『忘れてくれ。』

お前の母親も父親も、骨が溶けるくらいの熱さで憎むから、お前は忘れて。





 大学へ行くと、友人がいる。彼女になってくれそうな女の子もいる。冗談を飛ばしあって、馬鹿騒ぎして、それでも肝心なことを喋らないで、そうやって日常は過ぎ去っていく。
 波風は立たせない。我慢して笑って、不快感も押し殺して笑っている意味が時々分からなくなるが、それでも「平穏」とはこういう努力の上にあるのだろうと思うから、やめるつもりはない。
 作り笑顔も嘘も、騙しきれたらそれは真実、と思い込んで生きていくのが、一番、楽だ。
 そう、最近まで浅間は思っていた。





 モーニングコールは、いつも挨拶で終わりを迎える。
 「いってらっしゃい…」
 携帯電話から聞こえる声は頼りなく、か細い。それは、高島という人間そのものであるような気がした。
 「いってくる。じゃあ、気をつけてね」
 そんなことを言いながら電話を切り、何に気をつけるんだろうとおかしく思う。高島は女体化した後、よく眠るようになった。女体化者はホルモンバランスが崩れ、しばらく体調が優れないということがある。
高島の場合はそれが酷く、アパートに訪ねると寝顔しか見れない日も多い。
 浅間は胎児のように丸くなっている高島を見ると、愛しいと思う。そして、時々、殺してやりたくなる。
 不器用に生きる魂。多分、神よりも無邪気な魂。




 それを独り占めしたくなって、この首を絞めてやろうかと思う。
 寝息を聞き、首に手を伸ばして思いとどまるのは、良心がうずくからではない。世間体を気にするからでもない。
 高島の首に傷痕があるからだ。
 「ちいさいころ、煙草、押し付けられた」
 そういった高島の顔は凍りついていて、目には残酷な光がちらついていた。
 自分の靴を履きながら、高島はため息をついた。
 自分を偽ることをせず、そのままの己をぶつける高島を見ていると、ブレーキがなくなる。
 俺はこのままだったら、殺すよ、と呟いた。
 高島か、高島の両親のどちらか。




 アパートに行くと、高島が声を押し殺して泣いていた。ニュースを読み上げるテレビだけが、騒々しかった。
 高島は浅間を見るなり呟くように言った。
 「子どもが、死んでた」
 「どこで」
 「大阪」
 「そうか…」
 「昨日は、岐阜。その前は、沖縄。その前は、栃木。その前は、茨城」
 「うん」
 「どこでも、子どもが死ぬんだ。親に虐げられて」
 「うん」


 高島の言葉を聞きながら、浅間はその背中を擦った。骨に触れた。その体温に触れた。それだけで幸福なのに、そんなことを忘れてしまうほど、人は暴力にとりつかれる。それが、怖いと思った。
 忘れたいこと、忘れたくないこと、自分でコントロールしたいのにうまく行かないもんだ。浅間は内心呟き、高島の頭を触った。びくりと震えるその体を抱きしめた。
 「忘れてくれ」
 「え」
 「俺が憎むから、お前は憎むな」
 温かい体。それを愛おしいと思う理由はない。
 「お前を虐げた奴らのことも、そいつらの同類に殺された子どものことも、憎むな。忘れろ。いや、忘れてくれ。その代わり、俺が憎むから、だから」
 浅間は小さな声で囁いた。
 「俺は時々お前が愛しいと思うことを忘れて、その首を絞めたくなる。その狂気も、暴力も、どうせなら、お前が憎む相手に向けたい」
 高島の体が震えたと思ったら、その腕が浅間の背中に回って、抱き返されたと気づいた。
 二つある体が、温かい。
 「辛いな。生きるのは」
 暴力を持て余し、笑って生きるのは辛いよなぁ。
 だけどそれでも。
 「お前がいるなら生きたいよ」
 ため息とともに吐き出して、浅間は笑った。ひさしぶりの本心からの言葉だった。

終わり。


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最終更新:2008年09月04日 17:18
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