安価 『花火大会』
どちらかと言えば、私は幼い頃から裕福だったと思う。それゆえ、私はなにも不自由なく暮らしてきた。
地元の人から長く愛されて来たという、江戸時代の時から続いているという呉服屋。
今でも、質の高い和服を求めて、数多くの客がやって来る。
そんな家に生まれた私は、家を継ぐことを約束されていた。
けれども、人生とは中々上手くはいかないモノで……転機は、急に訪れた。
15,16歳の時までに、女性と性行為を行わないと、男性は女性化するという奇妙な病気。
私には、無縁の話のはずだった。何故なら、許嫁がいたからだ。
高校生活が進む度、友人が騒ぎ始める中、私だけが落ち着いていたと思う。私は、心の中でそんな友人
たちを笑っていた。
ところが、私も、私の両親も少しばかり……余裕を持ち過ぎていたのだろう。
ある日、朝起きると、私は女性化してしまった事に気づいた。
……女性化するだけならまだ良い、しかし、私には一つ問題があった。それも、大きな問題が。
柔らかな、毛の一つ無い肌、小さな手足、さらさらとした髪、丸い、大きな瞳。小さな、少女の体。
そんな変化は、あまりにも大きすぎた。
女性化したうえに、体まで大きく変化した事で、私の周りは大騒ぎになった。
もちろん、許嫁の件は無しになった。それはいい。それよりも大きな問題が――私が、一人息子だった事だった。
両親の年齢を考えるに、もう出産は難しかった。
導かれた答えは一つ――男性であった私を、女性として仕立て上げるということだった。
女性化したうえ、見る景色すら変わってしまった私を無視して、準備はあっと言う間に進んでいった。
昔の私――つまり、男性だった時の自分は、家を継ぐのが嫌になって逃げ出した。という事になってい
る。人というのは怖いもので、瞬く間にそれは広がっていき、それが本当の事のように浸透していった。
今の私は――両親が後継ぎに困りかねて、苦労して探してきた養女、ということになっている。
私は一体、どうなってしまうのだろうか?
私は、私でいられるのだろうか?
後のページは、白紙が続くばかりでした。永遠に、続きの書かれる事のない文章。
それを見ることが、昔の事を鮮明に思い出す事ができる唯一の手段。
続きを書くとすればこうなるのでしょう。
「そして、私は両親、祖母、あらゆる人から女性としての教育を受けた」と。
幼い少女になったばかりの"わたくし"には、それに逆らうことができませんでした。
女性としての作法、口調……教えられる、何もかもが心の中の何かを壊していきました。
「このままでは、心まで少女になってしまうのでは無いだろうか?」
そう思った当時のわたくしは、何かを残そうと、日記帳を買ってきて、文章に残し始めたのです。
しかしながら、それはほんの少し書いただけで、終わってしまいました。
ある日、わたくしは突然、暗い、何も見えない部屋に閉じ込められました。
「男性としての心」を壊すために。
孤独という淋しさ、誰も居ない、一人という恐怖。それは、少女としての感情を大きくさせるには、十分
でした。
その後は、ただ子供に遊ばれる人形のように、わたくしという物自体が、作られていきました。
鏡を見る度に、少しだけ恥ずかしくなるのは、ほんの少しだけでも、男性としての感情が残っているか
らでしょうか?
少女用の着物を着て、ほんの少し顔を赤くしている元男性というのは、滑稽なのでしょうか?
けれども、今のわたくしは、大人びている少女でしか無いのです。
「わたくしは、ほんとうに元々男性だったのでしょうか?」
鏡の中の自分に問いかけても、返事は返って来ません、それでも、私はこう続けました。
「今では、そんな感情すら浮かんでくるのです。もしも、日記帳に文章を書いていなければ、わたくしはなにもかも女の子になっていた……むしろ、そちらの方が良かったのでしょうか?」
物語みたいに返事が返ってくる訳もなく、わたくしは諦めて鏡の前から去りました。
いつもとは違う、薄い桃色の浴衣を着て人ごみの中を歩く。
鏡を見るとき以上に、わたくしの顔は林檎のように染まっていることでしょう。
お父様とお母様は、花火を見るのが好きなのです、それも、近くで見るのが。
毎年、隅田川の花火大会の季節には、強制的にわたくしも連れられてしまうのです。
もちろん、人ごみの中を歩くのは、わたくしにとってとても辛いことなのです。
けれど、それよりも嫌なことは……。
どーん。 どーん。
大きな花火が、上がります。
どーん。 どーん。 どーん。
目をつぶっても、どうしても見えてしまう花火の光。
どーん。 どーん。 どーん。 どーん。
打ち上っては消える、花火。それが。わたくしの心を現しているみたいで、ただ、怖いのです。
部屋に閉じ込められていた時、小さな窓から見えた花火。
すぐに消える花火、一瞬だけ明るくなる、暗い部屋。
見る度に、何だか何もかもが溶けて行くような、そんな気が――。
気が付くと、わたくしは涙を流していました。
隣にいる、お父様とお母様は、空を見上げながら、笑っていました。
周りの人たちも、空を見上げながら、笑っていました。
泣いているのは、わたくしだけでした。
「消え……ないで」かすれた声で、わたくしはそう呟きました。
「消えないで!」
どん、どどどどどどど、どーん。
わたくしの叫びは、最後の花火の大きな音に、かき消されて。
花火大会が終わり、空には何もかも無くなって。そのうちに人も消えて、わたくしの心だけが、空に消
えていって……。
家に帰った後、わたくしは日記帳を破り捨てました。
そしてわたくしはその後、子供のようにわんわんと泣き続けました。
最終更新:2008年09月08日 21:18