「――そっか、もう丁度七年にもなるんだな…………」
「……え? 何がですか?」
ふとした呟き程度のそれを迂闊にも拾われて、俺は思わず舌打ちしたくなった。
夜を迎えたオフィスはひっそりと静まり、だからこそ些細な物音一つですら綺麗に浮き立たせる。
ひっきりなしに続く硬質なタイプの音。
啜られた珈琲の立てる僅かな水音。
少し身動ぎした際に立てる椅子の軋み。
冷たいディスプレイの光に照らされたそれらが、今この部屋に存在する総て。
既に今日の業務分を済ませた俺は、性格上最後の一人の部下を放置して帰る訳にもいかず、かと言って更に仕事を増やす気にもなれず、着替えた後ただ呆とソイツの隣りのデスクに腰掛けている。
目の前の暗いディスプレイに映り込むのは自分の姿。
映る姿は、黒のロングスカートにハイネック、萌葱色のカーディガンを羽織り、パンプスを履いた足をプラプラさせて暇そうに佇む女性の姿。
背中で大きな三つ編みにした黒漆のような長い髪がまるでエビのようで僅かに子供っぽくも見えるが、この方が面倒がないのだ。仕方がない。
……いい加減慣れはしたがやはり慣れなくて、ディスプレイの美女は軽く溜め息をついていた。
粛粛と、ただ過ぎる時間。
この部屋で唯一白く照らし出されているソイツの横顔以外に見えるものなどなくて、
故に見つめ続けてしまうのは仕方の無い事だと自分に言い訳を続ける俺は、傍から見ればさも滑稽な事だろう。
そんな俺の気持ちを察したかのように呟きに答えてこちらに視線を向ける瞳は、光を弾いて不思議そうに揺れていた。
「…………先輩? どうかしましたか?」
「ん、ああいや、少し疲れて呆けてただけだよ。気にしないで続けてくれ」
「それは勿論ですが……でしたら僕の質問に答えて下さいよ。気になるじゃないですか」
そんな事を言いながらムッと眉をしかめる後輩には威圧感など微塵もなくて、思わずククッと忍び笑いが洩れた。――全く、神様とやらも真面目にやる気があるなら俺なんかじゃなく、コイツを女にしてやった方がよっぽど世の為になったろうに。
「あ、笑いましたね。もういいです。喋ってくれるまで続きはやりませんから」
「オイオイ、そうしたらお前だって帰れないんだぞ?」
「死なばもろともです。大体先輩が上司になった時、僕はもう遠慮はしないと決めたんですから」
「何て上司不孝な部下だ。先輩は悲しいぞ?」
「お互いさまです」
「……終わったら話してやるからさっさとやれ」
「了解しました」
心地良い軽口の応酬。ディスプレイの白い光に映える笑みは何の屈託もなくて、まるで子供のようだ。
……それを当たり前に感じられなくなって来たのははたしていつからだったのだろうと、椅子の背を揺らして思案した。
初めて会ったのは同じ課の同僚として。課題として提出したプロジェクト案が、偶然にも新入社員の若輩者とまるで同じ――とまでは言わないが、酷く似通っていて上司に叱責される羽目になったのを覚えている。
その縁もあって済し崩し的に俺はその新入社員と組んでプロジェクトを進め、結果的にそれが一つ課を新設させてしまう程に成功し、若い女の身ながら見事な出世街道を昇る事と相成った訳である。……最早何のてらいもなく『相棒』と言い切れる程成長した若輩者を伴なって。
――そう、相棒なのだ。
そこは勘違いしてはいけないのだ、決して。大体こちとら元男である。それが何の気もなく乙女のように恋をするなど、馬鹿げているを通り越して呆れてしまう。アリエナイここに極まれりというものだ。
――そんな言葉を自分に言い聞かせなければならない程度には、疾うに俺はおかしくなっていた。
そんな益体もない事を考えながらふと光るディスプレイに目を向ける と、並んだ表の一箇所に違和感を感じた。
「おい、そこ間違ってないか?」
「え? ど、何処ですか? えっと、ちょ、ちょっと待って下さい、あー」
……指摘した途端慌て始めるその姿はやはり新入社員の頃と少しも変わらなくて、少し安心してしまう。
「ほらここだよ、この演算入力。……ったく、少し貸してみろ」
「あ……」
椅子から立上がり、放すのをまたず手の上からマウスを操作して訂正を入力する。ついでに背に軽く当たる胸。……わざとではない。役得なんて事も思っていない。
少し気分がいいのは違和感が消えたからとついでにコイツの赤くなった頬が非常に純朴過ぎて面白かっただけだ。手を触れただけで嬉しくなんかないぞ。
「――これでよし、ほらボサッとしてないでとっとと俺を帰らせてくれ、な」
そうしてしばし堪能した後、俯き加減で顔を赤らめたままの相棒に男らしく二カッと笑いかけた。……あんまり引っ切り無しに女を感じさせるのも流石に可哀想だろう。
これでまたコイツはヤレヤレと溜め息まじりに、元に戻るだろう。僅かに近くて酷く遠い、『職場の相棒』というその場所に。僅かに詰めた距離を、総てなかった事にして。
そうして俺もまた椅子に戻る。隣りのその椅子に。総てなかった事にして。
いつまでも居心地のいいこの距離で過ごしていられると。
……そうだとばかり、思っていた。
「……先輩は、凄い人ですよ」
椅子に戻ろうとした俺の背に、唐突に声がかかる。
「――? どうした突然、何か悪いものでも――――」
食ったか、と、振り向いて。
……そこには、こちらを強く睨みつけて、
――ボロボロと涙を流す、後輩の姿があった。
「――――な――?」
「初めて会った時からそうでした。先輩課に入った新入社員の前で何て言ったか覚えてます?
『まあこんなナリだが俺は男――のつもりだ、まだ自分では。でもま、こんなナリだから女の子も話し掛けるのは簡単だろ。男も美女に気軽に話し掛けられるんだ、役得と思って何でも気軽に聞いてくれ。じゃあこれからよろしくな――』
今でも覚えてます、正直馬鹿かと思いました。元男だと、あんなに堂々とカミングアウトする変人を僕は知りませんでしたから」
……あまりに動揺していて、言葉が喉から出てこない。何が起こった。俺は何かそんな酷い事をしたのか。
「なのに先輩は、結局皆に嫌われるどころかどんどん馴染んでいて。今この会社に男女問わず、先輩に憧れてる人がどれだけいるか知ってますか? 知らないですよね、先輩はそういう人だと良く判ってます。
……自惚れですが、誰よりも。そういう人だからみんなに好かれるんでしょうし」
……何だこれは。夢か。ああそうか、きっと俺は今隣りのデスクで居眠りをしているに違いない。
「仕事が出来て、颯爽としていて、男より男らしくて、でも可愛らしくて。何ですかそれ、何処のギャグですか。まあ少し子供っぽいのが唯一の欠点ですけど、別に欠点でなくそれだって魅力になり得ますし……
……でもですね、いくら先輩が少し子供っぽいからって僕にだって我慢の限界があるんです。何が丁度七年か?
知ってますよそんなの。皆とは違う。どれだけ見てたと思ってるんですか。どれだけ、僕がアナタだけを、ずっとッ…………!」
だって、これじゃ、まるで――
「……目を瞑って、右手を、出して下さい、先輩」
――思考が麻痺していて、身体が反射的に言葉に従う。
「――――あ」
刹那、手を取る暖かい感触。
直後、薬指を通る冷たい感触。
「――どうぞ、目を開けて下さい」
――開いた視線の先。
「誕生日――女になって七年目、というのは僕にとっては嬉しくても、先輩には嬉しくないかもしれませんが、プレゼントです」
薬指に光る、何の変哲もない銀の指輪。
「今は、右手にしかつけてあげられませんけど」
その向こうに見える、泣き笑いでグチャグチャな、小さな後輩の顔。
「――おめでとうございます。愛しています、先輩」
それは、あまりに清々しく笑いかけていて
「――――今は一人よがりでも、いつか必ず先輩を振り向かせて、その指輪を、叶うなら、きっと、左手に――――「バカ」」
――皆まで言わせず、涙に濡れた顔を引き寄せて
――初めてのキスの味は、随分と塩辛く感じた。
最終更新:2008年09月06日 22:24