蝉時雨、降る。
網戸からはからりとした空気がゆらゆらと陽炎を伴って流れ込み、空の青さも相俟って本当に夏らしい日だった。
クーラーのついていない部屋の中をふと見渡す。雑多に物が積み重なってはいるけれど、散らかってはいないと思う。
こいつを部屋に招き入れる為だけにほんの僅かでも掃除をしてしまった、ということが自分の心を曇らせていた。
「暑いね」
胸元のボタンが幾つか外されたシャツをぱたぱたさせながら秋は呟く。
「あー、暑いなぁ。このDVD終わったらアイスでも買いに行こうか」
僅かに高鳴ってしまう鼓動。それを見せない術は既に見につけていた。
「オゴリ?」
「おう」
「冗談だよ。でもこの炎天下を二人で行くこともないし、ジャンケンして負けた方がおつかいにしない?」
「勝っても負けても何となく気分が悪そうだから却下だ」
「ちぇ。……それにしてもこの映画つまらないね」
「言うな。何か悲しくなってくる」
苦笑する。自分で言っておいて何だけど、「悲しくなってくる」というのは今の情景にぴったりの言葉なのではないだろうか。
フェーズ1・食欲の異常増加。乳房が膨らみ始めると同時に筋組織が分解、減少していく。
また、身体全体に脂肪がつき始める。体毛の質の変化も主にこの頃から始まる。尚、フェーズ1の段階であれば性交渉により女体化を停止することは可能であり、またゆるやかに元の身体へと戻っていく。
フェーズ2・骨格変動が始まる。骨盤から、四肢、輪郭へと伝播。多くの場合発熱を伴う。この段階で生殖器以外の外見は完全に女体化する。
フェーズ3・生殖器が退化。陰茎は萎み、睾丸はアポトーシスにより自己を分解、同時に体内に子宮と卵巣が形成されていく。
フェーズ4・膣が形成される。完成直後に初潮が来ることが多い。
フェーズ5・脳機能の女性化。具体的なメカニズムは解明段階にあるが、少なくとも大脳半球と視床下部に変化が確認されている。
胸は膨らみ、筋肉は削ぎとられて、輪郭にすら丸みが生じ、仕舞いには脳味噌まで書き換えられる。
気が付けばどこからどう見たって立派な、それもかなり上等だろう少女に変身していた。中身だって、多分、とっくに。
それでもこうして二人でいる。二人は親友だと、かけがえのない友情で結ばれているのだと、確認する為に。
出来の悪いコメディードラマを見ている気分。悲壮感が漂うなんて、三流もいいところだ。
ぼんやり液晶画面を眺めながら思う。せっかく借りてきた映画だけれど、さっぱり頭には入ってこなかった。
思うのは、願うのは、何だろう。思い出は思い出のままなのに、感情だけが挿げ替わっているようで、酷く惑うんだ。
何だか自分自身が汚らわしく思えて、ぞっとした。
気がついたら映画は終わっていた。味気ないスタッフロールが流れる中、腕を伸ばして固まった身体をほぐす。
「さて、行くか」
「うん……あれ、財布どこ置いたっけな」
「いいよいいよ、本当にオゴってやる。そもそも俺の部屋にクーラーが無いのが全ての元凶だ」
「む、ご馳走様」
本当なら秋の部屋で遊ぶ予定だった。けれども躊躇った。歯止めが効かなくなりそうだったからだ。
なんやかやと理屈をつけて、この部屋に場所を変えたのは自分だった。
正直、大した効果はなかったみたいに思うけれど。
靴を履いて、外へと続く扉を開く。日も既に傾き始めているからか、思ったほど暑くはないようだった。
長く影の伸びた道を歩きながら、くだらないお喋りに花を咲かす。
「何を食べようかな」
「俺は「アイスボックス、でしょ?」……そうだよ。何か文句あるか」
先回りされたことが悔しくて少し不機嫌に言うと、くすくすと笑って
「ないよ。すごくらしいと思うしね」
「そうか? 確かにピノを食す俺は何か間違っている気がするが」
「そんなことないけど、うん、四季にはアイスボックスが一番似合ってるよ」
自分の名である「四季」もこいつの「秋」も、親が「いずれ女性になっても使える名前を」と思ってつけてくれたものらしい。
感謝するべきなのかどうか少し迷うけれど、今となってはこれで良かったのかもしれない。
生涯、女性として生きていかなければならないのなら。
「んで、秋は何食べるか決めたの?」
「んー、ハーゲンダッツのラムレーズンかチョコチップがいいな」
「む、オゴリだと思って豪勢な。良かろう」
「ちゃんと半分あげるよ」
どきりとする。瞳の奥に移る光は、如実に「今まで」と「これから」の違いを表しているようで、怖い。
碌な返事も出来ぬまま、コンビニへと入った。アイス売り場へと直行し、がさがさとケースの中を探る。
「あった。最近あんまり見かけなかったけど、まだ出てるんだね」
ラムレーズンを取り出して満足げな秋。
「店舗によるんじゃないか? ……む、アイスボックスに新しい味が出てる。グリーンアップルか」
「試してみたら?」
「ハズレだったら交換な」
「それは嫌だよ。だから半分ずつ食べればいいでしょ」
はぁ、と溜息をついて秋の手の中からラムレーズンを奪い取りレジへ。
ありがとうございましたー、という店員の声を背中に掛けられつつ、コンビニを出た。
がさがさと袋を探ってアイスボックスを取り出す。パッケージの上から握りつぶして粒を砕き、蓋を2/3くらい開けてそこから直接口へと流し込んだ。
「どう?」
「……割と美味しい。でもグレープフルーツのほうが好きだ」
「それは残念」
「秋も歩きながら食べるか?」
「ん、そうする」
袋の中身を探って、スプーンとアイスを取り出す。手渡してやると嬉しそうに微笑んで、早速蓋を開けて食べ始めた。
「んー、やっぱりハーゲンダッツの中じゃこれが一番美味しい」
「俺もそう思う。というか、最初にそれが美味しいって言い出したの俺じゃなかったっけ」
「そうだったね。レーズンもこういう風に調理してくれれば美味しいのに」
「相変わらずレーズンパンは嫌いか?」
「ラムレーズンアイスが好きなのと、レーズンそのものが好きなのとはまた別の問題だから。それにしてもレーズンパンなんて、懐かしいね」
「そうだな」
中学の頃の給食で食べたきりか。随分前のことに思えたけど、良く考えてみればまだ二年も経っていないことが少し可笑しかった。
蝉の喧騒も大分静まって、夕焼けに染まった空を眺めながらこの道を行くこの一瞬は、とても贅沢な時間なのかもしれない。
さっきまでの熱と喧騒の残滓を含んだ風がさぁっと一筋の束になって、世界を掛け抜けて行く。髪が首をそっと撫でて、それが少しくすぐったかった。
玄関を開けようとしたら鍵が掛かっていた。あれ、と疑問に思いながらも財布から鍵を取り出す。
「ただいまー」
「おじゃまします」
返事はない。夕食の買出しにでも行ったのだろう。
たかたかと階段を昇って、またあの蒸し暑い部屋の中へ。
自分はベッドに、秋は勉強机の椅子に座って、もくもくとアイスを片付ける。
「あ」
「どうした?」
「うー、ごめん……ちょっと食べ過ぎた」
申し訳なさそうな顔でカップをこちらに差し出す。見るとアイスは半分より少し多く食べられていた。
「細かすぎる。もっと食べてもいいのに」
「でも、半分って言ったのこっちだし。それにもう溶けかけてるから、食べちゃって」
「そんじゃ頂くけど。こっちも食べる?」
「うん、ちょうだい」
「ほい」
アイスを交換して、また食べ始める。昔は当たり前だったことで、勿論今だって当たり前のはずなのに、心がざわつくんだ。
でも、そんなことを言いたくはない。思いたくだってない。
何より、絶対に知られたくない。
カップを空にして、特にすることもなくうだうだと。見ると秋は頭を抱えていた。
「来たか」
「……うん、きーんと」
「水いるか?」
「平気。もう治まった」
どうやら秋のほうのアイスもそれで終わりだったらしい。あー痛かった、と照れくさそうに笑う。
「カップ貸して。捨てる」
「ん、お願い」
ゴミ箱の中に放り込んで、さていよいよやることがなくなってきた。
「映画の内容についてでも語りたいところなんだが」
「あれの何を語ればいいのか、お互いわからないと思うよ」
全くです。
「と、ちょっとトイレ行ってくる」
「ん、いってら」
鞄を持って部屋を出て行く秋を見送って、どうにか人心地つく。
参った。これはもう本当にどうしようもないかもしれない。
秋が、可愛い。
いや、可愛いのは知っていた。当時から女子にも人気はあったし、ややもすると同姓ですらどきりとさせたりもしていたらしい。
勿論自分たちの場合互いの間には友情があって、当然そんな目で見るなんて想像の範疇に、無かった、はずなのに。
思わずベッドに顔を埋める。そのまま少しでも冷静になろうとじーっとしていたら、頭の横あたりに異物があることに気がついた。
掛け布団を捲り上げると、小さなハンドポーチ。ああそうか、これを見せるのが恥ずかしくてとりあえず布団の中に隠したんだっけ。
……あれ?
何か、猛烈な違和感がある。ここ最近は当たり前になっていて気が付かなかった。
秋がトイレに行くのに、鞄を、リュックを持っていく必要がどこにある?
全身が総毛だった。まさか。まさか。まさか。
音を立てぬよう扉を開けて、足音を忍ばせながらトイレに近づく。
そっと扉に耳を押し当てる。何の音もしない。念の為軽くノックしても無反応。ドアノブをひねるとあっけなくそれは開いた。
中には誰もいなかった。安堵しつつ、今度は階段を見据える。疑惑はとっくに確信に変わっていた。二階のトイレを使わなかったのがその証拠だ。
忍び足で階段を降りる。トイレに電気はついていなかった。ということは、と台所のドアを開けると、案の定秋はそこにいた。
「……あんまり慌てて食べると喉詰まるぞ」
現場を見て、逆に心は冷静になった。リュックの中に詰められた色んな食物を、秋は一心不乱に貪っていた。
「……うん、だからここで食べることにしたんだ。流石にトイレの水は飲みたくないからね。コップ借りたよ」
落ち着いている。ということは、多分
「発症から一週間、てところか?」
「大体それくらいかな。あ、ちなみにこれは自前だからね。盗み食いとかしてないよ」
「見れば解る。……変に気を使うな」
フェーズ1、食欲の異常増加。無理矢理身体を組み替える為に必要なエネルギーの補給なんだろう。
「きちんと伝えるつもりで来たんだけど、ふんぎりがつかなくって。それにこんな沢山食べてるところを見られるのが何だか恥ずかしかったし」
「俺も通った道だ。冷蔵庫の中のものを片っ端から。記憶に無いけど母さんそれ見て悲鳴あげたらしい」
「僕も似たようなものだったな。夜中にお腹が減って、行儀悪いとは思ったんだけど台所にあった食パン食べ始めて、気がついたら一斤なくなってた」
思わず二人して苦笑を漏らす。
「とりあえず部屋に戻るぞ。母さんに見られたら色々五月蝿そうだ。飲み物なら冷蔵庫の中に牛乳があるから、それパックごと持って行こう」
「本当ごめん。だから僕ん家がよかったんだけどなー……」
「う、それについてはこっちが悪かった」
冷や汗が出た。少なくとも自分がこちらの家を希望する以上の理由が秋にはあったのだから。
「あ、そういうつもりで言ったわけじゃないんだ。僕の家だったら迷惑かけずに済んだから申し訳ないな、ってだけで。それに僕がきちんと話しておかなかったのが一番悪いんだし、本当に気にしないで」
「……そうか、わかった。それじゃ上行こう」
「あ、先上がってて。鞄に詰めなおさないと」
「了解」
何でだろう、さっきからこんなに気分が悪いのは。と、部屋に戻ったところで携帯の着信音が鳴り響いた。液晶には母の名前。
「もしもし、どこいってるの?」
「ああ、四季?」
「そりゃこれ俺の携帯なんだから俺以外が出たら問題だろ」
「その俺ってのいい加減直しなさい。折角可愛い女の子に産んで上げたのに」
「生まれた時は男だったけどな。で、今どこだ」
「えーと、お父さんの会社の近く?」
「……へ?」
以下、要約。
こっちがコンビニに行っている間に父さんから電話があり、書類を届けに行って、そのままレストランで食事するからあなたのごはんは知りませんよ、と。
店屋物でも頼んで食べて、との言葉を最後に電話は一方的に切られた。
「なんつー適当な」
思わずぼやく。はぁ、と溜息をついたところで「どうしたの?」と後ろから声を掛けられた。
ざっと説明すると、「実に四季のお母さんらしい」との返答。全くだと思うけれども、矢張り腹は立つ。
だから、ほんの軽口のつもりで、ボロを出した。
「全く、普通年頃の娘を年頃の男と放置して行くもんかね」
「……え?」
呆然とした秋の顔を見て気が付く。血の気が引いた。今、あれ、何て言った? 今自分の口から出てきたのは何だった?
「いや、違う、今のは違うんだ。私はそんなこと言うつもりなんて」
慌てて喋れば喋るほど泥沼。意識の外に追い出していた「私」すら引っ張り出して。
今まで積み上げてきたものが、がらがらと音を立てて崩れていく。
意識しないように、表に出さないようにとすればするほど溢れ出す感情に振り回された結果がこれだ。
「四季」
「間違えたんだ、そんなこと思ってない」
見る間に視界が滲んでいく。自分はこんなに涙もろかっただろうか。もう、良く解らない。
もうちょっとだった。だって、秋にも女体化の兆候は既に現れていたのだから。あとほんの半年くらいの辛抱だったのに。
「大丈夫だから、落ち着いて、四季」
「寄るなっ! お願いだから忘れて、こんなの、こんなの私じゃない……!」
全部、全部、全部嘘だ。
さっきから自分の胸の中にある、このどす黒くてきもちわるい醜悪な感情が沸いたのは、秋が「自分が女体化するのを受け止めている」せいだ。
早く秋にも女になって欲しかった。そうすれば多少形は変わるかもしれないけれど、前と同じように親友として一緒にいられるだろう、と。
同時に絶対に女になって欲しくなかった。
異性として意識していた。自分が女になって、女として最初に思ったことは、「ああ、秋っていい男なんだなぁ」だった。
寒気がした。今までの友情に自分から唾を吐き掛けたような気持ちだった。
気付かれてはいけない。見抜かれてはならない。どれだけそう思っても、変化は止まってくれなかった。
日に日に好みが女性らしくなっていく自分。見慣れていたはずの秋の笑顔や仕草にときめいてしまう自分。
気付かれたら嫌われてしまう、と思っていることを気付かれたらますます嫌われてしまうという無意味な思考のループも何度も体験した。
過去の自分は過去の自分のままでそこにいるのに、今の自分とは繋がっていなかった。
どうしたら良かったのだろう。いっそ全て正直にぶちまけてしまえば楽になれたのだろうか。
解っている。悪いのは全て自分だ。だからこれは与えられるべくして与えられた罪なんだろう。
この恋を人に叫ぶことは、赦されなかったのだから。
静まり返った部屋の中、漏れ出す嗚咽を噛み殺して、どうにかこうにか前を向く。
ぼんやりとだけれども秋が目の前に座っているのが見えた。
「……落ち着いた?」
優しい声。それが今は無性に悔しくて、哀しくて、腹立たしい。
「……悪い。帰ってくれ」
それを言うのが精一杯だった。もう自分のしでかしたことのフォローなんて完璧に諦めていたし、今更取り繕うことなんて考えていない。
「ごめんね。僕があんな風に反応しなければ平気だったんだよね」
ああ、ああ、こんな時まで秋は秋のままだ。自分はこんなにも変わってしまったのに。
いつだって折れるのは秋のほうだった。自分がしでかした阿呆な行為を、笑いながら「しょうがないなぁ」って許してくれた。
友情は遥か遠く。そんな思い出さえ、今の自分には感情を爆発させるただの餌になる。
「いいから帰れっ!」
思った以上に大きな声が出て、自分で自分にびっくりする。途端顔を上げているのが億劫になって、また俯く。
空気が固体になって圧し掛かっているよう。重くて、重くて、どんどん潰されていく。
部屋の中は殆ど無音。互いに黙りこくったまま、時間だけが流れていた。
「……僕ね、嬉しかったんだ」
唐突に秋は口を開いた。
「ほら、よく冗談で言ってたよね。女体化が発症するの、僕のほうが早いだろうなって」
ああ、そんな頃もあった。もしそうなったら僕に惚れるかもね、なんて冗談めかして言ってたっけ。
「でも実際には四季のほうがずっと早かった。どんどん女の子になってく四季を見てて、僕は怖かったんだ。だって、あんまりにも可愛いんだもん」
どきりとする。可愛い、といわれて喜んでしまう自分が恨めしい。けれども次に続いた言葉は
「おかしいよね、友達なのに」
切っ先の鈍った刃物で切りつけられた気分。じくじくと中身が溢れ出す。
「僕が四季のこと意識しちゃったから、何だか今までの距離が遠くなったみたいでさ。前みたいに戻りたいのに、どうして早く僕にも来てくれないんだろうって思ってた」
僕が女になっちゃえば、また前みたいに戻れるって思ったからさ、と。
その言葉が嬉しくて、同時に内臓を素手で捏ね繰り回されたみたいに苦しくて、思わず口走った。
「違う。……それは、逆だ。わた……俺が、多分、先だ。秋が自分と違う存在なんだって、思って、しまった」
言って火が点く。熱が回る。体内を循環して、そこからはもう止まらない。
「嫌だったんだ。前みたいに一緒にいたかったんだ。それなのに気が付いたら距離を置こうとしている自分が怖くて怖くて仕方が無かったんだ!」
「……そうじゃないよ。四季、聞いて」
「違わない。悪いのは、悪かったのは、私が……私が……!」
そして、本当に取り返しのつかない、最後の手札を曝け出す。
「私が、秋のことを、好きになってしまった、こと……だ」
沈黙が降りた。私はただ只管に涙を零し続けるだけで、もうこれ以上言葉なんて出てきやしない。
おもちゃ売り場で親と離れた子供には、いつか迎えが来るだろう。
私には望む術もない。そんなものを望める資格も、ない。
何も無くても楽しかった日々、ずっと変わらないと思っていた世界。
なのにどうしてだろう、こんなに遠いのは。
解っている。楽しめないのは欲しいものが出来たからで、変わったのは世界じゃなく私だと。
網戸の向こうからは夜の匂いがしていた。わくわくした気持ちとほろ苦さの混じったその香りは、より私の胸を締め付ける。
もう本当に終わりにしないといけない。いつまで待ったって、迷子を知らせるアナウンスなんて流れないのだから。
丹田の辺りに力を篭めて、もう一度だけ前を見据え。
「わかっただろう? ……お願いだから、帰ってよ」
そしてどぎっぱりと断言される。
「絶対嫌だ」
「んなっ!?」
予想外にも程がある。私の話を聞いていなかったのだろうか。ところが秋は
「だってまだ何の解決もしてないよ? ここで僕が帰ってどうするのさ」
なんて、あっけらかんとした表情で言い放ちやがった。
「解決って……何をどうするって言うんだ」
「だからそれを話さないと。あーもーそもそもそういうことは僕に女体化の兆候が来る前に言ってよ!」
頭の中に疑問符が三連浮かぶ。
「話がさっぱり見えないんだが」
「あのね。そもそも四季が僕を意識してることなんて随分前から知ってたよ」
「は?」
「僕が四季のことを変な目で見ちゃうせいだろうって思ってたんだけどね。だって女の子になってからの四季、口調が男だった頃より男らしいんだよ?」
それで気付かなかったら僕の頭の中には脳の代わりにスポンジが詰まってるってことになるよ、と溜息交じりに言われた。
ちっとも自覚していなかった。しかし、確かに、言われて見れば……そうかも。
「だ、だったら教えてくれれば」
「必死に隠そうとしてるのだって解ってたから、言うに言えないよ。それにしても昔から四季が空回りするのは知ってたけど、今回のはあんまりだ。
僕がどれだけ苦労したかちょっとは解ってほしい。本当は恥ずかしいくせに僕の前で着替えてみたりとかさ、
赤面するのを抑えるのがあんなに難しいとは思わなかったよ。しかも当の本人は顔を真っ赤にしながら『よし、バレてない』って顔しちゃって……。
さっきだってこっちが気を使って昔と同じようにアイスの交換を持ちかけたのに、あからさまにビクっとされて正直ショックだったよ」
他にも様々な苦行エピソードを滔々と語る秋。あの、そのあたりにしてもらえないか。顔から火が出そうなんだ。
「……まだまだあるけどこのへんにしとく。でもさ、それが『今までの関係を保ちたかったから』なら別にいいけど、
『好きになったのを誤魔化したいから』なんて笑うに笑えない。手遅れになったらどうするつもりだったんだ。
聞きたいんだけど、結局四季はどうしたいの?」
憤りも収まったのか、先程より幾分晴れやかな顔でこちらの目を覗き込む秋。
「どうしたいって、だから何を」
「僕のことだってば。このまま女になったほうがいい? それとも男のままでいようか?」
途端心拍数が跳ね上がる。秋の言っているのは、つまりそういうことだ。けれども
「それは、私の一存で決めることじゃないだろう」
どちらを選ぶかは私ではなく秋が決めることで、口出しなんて出来るわけがない。
だと言うのに秋は今までで一番大きい溜息をついて
「……こんなことなら本当に僕を先に女の子にしてくれれば良かったのに。ちょっと神様を呪いたい。この際だからぶちまけるけどね、
僕は四季が男だった頃から四季のことが好きだったよ。ああ引かない引かない、多分ちょっと意味合いが違うから。
四季はそれを友情って呼んでたけど、僕にとっては愛情だったってだけの話。ありていに言えば、四季が恋人でも親友でも兄弟でも家族でも僕はいいんだ。
……そりゃ変なのは解ってるけど、本当のことだから仕方が無いでしょ。僕が女の子になって四季が男のままだったら多分もっと手っ取り早かったと思うんだけどな……」
何だこの酷く遠回りで多分に棘が混ざっている告白は。と、思っている間も秋のトークは止まらない。
「ただやっぱり出来ることなら僕は四季の恋人になりたい。他の誰かに取られるのは嫌だし、今の四季は本当に可愛いから。
というわけで返事を貰えないかな。正直に言えば、こっちはこっちで心臓が凄いことになってるんだよね」
ほら、と私の手を握って秋の胸に押し付けられた。ハイペースでビートを刻む鼓動と共にふにょんとした感覚が掌に伝わってくる。
……ふにょん?
「胸?」
「ああ、うん、ちょっと膨らみ始めてる。四季の時って次の段階に移るのにどれくらい掛かった?」
「一月半くらいだったと思う。平均もそれくらいのはず」
「ん、そか。個人差もあるだろうし、僕の場合もう一週間経っちゃってるし、進行すればするほど元に戻るのに時間が掛かるらしいし、半月以内くらいに返事が欲しいな」
「返事?」
「あのさ、しまいには押し倒すよ」
かぁっと顔が赤くなる。困った、とんでもないことを言われているのに、それを嬉しいと思っている私は何だ?
と、秋は急に真面目な顔つきになって言った。
「誤解が無いように言っておくけど、僕は自分が女になっても構わないと思ってる」
そこで私の目をじっと見据えて
「でも、一つだけ約束しよう。どっちを選ぶにしても、ずっと一緒にいようね」
なんてもう物凄いやさしい顔で、声で言うもんだから、ほらまた
「……っ……!」
涙が溢れてくるんだ。
何で、何でこいつはこんなにも私のことを想ってくれるんだろう。
「むー。泣き顔も可愛いんだけどね、出来れば笑ってて欲しいなぁ」
無茶言うな。こんなにも嬉しいのに泣かない、なんて、男でもない限り無理。
だから申し訳ないんだけど、もうちょっとだけ微妙に膨らんだ胸を貸していて欲しい。
そう思っているとそっと首に腕が回されて、昔の面影が僅かに残った私の髪を優しく撫でてくれた。
色んなことが一度に起こりすぎて未だに混乱から抜け切っていない混沌とした頭で考える。
ああなるほど、最初に私が思い描いたことは正鵠を射ていたのか。
これは、徹底的に出来の悪い、三流の、コメディーだ。
コメディーである以上、この先どんな結果が待っていようと、きっと最後は笑えるだろう。
これからも同じような、良く似た不安が付きまとうかもしれない。
耐え切れないようなこともあるかもしれないし、次は誰も迎えに来てはくれないかもしれないけれど。
それなら、次は私から行こう。扉を開けて、新しい朝を迎える為に。
そう誓う。
だから、これは私が私になって最初の選択だ。
秋の腕からするりと抜け出して、そのままゆっくりと顔を近づけた。質問の答えを返す為に。
― 了 ―
最終更新:2008年09月06日 22:51