『楓と凌』第二章

威容だった。
誘われて行った家は大きなお寺で、小さい僕にはお城みたいに思えた。
光淳(コウジュン)は身体が大きくて乱暴だったから余り好きではなかったけど、機嫌を損ねたくなくて、殴られたくなくて渋々行ったのを覚えている。
滴る水は砂利の上を蛇行し流れを作る。川みたいで、僕たちのためにあるような小ささで、それが子供心に嬉しかった。
雨は降り続けていた。
細い雫は絶え間無く傘を濡らしていく。弾けて煙り、色彩の淡い中に靄をかける。お堂は靄の向こうで濃く佇んでいた。
誘われるがまま上がると、廊下は宵闇よりも昏い。


湿気を吸った床板はひんやりとしていて寒気すら覚えた。
歩く毎に軋む床。
冷たい足と床の境目がわからなくなっていた。このままずぼりとはまり込んで抜けなくなりそうだ。
土の匂いか木の匂いかわからないけど、噎せそうだ。
苦しくなる。
溺れそうだと不意に思った。
見渡す限りに続く廊下は薄ぼんやりとほの暗く、その先には僕を搦め捕ろうと朱い舌がうごめいている。ぽっかりと開いた蛇の顎(アギト)。
磨かれ黒光りする廊下はならば冥道か。
途端ねっとりと足を捕らえられ、足元が覚束なくなる。
光淳の顔がてらてらと浮かんでいる。


手を引かれ、逃げることもできず、僕はただ恐かった。
自分が小さすぎて潰されそうだった。
朱い光りはもう近く、ゆらゆら揺れながら僕を飲み込もうと待っている。
先を歩く光淳は、僕の事なんか気にもかけていない様子でずんずん進んで行く。
待って、と言えなかった。
それは光淳が恐かったからじゃなくて、ただ声を出せなかった。
舌に飲まれる。朧な朱が拡がっていく。薄墨を掃いた部屋の中で、奥に聳える大きな人影も朱に薄く染まっていた。
その顔が揺らぎ、唇が動いたような記憶。
般若波羅密多───。
大音声に頭をぶん殴られた。


脳のてっぺんから喰われていく。
なのに光淳は笑っている。僕は潰されそうなのに。
笑いながら僕を置いて走り出す。
一人にしないでと泣くこともできなかった。
ゆらゆらと揺らいだ蝋燭の灯。曖昧になっていく影。取り込まれていく僕。
板張りの床は柔らかく、今にも沈み込もうとしている。
呑まれていく。全てが僕を覆っていく。消えていく。
雨雲の隙間から最後の光を放った太陽は天涯に果て、僕は喰い尽くされる。
「あの時の楓、マジ可愛かった」
その後すぐに親の都合で引っ越した僕は、縁が切れたと喜んでいたのだが。


なんの因果か遠く離れた学宗院で再会したこの男、佐々光淳。
昔ほどでかいと感じなくはなったが、甚だしく煩くなっている。つーかチャラい。
「中等部に入った時はこの世の地獄かと思ったが……」
今も昔も僕にとって天敵の茶髪頭は、終鈴が鳴ると同時に絡んで来た。
「捨てる神あれば拾う仏ありだな!」
さりげなくお家の知れる物言いだが、こいつに仏なんて語られたくない。
こっちはここ一週間程爆弾を抱えて日々悶々としているのに、光淳の晴れた秋空みたいな脳天気さは殺意を通り越して壊れたラジオに纏わり付かれた気分になる。


前期の期末テストが終わり、明日から数日間テスト休み兼学祭準備期間が始まる。
参加すら自由だし、別段なにかをやれと言われていないから、手伝いもしなくていいのだろう。
「でさー衣装合わせをしたいんだけど」
立ち上がった僕の肩に手を回す光淳。やっぱりそういうことか。
がやがやと騒がしかったクラスが水を打ったように静まる。
あぁ───神様。
出来ることなら周りにいる馬鹿な男たち全てに僕のこの苦難を分け与え賜え。
持っていたテストの問題用紙で光淳の腕を叩いて抜け出した後、クラス全体に聞こえるよう僕は振り返り言った。


「二度と女装はしない。それ以外なら手伝う」
全ては女人禁制とかいう旧弊なこの学校が悪いにしても、ここは精神的に良くないことばかりだ。
今だってツンデレ最高とか、馬鹿あれはクーデレだとか言っている。
───謎語だ。
意味はわからないでは無いけども、対象が自分なんていうのは堪らなく欝陶しい。
たった数分で今日一日分の体力を消耗した気がする。
疲れ果てた体でどうにか教室から逃げ出して、周りを見回す。
相変わらずやる気のかけらも見えない凌が怠そうに壁に凭れ、多分さっきのテスト問題のプリントを眺めつつ待っていた。


あれから───僕が変わってしまった日から、なるべく凌と行動を一緒にしている。
クラスが違うから授業中は別にして、食事や登下校、それから寮内。極力僕に人が寄らないための弾避けみたいなものだと凌は言うけど、僕は嬉しかった。
学宗院に高校から編入した僕は最初から異分子で、しばらくすると「かわいい」扱いになり、いい子を装っていて断れなかった五月祭での忌まわしい記憶の数々!
セーラー服にチアガール、それからナース。
思い出すだけでも身の毛もよだつ悍ましい記憶。
僕はたぶん派手にキレた。しばらくずっとキレたままだった。


そうしてわずかなりといた、まともな友人は離れ、女の子みたいな扱いを受け入れられるほどのノリも、寛容さも持ち合わせていなかった僕は孤立した。
別にいじめられはしない。ただずっと異端。
───本当は少し淋しかった。
「もういいのか」
「うん」
だからこうやってなんでもない会話の出来る凌という存在が、きっかけはともかく、僕にはとても大きなものになっていた。
「女装、じゃないのにな」
その凌は面白そうに笑う。
身体が女になっている今、女装は最も忌避すべきものの一つだ。
それでなくとも日常生活に神経を使っている。


毎朝着替える前に息苦しいし暑いサラシを胸に巻き、学校でトイレは必ず個室を使い、光淳みたいな馬鹿から体を、特に胸を触られないように周囲を警戒し───。
テスト期間だったからこのところはマシだったものの、これから先どうやって切り抜けていけばいいのか頭が痛い。
体育はしばらく見学でも通るだろうが、ずっとは無理だ。医者からの診断書を出せなんて言われたら、もしかしなくとも騒ぎになる。
どんな医者が「ある日女になっちゃったんです」なんて言葉を信じるだろうか。
真偽はともかく親に連絡は行くし、学校も事の次第を知るだろう。


そうなれば退学に実家送還のコンボが待っている。
別に学校をクビになる位はいいのだ。でも僕はここから離れるわけにいかない。
女になった原因は不明にしても手掛かりが皆無というわけじゃない。
あの日見た夢みたいな出来事を凌に話してみたところ、部屋の中をひっくり返すことになった。
そして埃を被ったドレッサーの裏から───正確に言えばドレッサーの裏に隠した胸像の下から40㎝近い黒い羽根が出て来たのだ。
半信半疑だった僕も凌も信じざるをえなかった。あの巨大な鳥、凌に拠れば大鴉の存在を認めないわけにいかなかった。


「大鴉は日本に棲息しない。北海道辺りじゃたまに渡り鳥として見るらしいけど、こんな南に来ることは滅多に無い」
図書室に連れていかれた僕の前に広げられた分布図上の日本は白かった。
「居ないはずなんだ。だとしたら飼われているか、迷い込んで住み着いたか」
───少なくともこの近辺にいるんじゃないか。
凌はそう言った。
たった一つの手掛かりだけど、大事な手掛かりだった。
これで学宗院が街中にあるのなら辞めたってばあちゃんが悲しむくらいで───それはかなり胸が痛いけど──近くの別の学校に行くなりすれば良い。


だが世の中はどこまでも不都合に出来ていて。
陸の孤島、それが学宗院だった。
辞めるわけにはいかない。男に戻るまでは絶対にここを離れるわけにいかない。
凌がなにを思って僕を助けているのかは知らない。
ただそれなりに真剣になっているのは確かで、僕にはそれで十分だった。

学業から一瞬だけ開放され、浮かれて酒に酔った学生が黒い影を目撃した事を僕らは知らなかった。
オカルトじみた噂が流れ始めてその噂を聞き付けた時、学園祭は翌日に迫っていた。

帳が降りる。
昏い闇路をばさりと羽ばたく鳥が一羽───。


学祭二日前の昼、僕と凌はバスに揺られていた。
まだ太陽も昇らないうちに物音と言うには大きな音で叩き起こされると、安全だったはずの部屋が危険地帯になっていたためだ。
鍵を掛けていたドアはピッキングで開けられかけ、三階だというのに開けていた窓から侵入しようとする、馬鹿、阿呆、変態の面々。
ソファでバリケードを作り窓を閉めて急場は凌いだものの、得体の知れない凄まじいパワーに恐怖を感じ、逃げ出すように寮から出た。
運良く来たバスに飛び乗ったけど、当然行き先なんかは見ていない。


サラシを巻く暇も無く、取り敢えずシャツの上に緩いパーカーを着込んだだけの僕の胸は、バスが揺れる度上下に揺れる。それが例えようも無く気持ち悪い。
あまり大きくはないのに重しを一瞬ぶら下げられた感じで、皮膚ごと身体の中を混ぜられた気分になる。
しかも下はハーフパンツで足はサンダル。凌もニットとジーンズにサンダルと言う、二人して着の身着のままで出てきましたと言わんばかりの服装でバスである。
「───で、これどこに行くの」
「さあ」
緑ばかりでずっとさっきから変化の無い窓の外を眺めている凌が怠そうに言った。


学内では僕ら二人が最近よく一緒にいるため馬鹿馬鹿しい噂をちらほら聞くが、実際はこんなものだ。
凌になぜ僕を構うのか聞いた時、ばっかじゃねーのと言った後、面白そうだからと彼は答えた。
日々は繰り返しで、楽しみもさして無い学園生活。
テレビはあっても映るのはNHKと民放2局(しかも週遅れが普通)、当然ゲームは禁止、共有スペースにあるPCも時間制でネット閲覧のみ。
そんな中にあって降って湧いたルームメイトの変異。
───確かに暇潰しにはもって来いだ。
僕が凌なら面倒に巻き込まれたくないからしないだろうけど理解は出来る。


それにしたってどんだけ田舎なんだ。
うんざりするくらい延々と続く緑。
確か人間は緑色を見ると安心だか落ち着くだか偉い人が言っていたけど、絶対に違う。変わらない風景と色に、落ち着くどころか暴れたくなる。
鄙びたとか趣のあるとか情緒的な言葉が浮かばない位平和で、穏やかで、静かでだだっ広くて、とにかく田舎だった。
バスは僕らだけを乗せて痛んだ田舎のアスファルトを走っていた。
がたがた揺れながらも心地良い日和で僕らは目を閉じた。


暗いトンネルを抜けると午後の光が目を焼いた。すぐに行き交う車の数が増えた。そこはようやく人里だった。
信号待ちに賑やかな家族連れ、はしゃぐ女子高生たち、買い物途中のおばちゃんに学校帰りの小学生。
夏休みも補習だなんだと学校に縛り付けられていたから、職員でもない、生徒でもない人を見るのは半年ぶりだった。
あまりにもそれは刺激的で、自分たちがどれだけ外界から隔絶された場所にいるのかを再認識する。
いくら一流大学への進学率が八割とは言え、あそこは牢獄だ。閉じ込められて抑圧されて、まともな神経じゃいられない。


だからこそ僕を追い掛ける変態もいれば、部屋に閉じこもって怪しげな研究の真似事をする変人、得体の知れない趣味に没頭するオタク、日頃の鬱憤をスポーツにぶつけるドロップアウトギリギリ筋肉馬鹿なんかもいるわけだ。
まともな人間はあそこでは本当に希少で、正直僕自身自分がまともかどうかも客観的に判断できない。
繁華街らしき駅の前で降りた僕らは人の流れに任せ、小さなショッピングモールに辿り着いた。
結局バスに二時間だ。
何も考えずに乗り込んだから喉はからからで空腹だった。行き先を決める前に自然と足は飲食店に向かう。

学生ばかりのカフェでパニーニを頬張っていると、凌は溜息をついた。
「なに?」
手を止めた僕の胸元を指差してまた溜息。
「……見えてる」
俯くと、ついいつもの癖で第二ボタンまで開けていた襟元から緩やかに隆起した膨らみが覗いていた。
「───っ」
「あのなぁ、もう少し……見せ付けられる身にもなれ。幾らお前ってわかってても……」
「ごめん!」
遮るように言ったのは、聞きたくなかったからだ。
その先の言葉を聞いたら自分の一部を失いそうだった。
身体が女になっている事実を僕はまだ受け止めきれていない。


面倒でも毎朝サラシを巻いたり、以前より意識して男を振る舞い装うのは周囲へのカモフラージュもあるが、自分の中の男を失いたくないからだ。
凌は僕を男として扱う。僕はそんな凌で自分を確かめる。
やっとできた友人だった。失いたくなかった。
凌とは馬鹿な話も真面目な話も軽口も叩き合える仲のままでいたかった。
「言い過ぎた」
頭を撫でられるのは慣れた。
小動物に対するような扱いは最初嫌だったけど、それが言葉足らずになりがちな彼なりの感情表現だと知り、撫で方でなにを言いたいかもわかるようになってきた。


軽い昼食を終わらせた僕はずっと気になっていたものをなんとか収めるために立ち上がる。
「じゃちょっと買い物行ってくるから、時間潰してて。ここ戻ってくるから」
「なに?」
「ん、ちょっとね」
訝しむそぶりも無く納得した様子の凌を置いて、足早に僕は店を出た。
走ると胸が弾んで、付け根辺りが引っ張られて痛い。乳首も服に擦れるし、早いところなんとかしたかった。
僕の気になっているものはこれだ。
探しているのは女性用下着屋、つまりランジェリーショップ。
胸は今日だけだが、下もトランクスじゃどうにも不便で困っていたのだ。


体が細くなってしまって、ズボンで辛うじて下がらずに止まっている状態で、ズボンを脱ぐと尻まで落ちる。
さすがに男でもいたいとは思ってもこればっかりは仕方ないし、万が一女にしかない生理なんか来た日にはとんでもないことになる。
───一応買っておくかなぁ。
今まで踏み入れた事も、目を向ける事すら避けていたランジェリーショップはパステルカラーで僕を圧倒した。
「何かお探しですか?」
「え、いや、あの」
何を買えばいいか考えあぐねてうろうろと店内を歩いていた時、不意に店員に声をかけられて僕はしどろもどろになった。


「着けやすいやつで…」
「スポーツブラでしょうか?でしたらこちらにございますよ」
はきはきした店員のおばさんは手際のいい営業トークを見せ、優しい笑顔で色々と勧めてくる。
結果、サイズを計られた揚句予定していた「楽そうなブラ」とパンツ───女物だからパンティか?───を数枚、予定外な白いフリフリレースのついた上下セットを買う羽目になった。
「アンダーは65でトップ83。65のCですね」
あの悪魔の言葉。
わかっていたつもりだった。覚悟はしていた。
でも聞いたことのある言葉で実際に言われると堪えた。


「ありがとうございました」
にこやかなおばさんの声を背中で受けながら、ふらつく足取りでメルヘンチックな店から出ると、憮然とした表情の凌が待っていた。
「言ったのに……」
恨み言も文句もこれ以上出てこなかった。
初めて着けたブラジャーの締め付けに気分が悪かった。サラシとは違い一部をゴムが締めるせいで肺が圧迫されるから息苦しくもある。
こんなものを着けていて平気な顔をしている女はすごい。やっぱり僕は女になった事を甘く見すぎていた。
抜け殻状態でも途中にあったドラッグストアに寄って生理用品を適当に買った。


用意だけは周到にしておかないと気が済まない性格なんだ。
不要になったらなったで良かったと喜べばいいのだ。
しばらくの間凌はずっと黙ったままで、その沈黙が心地良かった。
「片方貸せ」
「……ありがと、凌」
凌に言うと、僕たちの前を歩いていた見覚えのない女の子が立ち止まった。
裾の縁を這う赤いラインが印象的なプリーツスカートと白いポロシャツを着ている。小麦色に焼けた肌は健康的で活動的だ。
「凌?久しぶり!」
愛嬌のある顔にくるくる表情を変えて彼女は凌に腕を絡ませた。
たったそれだけなのに、僕は釘付けになった。

少女の名前は木野内眞那(キノウチマナ)、二つ年上の今年高校三年。
そんなそっけない紹介をされた眞那は凌を睨んだ。
「そ~れ~だ~け~?」
「他に何かあるのか」
さっきとは違う、モノトーンに統一されたカフェに入った。大きな窓は緩やかな秋の日差しを運んで来ていた。
アイスラテ頼んだ僕は、二人のやり取りに入って行けず、ただ眺めていた。
自分のいる場から違う空間を見ているように遠近感が失われていた。賑やかにやり取りする二人が遠かった。
初めてのブラで胸が苦しかくて歪んだ顔を二人に悟られたくなくて顔を背ける。


「んー……僕の大事な人ですとか」
昼時も過ぎ、人の減った店内に一瞬の静けさが降りた時、眞那の声が響いた気がした。
僕はやっぱり二人の顔を見れなかった。
「一遍死ね」
だけど凌は相変わらずのマイペースさでイタリアンローストを啜りながら彼女の額を弾く。
あはは、と明るく笑って、眞那はねぇと僕に話し掛ける。
「こんな子だけどよろしくね」
「はぁ」
「改めてはじめましてしよ?私、姉の木野内眞那です」
「───ぇ?」
握手を求めて来ていた手なんぞにも気付かず、苦虫を潰したような凌にも気付かず、眞那の言葉を反芻する。

私、姉の木野内眞那です。
姉の───。
「楓?」
「あ……は、はじめまして……」
驚きと安堵の高低差で心臓は興奮状態だった。
たぶん眞那の手を握ったけど、凌に呼ばれた後も僕は上の空で彼らの話はまるで覚えていない。
延々眞那が一人喋っては凌が突っ込む。そんな雰囲気だったのは覚えている。
店内に西日が強く入りブラインドが下ろされだした頃、凌が立ち上がった。
「悪い、ちょっといるもの思い出した」
ここで待ってて、と言い残し僕と眞那を置いて凌は店を出ていった。
「ごめんねーお邪魔しちゃって」


眩しげに目を細めながら眞那はコーヒースプーンを弄ぶ。
頭を振った僕に微笑んで彼女は長い睫毛を伏せた。
「ちょっと偏屈だけど、悪い子じゃないから───養子に出されて捻くれたけどいい子だから、よろしくね」
苗字が違うのはそのせいかだとか、あのマイペースっぷりはそのせいではないな、なんて冷静に考えながら依然の凌を思い出す。
拒絶する風ではなく、ただ距離を置いていた。いつもは無関心な癖に僕になにかあった時は何も聞かずに色々と気にかけてくれた。
そして今は文句も言わず、暇を理由にして僕に付き合ってくれている。


あれは冷たさに徹しきれない凌の温かさなのかなと思う。
「凌ね、中等部の頃からたまに来てたけどいつも一人だったから心配だったんだ。こいつ友達いないのかなぁって」
店の出口を見つめていた眞那が僕ににっこりと笑った。
「でも心配無用だったみたい。彼女いるなんてびっくりだよ」
時が止まる。
僕が止まる。
全てが止まる。
「あ、あれ?違った……みたい、ね……」
「僕、寮のルームメイトで……」
言い切らないうちに、眞那が立ち上がる。
見開いた目で僕を凝視しながら、鯉みたいに口をぱくぱくしている。


「僕って……ルームって……楓ちゃん……まさか男の子?!」
「あの、はい……」
「でもだってその胸───それにその紙袋あそこの下着屋のでしょ……?」
体温が一気に下がっていく。血が頭から下がって貧血に似た状態の中、気持ち悪さと眩暈で目の前が暗くなった。
「楓ちゃん?!」
「すっすいません、ごめんなさい。なんでもないので……座ってください……」
他の客の視線が痛いくらい集まっていた。声を上げた眞那をなんとか席につかせた僕は、血のない頭で必死にどう答えるべきかを考えていた。
「ルームメイトって寮のだよね?」

低い声で確かめるように、言葉を探しながら話す眞那に肯定の頷きを返す。
「あそこかなり厳しい男子校だよね?」
「はい」
「楓ちゃん、あ、楓君か。怒らないでね?」
言い直した眞那は僕の方まで身を乗り出して、耳元で囁いた。
「それ本物だよね?」
それと指差された先は忌ま忌ましい思いしか湧き出てこない膨らんだ胸。
偽物ならどれだけ良かったかと思いながら、僕は呻くように言った。
「はい……」
体を戻した眞那は深く息を吸い込んだ後、大きく吐き出した。しばらく視線を宙にさ迷わせてから二つに結った髪に指を絡ませる。

「……なんで?」
意味がわからない、と結論付けたのだろう。毛先を手櫛で荒っぽく梳きながら、僕を見た。
「わかりません……」
隠せてもこの人を騙せないし、嘘を吐けば彼女も疑い続けるだろう。
凌に彼女が出来たと喜んでいた眞那に僕は隠し通すだけの強い意思を持てなかった。
不審が彼女に侵食する前に僕は言葉を続ける。
「一週間位前、突然こうなってたんです」
これ以上ないくらい見開かれた目はなぜ、と言っているように見えた。
「原因は不明です。───医者なんかには行ってません。戻れないって言われたくなくて」


言った後急に骨が痛んだ気がした。苦しかった胸もじくじく痛い。
骨と肉の間に何かが入り込んで割り裂こうとしているみたいだ。
だから気付かれないように笑ったつもりだった。あはは、そう軽く笑うつもりだった。
だけど驚きがはりついたような眞那の顔が歪んでいき、見えなくなる。
「ごめんね、ごめんね!」
なんで謝られているんだろう、どうして頬に柔らかなハンカチが当てられているんだろう。
「ごめんね、辛いんだよね。言いたく無かったんだよね」
辛い。あぁそうだ。
辛かったんだ。
僕は男なのに。僕は男なのに。僕は男なのに!

叫びたかった。
実際には周りからは女みたいな扱いをされ、体は心に反して変わってしまった。
それは自分自身が奪われたかの喪失感だった。
だから言いたくなかった。
言葉にしたら本当に女になったようで、嫌だったんだ。
凌に話したときは冷静さも無く、時系列も無茶苦茶に、あったことをただ述べただけだった。それに凌には今を話さずとも事実があった。
僕は言葉にする事を避けていた。
「男の子だもんね。デリカシーなくてごめんね」
何度も何度も謝りながら眞那は僕をそっと撫でた。
凌みたいだなんて思って、心が温かくなる。


どうしてこの人たちはこんなにも優しく感じられるんだろう。
眞那にとったら僕なんて今日初めて会っただけの人間なのに。
こうやって泣いている時に慰めてくれたのは、ずっとばあちゃんしかいなかった。
だから凌に会うまでそんな人がばあちゃん以外僕にできる事を知らなかった。求めもしなかった。
「大丈夫、まだ君は男じゃない。泣いていいんだよ」
強くありたい、男らしくありたい、泣いちゃいけない。
願って戒めていた部分が眞那に撫でられるそのたびに解けていく。
「頑張れ男の子」
涙の向こうの笑顔はオレンジ色に滲んでいた。


充血して腫らした目を見ても凌は何も言わなかった。
点呼に間に合わなくなるぞとだけ言い、大きな紙袋に僕が持っていた袋を二つ詰め込んだ。
「じゃあまた。次来る時は教えてね」
バス停まで見送ってくれた眞那は僕の手にこっそりと薬屋の小さな包みとメモを押し込む。
「楓君だけでも、だよ?」「……はい」
ウィンクした眞那が悪戯っぽく笑うから、僕もつられて笑った。
凌はあてにならないから。
そう眞那はおどけるけど、心配だったと言っていた彼女の事だ。ふざけているわけでもなんでもなく、ただ凌を大切に思っているんだろう。


「あ、忘れてた!」
バスが信号の向こうに見えた頃、眞那が鞄から一枚のプリントを出して来た。
「何だよ。もうバス来るって……」
「人数分チケット来てるらしいの。行ってもいいよね?」
眞那から渡されたプリントには、僕らも知らされてなかった事が書かれていた。

デリで買ったご飯とお惣菜を他に乗客のいないバスの中で黙々と食べながら、僕らは眞那から渡された紙を凝視していた。
「聞いてないよ」
「俺も知らん」
B5の用紙にでかでかと印刷されている表題は、学宗院高等部秋季祭について。
「これ、パニックにならないかな……」


だらだらと書き連ねてある堅い文章を要約すると、学宗院でやる学祭の招待状が届いたから全員行って交流して来い、だ。
しかも良く見れば、眞那が通っているのはお嬢学校で名高い白山女学院である。
「逃げたほうが安全かもな」
「でもっ眞那さん来ちゃうよ!」
伊右衛門のボトルを傾けながら、凌は僕の言葉に目を上げた。
「電話するから楓から来るなって言っといて」
「だけど……全員参加って書いてるじゃん」
眞那は行ってもいいかと訊いたけど、彼女の意思や僕らの意思とは無関係に学校側で参加を強制しているのだ。


きっとこの事を知っているのは一握り。でなければ今朝の馬鹿どもの狂乱ぶりは説明がつかない。
本物の女が来ると知っていて、男に女の振りをさせるためだけにあんな行動を起こすなんて考えられない。
「楓、ここ見ろ」
行儀の悪い凌が箸で指したくだりを見た。余りな内容だったから細かく見ていなかった僕の目に理事会と言う字が飛び込んでくる。
「学宗院理事会のご好意で」
「理事会がなんで……」
「さー」
街灯もとうに疎らになった道をバスは進んで行った。
後ろを見れば夜が僕らを追い掛けてきていた。それがやけに恐ろしく感じられた。


凌に隠れながら古びた洋館───学宗院高等部寮───の玄関をくぐった。マリアと聖霊の描かれた吹き抜けの天井から、建物と同じくらい古いシャンデリア吊されている。
塗り込められた歳月が明かりを被う硝子に染みを作り、その硝子を通り絖るような光放つ。蒼い絨毯は全身を艶めかせ僕らを迎えた。
その上を進みながら、僕は周囲を警戒していた。
だけどホールはいつに無く静かで、何かの予兆かと疑ってしまう。
階段の手前にある柱時計はまだ九時を回ったところだから休日点呼の十時には間に合っていた。


ちらほらと誰かしら見るけれど、どこか浮ついて周りを見ていない。
物音とくぐもった声。何を言っているかまでわからないのがもどかしい。こんなときだけ分厚い壁が恨めしかった。
部屋に入った僕は結局慣れずじまいのスポーツブラを脱衣所で外す。ゴムの痕が赤く残っていた。
「なんだったんだろ」
「誰かが寮監か寮長の逆鱗にでも触れたんじゃないか」
今日買った物をクローゼットの奥に仕舞い込んだ僕は、凌が煎れたコーヒーを受け取った。
いつもならまだどたばたと煩い寮内が静か過ぎて、本当に十時前なのか疑ってしまう。


納得が行かず、壁に耳を付けて隣から微かに聞こえる声を拾おうとするけど、無駄に高い遮音性が邪魔をする。
諦めた僕はコーヒー飲み干して、早々にベッドに入った。
本当に久しぶりに学校とは関係の無い場所に行き、全く関係の無い人に会い───。
たった数時間前の出来事が、何もかもが重苦しい寮に戻ると非現実的な、テレビの中で起きた出来事のように感じられた。
眞那の事も明日にはちゃんと対策を練らなくてはならない。
「頑張れ男の子」
眞那が微笑む。
柔らかく優しく強く───。
眠りに落ちる意識の片隅で眞那と凌が重なった。


半醒半睡ながらサラシを巻いて部屋着に着替えた僕の鼻をコーヒーの香りがくすぐる。凌が既に起きていた。
「早いな」
アイボリーのカーテンを開けると、また本を読んでいた凌がソファの上から頭も上げずに言った。
「凌もじゃん」
欠伸をしながらミニキッチンでコーヒーをマグに注いだ。
ここ数日朝型になりつつある。昨日もこんな時間に大騒ぎだったし、一昨日もあまりの煩さに六時には起きていた。
朝早く起きるのは気持ちもいいし嫌じゃ無かったけど、慣れてしまったら老人みたいな生活になるのかと思うと複雑だ。


色褪せ、所々刺繍の綻んだソファの糸を指で押さえながら身を静めた僕は、マグに唇を寄せて湯気の熱さを確かめた。
飲めないことも無いらしいから一口だけ飲むと、熱さと苦味が喉を通り身体の中心から広がる。痺れるような刺激が胃に残った。
窓の外からは鳥の囀りだけが聞こえている。他に何の音も無い。
耳が痛いほどに無音だった。
「静か過ぎて恐いな」
ぽつりと漏らした独り言に、読書に没頭していたはずの凌が反応する。
「なら嵐の前の静けさだ」
唇だけの嫌な笑みを浮かべた凌がドアを目で示した。
何の事かわからなかった。

だから、何?と言いかけ人差し指を唇にあてた長身のルームメイトを見て喉の奥に言葉を仕舞い込んだ。
音も無く立ち上がった凌は大股でドアに向かい、再び音も無くドアノブに手を掛ける。
一瞬の迷いも無く、マホガニーの扉は開かれた。
凌の向こうに見えた絨毯の上で呆けた顔を見せたのは金髪に近い茶髪のライオン頭、光淳だった。
突っ立ったままただ表情だけをくるくる変化させる寺の息子を凌が部屋に引きずり込み、きなりのラグで被ったラブソファに放り出す。
僕はマグを持ったまま呆れたようにそれを見ていた。
「なにやってんだよ」

「あー……そのな……なんか変なことなかったかなぁと……」
髪を弄りながら、語尾は殆ど聞き取れ無い位に小さい声になった小心者のライオン頭はうなだれ、上目使いに僕と凌を見る。
「何にも無いよ。煩い連中さえ来なかったら」
皮肉を込めて言ったのに、光淳はさも良かったと言わんばかりに顔を緩ませた。
「ならいいんだ。最近変なもの見たって奴が多いから」
僕は咄嗟に凌を見た。
変なものなら僕は見ている。見ているどころかこの部屋の中で僕に何事かを言い、その後で僕の体はおかしくなった。
おかしくなったで済む程度じゃないけれど。


だけど凌は光淳を部屋に入れてからずっと黙ったままだ。もしかしたらこいつは本気で沈黙は金を地で行っているのだろうかとすら思う。
僕と二人の時は雄弁ではないが、ここまで無口でもない。
本から目を離そうとしない凌は眞那の言う通り偏屈だった。
「なにを見たんだ」
だから訊いてしまった。凌が僕の腕を掴んだけど僅かに遅かった。
外れてほしいと思いながらもどこかにある確信。
ちらちら見える赤は幼かった日に見たうたかたの焔か、それとも燃え滾る情念を湛えた濁った紅玉か。あいつは今も誰かに呪うように歌うように話しかけるのか。


「無茶苦茶でかい黒い鳥で、実は……俺も見たんだけど……なんかビシバシ感じるっつーか」
羽ばたくのは闇に紛れるためだ。あの黒い羽根もきっとそのために漆黒。敵意や害意など感じなかった。だけど僕の中で永遠に消えない悍ましい獣。
「楓」
僕を奪って行った獣。
僕の表面を裂いて奪って行き、どこからか奪って来た皮を僕に被せたのだ。
「楓!」
「あ───あぁ……」
低い声で呼び戻したのは凌だった。
それからかたかたと歯が鳴る。落ち着こうと唇を合わせようとしてもうまくいかなかった。
凌の手が痛い位に手首を握っている。

「あ……悪ぃ、こういうの楓苦手だし敏感だったから……ほんとは知らせる気じゃなかったんだ……ごめん……」
頭を下げた光淳は、気休めだけどと前置きして、数珠をテーブルの上に置いた。
「未熟な経上げるくらいしかできねーけど、言ってくれたら飛んで来る」
部屋を出ようと立ち上がった光淳にはいつものふざけた様子は一切無く、それが余計に不安だった。
僕みたいな身体になった人がいたら。
嫌な考えが頭を過ぎる。
「佐々、それ見た後身体おかしかったりしないか?」
まだ僕の手首を離さない凌がドアを開けた光淳の背中に言葉を飛ばす。

少し硬直した後、怪訝そうにライオン頭は振り返った。
「なんでわかんだ?」
何故かを上手く取り繕いながら凌が次々に質問を投げる。それに最初は半信半疑ながらも光淳は答え、疑いの色はいつしか消えた。
見た者は揃って意識を失い、他に外傷等も無い為、集団ヒステリーみたいなものだと校医は言っているらしい。
話を聞きながら僕は嫌なことばかりを考えている。
もし眞那が、生徒の家族が、生徒が学祭ではしゃいでいる中現れたら。
「───ねぇ光淳。明日こういう事になってたの知ってる?」
僕は震える指で眞那から貰った紙を差し出した。

交わす言葉が蔭る。
僕らには時間がなかった。
迫る明日は待ってくれない以上、残された時間をどうにかしてうまく使うしかない。
あまり広くない部屋にずらりと並んだ生徒会の連中をも静寂がじわじわと侵食する。心音ですら奪われそうだ。
休日は皆朝が遅いのを、何も出来ないからと光淳が叩き起こしかき集めたのだ。
なにかを言ってほしかった。
だからずっと待っていた。
体中の骨が音をたてそうだ。そうなったらからからといい音がするかもしれない───。


「とりあえず、これはなんとかする」
白山女学院と印刷された紙を持ち、一人が沈黙を断ち切った。
───実を言うと誰が誰だかわからない。
イベントなんかでは遠目に見るけど覚えているわけがない。それを覚えていて、更には寮の部屋まで知っているのは素直に感心した。
「でも……その鳥はどうこう出来そうに無いから……」
生徒には話して明日の学祭で騒がないようにはするけれど。鳥は放置する。
懸命な判断。
でも、と思うのは、望み過ぎだろうか。
慌ただしく部屋を出て行った彼らは出来ることをやろうとしているだけだ。


こだわったりするんだな、そう言い残して光淳も部屋を出て行った。
あいつらは本当の事を知らない。
あの鳥に歌われた言葉で僕は恐らく生物学上女になった。
もし───もしだ。
学祭中に現れたら鴉が同じように歌ったら。
そこはもはや阿鼻叫喚だ。

光淳は進んで「怪異」の情報収集にあたってくれた。
十年前のジャイアンは、明るくてお節介で、色々と軽そうな今時の高校生になった。
賑やかだしよく喋る光淳は驚異的に交遊関係が広い。そういう意味でも彼にはピッタリの役割だった。
───のだが。
今日一日平和だった高山楓和田凌ルームは西日が差し込んで来ていた。
「収穫はなさそうだな」

昼過ぎから僕一人を部屋に置き去りにして、なにやら色々と行っていたらしい凌がしょぼくれた光淳と戻って来た時には橙の陽光がかすれていた。
───期待してないからいいんだけど。
だけど。
あまり派手に動き回れなくなったこの身体が悔しかった。
別に元の僕が明朗快活であったなんて言わない。
今だって以前よりは毎日が楽しい。なんだかんだと言いながら僕に付き合ってくれる凌がいるせいだ。
凌がいればなんとでもなるような気がしている。
だけど不意に触られたりするのはまずかった。

サラシで押さえ込んでも、僕の体には不釣り合いな位胸板が厚くなってしまう。
弾みでそうならないとは言い切れ無い以上、不必要に動き回るのは愚行だ。
それを理解してはいても、一人でじっと部屋に閉じこもっているのは嫌だった。手足に枷を嵌められたように感じられていた。
僅かなりとも得た情報を元に話をしようと、夕食は部屋に持って来ることにした。気を聞かせた光淳が部屋を出て行った。
僕らは相変わらず一つのソファに離れて座っていた。間はたった1メートル程なのにそれ以上近づいてくることも、近づくこともない。
「凌」

テレビでは七三分けの天気予報士が鹿爪らしく硬い口上で明日の雲の動きだとか気圧がなんとか言っていた。
見ているのか見ていないのか判然としない凌の横顔に僕は魅入られた。
黄昏のあやふやな輪郭がぼんやりと浮かび上がる。テレビの画面につられて淡く鮮やかに、暗く濃く朧に。
気持ち良いほど通った鼻梁に涼しげでいて力のある眼、厚い唇はふっくらとしていて少しだけ濡れている。
「なに?」
僕はこんな男になりたかった。
小さな体も細い腰も童顔で女の子みたいな顔も嫌いだった。
本当はずっと凌を憧憬の目で見ていた。最初からだ。

長身で、少年では無くなった体に憧れていた。
でも今、僕は少年ですらなくなった。
最初の憧れは直ぐに消え去り殆ど会話の無いただのルームメイトとなった凌とも話すようになり、友達、になったとは思う。
今度は僕を見て、なに?と訊く。
溢れるような存在感ではない。浮ついているわけでも無い。そこに在ることが当然と思わせる。
ほしいのはこんな強さだ。
再度薄く開かれた唇に、僕は唇を寄せた。

この感情がなんと呼ばれるのか知らない。
ただ欲しくて、悔しくて、暴れ出しそうで、それだけに支配された頭が他を考えるよりも早く身体が勝手に動いていた。
凌の体を跨ぐように乗り上げて、膝を立てると見下ろせた。
驚くより呆然として見開いたままの眸。掠れた声で名前を呼ばれた気がしたけど、よく聞こえなかった。
自分がなにをしようとしているか、よく理解していなかった。
僕はただ凌のマイペースさを崩したかった。憮然とした表情を壊したかった。
触れるか触れぬか、互いの唇の温度すら感じながら、

睫毛の先が触れるほど近づいた。
一言喋れば、この危うい距離は失われる。
間近に開かれた目は少しだけ茶色がかっていた。
瞬きをするその度に睫毛が睫毛の間を通り抜けていく。軽い抵抗を瞼で感じる。
どうしてこんなことをしているのか、この後どうしたいのかも考えてはいなかった。
僕にあったのは好奇心と苛立ちと憧憬だった。
少しでも動いたら消え去る僕らの間にあるか細い糸。二人の今のバランスは、この見えない糸が全てだった。
切ってはならないし弛ませてもいけない。
音がもうずっと心音しか聞こえない。煩いくらいに鼓膜を打つ。


なにがしたいんだ。
なにを求めているんだ。
凌の中に映る僕が僕を問う。
そんな答えあるわけない。僕自身が知りたかった。
天地も左右も無い洞穴に迷い込んだようなものだ。手探りで進んでいるのかもわからない。時折見えた明かりはすぐに消えてしまう。
女装は嫌だとか、女扱いは嫌だとかそれは全て男に固執していたからだ。
だから本当は恐い。
手掛かりだと思いながら、引導を渡されそうで怖い。次にあの鳥に会ったら自分がどうなるかがわからなくて震えそうになる。
失ったのは身体だけか?

変質したのは身体だけだと言い切れるのか?
眼から焼けそうだ。
得たのは凌との関係。失った物はたぶん男。
今まで気付かなかった自分が馬鹿馬鹿しくなった。
男ばかりの生活していたから気付かなかった。
昨日買い物に行った時もそうだ。
短くした制服の裾から伸びる脚にも、白いシャツ越しに見えるブラにも、何も女が性の対象として見れなくなっている。
身体の外側だけでなく、内側にまで女に浸蝕されているという事か。
頭が重い。頭の重さで体も沈んでいく。
睫毛が凌の口端に触れたようだった。
凌の肩に預けた腕も力無く落ちていく。


「男に戻る自信無くなって来た……」
溜息とともに吐き出すと、言葉が非常なリアリズムで突き刺さる。
もし今戻れるとして、再び以前のような男子高校生に戻れるのだろうか。違和感も無くまた同じ日々に戻れるのだろうか。
男だった高山楓はいないのだ。今いるのは女になった高山楓だ。
自覚症状も無く女を受け入れていた。なら僕は一体誰。
気付かぬうちに変わってしまった自分が恐ろしい。
───頑張れ男の子
眞那との出会いが昨日のことなのに遥か昔の事みたいだ。力強く聞こえたのに、もう僕にはあの魔法の言葉も効かなくなっていた。


「泣くなよ」
「泣いてない」
歪んだ顔を見られたくなくて、僕は凌の肩に額を押し付けていた。
涙は出なかった。
ずっと頭を撫でてくれたから、そのせいかもしれない。
錯乱一歩手前で僕は現実に引き戻された。
ありがとうと言うと、凌は温厚な笑みでもって返事をする。
今この学校でこの固そうな男の表情を一番僕が知っていると思う。
憤ったり、笑ったり、拗ねたり、悩んだり、慌てたり───。
「じゃあお礼はこれで」
頭を撫でていた手が腰を掴む。ベルトごと掴まれて苦しくなる。
ほぼ寝た凌の上になし崩し的に長い腕に捕まった。

「なに……」
骨のあたる胸板の上に緩く閉じ込められる。
「何もしないから暴れるな。佐々も帰ってくるし」
「じゃあ離せって」
逃げようとすると腕を搦め捕られて起き上がれなくなる。諦めて力を抜くとまた緩く抱かれる。
「俺も色々心配してるんだ」
そう言いながらの生温い笑顔は全く説得力に欠ける。だけど居心地が良くて、まぁいいかと思ってしまった。
それにしても凌は不思議だ。胸を見て狼狽したりしていたが、今の状況でいつも通り過ぎて不安になる。
確かに元は男だが、体に関しては不必要過ぎる程に僕は女だ。
もしかしてこいつ。

「お前って、男好き?」
言ってしまってから後悔するのは日常茶飯事だが、これほど後悔した言葉は後にも先にも無い。
「……はぁ?!」
素っ頓狂な声を上げた凌はすぐに笑い始めた。
馬鹿過ぎるぞとか、なんだのと言いながら僕の背に強く力を入れた。
「自己暗示だ。楓は犬って」
笑いやんだ凌はそれでも噴き出すのを堪えながら言った。
「い、いぬ……」
「普通に考えろ。いくらお前でも同じ部屋で寝起きしてたら襲うぞ」
反論したいのに口をもごもごさせて上手く言葉が繋がらない。
「幾らなんでもそこまで外道になりたくないからな」


がたがたと戸が鳴った。反射的に僕は見た。紅い眼が凝っと窓の外から僕を見つめていた。
「なんだこれ」
光淳が立ち上がろうとするのを凌が手で征する。
尚も止まない音。
鳴っているのは一箇所だけだ。
「……下手に動くとまずいんだ」
どうまずいかは話せないのがもどかしい。僕がこうなってしまったから危険なのだと言えたら良かった。
だから光淳は凌や僕が止めるのも聞かず、ポケットに片手を突っ込んで窓際に立った。
「光淳やめろっ!」
硝子に手をかけて、薄く開く。
一瞬の風が部屋で暴れた。
闇に紅い眼が燃えている。

彼が鳴く。喉を震わせて歓喜の声を上げる。黒い翼で硝子を揺さぶりながら中に入れろとけしかける。
「真言の坊主なめんじゃねぇよ」
親指を立てて振り向いた光淳の顔は暗くて見えなかった。
「臨、兵」
朗々とした、いつも違う声。指を絡ませ形を作りながら、一言一言ゆっくりと続く声。
───蛇の顎が開く。
互いが互いに牙を剥いて威嚇しあっていた。
僕にはそれが見えた。
体が瘧にかかったように震える。椅子に座っているのに半身が落ちてしまう。
───落ちる。
身体が落ち、浮いた。
紅い眼が僕を縛る。黒い羽根が僕を覆う。


意識を床に吸われかけた身体を凌に掬い上げられた。
「つかまれ」
指先はまだうまく動かせない。そんな僕の手を凌が包んだ。
びし、となにかが裂ける。
光淳は動かない。
風が頬を撫でた。
寒くもないのに前身が総毛立った。
どうしてこんなにも恐いのだろう。黒くて紅い大きいだけでただの鳥だ。
「在、前───喝!」
あの時恐かったのは人の声に聞こえなかったから。
でもあの時恐かったのは人の声に聞こえたからだ。
背筋を下から撫で上げられるような気持ちの悪さ、それから心肺機能を塞がれたような苦しさ。

喰 わ れ そ う だ 。


兄がいた頃の記憶は余り無い。死んだのもいつだったかわからない。
僕の記憶は薄い。
僕という人間の記憶がはっきりしているのはここ数年とばあちゃんの家で過ごした、合わせて数年分だけだ。
母さんの元に戻った僕に母さんはこんな子供は私の子供じゃないと言った。母さんは兄に付きっきりだった。
だけど綺麗な母さんを僕は好きだった。だから母さんに好かれたくて、兄が死んだ後兄の真似をした。
仕種や好きなもの、遊び───気付けば見たことの無い字まで兄そっくりになった。
最初は喜んだ母さんもそのうち僕をおかしいと言い始めた。

顔まで似て来た、気持ちの悪い子。あの子の代わりなんて出来ないのよ。目障りだわ!
僕はどうしたらいいかわからなくて、謝りながら笑い続けた。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
母さんを苦しめてごめんなさい。
兄さんじゃなくてごめんなさい。
父さんに会いたいなんてわがまま言ってごめんなさい。
気持ちの悪い子でごめんなさい。

僕は逃げた。
僕の存在を父の妻に知らせるために見世物にされかけたからだ。
何年かのあいだに僕は母の愛情を期待しなくなり、母と顔を合わせることもしないようになった。
楓は雅そっくりね。
あの人にそっくりだからきっとあの人と同じ場所まで行けるわ。
オーディションには申し込んだから、大丈夫。あなたは本当にあの人に似ているから。
雅なら大丈夫。
雅なら。
───母さんは錯乱していた。
長く愛人だった父に捨てられたらしい。
ある日唐突に浴びるほど酒を飲み始め、僕を雅と呼び始めた。
それからの日々は母さんに会わないよう、見つからないよう、息を殺し続けた。
逃げたい。
いつしか僕はそう願うようになった。
東京のオーディションに行く振りをして学宗院を受けてから、母さんには一度も会っていない。


淋しいとか孤独だなんて思わなかった。
高山楓として存在することを誰にも否定されない学校は母さんのいる家よりは随分楽だった。
だからここでの責められる事の無い生活は、新鮮で、干渉の多くない付き合いも嫌ではなかった。
ずっとこのままの平穏が続けばいいと願っていた。午睡を続けていたかった。

喰らわれる事と喰らう事は、とてもよく似ている。
中に収めるか、中に収まるか。それだけの違い。
それだけの違いだが最も重要な差異だ。
だが例えば中に収まったはずのものが外に出たならば、喰らわれたものが喰らったことになるまいか。

喰らったはずが取り込まれ血肉となり果てるなら、もはやどちらが喰らったかなど些細なものとなる。
それはもはや個であるのか?
喰らった全てを肚に溜めて、全てを己とすればそれは個でありながら集だ。
ならば己とは何物か。
全てが等しく喰らい喰らわれるのならば、己と確立するのは一体どこにあるのか。
魂であると人は言うが、それすら喰らわれても抗い、喰い潰す人間は何者となるのか。
貪欲過ぎる大罪人。

「GLUTTONY」

それは僕の名前。

「NOMORE」

唐突に鴉は窓から姿を消した。彼は悠々と空を羽ばたいていた。


高山楓。それが僕の名前。
全寮制男子校学宗院高等部一年生。
つい最近あることがきっかけで(たぶん)体が女になってしまった、戸籍上男。
ルームメイトの和田凌はなぜか微妙に協力的で、友達と言うものが居なかった僕にとっての唯一の友達になった。
胸を触られたり色々あったにしても、現在進行形でそういうことがあるわけでもないし、なんだかんだ言って僕にとっての支えだ。
あんまり認めたくは無いけれど。


大喰らい。
大鴉が僕に向かって鳴いた言葉。
その意味を僕自身なぜ知っているかわからなかった。
だけどあれは僕の名前だった。
「寝れたか?」
また凌が先に起きていた。
「微妙」
マグカップの中は珍しくコーヒーではなかった。甘い香りのするハニーココア。
秋季祭当日の朝は馬鹿みたいに晴れていた。
熱い液体が食堂を通って胃に落ちる。ココアの温かさが内臓から肉へ、骨へと拡散していく。拡がるたびに心地よい痛みに安堵する。
「眞那たちは10時半頃にたぶん着くと思う」
「──うん」
鴉が去った後、光淳を追い出してから僕はベッドに倒れこんだ。

強烈な疲労に加えて、頭が割れそうに痛かったせいだ。
胸が苦しいのは寝ている間もサラシを巻いていたせいだろう。
まだ頭痛は収まっていなかったけれど、少し残っている程度になっていた。
これくらいならきっと大丈夫だ。
時計の針は9時を過ぎていた。
「準備したら行こう。探さないと」
あれは僕に残された一筋の糸だ。
そしてきっと混乱を巻き起こした張本人。
別に学校の連中がどうなろうと、学祭がどうなろうと知ったことではない。
だけど眞那達が巻き込まれるなんてのは嫌だ。
向かいのベッドに座った凌はもう既に着替えていつでも出れるようだった。
部屋の外ではもう人が動き出している。
僕も動き出さなくてはいけない。
「これ着てろ」
足元に置いていた紙袋を手にした凌が投げてよこした。
「なに?」
「いいからさっさと準備しろ」
朝の光は優しい。
吹き荒れた黒い風は最早消えうせていた。
心地いい風が頬を撫でて、僕の心にはわずかな希望の光が生まれる。
明けない夜は無い。いつか闇は消える。
いつか僕も元に戻れるはずだ。
こんなのは異常なのだから。
中も見ないまま、紙袋を受け取った僕は風呂に向かった。
願うのはただ平穏な毎日。

「しーのーぐー……!」
脱衣所で僕は紙袋の中身を見て叫んだ。
馬鹿でかい真っ赤な紙袋の中にキレイに畳まれて包装されて入っていたのは。
「なんだよこれっ!」
まず目に付いたのは黒いふわふわした生地。それから赤。
「騒いでないでさっさと準備しろって」
壁越しのくぐもった声。
人事だと思って事も無げに凌は言い放つ。
服を持って入ってこなかったせいで着るものはこれしかなかった。
生憎着ていたものは洗濯機の中でぐるぐる回っている。
「狸野郎っ」
毒づきながら服を広げていく。
黒い薄手のコート。真っ赤のタンクトップには黒いプリントでIncognito。それから黒のハーフパンツ。
「女っぽい、訳じゃないか……」
一枚ずつ着ながら、自分でこれは女装じゃないと言い聞かせる。
真っ黒なんて着たことが無いから鏡の中の自分は見たことの無い自分になっていた。
「変装にはなるだろ?」
髪を乾かしていた僕の後ろのドアが開いて凌が顔を出した。
鏡越しの表情はいつもと変わらない。
その手には薄い赤の眼鏡。
「これで追い掛け回されもたぶんしないだろ。今日は体調が悪くて寝てるって校医に報告もしてある」
周到すぎて僕自身も知らない間に周りが動いている。
「心臓に悪いんだよっ」
僕は文句を突きつけながら、黒のアーミーブーツを履いた。
眼鏡をかけて見回した世界は当然のように赤かった。


いつぞやは窓から入ってこようとするなんて馬鹿じゃないのかと思っていたが、その窓から僕らは部屋を出た。
馬鹿が残した紐を使わせてもらったから少し感謝もしてみよう。
中庭にいる光淳たちが見回りをしていて目星はついている、とは言ったものの。
「どっかいったって…なんだよそれ」
「ご、ごめん」
光淳は僕らを見ると小さくなった。
どうしたんだと訊いたら前述のとおりである。
「そう責めるな楓。もう少し待ってみよう」
頭を撫でられた。
僕は凌を見上げる。
ほんの少しだけ背伸び代わりのアーミーブーツのソールは厚さ約3センチ弱。
凌も光淳もそれでは全然足りないくらいに大きい。
成長期はバラバラだからそのうち伸びるよと言われてきたけれど、ここ半年伸びていない。
160センチにも満たないまま僕の背は止まってしまうのだろうか。
いつも以上にキツく締めたサラシに圧迫されて苦しい。
頭痛は相変わらず後頭部に残っていて時折頭と首が重くなる。
秋季祭の開場は午前11時。
それまでに終わる保証なんて無い。
だけど僕達には待つしかなかった。
人が熱望した空を悠々と我が物顔で飛ぶあの鳥を、ただ待ち続けるだけしかなかった。

「何事もなく終わるってのはナシかな」
独り言のように僕は言った。
俯いて小さく、出来ることなら聞かれないように。
「それが一番いいけどな」
僕を挟んで並んで立つ光淳にも聞こえたかわからないくらい小さい声。
低くて大人びた声。
凌は空を見ていた。
例えばこの瞬間があと二週間早ければ。
もし僕がこんな体になっていなかったら。
きっと楽しかったといえる思い出になっていた。
でもそうなるとこんな風に何かを待つことも無かったか。
もし戻れるのだとすれば戻りたい。
『GLUTTONY』
まだ頭の中で、付け根の辺りで渦巻いている。
秋空は晴れ渡っている。こんなきれいな青い空に黒い斑点なんて異物だ。
そして、その異物が浮かんでいる。
「いた」
誰ともなく上がる声。
中庭にいた数人が空を見上げる。
僕は走り出した。
『EVERMORE』
二度目は最早無い。
目指す場所は最初からきっとわかっていた。
僕はずっと知っていた。

OBだったじいちゃんに連れられて来た事がある。
大鴉も向かっている場所は中庭の先、校舎の更に奥。
じいちゃんの時代に使われていた旧校舎。
今は野菜畑になっている先に傲然と建つ、百年も前に出来たという洋館。
「楓っ」
黒い羽はもう見えない。
元々体は弱かった兄さんが死んだのはここだった。
「楓っ!」
コートなんて着るんじゃなかった。
ひらひらと足にまとわりついて走りにくい。
呼んでいるのは凌だけじゃない。
あの中からも僕を呼ぶ声がする。
普段は錠が下りているはずの扉はかすかに開いている。
そのまま僕は体を滑り込ませる。
土のにおい。木のにおい。噎せそうなほどに濃密なにおい。
十年前のあの紅い記憶と重なるにおいが、人工物の中にありながら埃に混じる。
目張りの隙間を縫い降る光は天の梯子のように線が見えた。
装飾品は取り除かれ、腹の中を空にされている。
壁の絵は破れていた。
天井のフレスコ画も覚えているけれど、暗すぎて見えない。
「一人で突っ走るな」
『一人で行っちゃ危ないよ』
遠い遠いあの日。
兄さんと僕はここに来た。

『楓、危ないってば』
優しく止めようとしてくれた兄さんは、あの日が元で死んだ。
確かあの日もこんな風に晴れた秋の日。
夏を引きずる焼け付きそうな日差しと弱い風は、移っていく季節を拒んでいた。
「来ちゃ駄目だ」
あの日入り込んだこの館の先で、僕は見てはいけないものを見た。
それだけは覚えている。
「無理だね、もう来ちゃったし」
振り返るのが怖い。
敗れた絵に背を向けるのが怖い。両サイドに張り出した階段を登った先にある闇に背を向けたくない。
今の声は光淳だ。
「今更帰れは無理な話だな」
そして、凌。
どうしていつもこうやって来るなといっているのに来るのか。
帰れと言っているのに帰らないのか。
兄さんと同じだ。
帰っていいよ。危ないから。
母さんにとって兄さんの方が大事だったから、僕は要らない子だった。
だったらこのまま消えていなくなったっていいと思った。
「そう言うことは頼まれても出来ねーよなー」
『そんな事出来ないよ』
デジャヴ。
凌も光淳もいつか見た風景に溶け込んでいく。
兄さん。
兄さん───。

「久方ぶりと言うべきか?」
鈴の鳴るような声。
艶かしい紫の繻子のローブを肩にかけ、声の主は階段をゆっくりと下りて来ていた。
青いほど白い肌に金糸の髪。唇は赤く、その双眸は深遠のごとき碧。
「今度は何を喰らうか少年」
僕らは動けなかった。
答えることも出来なかった。
「おお、少年ではなかったな」
しゃなり、しゃなり。
動くたびに鈴が鳴る。
黒い影が視界を過ぎった。
ばさりと大きな羽を震わせて、女の腕に大鴉は舞い降りる。
「我の半身を喰ろうたな」
彼女は、よく見れば同じ年頃だった。
好奇心と歓喜だけで大きな目を染めていた。
きらり、と一閃。
「楓っ」
「楓ちゃんっ!」
僕は動けなかった。
苦しかった胸が楽になり、凌の背が見えて、光淳の腕の中に倒れこんだ。
「女の身はどうだ? 悪くなかろう大喰らいよ」
言うな。
見るな。
その手を離せ。
光淳じゃだめだ。

この体を触らせたくない。
縦一文字に切り裂かれた服の下からばらばらになったサラシが落ちていく。
「凌っ」
動かない体を無茶苦茶に伸ばした。
視界いっぱいの背にすがりついたのは別段理由は無く。
ただ凌で無いと駄目だと思った。
「おお怖い。そんな目で見るな。我は最早なにもできぬ」
陰影の濃い空間で、大げさに口元を絹で覆う女は目を細めた。
兄さんと二人、ここでこの女に会っただろうか。
会ったかもしれない。わからない。
僕の記憶は余りにも曖昧だ。
「胸……楓ちゃん……?」
だから駄目だと言ったのに。
だから駄目だと言われたのか。
もうすっと頭痛に襲われている。凌の背に震えながらしがみついている。
「どういうことだよ」
光淳の疑問ももっともだ。
だけど僕の思考はばらばらで説明できる余裕も、口にすべき言葉を探すこともできない。
「知りたいか」
女は尚も笑う。
楽しそうに少女の無垢な仮面の下に血の滴る笑みを浮かべて笑う。
「───…めろ」
力がもう入らない。立っていることすらできない。
頭痛だけが感覚を支配していた。
「やめろっ!」

箱を開けてはならないと言ったのは女だ。
ああそうだ、僕は確かに女に会ったことがある。
混濁した記憶の狭間であの笑みが確かに存在した。
「人間とはいい生き物よ。己を保つ為に真実すら消せる。蓋をして、蓋をして───腐った臭いにも気づかぬ」
「お前は誰だ」
だめだ、凌。聞いてはいけない。この名を聞いてはならない。
高らかと、そして悲しげに、憂いを見せながら女は笑う。
においが増した。
草臥れた木のにおいと燃え立つ花のにおい。
女のふちを蒼と紅の炎が彩っている。
「誰だ」
光淳も問う。
ああ、駄目だ。
僕はまた失うのだろうか。
僕はまた兄さんを失うのだろうか。
駄目だと言う事すら出来なくなっていた。
「我は原初の女。原初の男の妻であり、輝けるものの妻」
一瞬、世界は暗転した。
頭痛の合間に耳に届く音は館を揺らす風。ざわざわと館全てが蠢いていた。
圧倒的な力で上から抑えつけられる。重力が増したかのように全身が沈み込む。
凌の背も揺れた。
「だが我の半身は我に無い。最早何も出来ぬ」
悲しげに女は言う。
歌うように、僕が大鴉と対峙したときのような不可解な口調だった。
「我の名に意味は失われた」
それでも世界はざわめいていた。

指先という指先、皮膚という皮膚が痺れている。
自分の体で無いように自由にならなかった。
「我は食われたのよ。その少女になった少年にのう」
女は歌う。
僕の罪を。
高らかとあっけらかんとさも楽しげに。
「大喰らいよ、名は楓と言ったか」
呼ばれても僕は指一本動かせなかった。
「我はもう何も出来ぬぞ。お前の中で我の半身は混ざりきってしまっておる。取り出すことも出来ぬわ」

たった一つ望んでいたこと。
僕を見てほしかった。
だけど母さんは兄さんしか見なかった。
だからあの時、階段から落ちた兄さんを僕は喰った。
兄さんになろうと、消えそうになっていた兄さんを喰った。
そして女は言った。
「お前魂喰いかえ」
なんのことだかわからなかった。
「弔ってやらねばなるまいな」
女は兄さんを抱きあげた。
その腕の中で眠る兄さんを囲むように白い百合がみるみる咲き乱れていく。
「お前のせいではない。連れて往かれようとしている者を喰らうのは悪いことではない」
ただ好奇心が過ぎたのだ、我の名は知ってはならないのだ。

じゃあ僕はどうして無事なの。
どうして兄さんだけ連れて行かれるの。
「お前が強いからよ。それだけじゃ」
悲しげに女は微笑んだ。
消え入りそうな霧のような儚さだった。


僕はもう立っていられなかった。
「楓っ大丈夫か?!」
膝が折れ床に座り込みかけたとき、凌の腕に支えられた。
「俺出番ねーなぁ」
おちゃらけて光淳は言う。
その軽い口調が少し気を楽にさせた。
「人間、我が半身を頼む。我の最後の子になろう」
「待ってよ。僕は戻れないの?このまま、ずっとこのままなの?」
「我には出来ぬ。───あるいは……いや。諦めよ」
審判は下る。たった数秒で地獄に突き落とされる。
目を見開いたまま、女を見ていた。
長い爪は僕の服を切り裂いた。
深い碧の瞳が憂いを滲ませている。
浮かび上がりかけた感情が叩き潰された。
全てというには少なすぎる真実。
一つというには重過ぎる現実。

僕は完全に男としての生を失った。


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