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◆9Yp0F0tOG6 :2008/03/26(水) 13:55:00.96 ID:QX3Kwu510
その出会いは必然であり、またある種の皮肉であったと、過去を振り返りながら俺は思う。
ミツヤは良い奴だった。誰彼構わず話かけ、水面に咲く波紋のように交友関係を広げていく。
例えば樹齢何千年の古木のように、どこまでも枝を伸ばし、葉をつけ、柔らかな木漏れ日をどんな人々にも分け隔てなく降らす。
ミツヤはそういう人間だった。
俺はミツヤのそういうところが羨ましくてたまらなかった。同時に、無意識の内に比較し、情けない自分がさらに小さく見えた。
猜疑心の塊が木漏れ日に憧れるなど、端から見れば笑止千万だろう。ただ、俺はミツヤのようになりたかった。それだけだった。
「嘘だろ……」
朝、鏡を覗き込んで愕然とする。どこか他人行儀な鏡の中のその人は、唇の端に歯磨き粉を付けたまま間抜けに口を開いていた。
そうか。そうだった。すっかり忘れていた。
『女体化』
このおかしな現象がいつ頃から起きはじめたのか、詳しくは知らない。
何となく自分には関係ないことだと認識していたし、危機感の欠片も抱いていなかった。
どこか遠くの国で戦争が起きていると、ブラウン管を通して知る程度のものだったのだ。
その割に、驚きは少なかった。多分心のどこかでは諦めていたのだろうと思う。それに、自分の性別に特に思い入れがあるわけでもなかった。
なんだ、こんなものか。
嘘だろと呟いたはいいが、『嘘じゃない』とすぐに頭の中で自分がぴしゃりと言いのけた。
そんな訳で、大きな混乱を迎えることなく、俺の女体化は風呂に入るとき服を脱ぐくらい自然なこととして完結してしまった。
それから一週間。不思議なことに、俺は男であったときよりも交友関係が広がっていた。女としての生活の方が性分に合っていたのだろう。
女のネチネチした関係が嫌だと男は言う。けれど、俺自身がネチネチした人間だったから、“俺”と“女”は凸と凹のようにぴたりと合わさったわけだ。
それに、うちの高校には男女混合グループというのが出来やすく、特に行動する人間を変える必要がなかった。何という幸運だろうか。
だからこそ、俺はミツヤにあんな風にはなってほしくなかった。
今日もミツヤは来ない。俺から右斜め前の机は、主の帰りを今か今かと待ち続けているように思えた。それがまた、俺の心に暗い影を落とすのだ。
ミツヤが女体化したのは、俺が女体化した次の日のことだった。
ミツヤは男の時も美しかった。男にその形容はおかしいのかもしれないが、美丈夫で、性格の良さが外見に余すことなく染み出た人間だった。
それがみんなを惹きつけていたし、逆にあんな結果を呼び込んでしまったのだ。
男の時でさえあれほど美しかったミツヤだ。女になれば世界三代美女の概念をも覆す恐るべき美女になるのではないだろうか。
そうやって期待したミツヤの友人たちやミツヤを知る者たちは、生まれ変わった新しいミツヤの登場を首を長くしながら待った。
そして、女体化して初めて登校してきたミツヤの顔に浮かんだ表情はただ一つ。
恐怖。
113 : ◆9Yp0F0tOG6 :2008/03/26(水) 13:56:19.33 ID:QX3Kwu510
何がそこまでミツヤを追い込んだか知れない。何をそこまで、と俺が思ったことを否定しない。
ミツヤは畏れていた。教室の扉を開き、一斉に自分に向けられた視線の束を受け止めた瞬間、真っ青になって踵を返した。
一瞬静まり返った教室は、先ほど部屋を出て行った一世一代の美少女について大いに盛り上がった。
興奮気味の友人があれ見たかよお前より可愛くね? すげーよと早口でまくし立てるのを、俺は他人事のように聞き流していた。
そうじゃないだろう? 騒ぐところはそうじゃないだろう?
みんな今し方のミツヤの“顔”を見ていなかったのか。違う。“顔”しか見ていなかったのか。
立ち上がり叫びたかった。けれどどこまでもちっぽけでとびきり臆病な俺は、尻が椅子に吸い付いて立ち上がることが出来なかった。
「ミツヤどうしたんだろうな……」
左隣の席に頬杖をついて座るダンが聞いてきた。俺はさあ分からないけど早く来るといいよねと下手な役者より更に酷い演技をした。
そして決意していた。今日、ミツヤの家に行ってみようと。同じグループでもなければ、特に親しいわけでもない。けれど、ミツヤにはいつだって輝いていてほしかった。
ミツヤのためならば、俺は喜んで底辺に収まろう。ピラミッドは土台がなければ作れない。それなら俺は土台になろう。全てで頂点のミツヤを支えよう。
同じ女体化者として分かり合えると、俺はタカをくくっていた。
「ごめんなさい、誰とも会いたくないって……」
放課後、ミツヤの家に直で突撃したはいいものの、俺は早々に出鼻を挫かれてしまった。
だが、そこで引いてしまっては意味がない。俺はミツヤの母親を強行突破し、掴まれた腕を振り切ってミツヤの部屋に押し入った。
「誰だ……」
俺の全身は硬直した。憧れのミツヤは、体中傷だらけで毛布にくるまり、小刻みに震えていた。
「ミツ……」
肩に触れたところでこちらが竦みあがる程の大声で叫ばれた。ミツヤの母親が外から扉を叩いている。やめてやめてと泣いている。俺は無意識に鍵をしっかりと閉めていた。
「見るな! そんな目で俺を見るなああ!」
細い両腕をむちゃくちゃに振りながら殴られた。俺は泣いていたのだろうか。泣きたいのはどっちだ。
「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……こんなの嫌だ。俺じゃない、こんなの俺じゃない……」
ボロボロと涙を流しうわごとのように呟くミツヤを見て、俺はようやく理解した。
今までイジメや冷やかしなど一切受けてこなかったミツヤにとって、好奇の視線に晒されることがどれだけ恐ろしいものだったのか、俺はまるで分かっていなかったのだ。
いつものミツヤに戻ってほしいなど、本当に馬鹿げた考えだった。ミツヤは最早ただの小さな女の子だった。俺もミツヤも、小さく無力だった。
あの日のミツヤはもういない。
了
最終更新:2008年09月11日 00:52