元からやばいニオイはしていた。
ちなみにこの場合の『ニオイ』は雰囲気とかそういう比喩表現ではなくて、単純にスメルという意味だ。
恐る恐る、ちら、と横目でその顔を見る。
「……う、ップ……ハァ……ハァ…………」
……隣駅の男子校の学ランか。
真っ赤に顔を染めつつ、真っ青な顔色で時折口を抑える見知らぬ男子学生は、間違いなくヤバイ。
電車内である。すぐ横の席である。金曜の夜である。漂ってくるニオイは尋常ではない量のアルコール分のものである。
……法律違反でそいつはヤバイぞ兄さん。打ち上げだかなんだかは知らないが。
こっちまで一緒になって冷や汗をかきながら、彼の無事を心の底から祈り続ける。ちなみに立ち上がって他へ行く勇気もない軟弱者だ、自慢じゃないが。加えてこちとら部活帰りで疲れているのである。
「……お、ぅぷ……」
――――!?
「……ふっ、ふっ…………」
――――……
「あ、ウグッ――!」
――――!?
「……ふ、う……」
――――……
……一瞬一瞬に生死の境をさ迷いながら、一駅、更に一駅と電車は俺の目的地へと近付いていく。
長い時間を越え、遂に目的地の前駅のホームへ滑り込んでいく電車。
後、一駅。そこへさえ辿り着いてしまえば、もう俺の戦いは終わりなのだ。
横の彼の顔色はもはや幽霊も裸足で逃げ出す色合いで、正直もう無事で済むとは思えない。
だからせめて後一つ。
「……あ、ぐ、う」
プシューと開く扉。
「う、ッグ」
口に手を当て震え出す彼。
これさえ乗り越えれば、俺はもう――――!
「う――――!」
「だああアァァァッ!」
彼の喉が嫌な音を立てた瞬間、俺はそいつの肩を抱えて電車を飛び出した。
「……よしよしよしよし、大丈夫かもう大丈夫だな、大丈夫と言えー」
「ゲフッ、っえっぐ、ゴホッ! ……す、すいません、ご迷惑をおかけして……」
嗚呼、何が悲しくて俺は暗いホームのベンチで野郎の背中をさすらにゃならんのだ。
勿論あの状況でトイレまで保つ筈もなく、少年は飛び出したホームで豪快にリバってくれた。
出てしまったものは仕方が無いので、そこで出るだけ出させた後、俺はガイシャをトイレへ連れていってうがいをさせたり、駅員に謝ってきたりとおおわらわである。
……いっそ何も気にせず席移動すれば良かったかなー、と後悔するくらいには、やはり俺は小市民だった。
「……本当に、すいません……」
「あー、いーのいーの俺が勝手にやった事だから気にすんな」
ベンチに大きく身を投げ出して、時間帯のせいで間が大きく開く次の電車を待つ。後三十分程度と言ったところだろう。
横にはまだ少し酸っぱいニオイを漂わせながらも、随分顔色が良くなったリバーくんの姿がある。
……恐縮したように身を縮こまらせる姿は、どちらかと言えば不思議なくらいなんだが。
特に遠慮するような事でもないので、素直に聞いてみる事にした。
「……しかし、なんでまたお前みたいのがそんな飲んで、んにゃ、呑まれてんだ?」
「え、あの……部活の打ち上げで先輩達が……」
問いに驚いたように顔を上げて、答えながら再び俯いていく顔におおかた理解した。なるほど、この性格じゃ仕方が無い。
「それはひでーな、大学の新歓じゃあるまいし新入生に一気強制とは」
同情するようにうんうんと頷く。
と、
「ちっ、違いますよ! 僕は二年生です!」
……突然の剣幕に、思わずポカンとリバーくんを見つめる。
と、ムキになった自分を自覚したのか、リバーくんは再び恥ずかしそうに俯いてしまった。
「す、スイマセン……つい、いつも勘違いされたりからかわれたりするもので……」
「……いや、こっちこそスマン」
……それだからからかわれるんじゃね?という言葉は優しく胸に留めておいた。
再びドサッとベンチに体を投げ出して思案する。
しかしあれだ。
これがもし上手い話ならコイツが女の子で、助けた俺は晴れてめくるめくラブロマンスの世界へと……
……ねーな、ゲロにロマンスは。ままならねー世の中である。
い、いやしかし、お礼をするとか言い出してそこから清い交際へと発展する事も――
「このお礼は、必ずしますから!」
「…………うぇ?」
妄想とシンクロした事に驚き見れば、妙に気合いの入った目でこちらを見るリバーくんの姿。
……だがその姿は、紛う事無き学ランなのである。
ほんとままならねー十七のー夜ー、である
――と、思っていた。
アドレスを交換して、後日再び会おうと約束して、再び会った。場所はリバーくん改め南条博巳くんの通学範囲内でもある俺の駅。時間は土曜の半ドン後というおいしい時間。
そして何故か今、俺の目の前にはブレザー姿が立っていた。
「……妹さんですか?」
「気持ちは判りますが、本人です」
むっ、と口を尖らせて不満げに答える仕草がめっさ可愛いんです。正直少しグラッと来ました。答えの内容さえ気にしなければ。
「……マジ?」
「大マジです」
リバーくんは、いつの間にやらリバー子さんになっていた。
「どうもあの日の気分の悪さは女体化の影響もあったらしくてですね、あの日帰って寝たら次の日はもうこんな姿でですね、誕生日なのにまさに泣きっ面に蜂でですねああもうチクショー!」
「……お疲れ様」
駅を降り、ちょっとした駅前繁華街になっている辺りをぶらつきながら俺達は喋っていた。
というのもそのお礼とやらを結局リバーくんもとい南条が決めていなかったため、何か捜そうという事に相成った為だ。というか半ば強引に決められたのだが。
――この女、初めの印象とは裏腹に中々強引でよく喋る。それともこれが性別の力なんだろうか。
「いえいいんです、ボクはもう未来を見据えて前向きに生きると決めたんです! 今日のこれが第一歩なんです! 人類にとってはこれは小さな一歩でも、ボクにとってはこれは大きな一歩なんです!」
「……おー、パチパチパチ」
グッと拳を握り力説する南条を、出しうる最大限の真心をこめて支える俺。
……それでも可愛く思えてしまう辺りどーもまずい事この上ないとは思うんだが、どうしようもない。
「……ば、バカな……俺のチャップが、十連敗、だと……?」
「げ、元気出して下さいよぅ……チャップとリミアじゃ元々相性も悪いんですから、ね?」
「……敗者に情けの言葉など要らん、罵りたければ存分に罵るがいい……」
「車谷君がボクに挑もうなんて一万年と二千年早いですよ?」
「喧嘩売ってんのかテメェ!?」
繁華街をまわり、店に入ってじゃあこれでいいやと言っては『そんな安い物じゃ駄目です!』と駄目出しをくらい、でもやっぱり次でも安いものを選ぶ小市民な俺と彼女のエンドレスワルツな土曜午後。
果てにプライズを求めて入ったゲーセンで我が最強の使徒をケチョンケチョンに蹂躙されて、失意の内に外へと出れば、辺りはもう夕闇に沈み始めていた。
「傷心の俺の心を塩まですり込んでえぐったのはこの口かッ! この口かッ!」
「ひょ、ひゃひひゆゆひたのわ、くゆややはん――――ひは! ひはひひはひ、ほんほひひたいへふっへ!」
「知るか! 日本語で喋らない奴の言葉は知らん!」
「ひほひへふー!」
容赦無しに頬をつねり上げられる程度にはコイツはいい奴で、過ごした日が今日一日だけにしては随分仲良くなれたと思う。
何だか馬鹿みたいにうまが合う、と言うか。少なくとも間違いなくコイツとは、これから仲良くやっていける自信がある。
――でも、じゃあ
「ははひへふははいー!」
「るせぇ!」
――ゲーセンの前で騒ぐ俺達二人は、他の人には一体何に見えているのだろう。
駅へ続く住宅街の中の道をゆっくりと歩きながら、頬をさする南条を眺める。
「いたたたた……ったくもう、車谷さんは一体ボクを何だと思ってるんですか?」
「知らねーよ、恩を仇でボッコボコにしてくれる冷血漢にかける情けはねー」
「ボクは真剣勝負に手心を加える程の外道じゃないんですー。これはお礼とは別問題です」
そう言ってフンとそっぽを向く姿に……不本意ながら、胸が一つ大きく高鳴った。
まずいたぁ判ってる。南条だって女体化してからまだどれほども経っていないんだ。いくら女体化すると心も女になるらしいとは言え、まだそんなつもりなんてこれっぽっちもないに決まってるんだ。
だと言うのに、どうも止まらないこの胸の鼓動をどうしてくれよう。
まあ当然と言えば当然なんだ。俺は男の時の南条をほとんど知らなくて、実際今の南条は酷く魅力的で、性別が違うのにこれ以上ないくらいに意気投合出来て。
これで多少なりとも惚れない方が、ぶっちゃけ男としてどうかしている。
……それはたとえ、相手が応えてくれる筈が無いと判っていても、だ。
「……あのー」
「ん、お?」
くいと袖を引かれて、ようやく我に返った。
気付けば目の前には、でかでかと表示された駅の看板。
「……着いちゃい、ましたね」
「……ああ」
答えを聞いて、こちらを見上げながら南条は少しだけ表情を曇らせる。
……残念そうに見えるのは友人だからだと言うに、沈まれ心臓。
「……本当に、お礼は何も要らないんですか……?」
「だから気にすんなってのに。大した事はしてねーんだから」
「なら、いいんですけど……おい撫でんな同級生」
内面の動揺を悟られないよう苦笑して下にある頭を撫でてやると、南条は少し不機嫌そうな顔になってその手を払う。……あー、やべーちょー抱きしめてー。
オーバロード気味で頭が少しアホになっていた。
だからだったんだろう。
「……ふん、じゃあボクはもう帰りますから! さよならッ!」
そう言って踵を返した南条を、
「あ、ちょっ――待てっ!」
「――え?」
――気付いた時には、腕を掴んで引き戻していた。
「……どうか、しました……?」
「えー、あー、うー」
……にも関わらず、よりによってここでスキル小市民が見事に発動した。
見上げる澄んだ瞳が、僅かな風になびくサラサラした前髪が、一瞬おきに俺の言葉を奪っていく。
ただ、綺麗だとしか言えなくなりそうで。
だから、遁走した。
「……な、なんでもない! じゃあな!」
「逃がすかよ!?」
筈だった。
……あれー、おかーさん、なんか僕見事に首きめられてますよ?
「……正直、こんな事言っていいのか判りません。けど、今日のボクは前向きに生きると決めたんです。だからさっきの反応も前向きに捕らえます。つーか車谷さんの本当の気持ちなんか知りません。
大体本当はこんなつもりじゃなかったんです。いくら背中撫でて貰った感触が忘れられなくても、ここまでいくつもりなかったんです。悪いのは車谷さんです」
「……南条?」
耳の後ろに声と共に吹きかかる息が、やけに熱い。
……さあ落ち着こう俺。きっとこれは夢か、物凄い勘違いのどっちかだ。だからあんま勘違いすんなマジで。まかり間違ってもこれはお前が期待するようなもんじゃなくて、きっとほら別の
「……つまらないものですが、お礼です」
そのまま、首にかかった手がクルリと回って
何故か、期待したよりも遥かに甘い何かが、唇に触れた。
……ちなみに俺が期待したのは、甘い言葉程度だったんだが。恐るべし前向きの力。
「………………」
「……あー」
――唇が離れた瞬間、それまでの勢いが嘘のようにしおしおと俯く南条。
「……スイマセン、嫌なら素直に言って下さい。その分後でお礼に上乗せしますから……」
そう言って頬を染めたまま、唇に手を当てて俯く姿は、もうあれだ、どうしよう。
そうだ、抱きしめよう。
アホになっているのは判っていたが、敢えて逆らわず、そのまま抱きしめた。
「…………」
ポカン、と胸の中からこちらを見上げる事しばし。
リバースに端を成す妙な関係は。
「……う、え……」
「……マテマテマテ泣くな泣くなよ!? えええ!?」
物凄く対処に困る、大号泣から始まった。
……結局、背を撫でるこの構図は変わらないかもしれないという嫌なような嬉しいような予感を残して。
ちなみに余談ではあるが、素直に言うとあの一瞬
『……この唇は、あの時ゲロ吐いてた唇なんだよな……』
と何の悪意もなく頭をよぎっていた事は、俺が墓まで持っていこうと思う。
最終更新:2008年09月06日 22:36