159 :『真実は俺の背中を見ている』
◆9Yp0F0tOG6 :2008/03/29(土) 14:04:46.71 ID:8ki53ZQI0
『もう大丈夫だから、泣かないで』
一カ月か、二カ月周期で見る夢がある。
小さな俺は赤いおもちゃのサッカーボールを持っていて、目の前で禿げた中年の男がひいひい言いながら股間を押さえている。
その横には、桃色のカチューシャをした同い年くらいの女の子がいる。
大きな瞳に涙を浮かべて、小さく嗚咽を漏らす。
俺はその子に泣き止んでほしくて、ひたすら大丈夫だ大丈夫だと繰り返した。
ただの夢なのか現実にあったのか、もうよく思い出せない。大切なあの日の思い出。
* *
初夏だった。
照りつける太陽はその明るさと暑さを見事に比例させる。
時折小さく風が肌を掠め、俺は上を向きながら目を瞑って立ち止まった。深呼吸して、ゆっくりと目を開く。
視界に飛び込んでくるのは、ペンキで塗り潰したような青。それにボンドでくっつけられたかのような綿雲。
円を描きながら悠々と飛ぶ鳶の特徴的な鳴き声に、俺は耳を傾けた。
一時間ほど続けていたランニングのお陰で、じんわりと浮き出た汗がシャツに張り付き、俺はバサバサと襟元を掴んで涼しい空気を中に送り込んだ。
肩を回し首を回し足首を回し、乳酸の溜まった筋肉をほぐす。
「あっつー……」
俺より一分ほど遅れて、ジャージの上着を腰に巻いた友人の県が俺のいる体育館裏の手洗い場にやってきた。
すぐに俺の横に立ち、蛇口を捻って生ぬるそうな水で顔を洗う。
そのパシャパシャという音を聞きながら、俺は後ろ向きで両手を手洗い場の縁に着き、大きく息を吐いた。
「もう一周行くか?」
いつの間にか顔を上げたのか、県が首にかけたタオルで顔に付いた水滴を拭き取りながら俺の顔を覗き込んできた。
逆光になって表情が分かりづらいが、自前の薄茶色の髪が金に透けて見える。俺は薄く目を細めた。
「いや……そろそろ昼だし、止めとくかな」
「分かった。じゃあ俺飯取ってくるわ」
校舎に向かって歩き出した県の背中を見送ると、俺はその場にずるずると座り込んだ。
軽い熱中症かもしれない。視界が滲んで、胸がむかむかした。何より頭が痛い。こめかみに手を当てると、嫌な振動が伝わってくる。
俺は立ち上がると、上に捻った蛇口からこれでもかと水を飲んだ。やっぱりぬるい。
160 :『真実は俺の背中を見ている』 ◆9Yp0F0tOG6 :2008/03/29(土) 14:07:53.28 ID:8ki53ZQI0
◆
「おい五重、起きてっか?」
顔をしかめつつも首を縦に一度動かすと、県は俺の横に座ってコンビニの袋からパンを取り出した。
ダブルチョコデニッシュ。成長期には涎もののカロリーの塊だ。
けれど、受け取ったそれに一口噛み付いただけで、俺はまたしても酷い頭痛に襲われた。
内側から誰かに頭蓋骨を叩かれているような、脳の中に心臓があるような、嫌な感じだ。
「甘かったか?」
辛党だもんなお前、と言いながら足元に置かれた袋からサンドイッチを取り出し差し出してくる県に、俺は緩慢に頭を振った。
それだけでズキズキと痛みが増す。
やっぱり事前に水分を取っておくべきだったと後悔しながら、俺は口の中に居座る糖分の塊をなんとか噛み砕いた。
ぎゅっと目を瞑りながら飲み込み、すぐさま蛇口から水を飲む。
先ほどより幾分か冷たくなったそれは、喉につっかえた炭水化物を一気に胃袋まで押し流した。
「気分わりーの?」
もう食べ終わったのか、手作りおにぎりと書かれたパッケージの付いたビニールを握りつぶしながら県が聞いてきた。
力無く首部を垂れた俺は僅かに頷き、長い溜め息をついた。
「体力つけなきゃなんねーのに……」
ぼやきにも似た呟きに、県は呆れたように鼻から息を零した。顔は見えないけれど、多分眉根を寄せているに違いない。
静かに両足の間を歩く蟻を見下ろす俺の頭を、強すぎない力で小突く。
「お前気にし過ぎだよ。まだまだ時間あんだから焦ることねーって」
「そりゃお前はもうレギュラーなんだから余裕だろうけどよ……」
「そう卑屈になるなよ」
な、と言いながら背中を叩かれる。
それでも俺は駄々をこねる子どものように卑屈になるしかなくて、あまりの情けなさに鼻の奥がつんとした。
俺はどう足掻いたって県には勝てない。
さっきのランニングだってそうだ。一見俺の方が早く走っていたようだけれど、実際は二周も県に差を付けられていた。
それを縮めようと腕を振っても足を上げても、決して追い付くことが出来ない。本当に情けない奴だ、五重圭祐。
俺がこうして部活の無い日にわざわざ学校に来て自主トレするのも、県に嫉妬するのも、全ては二週間後に控えた大きな大会のためだった。
俺はサッカー部に所属する一年で、レギュラー入りを狙っている。大会毎にレギュラーの入れ替えがあるため、次こそはと意気込んでいた。
県はこの前の試合の時から一年で初のレギュラー入りを果たし、更に実力を付けはじめているためレギュラー落ちの心配もない。
それが俺の焦りに拍車をかけていたりする。
161 :『真実は俺の背中を見ている』 ◆9Yp0F0tOG6 :2008/03/29(土) 14:10:01.34 ID:8ki53ZQI0
俺の方が先に始めたのに。
才能の差だとは分かっている。けれど、小学生時代からクラブでレギュラーを張っていた俺にとってはあまり愉快な気分ではなかった。
そうやってまた醜い嫉妬心を抱く自分に、心底吐き気がする。
「そういえば」と県が呟いた。
俺が膝の上で組んだ腕の間から視線だけをそちらに向けると、県は指に付いた米粒を口に運びながらこちらを向いた。
「今週末に西高と練習試合があるらしくてさ、先輩から聞いたんだけど、監督は一年を大量投入するかもって」
「何でまた」俺は目を見開いた。「よりによって、西高となのに?」
俺の通う東高と、一ブロック先にある西高はすこぶる仲が悪かった。
同じ進学校で部活に力を入れ、学校全体の学業成績も拮抗している。生徒数も大体同じで、敷地も同じくらいだ。
何から何まで似ている二高が反発しあうのは、仕方がないことに思えた。
そのため、両校は互いに顔を合わせる時決して力を抜かないというのが暗黙の了解になっていたのだ。
例えそれが練習試合でも、それぞれの最高のメンバーで本気を出して戦う。
だというのに、うちの監督はそれを一年でやろうと言うのだ。大袈裟な表現になるが、正気の沙汰じゃない。
「俺が思うに、そこで活躍した一年をレギュラーに昇格させたいんじゃないかな」
県の意見に、俺は目を輝かせた。
そうか。その場で俺が目一杯実力をアピールすれば、レギュラーになれるかもしれない。
都合の良いことに(と言ったら悪いが)、先週から二年のレギュラーの先輩が足首を捻挫して部活を見学することになっていた。
それを思えば、県の予想はあながち間違いではないかもしれない。
俄然気合いの入った俺は意気揚々と立ち上がり、すぐさまランニングを再開した。
「おい、待てって!」
後ろで県が声をあげたが、テンションの上がった俺の耳はそれを素通りした。
「じゃーな。また明日」
「おう。明日なー」
互いに軽く手を振り、俺と県は駅で別れた。
県の家は割と遠く、電車で二十分ほどかかる。
一方俺は駅近くの住宅地に住んでいて、別段急ぐわけでもない。ゆっくりと落ちる夕焼けを背に、立ち読みでもしようと近くのコンビニに入った。
「あ、五重」
聞きなれた声に顔を上げると、俺はあからさまに渋面を作った。
「紫藤……」
162 :『真実は俺の背中を見ている』 ◆9Yp0F0tOG6 :2008/03/29(土) 14:13:29.05 ID:8ki53ZQI0
俺が呟くと、紫藤はニヒルな笑みを張り付けながら片手を上げ、「足どうよ?」と話しかけてきた。
「別に……」素っ気ない返事をし、スポーツバックの紐をかけ直す。
俺が立ち読みをしようとしていたスポーツ雑誌のコーナーに紫藤が陣取っていたため、俺は浅く溜め息をつきながら隣の漫画雑誌の方へと足を向けた。
適当に積まれている内の一つを手に取り、パラパラとページを捲る。すると、紫藤が横からそれを覗きこんできた。俺より幾分か目線が高い。
「んだよ」
「別にー?」
飄々とした態度で口笛を吹きながら演技くさい返事をする。こういうところは苦手だ。
紫藤は西校のサッカー部員で、中学時代は同じサッカー部に所属していた奴だ。ワックスで立たせた暗めの茶髪に、女顔寄りの端正な容姿をしている。
足の長さを生かした俊敏な動きが癪に障る奴で、サッカーで一対一になった時なかなか抜くことができない。
はっきり言えば俺の方が実力は劣るというのに、紫藤は俺を勝手にライバルと決めつけ、俺と戦いたいからというはた迷惑な理由で西校に進学した。
しかし、未だその野望は果たされていない。
それは、俺が高校に入ってすぐ靭帯をやってしまったからだった。
幸い全治三週間程で、さほど日常生活や部活にも支障がなかったし、それを言い訳にしたくもなかった。
けれど、やはりその怪我は少なからず俺のサッカーに影響を与えていた。
「お前聞いたか? 来週の練習試合……」
ぼうっとしていたのか、俺の口からは言うつもりのなかった言葉が勝手に飛び出してしまった。
やべえと思って片手で口を押さえると、紫藤の嬉しそうな声が耳に入って来た。
「そうそう! うちでやるからな。今度こそお前をふるぼっこにしてやる」
暑苦しい位の熱意が伝わってくる。なぜそこまで俺との勝負に執着するのか、俺にはよく分からなかった。
中学時代は俺と県と紫藤の三人で、よく馬鹿をやっていた。
元々性格や嗜好が似ていたのか、俺達は中学の三年間で超が付くほど仲良くなり、強い絆を結んでいた。
紫藤なんてクラブ時代から一緒にいたから、お互いの癖や弱点を熟知し合っている。
そんな部分を補い合ってサッカーをすることが楽しくて仕方がなかった。
それなのに、当然同じ東校に行くものとばかり思っていた紫藤から、西校行きを告げられた時のショックは相当のものだった。
それから、俺達の関係は微妙に変化しだした。
紫藤は俺をライバルだと、俺は紫藤を裏切り者だと認識するようになっていった。
間に挟まれた県には悪いことをしたと思っている。けれどもう、昔みたいに友好的な目を、紫藤には向けられなくなってしまった。
紫藤も紫藤で、こうしてたまに会う度やたらと嫌なちょっかいをかけてくる。
もう昔のような関係には戻れないと、無意識の内に思ってしまっていた。
「五重、お前これからどっか行くのか?」
164 :『真実は俺の背中を見ている』 ◆9Yp0F0tOG6 :2008/03/29(土) 14:18:52.73 ID:8ki53ZQI0
唐突に話しかけられ、俺は声とも呻きともとれないおかしな返事をしてしまった。
「あ、いや……今日は俺が夕飯作る日だから、もう帰るけど」
俺がそう言うと、紫藤はふーんと視線を外に投げ、何か思案するようにしていた。それから一度目を閉じ、こちらに向き直る。
「じゃあさ、久しぶりに一緒に帰っか?」
なんでお前なんかと、という反発的な言葉で喉まで来たが、それを抑え込み、俺は別にいいけど……と曖昧な返事をした。
なんとなく、昔のように話したかったのかも知れない。
ビルの間に沈む夕日は、俺たちの影をどこまでも長く伸ばす。特に何か話すでもなく、俺と紫藤は家路を歩いていた。
車の通りが激しいため、何を喋ってもろくに聞こえないからだ。そして、何を話すべきか思い付かないというのもまたあった。
距離にして一歩半ほど先を歩く紫藤を、俺は口を噤みながら見ていた。東高と西高の少ない相違点である紺のブレザーがオレンジ色に染まっている。
紫藤と会うのは一カ月振りだ。
高かった身長はまた更に伸び、前に見た時よりも髪が短くなっている。試合に対して本気で取り組んでいる証拠だろう。
「なあ」
俺の目線より少し上にある紫藤の口が開いた。
「……何だよ」
「お袋さん元気か?」
「あー……まあ、そこそこ」
「そっか」
再びの沈黙。気まずいと同時に、俺は紫藤がうちの母親のことを覚えていた事実に内心驚いていた。
いや、覚えていて当然か。
家が近くてよくうちに遊びに来ていたし、あの母をもって息子が二人出来たみたいと言わしめるほどによく懐いていた。
そんな紫藤が忘れるわけがない。多分そう、中身は相変わらずの紫藤なのだろう。馬鹿で不器用な紫藤のままだ。
なんとなくしんみりしてしまった俺は、しかし再び昼頃の頭痛に襲われ、唐突に立ち止まった。荒く息をつき、額に手をやる。
「五重?」不審な気配を感じ取ったのか、紫藤が振り返り訝しげに聞いてきた。
俺は平気だという旨を伝える為に片手をあげ、左右に振ろうとした。
「あーっ! 圭祐に紫藤じゃん! 久し振りー」
突然爆発的な明るさを持った声が響き、しばし呆然とする。
「あ、湯地先輩」
俺の横で紫藤が嬉しそうな声を上げた。
その視線の先では、ツインテールで誰もが振りかえりそうな可愛らしい顔立ちをした少女が、朗らかな笑みをたたえて手を振っている。
165 :『真実は俺の背中を見ている』 ◆9Yp0F0tOG6 :2008/03/29(土) 14:22:15.87 ID:8ki53ZQI0
幼馴染で隣の家に住む湯地宏美だった。
「珍しいなあ、二人が一緒にいるところ見たの卒業式以来」
俺と紫藤両方の顔を見ながら楽しそうに笑っている。
宏美は俺たちよりも二つ年上で、ここから駅三つ分ほど離れた商業高校に通っている。
可愛らしい見た目とは裏腹に、芯がしっかりしていて頼りがいのある兄貴分だ。
そう、兄貴分。
宏美は、俺の周りでの数少ない『女体化者』の一人だった。
「たまたま駅で会ったんだよ」
なかなか口を開かない俺に代わって紫藤が答えた。俺は右手で額を包む様に触ると、そっと近くの街灯の柱にすがった。
「圭祐、どうした? 気分悪いのか?」
宏美が顔を覗きこんで聞いてくる。昼間の県と何となくダブって、弱々しいものだったが自然と笑みがこぼれた。
「ちょっと頭痛くて……」
「大丈夫か? 顔真っ青だぞ」
そう言いながら俺の手を外し額に当てられた博巳の小さな手は、間違いなく女の子のものだった。
「ちょっと熱があるかもなあ……今日暑かったし」
宏美の声は鈴が転がるようだ。その音を聴くだけで、少しずつ痛みが引くような気がした。
宏美が女体化したのは、俺達が中二の頃だった。
その時の宏美は俺達と共にサッカーボールを追いかけながらグラウンドを駆け回っていて、唐突につき付けられた女体化という現象に、そうとう取り乱した。
俺は俺で、まさか宏美が、という気持ちが強くて、なかなかフォローに回ってやることもできなかった。
当時の俺達の学校で一番モテていたのが宏美だ。けれど決して彼女を作らず、俺達とグラウンドを走ることが何よりも楽しいと言っていた。
『お前らとサッカー出来ないんだったら、俺死んでもいいよ』
それが口癖となっていた宏美は、死ぬことはしなかったが(勿論説得には大変な時間を要した)、大好きだったサッカーから離れてしまった。
「こんなところでぼやぼやしてる場合じゃないだろ? 家に帰ろう」
ぼうっとしていたらしい。はっと気が付くと、俺は宏美に手を引かれずんずんと歩いていた。
いつの間にか俺達の住む住宅地と紫藤の住むマンションまでの道を分かつ十字路の前まで来ている。
大通りから外れた場所のため人通りは少なく、夕日が落ちてエメラルドグリーンの夜空が広がっている。一番星が見えた。
軽く後ろに視線を投げると、紫藤がズボンのポケットに両手を突っ込みながら信号待ちをしているところだった。
こちらの信号が青に変わり、戸惑いつつも歩く俺に、宏美が横断歩道のど真ん中でいきなり立ち止まって振り返った。
「圭祐、ちゃんと紫藤にさよなら言ったか?」
「え? いや……」
166 :『真実は俺の背中を見ている』 ◆9Yp0F0tOG6 :2008/03/29(土) 14:28:48.14 ID:8ki53ZQI0
少し驚いてしどろもどろになった俺に、宏美は大げさな溜め息をついた。
「だめじゃん久しぶりに会ったんだから、ほら」
そう言ってあばらの辺りをばんばん叩いてくる幼馴染に、俺は困惑する。
「い、いいよ別に……来週連中試合で会うから」
「そう? なーんだ。しどー! まーたなーっ!」
俺の肩越しに、宏美が紫藤に向かって手を振った。
なんだかおかしな感じだ。ほんの二年前までは見上げていた宏美が、今は俺の肩に届くか届かないかの位置にいる。
「またなー先輩。五重! 体調管理もスポーツマンの仕事だぞー」
後ろから紫藤の声が聞こえる。俺は紫藤に見える程度に軽く右手を振ると、そのまま振り返らずに歩きだした。
俺は知らない。俺の背中を見ながら、紫藤が悲しげに溜め息をついていたことを。
「紫藤は相変わらずだったなー」
感慨深げに頷きながら、宏美が表札の下に取り付けられた郵便ポストの中を覗きこんだ。
そこに入っていたいくつかの手紙を抜き取ると(半分がダイレクトメールだ)、一枚ずつ丹念に調べながら玄関に向かって歩き出す。
「相変わらず、悲しそうだ」
ぽつりと漏らした言葉に首を捻ってみせると、宏美はへへへと笑って家の中へ消えてしまった。
俺は俺で、釈然としないまま自分の家のドアノブに手をかけ、ただいまの聞こえない玄関へと入って行った。
家に帰ってまずすることは、洗濯物の取り込みだ。その後風呂を掃除して、リビングに軽く掃除機をかけて簡単な夕食を作る。
一連の動作は慣れたもので、八時過ぎにはテレビを見ながらぼうっとしていた。
「……俺最近ぼけっとし過ぎじゃないか?」
呑気な独り言はテレビの中の司会者の声に飲み込まれてしまう。何となく白けた俺はスイッチを切り、冷蔵庫から麦茶を取り出した。
蛍光灯を反射しながらコップの中に吸い込まれる液体を見ながら思うことは、やはり部活のことだった。
県のこと、紫藤のこと、宏美のこと。頭の中で螺旋に繋がった悩みが所在なさげに渦巻いている。
「うまくいかねえなあ……」
溜め息混じりに出た言葉が、更に自分を悩みの沼へと沈ませた。
独りでいると余計に気が滅入る。一度は切ったテレビの電源を再び入れた。
俺の母親は気難しい人間で、それが災いして俺が二歳になる頃に父親と離婚した。
以来女手一つで俺を育ててくれている。それに報いるためにも、俺は早く帰れた日には自主的に家事をこなすようにしていた。
そういえば、最近まともな会話をしていない。
167 :『真実は俺の背中を見ている』 ◆9Yp0F0tOG6 :2008/03/29(土) 14:35:42.36 ID:8ki53ZQI0
決して仲が悪いわけではない。けれど俺と母親の間には、埋めようのない小さな溝がいつまでもその存在を主張し続けていた。
そんなことを延々と考えていたせいで気が滅入ってしまった。
慣れたはずなのに、事あるごとに慣れたと言い聞かせてきたのに、いつまで経っても順応することが出来ない。
情けない。下らない。
すっかり意気消沈した俺は、簡単にシャワーを浴びると早々にベッドへ潜り込んだ。
頭痛はとっくに引いている。その代わりに顔が火照っていた。シャワーのせいだろうか?
いつまでも引かない熱を引きずったまま、俺は眠りについた。
朝。騒がしく携帯にセットしているアラームが鳴り響き、俺は目をこすりながら起き上った。
リビングの方から少々慌ただしい空気が伝わってくる。母親だ。いつ帰ってきたのかは知らないが、また顔を合わせることなく仕事に行くのだろう。
これで記録が最長の六日になった。数えても何の意味も持たない、つまらない習慣だ。
玄関の扉が騒々しく閉められたのを合図に、俺はずり落ちそうになるパジャマを引っ張りながら昨日着ていたシャツを手に部屋を出た。
俺の朝は洗濯から始まる。時刻はまだ六時半。白いカーテンの引かれたリビングを横切ると、爽やかな朝日が射し込んでいた。
乾燥機の横に置いてあった母親の洋服とシャツを隣の洗濯機に雑多に投げ込み、適当に洗剤を垂らす。
あとはスイッチを入れておまかせに設定すればいい。手慣れたものだ。いつでも独り暮らしを始められるだろう。現に、今もそのような生活なわけで。
ごうんごうんと規則正しく回る洗濯機の音を聞きながら大きく欠伸をすると、キッチンに行く。
テーブルの上には母親の作ったと思われる簡単な朝食が用意されていた。それに万札が何枚か。
そういえば今日から七月だ。カレンダーを確認しながら、俺はその正直言って多すぎる“小遣い”をズボンのポケットにねじ込んだ。
少し焦げたスクランブルエッグをのろのろと口に運んでいると、段々とぼやけた思考が明瞭になっていく。
そして、何となくいつもとは違う雰囲気を自分に感じた。
「あれ……」
フォークを握った自分の手。あれだけ外で走っておいて、不自然なほど色白だ。それに、ぷにぷにとして柔らかい。
「何だこれ……」フォークを置いて、じっと手を見る。
握って開いて、握って開いて。思ったように動く。間違いなく俺の手。それなのに、なぜこんなに小さくなっているんだ?
食べかけのスクランブルエッグへの意識は完全に薄れてしまった。その手を食い入るように見つめながら席を立つ。
「あ」
まただ。ズボンがずり落ちる。少し痩せたのだろうか。俺は紐をきつく縛りなおすために俯いた。すると、何やら視界に黒いものが。
「ひぁっ!」
情けない悲鳴が出た。まるで女のようだ。落ち着け。黒いものは単なる髪だ。少々長めの、女のような……。
「……え」
169 :『真実は俺の背中を見ている』 ◆9Yp0F0tOG6 :2008/03/29(土) 14:39:09.56 ID:8ki53ZQI0
瞬間、俺は猛烈な勢いで洗面所に走っていた。ぴったりだったはずのズボンの余った裾が滑る。長い髪が弾んだ。胸に違和感。
ああそんな、嘘だ。もしかして、もしかして……っ!
「女に……なってる、なんて……!」
そっと鏡に両手を添えてみる。鏡の中の少女も同じようにしてきた。他人と手を合わせているようなおかしな感じだ。
次に、恐る恐る顔に触れてみる。やはり同じように、向こう側の少女も同じ動作をする。
……すべすべだ。思春期の男子にはなかなか身近ではない感覚に、驚きよりも戸惑いが濃くなっていく。
髪の束を掴み、上に持ち上げる。ぱっと手を離すと、はらはらと絹糸のように重力に従って肩に落ちる。
「……マジかよ……」
鏡の中にいる少女は華奢だ。長い黒髪に、長い睫毛に縁取られた大きな二重の瞳。小さな鼻、薄い唇。
間違いなく、俺だ。昨日までの中肉中背の男はどこかに消え、人格はそのままに見た目だけがもろに変わってしまった。
宏美を見ながら多少の危機感を抱いてはいたものの、部活にかこつけて直視することを避けていた。
まさかこんなに早く女体化してしまうとは。
「彼女作っときゃ良かったかなぁ」
いや、そんな暇はどこにも無かったのだけれど、でも。
石のような後悔が背中にのしかかってくる。
そして回転の遅くなった頭でようやく思いついたのが、サッカーのことだった。
「嘘だろぉ……?」
自分でも驚くほどの小さく弱々しい声を上げながら頭を抱えてしまう。この体で、どうやってサッカーしろっていうんだ。
サッカーが出来ないなんて、もう生きている意味がない。今更ながら、宏美の苦しみがひしひしと伝わって来た。
「……そうだ」
宏美。今家には親がいなくて、遅刻するような時間でもなくて、宏美は女体化者で。
頼れるのは宏美しかいない。俺はパジャマのまま家を飛び出した。
最終更新:2008年09月11日 00:53