「ッ……そうか、貴様、まだ私を愚弄するのか」
「い、いえ、だからそうではなく――」
「……もういい、聞き飽きた。元来こんな所を当てにした私が愚かだったな。邪魔をし
た」
胸中を縦横無尽に駆け回る憤りを飲み下し、私は静かに席を立つ。
踵を返した瞬間後ろの待合席の、母親に連れられた二人の子供と目があった。ほのかに
微笑みかけてみる。
「――う、うぁぁぁんっ!」
「ま、ママーーーー!」
「す、すいませんッ! すいませんッ!すぐに泣き止ませますからどうか!」
……何故泣く子らよ。何故謝る母よ。『どうか』なんだというのだ。なんだその悪鬼を
前にした無力な母子のような仕草は。以前ならばともかく、今の「この姿」でそんな反応
を返すのは不条理ではないか。
少々傷付きながら、目が合う度に視線を逸らされ、更に傷付いてガラス戸を抜けて『ハ
ローワーク』なる私を拒絶する空間を後にする。
――何やら出る直前に、先程の受付の男らしき泣き声まで聞こえた気がするが、おそら
く気のせいだろう。
人生万事塞翁が馬、何がどう転ぶかはお天道様でもわかるめぇ、というのは成る程仕方
ないものだが、とはいえこれはあまりにも晴天の霹靂(へきれき)が過ぎるものだ。
まだまだ若輩ながら人生17年、古武道の流れを汲み、代々守り続けている道場の長男に
産まれた身として親父殿の後を継ぐべく自らの最大限の礼と努力は尽くしてきた。
同年代の輩が学び舎で楽しげに語る娯楽の一つも知らぬまま、研鑽に励んできたのだ。
浅慮にもそれが仇となろうとは、露とも思わなかったのではあるが。
つい先日である。
朝起きると私は、自身が一匹の――もとい、一人の女になっている事を発見した。
鏡の内に清楚な大和撫子の如き姿を見た時は、夢かと思い一つ自分に強く気付けをして
みたのが今となっては懐かしい。
「女に道場は継がせられん。かと言って道場に於いて一番腕の立つものが道場主を差し置
いて女であっては示しがつかん。勘当だ、何処へなりと行け」
武道を捨てろ、嫌です、ならば門下の者を全て叩き伏せてみよ、承知しました。以上、
その朝のやり取りと、叩き伏せたのちの追うべき背中の言葉である。
母がいれば庇ってくれたのやも、とも思うが、幼い頃に亡くしたものに縋るのももはや詮
無い事だ。
……もはやあそこの関係者ではない。素直な胸中を語ろう。
「……親父殿、今は私の力には余るでしょうが――
……いつか、必ず潰す糞虫が」
片手に持った『バイト情報誌』が指圧で破れ、隣を擦れ違った男が飛び上がっていた。
こうして出掛けに多少の餞別こそ貰ったものの、雨露を凌ぐ場所どころか糊口を凌ぐ事
すらままならない私はその手段を得るべく、こうして街をさ迷う訳である。
学び舎には既に家庭の都合にて幾許(いくばく)の休みを所望し候、と一筆したためて
ある。落ち着けばまた通う事も出来るだろう。
と、思っていたのだが。「馬鹿にするな……何が『ウェイトレス』だの『コンパニオ
ン』だの、私を愚弄しているとしか思えん」
ただ一つの取り柄たる武道でも活かせれば、と思い『ハローワーク』とやらに訪れてみ
れば、奨められ返されたのは明確な侮辱である。
警邏の仕事の一つもあれば、と思えば、女体化者をすら女として扱うとは何事か。
大体にして名前がいけない。何が『ハローワーク』か。ふざけているとしか思えない。
横文字であれば訪れる人間の心も少しは楽になるとでも思っているのか。板に筆書きで
とまでは言わないが、こちとら白痴ではないのだ。もう少し厳粛に、だが威圧を与えない
名前の十や二十あろうというものである。
益体もない思索――愚痴じみてはいるが――に耽りながらあてどもなく道をさ迷い、ふ
と気付けば繁華街の中まで出て来ていた。
もはや夕刻に差し掛かろうかという街は、夕焼けの朱に染まりながら昼よりも益々盛ん
に動き出している。
思い返せば、こうして街中までしいて目的もなく訪れるという事も考え得る限りなかっ
たように思う。
所詮道を失った流浪者、全て忘れてそこいらで漫然と遊び呆けているのも似合いかもし
れない、が――
「――全く……因果な事だ」
――何の役にも立たない研ぎ澄まされた私の感覚は、雑踏に紛れた微かな罵声と厄介事
の音を捉えてしまっていた。
私とて、今はそんな事にかかずらっている程の余裕などない事は判っている。野宿でも
構いはしないが、三日続けてというのはやはり少し御免被りたい。
「――ふぅ、路地裏……あの角の奥だな」
……理解していながら無意識にそちらへと向かう足に、我ながら溜め息がもれた。
「オラオラッ! ヒーロー気取りにしちゃずいぶんなザマだなジャリがッ!」
「少しは抵抗してみろ、よっ!」
「っぐ…………!」
「……なんとまあ」
数は力、とはよく言ったものだと少々呆れ返る。
辿り着いた先には、予想通りと言えば予想通りの光景が広がっていた。
地面に倒れた男と、それにハエのたかるが如く男を取り囲み足蹴にする三人の男。風貌
は……まあ語るべくもあるまい。
倒れた男は呻いている所から察するに意識はあるようだが、丸くなったまま動かない。
さては骨の一つでもいったか。
左肩に抱えた荷物を地面に置き、そっと隅の方へと押しやる。
面倒だ、下衆共に配慮してやる拳もあるまい。幸いこちらにも気付いていないようだ。
傍まで悠々と歩いていき、私は声をかけた。
「おい」
「……ああ? なんだお嬢ちゃ」
「一つ」
一番近い男が振り向いた瞬間、一片の容赦もなく水月を打ち抜く。
「なッ――!?」
「二つ」
声もなく崩れ落ちる男を尻目に、言葉を失っている二人目の懐へと軽く踏み込み、顎へ
拳を叩き込んだ。
「こっ、このアマァァッ!」
何をトチ狂ったか、そのアマ如きに突如バタフライナイフを取り出し、切り掛かってく
る三人目。これもゆとり教育の弊害とやらだろうか?
……いつもの感覚で避けようとして、間違いに気付いた時には遅すぎた。
ざくりと切れて、宙に舞う。
『髪』が。
母を思い出す、綺麗な黒髪が。
亡き母を、こんな下衆が。
瞬間、我を忘れていた。
丹田に、込められる全ての力を集める。
立て続けに振るわれる、手入れ一つしていないだろう鈍い刃。
握る手に両手を添え、軽くいなす。
「――あ?」
「死ね屑が」
――全力の当て身が、下衆の体を腐った路地裏の遥か遠くへと吹き飛ばした。
「三つ――悪かったな、こんな姿をしていて」
惜しい、壁にでも当たればせいぜい下半身不随程度にはなってもらえたろうものを。
……いかん、少し大人げなかったか。
転がった体三つを更に奥の辺りへと捨てて帰って来ると、先程倒れていた男が起き上
がっていた。
「目が覚めたか、体は大丈夫か? 異常は?」
「……元から寝てねぇよ、動けなかっただけだっつーの」
「それは失礼した」
となるとやはり骨でもいったか、と思い軽く顔を覗きこむ。
と、 打撲で少々変わった顔色はともかく、何やら見た顔である事に初めて気が付い
た。
僕は不良です、とでも言わんばかりのツンツン金髪と、右耳についた丸い二つのピア
ス。
「……お前、斎藤か?」
「あ? アンタなんで俺の――あ、いや、アナタは、なんで俺の名前を?」
「……クラスメートの顔も忘れたかお前」
「……え、あ?」
突然敬語を使い始めたり戸惑う素振りを見せるその反応を見て、ようやく今の自分の姿
を思い出した。
……なるほど、これは判らない。
「あー、これはあれだ、私だ、石田だ」
「……ハァ? 石田って、アンタ――――」
そこまで言いかけて、はたと何かに気付いたらしく言葉を止める斎藤。……失礼ながら
あまり関わりもなかったので、勝手な先入観で馬鹿だとばかり思っていたが、案外そうで
もないらしい。
「……まさか、女体化ってやつか? 言われてみれば昔から私だのなんだの気取ったヤロ
ウだとは思ってたが……」
酷い言いようである。これはきっちりと返さねばなるまい。
フフン、と鼻で笑う。
「お察しの通りだ。意外か? ……私としては、お前がそんなものを庇っていた事の方が
余程意外だったんだがな」
その瞬間の斎藤は見物だった。
顔をヤカンのように赤くする、隠そうとする、潰したのかニ゛ャ!と悲鳴が腕から響
く、引っ掻かれて慌てて手を離す、以上一連の行動である。
「全く、何をやっているのだか……ほら、私は何もしないぞ。こいこい」
思わず苦笑して、差し出した手に近付いた首筋を柔らかく撫でる。
三毛猫、首輪はないから野良だろうか。冗談半分にぐいと体を抱え上げるが、警戒心の
欠片もなくゴロゴロと喉を鳴らしているのが愛らしい。
「どれ、お前がオスならば漁師辺りに高く売れるんだがお前はどうだ?」
「ニャー」
「そうか、ニャーか。それでは判らんなぁ」
思わず笑みが零れた。
猫はいい。荒んだ心をこうも癒してくれる。
……これでこちらを凝視する視線を感じなければもっとよいのだが。
「……何をボケッとこちらを見ているのだ、お前は。これはお前が助けた猫だろう」
「……うぇ!? あ、うあ!」
不意をつかれたのか妙な相槌と共に、斎藤は不思議に顔を赤く染めて目を逸らす。なん
だというのか。
仕方なく、猫を差し出してやった。
「ほれ」
「あ?」
「猫、抱きたいんだろう? それだけこちらを見ていれば判る」
「バッ、ちげーよアホ!」
何故怒鳴る。
「なんだ、違うのか。猫、お前もとんだイイヤツに助けられたものだな」
「ニャー」
「ほら、全くだと言っている」
なあ?と猫に話し掛けると、疲れたように頭に手をあてて斎藤は倒れた。
そこではたと、斎藤が骨を折ったような素振りをしていたのを思い出す。
「大丈夫か? 骨をやったようだが――」
「ああ?」
「いやいい、動くな。少し見せてみろ。幸いこういった事には多少なりと心得があるので
な」
猫を傍らに置き、斎藤のズボンの裾をまくり上げる。
「……な、おまっ、いきなり何を!」
「まあ落ち着け、何も変な事などしやしない。……こんな酷い怪我人に、追い討ちをかけ
るような事を出来るものか」
悪戯でも心配したのかわたわたと慌てる斎藤を尻目に、傍目にも明らかに酷く腫れた足
首を軽くさすってやる。
「ッ…………!」
「痛むか? と、聞くまでもないだろうな。打撲の他には内出血も見られないし幸い骨に
は異常はないようだが――少し待っていろ」
それ以上動かないよう軽くあぐらの上で固定し、傍らに置いていた今の私の持ち物の総
てであるスポーツバッグから水筒と青いハンカチ、テーピングテープを取り出した。
「少しだけ痛むかもしれないが、今は我慢してくれ」
「まっ、待て、別に俺はそんな事してもらおうなんざ」
「少しで済む。それともお前はその程度も我慢出来ん餓鬼か?」
「ぐ……」
ここへ来て不良ぶろうとする微笑ましい斎藤をいなし、軽くハンカチを足首巻いてや
る。
そして膝にのったその上へ、躊躇なく水筒の水をぶちまけた。
「な、お前何してっ!」
「動くな、と言っているのが判らないか?」
「いやでもおま、スカートじゃねーか!?」
「ああ、これか? いや以前からこれは動きやすそうだと羨ましく思っていてな。女の姿
ならこれで構わないかと、妹の部屋から一着拝借して出たのだ。これなら濡れたとて絞れ
ばいいだけの事だしな」
「……いや、お前、恥じらいとかな」
「恥じらい? 異な事を言うな、こんなナリとて私は男だぞ?」
「……もういい」
「ならば少しじっとしていろ」
呆れたように顔を覆う斎藤に少々不本意なものを感じながらも、手早く濡れたハンカチ
の上からテーピングしていく。
この辺りは古武道の流れとは言え現代に門下を取る身、有用なものは取り入れてこそより
一層の飛躍が望めるというものなのだろう。
「よし、これで終わりだ。応急処置ではあるが、無いよりはだいぶ良いだろう」
テーピングを終えると、まるでそれを判っているかのように近付いてきた猫を撫でてや
る。傍らで行儀よく待っていた事といい賢い子だ。
それに比べて――
「……頼んでねーよ」
「判っているし、礼もいらんよ。全く猫の事といい強情な奴だ。なあ?」
「ニャー」
「お前もそう思うか、お前は賢い奴だなぁ」
「ケッ」
一言吐いてそっぽを向く、全く可愛いげのないクラスメートに苦笑いが浮かぶ。
もっとも悪い人間ではない辺りが、更に苦笑を誘うようにも思うが。
仕方なく、立ち上がり濡れたスカートを強く絞る。後は放っておけば乾くだろうし、楽
な事だ。
「……何故突然無理にそちらを向く? あまり動かない方が良いと思うが」
「お前はなんも気にしないでとっとと絞れバカが」
「……あまり人を馬鹿だの何だのと言うものではない」
何故だ、不本意である。
「さて、ではそろそろ最後のお節介だ」
「……今度はなんだ、この手は」
「その足で歩けはすまい、おぶっていってやろう」
差し出した手を、パチンと軽く弾かれる。
「一人で帰れ」
「お前が歩くところを見せたなら私も躊躇なくゆけるのだがな。そこまで言うならば立っ
てみせろ」
……私を睨みつけたまま、けれど立ち上がろうとしない斎藤に三たび溜め息が零れる。
強情な奴だ。
是非もない。
「……そら!」
「な!?」
暴れさせる間も与えず、私は斎藤を横抱きに抱えた。
「さあ! この姿で男としての尊厳を破壊しながら街をゆくか、素直に諦めるかどちらか
を選ぶがいい斎藤! 時間はないぞそらそらそら!」
「てめっ、離せバカヤロウがッ!」
「断る!」
有無を言わさず、私は路地の出口へと歩を進める。
その横をトテトテとついてくる小さな足音。
「ニャー」
「おお、お前もこの晒し者の見届け人となるか!」
「ちょ、バカ何言ってんだだから離せクソがッ!」
多少暴れたところでビクともせず、私は悠々と歩を進める。
そうこうする内に、大通りへの出口が見えてきた。見れば既に何人かは、ギョッとした
顔でこちらを見ながら通り過ぎていく。
「だっ、バッ、離せっつってんのがわかんねーのかクソッ!」
「問答無用!」
近付く大通り。更に暴れる手の中の物。
三歩、二歩、一歩、
そして私はついに、晒し者への一歩を――
「わかった! わかったから離せェッ!」
「最初から素直にそうしていれば良いものを」
「殺すぞクソが」
「安い言葉だな」
「ニャー」
暮れなずむ夕日に照らされ、緩やかに歩を一つ一つ進めてゆく。
背中には、何の因果か先日までは大して知りもしなかったクラスメート。傍らにはどこ
までついてくるのか、猫が一匹。
ふと笑みが浮かぶ。
……全く、本当に何の因果だろうか。
「……あに笑ってんだクソが」
「いや何、全く妙な事になったものだとしみじみ感じただけだ」
「……やっぱコイツうぜぇぇぇぇ……」
背中越しに聞こえる不機嫌さを隠そうともしない声音に、ますます可笑しくなる。
「正直に言って、お前を見誤っていたな」
「ハァ?」
心底訳が判らないといった声は、本当に自覚していないに過ぎないのだろう。それが一
層愉快である。
「ああいった場面で、迷わず逃げられる人間は案外いないものだ」
「…………」
あの捻挫を見れば、大体のところも察する事は出来る。
結局斎藤は猫を守って戦ったのではない。抱えて逃げたのだ。大方あの三人が猫を虐め
られようとする光景を見つけ掻っ攫ったのだろう。
その途中でしたたかに転倒して足を捻り、猫を庇うようにして殴られ蹴られ、といった
ところか。
だからこそ、私は評価してやりたいのだ。
見過ごすでもなく、かと言って不利な条件を見極めず暴れるでもなく、猫を助ける事を
前提として最善の判断を、感情に惑わされる事なく選び取る事が出来たこの男を。
「……あんなもん、凄くもなんともねぇよ。単にああいう自分より弱いもんをいたぶる趣
味の悪い連中が大っきれぇなだけだ。逃げたのだって単にそんな力がねぇからだし――」
――ギリ、と強く私の肩に食い込む指。
「――実際、アンタに助けられただけだ、オレは」
フン、と鼻で笑ってやった。
「図に乗るな、餓鬼が」
「なっ――テメッ――!」
一層強く肩に食い込む指を気にもかけず、私は言葉を続ける。
「悔しいか? 悔しいならば猫の一匹や二匹守れる力程度持てば良い。私に助けられたの
が不快か? 馬鹿も休み休み言え、ここまでひたすらに研鑽を重ねて来た私がお前より弱
い道理があるものか。
……だがその前に理解しておけ、今はまだ力は及ばぬかもしれないが、少なくともお前
のその心はそこらの木偶の坊が持てるものではない誇るべき物だ。……お前もそう思うだ
ろう?」
微笑して、傍らの同行者に問い掛ける。
「ニャー」
「……本当に賢いなぁ、お前は。ほれほれ」
少しだけ足を止めて頭を撫でてやると、ゴロゴロと心地良さそうに猫は喉を鳴らす。だ
と言うのにまあ、
「……ケッ、言ってろ」
「全く……」
背の上でふて腐れる大きな猫には、やはりいささか可愛いげというものが足りないので
はあるが。
「ここでいい」
「ん、もう着いたのか?」
「いや、後少しはあるけど……親はともかく、姉貴は家にいるかもしれないからな。つか
まると面倒だ」
「そうか、なら降ろすぞ」
出来る限り負担をかけないよう緩やかに、だが両足で立てるよう降ろしてやる。
流石に斎藤もまだ本調子とはいかないようで少し顔をしかめていたが、立ててはいるよ
うで安堵した。
その姿に満足していると、
「……あのよ」
「うん?」
酷く言い難いかのように、俯き加減で斎藤が話し掛けてきた。
「礼は、必ずするからよ」「……フフッ、だから要らんと言っているだろうに」
「だっからんな事だと俺の方が気がスマネェ――」
「あー判った判った、判ったからそうわめき立てるものではない。……そうだな」
掴みかからんばかりに勢い込んでくる斎藤をいなし、結局ついてきてしまった猫の喉を
軽くくすぐる。
「――そうだ、こいつの世話を頼めるか?」
「言うだろうとは思ってたが、ソイツは当たり前だ。アンタへの礼になんねーよ」
「いや、私としてはそれで十分だよ。さて、まだやるべき事もある。そろそろ私はおいと
まさせて貰おうか」
私が要らぬと言うのに未だ物言いたげな顔を、返す言葉で封殺する。
……言い訳とは言え、事実今夜の寝床を早めに探さねばなるまい。ここ二日程この厄介な
姿のせいか、夜に私を嗅ぎ付けてやってくる盛った野良犬共に悩まされているのだ。今夜
こそは安寧とした眠りのあらん事をと願わずにはいられない。
「……んーとに返させる気あんだろうな、テメェ」
「勿論だとも。第一学び舎を共にする身なのだ、何も今にこだわらなくとも、これからい
くらでもお前が返す機会はあるだろう」
「まあそうだけどよ……」
疑わしげな顔に飄々と私は答える。暫くゆけるアテはないがな、と続く言葉は心の中だ
けで呟くのではあるが。
「ではまたな」
「……ああ」
そして私は踵を返し――数歩進んだところで、語り忘れていた事を思い出し振り返る。
少し驚いたようにこちらを見る斎藤の隣には、本当に会話を理解したかのように大人し
くチョコリと座り、顔を洗う猫。
「っと、言い忘れていたがそいつはオスの三毛だ」
「あ?」
「何、ちょっとしたまじないのようなものだ」
そして私は、ふっと笑う。
「――汝の道行に、猫の幸いのあらん事を。少し頼りないようにも思うがね」
少々キザなセリフを一つ吐き捨て、私は早々に歩き出す。
はてさて、今夜はどこを寝ぐらにしたものか。
「――しまった、せめて礼として風呂の一つでも借りておくべきだったか」
こののち風呂を借りようと斎藤宅を訪れ姉者殿とやらに取っ捕まった揚句、洗いざらい
私の現状を吐かせられ、結果的に私は斎藤宅の居候とさせられる――
――などという事は、私の誇りにかけて無かったのだ。無かったのである。クソめ。
最終更新:2008年09月06日 22:32