――さて、夕暮れという物を俺は酷く愛している。
特にこのような晩夏の夕暮れなど最高だ。
色は暁ではなく、言わば青。
蝉時雨は止み、昼の焦げ付くような炎天は鳴りを潜め、代わって辺りをわずかながら帳に覆う、静かな夜の影。
例えばそれは、しんしんと響くヒグラシの声。気の早いコオロギの単奏。
或いはそれは、薄闇の藍。夕の暁に目を奪われ、決して顧みられる事のない、海色の静寂。
網戸を抜けた、熱風の香残す涼風もまた快。夏雲奇峰の消えゆく空はただ寂しげで、されど狂騒の終わりを告げるが故の不可思議な安寧もまた確かにあるものだ。
「……狂騒、か…………」
――全く、言い得て妙である。俺がこの夏、延いてはこの年に入って何程の混迷、混沌、その他諸々の安寧の対義語に惑わされたのか、この阿呆は想像しきれていないに違いない。
――電気も点けずにただ窓の外の街灯に照らされただけの、見飽きた部屋の畳の上には、昔と違わず、だが昔と余りにも違う姿で、丸くなりスゥスゥと可愛らしい寝息を立てる親友の姿。
……余りにも詩的な表現で少々歯が浮くが、其れはまるで、箱に納めた和人形の様。
僅かに崩れた朝顔模様の浴衣。
袖先から覗く手指は白滋の如く。華奢なそれは酷く儚くて、少々力を込めれば壊れてしまいそうな、感傷に似た何かを抱かせる。
閉じた瞼に映える、黒く長い睫。色素の薄い唇は、言葉を紡ぐだけで崩れてしまいそうな。頬もまた透き通るように白く、だが僅かに赤みを帯びて、その内の生が見掛け程儚くなどない事を如実に、されど可憐に表現する。
黒漆の髪は滑らかで、畳の上に流れるように散らばって――まるで出来損ないの絵画のようで。
どうにも、見ているだけでは抑えられないのだ。
「……全く、いつまで寝ているつもりなのやら…………」
僅かな罪悪感を言葉と共に吐き出し、窓辺から傍らに寄ると、散らばった乱れ髪を手櫛でけずる。……僅かにグズるような仕草がまた扇情的で、浴衣がまた少し崩れてもう犯すか。
――いや違うだろうと神速で否定した。罪悪感倍増である。
……マテ、元より何故俺罪悪感など感じねばならんのだ。その言われ因縁故事来歴、余さず説明して貰おうじゃないか。
そんな事を刹那に自答して、
「……ん、あ…………アキ……ラ…………」
――心に答えるような声に、一瞬心臓が跳ね上がった。
「…………バッカ、だな……お前…………スゥ、スゥ……」
――バカとは何だ、阿呆。
――そう心で返した刹那、白滋の肌が色に染まった。
遅れて響く、ドン、という火薬の音。
「――――ああ」
始まったか、と、外も見ずに思う。本来の今日の予定だ。
「――全く、予定を忘れて寝こけるとは……どちらが阿呆だと言うのだ……」
……さっさと知らせて起こさねば、コイツは確実に怒るだろう。その為にわざわざこんな慣れない様で、祭り会場に近いここまで来たというのだから。
だというのに、
鮮やかに彩られるその姿が、
「…………ッ、ン――」
――俺が下らない一目惚れなどに落ちた、初めて見た姿と重なる。
重なる視線は、鮮やかな火薬色。
「『……よう、どうした親友、鳩につままれたみたいな顔して――?』」
――フフン、と、いつものように意地の悪い笑み。
「……それはまた、狐が豆鉄砲を撃つよりもさぞ驚くだろうな」
――フゥ、と、溜め息混じりに答える自分。
――姿形は変わっても、いつまでも変わらないやり取りは、心の底から愉快で。
「……バカか」
「……お前もな阿呆」
懐かしく、あまりに自然な答えが口をついていたのは、追憶でも何でもない。
「――――って花火始まってんじゃねーかこのマヌケッ!? 何で起こさねぇんだよトンマ!」
「な、いきなりうたた寝を始めた本人が俺を弾劾するのか!?」
……訂正だ、愉快に不がつく時もあろう。
最終更新:2008年09月06日 22:20