佐伯可南子は、不健康を自覚していた。
セーラー服がだぶつくのはいつものことだが、ブラジャーがゆるくなったことに可南子は焦りを感じた。また痩せている、と。
食事を抜いているせいだと気づいたが、今朝も食欲はない。ある程度どのくらい食べれば生きていけるか、感覚は備わっている。だから大丈夫だと思っていたのに、ここ二週間ほどで一キロ痩せた。
「…大丈夫、まだ死なない」
大丈夫など、自己暗示に過ぎない。だが、可南子は呟く。
大丈夫、大丈夫、と。
大丈夫ではないと自分で自覚しているくせに。
通学中に早瀬を見かけた。早瀬はセーラー服にコート姿ではなく、冴えないジャージにパーカー姿だった。
勿論、制服での登校が義務付けられている可南子の高校では、校則違反に値する行為だった。だが、その校則違反も黙認されているのは早瀬が女体化したからだ。
早瀬の後姿はどこか頼りない。一歩一歩歩くたび、体が傾ぐように見えるのは気のせいではないと思う。
弱々しいくせに虚栄心が強く、プライドが高い早瀬は男子であるときから孤立していた。そして女子である今も、その状況は変わらない。
虚しい。
可南子はその後姿に呟く。
あんた、超虚しいよ。あたしもだけどさ。
この世界が憎いと思う。例え自分が原因でも。
そう思うのは早瀬も自分も一緒だと思う。早瀬の横顔や後姿を見るたび、可南子は同類の悲しさを知る。
決して、上手に生きられないのだと。
教室の窓際の席が可南子の居場所だった。ぼんやりと窓を眺める。口の中には甘ったるい飴玉が入っていた。
糖分を摂取していればなんとか生きていける、と思って飴玉を舐めることが習慣になっていた。だが、時々耐え切れなくなって飴玉を吐き出すことがある。そのたび、心臓が冷える気がした。
食べることも寝ることも出来なくなったら、壊れる寸前。
そんなことを思うと、心臓が痛む。
可南子は無理に友達を作ろうとすることをやめ、孤立することが多くなった。教室にはそんな同類たちが
男女関係なくいる。決して群れることをせず、一人寝ていたり本を読んでいたりする。
冷やかし目的で話しかけられることがあると、可南子はいらつく。そんな自分がとても嫌だと感じるくせに、態度を改めないのは可南子が他の人間を見下しているからだった。
自覚のない見下し、プライドの高さ。それは、幼さと寂しさがねじれた結果。だが、ねじれたものはなかなか戻らない。
正直、可南子自身どこでねじれたのか分からない。祖母との不仲や、小学校の頃リーダー格の女の子を怒らせてクラス全員から無視されたとか、そういうことが原因としてあるのかもしれないが、どれも決定打にならないような気がした。
どこでこうなったのか。
それは、考えても考えても分からない。
食事が出来なくなってきたのも、緩やかな変化だった。自分でも気づかないほどゆっくり、体は追い詰められていった。
あたしは壊れるのかな。ぼんやり思う自分に、危機感がないことに気づいて可南子は苦笑した。
鈍感なのか、それとも諦めきったのか…。
きっとこのまま、死んでいくのだろう。そう思いながら、日々、流されるように生きている。
屋上の鍵が壊れていると知ったのは、つい数日前のことだった。
たまたま、教師に言われて屋上の階段近くの空き教室に出向いたことがきっかけで、なんとなく屋上の入り口のドアノブをまわすとあれ、と思った。そこでしつこく開け方を研究した結果、可南子は屋上に出入りすることが出来た。
放課後、こっそりと屋上に入ると、心が弾んだ。風の冷たさも屋上では我慢ができる。
ぼんやりと空を仰ぎながら携帯電話で音楽を聴く。鼻歌を歌いながら、空と同化したいと甘く愚かな夢を見ているときだけ、
幸福だと思えた。
三曲目が流れ始めたとき、可南子はいきなり肩を叩かれた。
「ひっ」
声をあげ、後ろを振り向くと早瀬が立っていた。
「あ、はや、せ、くん」
「アンタも、知ってたんだ、ここ」
「うん」
早瀬の目は静か過ぎて不気味だった。早瀬は可南子の隣に座った。
「…早瀬くん?」
「あんたさ」
「うん」
「メシ、食わないの」
可南子は驚き、沈黙した。食事を抜いていたことに早瀬が気づいていたなんて知らなかった。そして、ここまでうろたえる自分に驚いた。
「…関係ないでしょ」
「可愛くないね」
早瀬が笑い、可南子は早瀬を睨んだ。だが、早瀬は怯むことがない。
「なあ、佐伯。お前ね、一人で生きているわけじゃないんだよ」
淡々と、早瀬は言う。
「お前を見ていない人間だけじゃないんだよ。お前を見ている人間も居る。お前、忘れてるだろ」
「うるさいなぁ」
可南子は立ち上がろうとしたが、早瀬の手が可南子の手首を掴んでそれを阻んだ。早瀬の手は、柔らかく、少女の手になっていた。
「忘れんなよ」
「忘れなかったら何になるの?何か変わるの?」
早瀬の感情のない瞳を見ていると言葉が暴走した。感情を抑える壁が決壊したのが分かった。
「あたしなんか消えちゃうんだから。壊れちゃうんだから、いつかは」
「まだ止められる」
「うるさいな」
可南子は早瀬の手を振り払った。だが、またもや早瀬の手が伸びてくる。
「忘れんなよ」
可南子は早瀬の手に捕まらないように逃げた。走って屋上を飛び出し、階段を駆け下りた。
意味もなく泣きそうになった。
翌日、可南子はスティック上の栄養補給用の菓子を学校に持ってきた。
「メシ、食べるよ」
机に伏せていた早瀬に菓子を見せてそう言うと、早瀬が笑った。顔を上げてにやにやしていたかと思うと、ポケットからチョコレートを取り出し、可南子に手渡した。
「女の子は甘いもん好きだろ」
「決め付けんなばーか。あたし好きだけど」
「一緒に食おうよ」
「あたしが全部食べます。貰ったからね」
早瀬は可愛くねぇ、と笑い、小さな声で「食えるならまだ上等」と言った。
可南子はその言葉に頷いた。そうだね、まだ食べられるよ。そんなに食べられないけどさ。
「ねえ、早瀬」
「ん」
「あんた、あたしのこと見てた?」
早瀬は一瞬目を泳がせ、それから肩をすくめた。
「ん、まあ」
「あたしも見てたよ。あんたの横顔、虚しいな、って思いながら見てたよ…」
チョコレートを握る。多分、これを全部食べることは難しいだろう。可南子の胃は水分とちょっとの食べ物しか入っていないのが常なのだから。
「忘れなかったら大きく変わることなんてないよね。でも、なんだか、あんたと話したらちょっと、食べるのもいいかも、って…」
「じゃ、それでいいじゃん」
早瀬が笑った。
「いいじゃんそれで。それでいいよ。少しずつ、ゆるゆる変わっていけばいいじゃん。どうせ人間なんて皆、ゆるゆる変わっていくんだからさ」
「…うん」
早瀬はあたしと似ているんだな、と可南子は思った。だから、早瀬はあたしに気づいたのかな、と。
「早瀬、あたし、食べるよ…」
同類とともに居られるなら、生きていけるだろうか。この先も。
「うん、食べろ」
可南子は早瀬に笑い返した。久しぶりに笑ったと思った。
おわり。
最終更新:2008年09月04日 17:16