安価『合わせ鏡』

「……あーもうまた枝毛かよ……クッソ、ドライヤーだってリンスインシャンプーだって始めたじゃねーか、これ以上コイツは俺に何を求めるんだ」
「……そりゃあ、もう少し適切な扱いだとか、そういうもんじゃないか」
「下らん茶茶をいれるなバカ」
「事実だろうが阿呆」
 溜め息が聞こえた。


 最近よく手にするようになった手鏡を片手に、姿見の前で唸る美少女が一人、何とか後ろ頭を映そうと四苦八苦しているのが見える。
 ……いやまあ説明不要で俺なのだが。
 そしてここは、結局女になった後もあまり変わらない俺の部屋。……服その他はともかく、机に堂々と鎮座ますプラスチック装甲な陸戦型ガ○ダムなど、夢見る乙女にしてはいささか夢見がち過ぎる所も多々見受けられるもんだけれども。
 ――自慢だが、夕陽が差し込むとまたこれがいいアングルなのである。

 必死に髪を直す背後には、最早勝手知ったる他人の家とばかりに漫画を取り出し、ベッドに凭れて読み耽るバカが一人。人が困っているのが誰のせいなのか、コイツは判っているのか。

 整える手を止めずに愚痴をこぼす。
「……大体お前、遊びに行くなら行くで事前に連絡しろよ……」
 む、こんな所にも枝毛のヤツラが隠れていやがったか。駆逐。霧吹きから櫛のコンボはあらゆる敵を打倒するのだ。
「何を今更、いつもの事だろう。少なくとも今日は友人として遊びに行くだけで、何も畏まったデートをしにいく訳じゃない。ゲーセンという名の戦場で敵機を落とせば十分だ」
「お前のその感覚は、最早乙女にゃ通用しないんだよ――っと、ほっ。遊びに行くだけでも――なっ、よっ」
 角度が合わずに、クルクルと手鏡を回す。……上を見ようとして下にずれる経験をするのは、決して俺だけじゃない筈だ。
 発見、駆逐。
「そんなものか」
「そんなもんです」
 発見駆逐。ボスン、と後ろから、ベッドに漫画を投げ出す音が聞こえる。
 ……まあそりゃそうか。もう貸してないのは無い筈だし。
「暇なんだが」
「お前のせいだろうが、ちっとは反省して待て」
 発見。ええい迂闊な奴め。

「……大変そうだな」
「全くだ。あーもううぜぇ……いっそバッサリいきたくなってくるっつーの」
 そらそら、まだまだくち――――


「ほれ、貸せ」
「……ふぇ?」

 手にした冷たい櫛の感触が、突然暖かい掌の感触に代わってそのまま離れる。

「ちょ――ひゃい!」
 霧吹きの水がうなじにかかって、思わず妙な声が漏れた。

 ――スゥ、と澱みなく流れる櫛が心地良い。

 視線に困って目の前を見れば姿見には、憮然とした顔ながら頬を染めて胡座をかく美少女と、ムカつく程シレッとした顔で髪を梳くバカの姿。

「……なんか手慣れてねぇ?」
「バカを言え。こんな事誰がするか。……した事があったなら、疾うに俺は髪フェチだ」
 動揺したのか、流れていた櫛が引っ掛かる。

「いて」
「すまん」
「……いいけどさ」
 見れば、変わらない表情ながらも僅かに赤く染まった顔。

 ――またニヤニヤが止まらなくなってくる。
「今のさ、もしかししなくても俺の髪が好きって事だよな?」
「ノーコメントだ」
「じゃあ何でこんな事してん?」
「時間が勿体ないだろう。俺がやった方が早い」
「……嫌いか?」
「……卑怯者め」
 言いながら、結局手を止めないコイツがどうにも……まあ、なんだ。何でもない。

 ――どうにも、髪は女の命とはよく言ったものかもしれない。


「――切るなよ?」
「――切らねーよバカ。誰の為に伸ばしたと思ってる」
「――ならいい。手入れが面倒なら俺に言え。このキューティクルの感触を存分に堪能してやる」
「バカか」
「否定はしない」


 僅かに開いた窓から吹き込む、淡い風。

「出来たぞ」
「どれ」

 合わせ鏡は、ただ一人で持つよりも随分見やすい。

「オーケ、行くか」
「おう」


 ――他愛ない感謝の笑みと、サラリと流れる黒髪が、ただふわりと風に舞った。


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最終更新:2008年09月06日 22:19
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