているんだ、かっこ悪いぞ俺。もっとかっこつけろよ、男だろう、と思いながらも実際の自分は酷く情けない。
212 名前:ナガ []:2007/07/21(土) 00:03:51.98 ID:mCITK5Vz0
風呂上りの伊藤は昨日杉浦が貸していたTシャツにジャージのズボンを着ていた。それは別にいいのだが、Tシャツの上からこんもりと浮かび上がった胸の形だとか、濡れた髪だとかがいちいち自分を動揺させる。
「あ、その、うん。食えば、弁当」
「…杉浦も、食おうよ」
「ん、ああ、うん」
目を開けて、伊藤を見ないようにしてベッドを降りる。小さなテーブルの上にある冷めた弁当の前で、伊藤は大人しく座っていた。
その姿を見るとなんだかあまりにも頼りなく、杉浦は冷静さを取り戻した。まずは話を聞くことがなによりも大事だと思い、伊藤の向かい側に座った。
「…杉浦、ごめんな。待たせた」
「や、別に俺はいーけど。つか、勝手に待ってただけだし」
「…彼女と別れたって」
「…うん。別れた。相手は、別にアンタなら女同士でもいいって言ってくれたけど」
「それでも、別れちゃったのか」
「…うん。性別が理由じゃねえんだ。好きとか嫌いとか愛してるとか愛してないとか、そういうの考えたら、付き合っているべきじゃないって、思ったんだよな」
「そうか」
「うん」
「なあ、伊藤、一つ聞いていいか?」
「うん」
「なんで、俺の家に来た?」
伊藤の顔が一瞬引きつり、瞬きを数回した伊藤は俯いて呟いた。
「…話、聞いてくれそうだったから」
「話…?」
223 名前:ナガ []:2007/07/21(土) 00:32:29.11 ID:mCITK5Vz0
顔を上げ、それから視線をついと逸らしたが、結局は伊藤は杉浦と目を合わせた。
「そろそろ女になるかもって思った。でもいっつもつるんでる連中は、俺のこと、馬鹿にするかもしんねえ、いや、最悪…」
「分かった言わなくていい!」
思わず大きな声で遮った杉浦に、伊藤は微笑みかけた。
「…杉浦は、そういうことが出来るから、すげえと思った」
「俺の、何がすげえんだよ」
一体自分の何が他人に誇れるというのかと杉浦は自嘲する。金も無く、一日一日を生きていくだけで精一杯の未来がない自分に何がある。
「杉浦、覚えてねえのかもしんねーけどさ」
「え?」
「俺は恋愛する必要性がないって、言った。授業中に。多分、現国のとき」
「…ああ、言ったかもしれない」
なんとなく覚えていた。随分前の話で、自分でもたいしたことないことを喋っていたから、言われるまで忘れていた。
「デブ原が、じゃあお前、やりたい盛りなのにセックスしねえのか、って言ったら、杉浦は言ったんだよ。覚えてる?
セックスと何かをすぐに結びつけるのって、頭悪いですね。そう言った」
224 名前:ナガ []:2007/07/21(土) 00:33:02.96 ID:mCITK5Vz0
「…忘れてくれ」
前々から折り合いが悪かった教師の大原と、堂々と喧嘩をした日だった。大原は杉浦の言葉を嗤い、このケツの青いガキが何を言う、と言ったから笑って言ってやった。俺はケツの青いガキですが、あなたは腹黒い妖怪です。
そうだ、思い出した。あの日はとうとう職員室まで呼び出されるほどだったのだ。
杉浦は大きく息を吐いた。しかし、あの日に言った言葉が、どうして今と繋がるのか。
「俺は…杉浦がかっこいいと思った。あの言葉を聞いて、簡単にセックスしちゃいけないと思った。皆がやりたいからやる、ってセックスに結び付けちゃいけねえなって、思った」
「そうか…」
「それに、デブ原の言葉をちゃんと聞いていた。だから、こいつはすごく真剣に話を聞いてくれるんだなーって思うと、杉浦と話をしている奴が羨ましかったよ」
「そ、そうか…?」
「うん」
232 名前:ナガ []:2007/07/21(土) 00:48:08.25 ID:mCITK5Vz0
伊藤が笑った。もうどうとなれ、とやけくそ気味に見えた。
「最初はさー、杉浦と仲良くなりたいなーとか思ってたんだよな。でもさあ…」
好きになっちゃった。
小さく吐き出された言葉を、なかなか理解することが出来なかった。
好きになっちゃった?
「は?好き?」
「うん、好き…」
口の開閉を何度も繰り返し、杉浦は身を乗り出した。伊藤はまだ笑っている。
「な、なんで、好きになったの?」
「それ、一番困る」
笑いながら、伊藤が声を震わせた。
「知んねーわかんねーでも、好きになっちまった」
泣くな、と言う前に伊藤の目に涙が溜まる。気付けば杉浦はティッシュを数枚箱から抜き出し、伊藤の目に当てていた。
「な、泣くな」
「無理…」
「無理言うな」
どうしようどうしよう、抱きしめたいけれど、どうしよう。ドラマならかっこよく抱きしめているだろうが、そんな勇気はない。どうしようどうしよう。
結局、杉浦は困惑した後に伊藤の肩を軽く叩いた。
236 名前:ナガ []:2007/07/21(土) 00:53:56.22 ID:mCITK5Vz0
「あの、とりあえず謝っておく。ごめん。伊藤のこと、嫌いじゃない。だけど、恋人として付き合うのは、無理」
「…うん」
こんなタイミングで言う馬鹿がどこにいると自分自身を罵倒し、伊藤の肩から手を離す。
「でも、話なら聞く」
「俺と杉浦、全然タイプ違うのに?今日だって昨日だってろくな会話してねーのに?」
「会話ならしただろ」
「あれは、女体化のことばっかじゃん」
「そうだけど、でも、ちゃんと会話出来たじゃん。同じ学校、同じクラスなんだから会話できるよ」
「じゃあ」
伊藤が杉浦の手からティッシュを奪い、小さく笑う。杉浦は手を引いた。
「ずっと話しかけてもいいのかよ」
「うん、いいよ」
そういうと、伊藤はありがとう、と言って泣いた。泣きたくないのに泣いてしまう、と言った伊藤に杉浦は慰めにならない言葉をかけた。
夏だからだよ。夏だから、涙が出るんだ。
そんな無茶苦茶な慰めを、伊藤はすんなりと受け入れてくれた。
最終更新:2008年09月04日 17:14