「橘」
俺を呼ぶ声がする。橘、と。優しい声で。
橘なんて、苗字で呼ばれることなんて殆どない。
中学卒業以来、殆ど。
「橘…」
心配そうな声だった。優しい声だった。それだけで十分だと思った。
「コウ」
頭を叩かれ跳ね起きると、叔父の章雄がこちらを見ていた。既に章雄は普段着姿になっていて、俺の頭をまた軽く叩いた。
「朝だ、起きろ」
「うん…」
俺は頭を擦りつつ、聞いた。布団から上半身を起こしただけで寒くて仕方が無かった。
「橘、って、俺のこと、呼んだ?」
章雄が一瞬眉根を寄せて、それから首を横に振った。
「呼ぶわけないだろう。俺の子どもを、苗字でなんか」
「だよね…」
章雄は俺のことを「俺の子ども」と言う。
章雄は俺の父親であり、叔父だ。それは否定のしようがない。
十五を超えて女になってからも、男だったときも、俺は章雄に似ていた。誰もが俺たちのことを親子として扱った。
それくらい、俺たちは似ていた。
「章雄」
それでも、俺は父親かもしれない男のことを、いや、父親であるだろう男の子を、名前で呼ぶ。
愛しいから。憎みたくないから、名を呼ぶ。
親子だと憎んでしまうから。
「章雄、今日の仕事、俺も行くよ」
「…吐くなよ」
「そこまで見えないよ」
章雄の大きな掌が一瞬さ迷い、俺の肩を撫でた。硬い掌はすぐに俺から離れた。
俺と章雄の関係なんてそんなもんだと思う。
執着があるようで、ないようなもんだ。
「着替えろ」
「うん」
部屋を出て行く章雄の姿を見送る。父親かもしれない、でも叔父かもしれない橘章雄という男。
そんな男は、家を出ると「霊能力者タチバナ」となる。
俺の家は代々、霊能力がある人間が生まれる家系だった。章雄は見事に昔から幽霊などを見、それを生業とした。俺は女になってから「見る側」になった。
それからいろいろと話し合った結果、高校に行かずに章雄と同居することになった。
服を着て一階の台所に行くと章雄が神妙な顔つきで、皿に張った水を見つめていた。
「どう?」
「…ああ、うん」
章雄の生返事に嫌な予感がした。水を張るという行為は、未来を予知する儀式のようなものらしい。
確実なものではないから天気予報みたいなもんだ、と章雄は言うが、大まかには当たる。
章雄の生返事は、言外に「今日はまずい」と俺に伝えた。
「…コウ」
「ん」
ついてくるな、と言われるのかと思った。だが、振り返った章雄は警告するように言った。
「俺の傍を、絶対離れるな」
「うん」
俺は章雄の腕を触る。
離れるなというなら、俺は離れない。あんたの傍なら、彼岸だって怖くは、ない。
移動手段は車だった。章雄の車は黒のチェロキーだが、選んだ理由がなかなか面白い。
「ちっとぶつかられても平気そうだから」
章雄いわく、軽自動車で跳ね飛ばされて死ぬのは嫌なんだそうだ。だけど、と章雄は続けた。
「まあ、死んだって構いやしないがな。生きるも死ぬも、川を流されているようなもんだ」
俺は章雄のそういうあっさりとしたところが好きだった。
愛さない代わりに憎みもしない、飄々としているところが好きだ。
助手席のシートに身を預け、俺はなんとなく口笛を吹く。流行の曲が吹けないわけじゃないけど、威風堂々を吹いた。俺の隣でハンドルを握る章雄がふいに笑い出した。
「十六のガキが、威風堂々かよ」
「うるせー」
俺が口笛を吹くのをやめて「ばーか」と反撃しても、章雄は楽しそうに言った。
「堂々としてろ。お前は正しい。世界が正しくないだけだ」
「うん」
フロント硝子向こうに青信号が見えた。その上に、足のない女が座っている姿が見えた。
「俺も、章雄が正しいと思うよ」
「なら俺を信じとけ」
「信じてるって」
言ってから後悔した。畜生、恥ずかしくて仕方ねえ。
章雄の仕事は「アマチュアの仕事」だと本人自ら言う。ちゃんと修行したわけじゃなくて自己流でやっているから、あまりでかい仕事は引き受けない、と言っていた。
でかい仕事をうっかり引き受けないようにするために色々と根回しがあるらしく、そのせいで章雄は同業者に馬鹿にされたりしているらしい。だが、章雄は反省したりすることはないだろうと思う。章雄は自分を貫く。いい悪いも関係なく、自分のままでいようとする。
その態度が、反感を買ったり、逆に認められたりする。
「コウ」
「んー?」
「お前さ」
「ん?」
「…いや、いい」
なんだよ、と言っても章雄は黙ってしまった。仕方なく窓をぼんやり眺めていると、章雄が俺の名前を呼んだ。
「何?」
振り返ると、章雄は車をコンビニの駐車場に入らせた。
「何?缶コーヒーでも買うの?煙草?」
「…メロンパンと、イチゴ牛乳」
俺は固まった。ハンドルを握ったまま固まった章雄の姿がぐらついて見えた。いや、俺がぐらついたんだ。俺の心が、揺らいだ。
「…なんで、その組み合わせ?」
甘いものが苦手な章雄が、イチゴ牛乳なんて飲むはずがない。牛乳が苦手な俺のために買おうとするとも思えない。
じゃあ、誰のため?
「…なんで、買うの?」
章雄は答えない。
俺の脳裏に明るい声が響く。メロンパンが好きだった友達。親友とは呼べなかったけど、仲がよくて―。
「…なんで、章雄が、藤井の好きなもん知ってるの?」
いっつもイチゴ牛乳を飲んでいた、ちゃらけていて、憎めない奴。
俺は一度も、藤井のことを章雄に喋ったことはない。
「…お前の知り合いだったんだ」
「答えてよ。
なんで、知ってんの?」
章雄がこちらを見た。哀れむような眼差しに俺のからだの芯が震えた。
「なんでだよ」
自分の声に怒気が含まれているのが分かった。だけど、怒りが俺のなかに渦を巻く。
「藤井が、今回の仕事の…」
「そうだよ」
静かに章雄が肯定する。言いかけていた俺に止めを刺す。
「藤井亮太君、っていう「少年だった」モノを、俺は消す」
少年だったモノ―。
つまりそれは、今は化け物に近いものになったってことだろう。
「依頼があった。ちょっとだけ相手のことを聞いた。…お前と同じ中学で、お前と同じ年に卒業してた」
「…なんで、今、言ったの?」
言わなければ俺は相手を藤井だと知らずに仕事ができたのに。
「俺は嘘をうまくつけないから。ばれるより、ばらしたい」
「…そう」
俺はそれ以上章雄を責められなかった。章雄が藤井を消す仕事を選んだわけじゃないし、仕方が無いことだ。
そう分かっていても、俺の気は沈んだ。
「メロンパンとイチゴ牛乳も、知らされたの…?」
「いや、一度会ってる。だから、思念が流れ込んでな…」
その思念で俺のことも見たんじゃないの?そう問いたかったが、章雄が財布から千円札を取り出して俺の掌に押し付けた。
「買ってきてくれよ」
「うん…」
俺は助手席を降りながら章雄を一瞥した。章雄は静かに、前を向いていた。
章雄は困惑しているんだろうか。それならば気にしなくていいよ、ぐらい言わなきゃ、と分かっていた。
だけど俺は何も言いたくなかった。俺は人間で、章雄みたいにぐらつかないで生きていけるわけじゃないから、悪意を持って行動することだって勿論多い。
依頼主の家、つまり藤井の家を訪れたのは今回が初めてだった。だが、章雄は初めてではないらしく、慣れた様子でさっさと入っていった。初めて会った藤井の母親は優しげで、上品だった。その顔が憔悴していて、苦しくなった。
藤井の遺影の前に立ち、俺は何も言えなくなった。
俺は藤井が死んだとしか知らなかった。まさか、章雄が手を下す必要性が出るほどの状態とは知らなかった。
じっと遺影を見る俺に、藤井の母親は小さな声で「明るい子だったの」と言った。
「明るい子で、友達も多くて…、ずっと親子喧嘩したりして過ごすんだって、思い込んでた」
藤井の母親が涙声で笑う。
「馬鹿よね、おばさん。ほんと、馬鹿よね。交通事故であっさり死んじゃうなんて、信じられなくて…」
「その思いが亮太君を引き止めたんでしょうな」
章雄が一刀両断するように言葉を放つ。藤井の母親は生気のない瞳で章雄を見る。
「章雄…、その言い方は」
「藤井さん、息子さんのことは残念だったと思います。月並みの言い方ですがね」
章雄がふっと息を吐いた。
「だからと言って、望んではいけない。この家から離れて欲しくないと、嘆いてはいけない。嘆きは呪いになる。愛しさが呪いになる」
「しつこいようですが、私は息子さんを消します。成仏なんて綺麗なもんじゃない。魂を、消す」
藤井の母親が見てはいけないものを見たように、章雄から目を逸らす。章雄はそんな人間の弱さを非難するように強い口調で言う。
「いいですか、まずはあなたが未練がましくあってはいけない。もし彼を呼ぶなら、私はあなたの存在を保証しきれない」
「連れて、いかれる、ってことですよね」
藤井の母親が微笑む。虚ろな目で笑う姿に鳥肌が立った。
章雄が小さく笑う。付き合って笑っているようにも見えたし、嘲笑しているようにも見えた。
「…本音で言うと、あなたが望むなら、止めませんが、それは契約違反ですのでね…。警告もしますし、止めますよ」
章雄が天井を仰ぐ。
「覚悟を決めてください。…行きますよ」
藤井の母親は何も言わず、ふらりとどこかへ消えた。
「章雄…」
小さく呼ぶと、章雄が俺の頭を撫でる。
大丈夫だと言うように。
主がいない部屋は静かで不気味だった。
整頓された清潔な部屋に貼ってあるカレンダーは随分昔で止まっていて、主が死んだという事実を思い知らされた。
藤井の母親も、部屋は掃除できてもカレンダーはめくれなかったんだろう。死者の時間を無理矢理動かしたくなかったのかもしれない。
章雄が部屋の中心に立つ。それだけで、部屋の空気が動いたのが分かった。
「コウ」
前を向いたまま、章雄が俺に腕を差し出す。俺はすぐさま章雄の腕に縋った。離れてはいけないと本能で分かった。
「…藤井亮太君、聞こえているかい」
空気がざわつく。何か、汚れているものが混じる。
「…宣告します。私は君を消す。君をこの世から消す。意味は分かるかい」
皮膚を介して俺のなかに何かが徐々に流れ込んでくる。気持ちが悪い。怖い。
「…問答無用で消すぞ」
章雄の言葉が途端に乱暴になった。…藤井が喧嘩を売ったんだろうか?
「…おい坊主。コウは俺の娘だ」
俺は章雄の腰に両腕を回し、しがみつく。情けない格好だと頭の片隅では思っていたが、恐怖から逃れることを最優先にした。
「何を怒っている?俺の娘だ…。顔をよく見てみろ。俺とコウはよく似ているだろ…」
それから少したって、空気が変わったのが分かった。怒りから困惑に変わった。そんなことが分かった。
「…藤井?」
顔を上げて名前を呼んでみる。章雄の視線を辿ってみたけれど、何も見えなかった。
俺は形のある、よく怪談で見るような人間の形をしているやつなら見れる。けど、それを通り越して形をなくしたものは見ることが出来なくなる。
「コウ、見るな」
「ごめん、見えないよ」
俺は章雄から離れて藤井が居るであろう場所に手を伸ばす。すかさず、後ろから章雄の肩をつかまれた。
「コウ」
咎めるような声を振り切るように、俺は藤井の名を呼ぶ。
「藤井。ひさしぶり。橘だよ、分かる?女になっちゃったけど、分かる…?」
空気が揺れる。反応があると分かって、嬉しくなった。
「分かる?ならよかった。なあ、藤井」
「コウ、喜ぶな。お願いだから」
章雄の両腕が俺の首の前で交差する。俺は片手でその腕を擦った。大丈夫、俺はここにいるよ。
「お前、ここにいちゃいけないよ。…行くべきところへ行かないと」
また空気が揺れる。今度は悲しげに。
「藤井…。お前、ここにいたらもっと駄目になっちゃう。悪いものになっちゃうよ」
数年前に章雄を襲ったモノのことを思い出す。理性をなくし、憎しみを育てすぎた、怪物。元は人間だったものが、あんなに醜いものになるなんてショックだった。藤井にはあんなものになって欲しくない。
「…章雄は消すよ。お前のこと」
空気が揺れて、俺の皮膚に訴える。だけど、言葉が分からないから、俺は感情を受け止めるしかない。
「コウ」
章雄の顔が肩に乗っかったのが分かった。
「コウ。そいつのこと、抱いてやれ。そうしたら、消えてやるって」
「…うん」
俺は両腕を伸ばした。それからゆっくりと抱きしめる格好をした。
「藤井。…何回か生まれ変わって、そんときにまた、会えるよ」
藤井が頷いた気がした。
「ばいばい」
「…別れが終わったなら、消すぞ」
章雄が小さく何かを呟く。その瞬間、大きく空気が揺れ、それから何もなくなったと解った。
ああ、藤井は消えたんだ。そう思い、目頭が熱くなった。
章雄が俺から離れ、入り口に居る藤井の母親に声をかけた。
「終わりました。また何かありましたら、ご連絡を」
多分、藤井の母親は章雄と連絡をとることはないだろう。そう思った。
メロンパンとイチゴ牛乳を藤井の母親に渡し、俺は黒のチェロキーのなかで少しだけ眠った。
夢を見た。
夢の中で、俺は何故かセーラー服を着て、どこかの屋上らしき場所に居た。そこには藤井がいた。手を振り、笑っている。
「よう」
「よ」
手を振り返し、俺は笑う。なんだ、お前。元気そうだな…。
「お前、意外に可愛いじゃん」
「だろ?似合うだろ、セーラー」
冗談で言ったのに藤井は真顔で頷く。
「うん。可愛い。死んで損した」
「…ばーか」
蹴るふりをして俺はまた意味もなく笑った。藤井も笑う。
「またどっかで会えるよなー、俺ら」
「うん、生まれ変わったらな」
「お前があのオッサンの恋人じゃなくてよかったー」
「親子だよ。
似てるだろ」
「うん、似てる」
他愛無い会話をし、俺たちはまた手を振り合って別れた。
目を覚ましたときには、運転席には章雄がいて、車が道路を走っていた。
「さっき、藤井に会ったよ」
「ああ、そうか。まあ、ちっと力は残してやったからな」
「消したんじゃないの?」
「消した。今は完全に消えているよ」
黄色信号で章雄がゆっくりと停止する。ため息をつくように言った。
「お前がつれていかれるんじゃないかってひやひやしてた」
「だから、急いでたんだ」
「うるさい奴だな」
俺は笑った。
行くわけないじゃん、と笑う。
「俺はここに居るよ」
俺はまた威風堂々を口笛で吹いた。堂々としていよう。例え、異物でも、なんでも。
悲しいことだってあるけど、誰かと一緒に居ることは幸福だと思うから。
「橘」
俺を呼ぶ声がする。橘、と。優しい声で。
橘なんて、苗字で呼ばれることなんて殆どない。
中学卒業以来、殆ど。
「橘…」
心配そうな声だった。優しい声だった。それだけで十分だと思った。
「コウ」
頭を叩かれ跳ね起きると、叔父の章雄がこちらを見ていた。既に章雄は普段着姿になっていて、俺の頭をまた軽く叩いた。
「朝だ、起きろ」
「うん…」
俺は頭を擦りつつ、聞いた。布団から上半身を起こしただけで寒くて仕方が無かった。
「橘、って、俺のこと、呼んだ?」
章雄が一瞬眉根を寄せて、それから首を横に振った。
「呼ぶわけないだろう。俺の子どもを、苗字でなんか」
「だよね…」
章雄は俺のことを「俺の子ども」と言う。
章雄は俺の父親であり、叔父だ。それは否定のしようがない。
十五を超えて女になってからも、男だったときも、俺は章雄に似ていた。誰もが俺たちのことを親子として扱った。
それくらい、俺たちは似ていた。
「章雄」
それでも、俺は父親かもしれない男のことを、いや、父親であるだろう男の子を、名前で呼ぶ。
愛しいから。憎みたくないから、名を呼ぶ。
親子だと憎んでしまうから。
「章雄、今日の仕事、俺も行くよ」
「…吐くなよ」
「そこまで見えないよ」
章雄の大きな掌が一瞬さ迷い、俺の肩を撫でた。硬い掌はすぐに俺から離れた。
俺と章雄の関係なんてそんなもんだと思う。
執着があるようで、ないようなもんだ。
「着替えろ」
「うん」
部屋を出て行く章雄の姿を見送る。父親かもしれない、でも叔父かもしれない橘章雄という男。
そんな男は、家を出ると「霊能力者タチバナ」となる。
俺の家は代々、霊能力がある人間が生まれる家系だった。章雄は見事に昔から幽霊などを見、それを生業とした。俺は女になってから「見る側」になった。
それからいろいろと話し合った結果、高校に行かずに章雄と同居することになった。
服を着て一階の台所に行くと章雄が神妙な顔つきで、皿に張った水を見つめていた。
「どう?」
「…ああ、うん」
章雄の生返事に嫌な予感がした。水を張るという行為は、未来を予知する儀式のようなものらしい。
確実なものではないから天気予報みたいなもんだ、と章雄は言うが、大まかには当たる。
章雄の生返事は、言外に「今日はまずい」と俺に伝えた。
「…コウ」
「ん」
ついてくるな、と言われるのかと思った。だが、振り返った章雄は警告するように言った。
「俺の傍を、絶対離れるな」
「うん」
俺は章雄の腕を触る。
離れるなというなら、俺は離れない。あんたの傍なら、彼岸だって怖くは、ない。
移動手段は車だった。章雄の車は黒のチェロキーだが、選んだ理由がなかなか面白い。
「ちっとぶつかられても平気そうだから」
章雄いわく、軽自動車で跳ね飛ばされて死ぬのは嫌なんだそうだ。だけど、と章雄は続けた。
「まあ、死んだって構いやしないがな。生きるも死ぬも、川を流されているようなもんだ」
俺は章雄のそういうあっさりとしたところが好きだった。
愛さない代わりに憎みもしない、飄々としているところが好きだ。
助手席のシートに身を預け、俺はなんとなく口笛を吹く。流行の曲が吹けないわけじゃないけど、威風堂々を吹いた。俺の隣でハンドルを握る章雄がふいに笑い出した。
「十六のガキが、威風堂々かよ」
「うるせー」
俺が口笛を吹くのをやめて「ばーか」と反撃しても、章雄は楽しそうに言った。
「堂々としてろ。お前は正しい。世界が正しくないだけだ」
「うん」
フロント硝子向こうに青信号が見えた。その上に、足のない女が座っている姿が見えた。
「俺も、章雄が正しいと思うよ」
「なら俺を信じとけ」
「信じてるって」
言ってから後悔した。畜生、恥ずかしくて仕方ねえ。
章雄の仕事は「アマチュアの仕事」だと本人自ら言う。ちゃんと修行したわけじゃなくて自己流でやっているから、あまりでかい仕事は引き受けない、と言っていた。
でかい仕事をうっかり引き受けないようにするために色々と根回しがあるらしく、そのせいで章雄は同業者に馬鹿にされたりしているらしい。だが、章雄は反省したりすることはないだろうと思う。章雄は自分を貫く。いい悪いも関係なく、自分のままでいようとする。
その態度が、反感を買ったり、逆に認められたりする。
「コウ」
「んー?」
「お前さ」
「ん?」
「…いや、いい」
なんだよ、と言っても章雄は黙ってしまった。仕方なく窓をぼんやり眺めていると、章雄が俺の名前を呼んだ。
「何?」
振り返ると、章雄は車をコンビニの駐車場に入らせた。
「何?缶コーヒーでも買うの?煙草?」
「…メロンパンと、イチゴ牛乳」
俺は固まった。ハンドルを握ったまま固まった章雄の姿がぐらついて見えた。いや、俺がぐらついたんだ。俺の心が、揺らいだ。
「…なんで、その組み合わせ?」
甘いものが苦手な章雄が、イチゴ牛乳なんて飲むはずがない。牛乳が苦手な俺のために買おうとするとも思えない。
じゃあ、誰のため?
「…なんで、買うの?」
章雄は答えない。
俺の脳裏に明るい声が響く。メロンパンが好きだった友達。親友とは呼べなかったけど、仲がよくて―。
「…なんで、章雄が、藤井の好きなもん知ってるの?」
いっつもイチゴ牛乳を飲んでいた、ちゃらけていて、憎めない奴。
俺は一度も、藤井のことを章雄に喋ったことはない。
「…お前の知り合いだったんだ」
「答えてよ。
なんで、知ってんの?」
章雄がこちらを見た。哀れむような眼差しに俺のからだの芯が震えた。
「なんでだよ」
自分の声に怒気が含まれているのが分かった。だけど、怒りが俺のなかに渦を巻く。
「藤井が、今回の仕事の…」
「そうだよ」
静かに章雄が肯定する。言いかけていた俺に止めを刺す。
「藤井亮太君、っていう「少年だった」モノを、俺は消す」
少年だったモノ―。
つまりそれは、今は化け物に近いものになったってことだろう。
「依頼があった。ちょっとだけ相手のことを聞いた。…お前と同じ中学で、お前と同じ年に卒業してた」
「…なんで、今、言ったの?」
言わなければ俺は相手を藤井だと知らずに仕事ができたのに。
「俺は嘘をうまくつけないから。ばれるより、ばらしたい」
「…そう」
俺はそれ以上章雄を責められなかった。章雄が藤井を消す仕事を選んだわけじゃないし、仕方が無いことだ。
そう分かっていても、俺の気は沈んだ。
「メロンパンとイチゴ牛乳も、知らされたの…?」
「いや、一度会ってる。だから、思念が流れ込んでな…」
その思念で俺のことも見たんじゃないの?そう問いたかったが、章雄が財布から千円札を取り出して俺の掌に押し付けた。
「買ってきてくれよ」
「うん…」
俺は助手席を降りながら章雄を一瞥した。章雄は静かに、前を向いていた。
章雄は困惑しているんだろうか。それならば気にしなくていいよ、ぐらい言わなきゃ、と分かっていた。
だけど俺は何も言いたくなかった。俺は人間で、章雄みたいにぐらつかないで生きていけるわけじゃないから、悪意を持って行動することだって勿論多い。
依頼主の家、つまり藤井の家を訪れたのは今回が初めてだった。だが、章雄は初めてではないらしく、慣れた様子でさっさと入っていった。初めて会った藤井の母親は優しげで、上品だった。その顔が憔悴していて、苦しくなった。
藤井の遺影の前に立ち、俺は何も言えなくなった。
俺は藤井が死んだとしか知らなかった。まさか、章雄が手を下す必要性が出るほどの状態とは知らなかった。
じっと遺影を見る俺に、藤井の母親は小さな声で「明るい子だったの」と言った。
「明るい子で、友達も多くて…、ずっと親子喧嘩したりして過ごすんだって、思い込んでた」
藤井の母親が涙声で笑う。
「馬鹿よね、おばさん。ほんと、馬鹿よね。交通事故であっさり死んじゃうなんて、信じられなくて…」
「その思いが亮太君を引き止めたんでしょうな」
章雄が一刀両断するように言葉を放つ。藤井の母親は生気のない瞳で章雄を見る。
「章雄…、その言い方は」
「藤井さん、息子さんのことは残念だったと思います。月並みの言い方ですがね」
章雄がふっと息を吐いた。
「だからと言って、望んではいけない。この家から離れて欲しくないと、嘆いてはいけない。嘆きは呪いになる。愛しさが呪いになる」
「しつこいようですが、私は息子さんを消します。成仏なんて綺麗なもんじゃない。魂を、消す」
藤井の母親が見てはいけないものを見たように、章雄から目を逸らす。章雄はそんな人間の弱さを非難するように強い口調で言う。
「いいですか、まずはあなたが未練がましくあってはいけない。もし彼を呼ぶなら、私はあなたの存在を保証しきれない」
「連れて、いかれる、ってことですよね」
藤井の母親が微笑む。虚ろな目で笑う姿に鳥肌が立った。
章雄が小さく笑う。付き合って笑っているようにも見えたし、嘲笑しているようにも見えた。
「…本音で言うと、あなたが望むなら、止めませんが、それは契約違反ですのでね…。警告もしますし、止めますよ」
章雄が天井を仰ぐ。
「覚悟を決めてください。…行きますよ」
藤井の母親は何も言わず、ふらりとどこかへ消えた。
「章雄…」
小さく呼ぶと、章雄が俺の頭を撫でる。
大丈夫だと言うように。
主がいない部屋は静かで不気味だった。
整頓された清潔な部屋に貼ってあるカレンダーは随分昔で止まっていて、主が死んだという事実を思い知らされた。
藤井の母親も、部屋は掃除できてもカレンダーはめくれなかったんだろう。死者の時間を無理矢理動かしたくなかったのかもしれない。
章雄が部屋の中心に立つ。それだけで、部屋の空気が動いたのが分かった。
「コウ」
前を向いたまま、章雄が俺に腕を差し出す。俺はすぐさま章雄の腕に縋った。離れてはいけないと本能で分かった。
「…藤井亮太君、聞こえているかい」
空気がざわつく。何か、汚れているものが混じる。
「…宣告します。私は君を消す。君をこの世から消す。意味は分かるかい」
皮膚を介して俺のなかに何かが徐々に流れ込んでくる。気持ちが悪い。怖い。
「…問答無用で消すぞ」
章雄の言葉が途端に乱暴になった。…藤井が喧嘩を売ったんだろうか?
「…おい坊主。コウは俺の娘だ」
俺は章雄の腰に両腕を回し、しがみつく。情けない格好だと頭の片隅では思っていたが、恐怖から逃れることを最優先にした。
「何を怒っている?俺の娘だ…。顔をよく見てみろ。俺とコウはよく似ているだろ…」
それから少したって、空気が変わったのが分かった。怒りから困惑に変わった。そんなことが分かった。
「…藤井?」
顔を上げて名前を呼んでみる。章雄の視線を辿ってみたけれど、何も見えなかった。
俺は形のある、よく怪談で見るような人間の形をしているやつなら見れる。けど、それを通り越して形をなくしたものは見ることが出来なくなる。
「コウ、見るな」
「ごめん、見えないよ」
俺は章雄から離れて藤井が居るであろう場所に手を伸ばす。すかさず、後ろから章雄の肩をつかまれた。
「コウ」
咎めるような声を振り切るように、俺は藤井の名を呼ぶ。
「藤井。ひさしぶり。橘だよ、分かる?女になっちゃったけど、分かる…?」
空気が揺れる。反応があると分かって、嬉しくなった。
「分かる?ならよかった。なあ、藤井」
「コウ、喜ぶな。お願いだから」
章雄の両腕が俺の首の前で交差する。俺は片手でその腕を擦った。大丈夫、俺はここにいるよ。
「お前、ここにいちゃいけないよ。…行くべきところへ行かないと」
また空気が揺れる。今度は悲しげに。
「藤井…。お前、ここにいたらもっと駄目になっちゃう。悪いものになっちゃうよ」
数年前に章雄を襲ったモノのことを思い出す。理性をなくし、憎しみを育てすぎた、怪物。元は人間だったものが、あんなに醜いものになるなんてショックだった。藤井にはあんなものになって欲しくない。
「…章雄は消すよ。お前のこと」
空気が揺れて、俺の皮膚に訴える。だけど、言葉が分からないから、俺は感情を受け止めるしかない。
「コウ」
章雄の顔が肩に乗っかったのが分かった。
「コウ。そいつのこと、抱いてやれ。そうしたら、消えてやるって」
「…うん」
俺は両腕を伸ばした。それからゆっくりと抱きしめる格好をした。
「藤井。…何回か生まれ変わって、そんときにまた、会えるよ」
藤井が頷いた気がした。
「ばいばい」
「…別れが終わったなら、消すぞ」
章雄が小さく何かを呟く。その瞬間、大きく空気が揺れ、それから何もなくなったと解った。
ああ、藤井は消えたんだ。そう思い、目頭が熱くなった。
章雄が俺から離れ、入り口に居る藤井の母親に声をかけた。
「終わりました。また何かありましたら、ご連絡を」
多分、藤井の母親は章雄と連絡をとることはないだろう。そう思った。
メロンパンとイチゴ牛乳を藤井の母親に渡し、俺は黒のチェロキーのなかで少しだけ眠った。
夢を見た。
夢の中で、俺は何故かセーラー服を着て、どこかの屋上らしき場所に居た。そこには藤井がいた。手を振り、笑っている。
「よう」
「よ」
手を振り返し、俺は笑う。なんだ、お前。元気そうだな…。
「お前、意外に可愛いじゃん」
「だろ?似合うだろ、セーラー」
冗談で言ったのに藤井は真顔で頷く。
「うん。可愛い。死んで損した」
「…ばーか」
蹴るふりをして俺はまた意味もなく笑った。藤井も笑う。
「またどっかで会えるよなー、俺ら」
「うん、生まれ変わったらな」
「お前があのオッサンの恋人じゃなくてよかったー」
「親子だよ。
似てるだろ」
「うん、似てる」
他愛無い会話をし、俺たちはまた手を振り合って別れた。
目を覚ましたときには、運転席には章雄がいて、車が道路を走っていた。
「さっき、藤井に会ったよ」
「ああ、そうか。まあ、ちっと力は残してやったからな」
「消したんじゃないの?」
「消した。今は完全に消えているよ」
黄色信号で章雄がゆっくりと停止する。ため息をつくように言った。
「お前がつれていかれるんじゃないかってひやひやしてた」
「だから、急いでたんだ」
「うるさい奴だな」
俺は笑った。
行くわけないじゃん、と笑う。
「俺はここに居るよ」
俺はまた威風堂々を口笛で吹いた。堂々としていよう。例え、異物でも、なんでも。
悲しいことだってあるけど、誰かと一緒に居ることは幸福だと思うから。
最終更新:2008年09月04日 17:15