三十歳童貞平社員デブオタ、そしてVIPPER。そんな悪夢がすぐそこまで迫ってきている。
さすがにやばいだろうと思いながらも、年齢の増加を止める術もなく、昇進の希望もなく、童貞を卒業するあてもない。そしてVIPPERは不治の病だ。
童貞ぐらいだったら覚悟を決めてそういった商売の女性に任せればなんとかなるのかもしれないが、それも抵抗がある。
というか、そういうところに気兼ねなく行ける度胸があればもう少し昇進もできたんじゃなかろうか?
ま、いまさらそんなことを言っても仕方がないので、もう開き直ることにしようか……
聞くところによると、三十まで童貞を守り続けたら魔法使いになれるというではないか。
そうすれば、この世のあらゆるものを己の好きなように操ることができるという。
た だ し 脳 内 で ! !
むなしい……
しかしながら所詮最初から空しい世の中、脳内にくらい救いを求めてもいいじゃないか。だれが困る訳でもなし。
「そうだ、俺は明日生まれ変わるんだ!」
三十歳童貞の悪夢がくると考えるのはやめよう、何を考えたってどうせ明日はくる。
なら、せめて明るく過ごしたいじゃないか。
そう、俺は新しい自分になるんだ!
と思っていたのは昨日の話し。
今日はかつてないほどに快調な目覚めだ。なにやらいつもより体が軽い。
うまく言えないが、まるで今までの使い古した体を捨て、新しい体を手にいれたような感じだ。
「これが魔法使いになった俺か!」
気分がいいので、今日は会社をサボることにした。
では早速でんわでんわ、少しつらそうに声を作って、と――
――プルルルルルル プルル……
『(がちゃっ)はい、株式会社○×でございます』
主任の声だ。この人はいつもだれよりも早く出社する。それくらいの根性があれば俺も出世できただろうか?
「もしもし水戸ですけど。あの、すいません。本日体調を崩してしまいまして、お休みさせていただきます」
『水戸の…… え~と、お姉様ですか? わざわざすみません』
「え、何言ってるんですか主任。本人ですよ、私に姉はいませんよ」
『え、おまえ水戸か? 声が別人みたいだぞ』
「え~と、ちょっ、ちょ~っと喉にきてるかも知れません……」
『そうか、たいへんだなぁ。お大事にな』
「はい、ありがとうございます。それでは失礼します」
『はい失礼します(がちゃ)』
――ツー ツー ツー ツー ツー
なんかすんなり納得されてしまった
……え~と、え? 声?
そんなに声変かな? むしろ快調なくらいなんだけど。
「あー あー」
うん、喉に違和感はないけど……
あれ?
「あー あー ……え?」
…………え?
声…… 高い……?
「あーあー。本日は晴天なり。本日は晴天なり。Today, It's fine. It's fine day, Today.」
…………愕然
間違いない、声が変わっている。
「ちょwwww ねぇよwwww」
何を思ったのかはよく分からないが、おれは叫びながら鏡の前へ駆け出していた。
「…………」
……唖然
鏡の中に見知らぬ美女がいる。
切れ長でやや吊り上がった目尻。長い黒髪。いかにも冷静そうな美女が鏡の中で狼狽している。
泣きぼくろがポイントだな。って――
「ちょっと待て……」
三十になったら魔法使いになるんじゃないのか?
魔法使いになるって話しは聞いているが――
「こんな妖艶な美女になるなんて聞いてねぇ!」
あれだけついていた脂肪はどこへ行った。質量は保存されるんじゃないのか?
この日からこの国に起こった一大事に今はまだ気付ける訳もなく、俺は俺のことで手一杯で……
「壁が…… 白いな……」
ありえないことが起こると、人間ってどうでもいいことを気にするよね。
しかしなんで俺は入院させられているんだろう。
しかも精神科の隔離病棟に……
「看護師さん。一応聞いておきたいんですが……」
苛立ちとあきれとあきらめと退屈が混ぜ合わさった声で、とりあえず手近な人に話しかけてみた。
「はい、なんでしょう?」
白衣の天使さまだ。この人も仕事でやってるんだし、いろいろと大変なんだろうけど……
「俺が言っていることが信じ難いことだってのは理解してます。ですが、俺って隔離されるほど危険ですか?」
「え~とですね。この病棟にいらっしゃる方は治療が必要というだけで、なにも危険だからという訳では……」
この人を困らせるのが本位だという訳ではないからこの辺でやめておこうか。伝えることは伝えた。
人生、あきらめが肝心だ。
経緯はこうだ。
朝起きたら女に変わっていたなど、誰に相談したらいいんだろうか。普通は医者ぐらいしか考えられないのではないだろうか?
だから俺もとりあえず医者に見せることにした。
では何科がいいのか? 内科? 婦人科?
わからないので、できるだけ多くの科が集まっている総合病院を目指した。
保険証に書かれた俺の下の名前は和泉(いずみ)。女っぽい名前だから受付は疑問に感じなかったようで、すんなりと内科診療室にたどり着いた。
だが医者の返事は――
「からかってるんですか?」
そう言いたい気持ちはわかる、痛いほどわかるけど
「俺だって冗談であってほしいですよ!」
冗談だったらどんなによかったか。
その後も必死に説得を続ける俺を医者は完全にシカトし、面倒臭そうな顔で別の職員に連絡をいれ、俺は隔離病棟行きとなった。
人権問題だろ、これ。
とにかく、こんなところに入れられたらもうどうしようもない。
ここは、いろいろと問題行動を起こすような人達を安全に隔離できることが求められる場だ。簡単に出られるような造りはしていないはず。
看護師の人は気まずそうな顔をしてどこかへ行ってしまった。
あとは精神科医の面談を待つしかないな。
心のプロなら、おかしくなって変なことを言っている訳じゃないんだってことぐらいはわかってくれるはずだ。
きっと……
たぶん……
……だめだったらどうしよう
「ママ?」
急に横から話しかけられた。
「は?」
十六歳くらいの女の子だ。
「ママ、ねぇママ、りっちゃんね、ちゃんといい子にしてるよ? りっちゃんいつ帰れるの?」
「え、ええと……」
外見からするとあまりに幼い言葉遣いに思わず面食らってしまった。
それからしばらくそのりっちゃんとやらから質問攻めにあった。
あいまいに答えながら困惑が頂点に達するころになって、ようやく通りがかった看護師さんに助けられた。
鏑木律子。外見及び実年齢は十六歳。八歳のころ両親との旅行中に事故にあい、幸か不幸かたった一人だけ生還した。
それ以後、事故の恐怖と両親を失った痛みに耐えられなかった彼女の心は、時間を止めたままだという。
「資産家の叔父夫婦に引き取られて入院費はそこから出ているんだけど、一度も面会に来やしないわ。家族の愛情が必要なのに……」
と言うのが、通りがかった看護師さんの弁だ。
それでも、お金を出す人がいるだけマシなのだという。
「なんて、ひどい……」
俺なんて三十歳童貞平社員デブオタVIPPERってだけでこの世の終わりみたいに思っていたのに、その程度じゃぬるすぎた。
「どうしたのママ? 痛いの? どこか痛いの?」
りっちゃんが心配顔ですがりついてくる。あぁ、優しい子なんだな。
少しはママっぽくしてあげた方がいいのかな? 愛情が必要だって言うし……
「だいじょうぶ、何ともないよ。ちょっと考え事してただけ。りっちゃんは優しい良い子だねぇ」
中身はまだ母親に甘えたい盛りの八歳の女の子だ。少しだけなら、代わりになってあげてもいいよね?
情が移ってしまった。
りっちゃんは、まるで本当の母親に甘える子供のように手放しで俺に寄りかかってくる。
「……母性本能?」
いや、ちょっと待とうぜ三十歳童貞。父性に目覚める前にそんなものに目覚めている場合じゃないだろ。
いやまぁ、今は女の体な訳で、そこを見れば母性で正しいかもしれないけど……
しかし甘えてくる子はかわいい。これはもう動かしようのない永遠の心理だと思う。これはもう目覚めちゃっても仕方がないというものだろう?
そう、人間の本能だ! 自然の摂理だ! 母性本能に目覚めるように人間を造った何かが悪い!
「ママー。見て見て♪」
取り留めもなく考え事をしていたら、りっちゃんが何かを手渡してきた。 折り紙で鶴を折ったらしい。なかなかきれいにできている。
「きれいにできたねぇ。上手上手」
頭をなでてやる。うれしそうだ。かわいいなぁもう。
しかしこんなかわいい十六歳の女の子に抱き着かれたら、もっといろんな感情が沸き起こってきそうなもんだが。なんかもう、ただただかわいい。
これはあれか。母性が性欲を凌駕したって事か?
あるいは、女の体になったからこっち方面に欲情しなくなったって事だろうか?
早くも男の自分を忘れかけてるのか俺は?
そんな穏やかな時間に浸り切っていたある日、変化は突然やってきた。
「水戸さんは本日で退院です」
診察室に連れてこられて一言目がこれだ。
「えっと、どういうことです?」
俺は、自分が男だったという主張を変える事なく続けている。現在の常識でそれが認められるとも思えない。それがなぜ突然?
「再三問診を繰り返しました結果、あなたが『異常』と呼ばれるような状態にないと判断しました」
あいかわらずにこやかな顔をしながら持って回った言い方をする医者だ。
「どういうことかと聞いてるんです。自分でも『自分は男だった』と主張する人間が受け入れられないことぐらい理解してます。それがなぜ――」
「やはりあなたは正常だ。客観的に物事を判断できている」
このやろう、にこやかすぎてうさん臭い。
「答えになってない!」
沈黙…… それから医者は、フッ小さく笑うと急に真顔になり話を続けた。
「某月某日。あなたが変わる前の姿だと主張している男性であるところの水戸和泉氏の誕生日」
立ち上がってゆっくりと部屋を歩きながら語り出した。芝居がかってきやがった。
「全国の内科、婦人科および精神科に、同じ症状を訴える人物が殺到した。曰く――
『朝目が覚めると、女になっていた』」
曰くなんて単語を舞台以外で話す奴を初めて見た。
「どの医者も、最初はただの妄想だと思った。しかしあるとき、ある精神科医が事態の異常性に気づき始めた」
クルリと振り返り、なにやら芝居がかったポーズを取りながらなおも話し続ける。
「医者同士の噂話からその精神科医は、全く同じ話しをする患者が複数いることに気づいたのだ」
部屋の反対側でこちらを向いたそいつは、なおも大降りな演技をしながら続ける。
「それからその精神科医の行動は早かった。全国各地に散らばる患者を直接たずね歩き、問診や周辺調査を繰り返した」
なんでこいつはこんなに大仰なポーズを取るのか。
「その結果判明したことは二つ。
一つは、どの患者の話しにも性別に関すること以外に矛盾はないということ
一つは、元の人間だとする人物の目撃例がその日以降パタリと途絶えること
これはもう、人生の途中で性別が変わる現象が実在すると考えた方が自然だ」
そこまで語りきりポーズを止めてしばらく沈黙した後、急に柔和な表情でこちらに向き直った。
「というわけで、退院です」
「……はぁ、そっすか」
何だこの落差。思わず呆気に取られた。外にどう答えろと……
部屋に戻る足取りが重い。やっとここから出られるというのに……
退院。そう、俺はもうすぐこの病院を去る。
ということは――
「ママー♪」
つまり、りっちゃんの前からいなくなるということ……
「どうしたの、ママ?」
い、言えねぇー……
「な、なんでもないよ~。心配してくれるんだ、ありがとー」
頭を抱き締めてみる。
「むぅ~。ママ、なんかへんだよ?」
む、いつもならごまかされてくれるのに不満顔だ。思いの外鋭いのかもしれない。
と、ここで――
「あら水戸さん。退院ですってねぇ」
花を換えに訪れたらしい看護師さんに声をかけられた。空気読め。
「ママ?」
案の定りっちゃんが反応した。
「りっちゃんは~?」
「えぇ~っと……」
「りっちゃんもたいいんする~。りっちゃんもママと帰るの~」
だだこねはじめた。えぇと、こういう時は…… プロに任せる!
「た、退院のことはママにはわかんないなぁ~…… 看護師さんパス!」
「えー!」
「がんばれ関係者!」
「わたしもわかんないもん。わたしお医者さんじゃないもん!」
「“もん”じゃねーよ!」
急に幼児化するなよ看護師。
「ママ…… ママ行っちゃうの? りっちゃんのこと置いて行っちゃうの?」
「そんなことないそんなことない。もう~りっちゃん泣かないでよ~」
「またりっちゃんのこと置いて行っちゃうんだ…… りっちゃんいらない子なんだ……」
「ちがう……」
――ズキッ!
あれ、胸に痛みが……
――「りっちゃんいらない子なんだ……」「いらない子なんだ……」「いらない子――」
りっちゃんの言った何気ない一言が、胸の中でリフレインしている
あぁ、りっちゃんが悲しんでいる、りっちゃんが苦しんでいる、りっちゃんが、りっちゃんが――
ム ネ ガ―― イ タ イ――
「ママ、りっちゃんのことなんかいらな――」
「ちがう!!」
気づけば大声を出していた。
りっちゃんもびっくりしておもわず言葉を止めている。
「りっちゃんはいらない子なんかじゃない!! いらない子なんかじゃないから!」
俺はりっちゃんを力一杯抱き締めずにはいられなかった。
「マ、ママ。くるしいよ……」
「だから…… そんな悲しいこと言っちゃだめだ……」
涙が止まらない…… 言葉が止まらない……
「迎えにくるから、ママが絶対に迎えにくるから!」
「ママ……」
「だから、待ってて。信じて待ってて……」
「ママ…… うん、りっちゃん待ってる。待ってるから、ちゃんと迎えにきてね。ぜったいだからね」
りっちゃんに幸せをあげたい。俺の人生のすべてをかけて、りっちゃんに愛情を注ぎ込みたい。
今、心の底からそう思った。
りっちゃんを、うちの子にする。
どういう手続きを取ったらいいのかわからないし、そもそも今までイイカゲンに生きてきた俺なんか人に幸せをあげられる能力があるかどうかもわからない。
でも、俺はやる。どんな困難があっても。
たんなる独りよがりかもしれない。でも、一度も顔を見せない叔父夫婦よりはいいよね?
会社に席がない件。
もういいよこの野郎……
最近、男が女に変わるという現象が確認されはじめて来た。何を隠そう俺もその一人だ。
性別が変わったからといって日常は待ってくれない。変わった人間だって今日を生きなければならない。
しかし、現行の法律は『肉体の性別が突如として変化する』という現象には対応していない。
そこで、特別措置なるものがとられることになった。
性別が変わったと主張する人間の周囲を調査し、ある程度信用できると判断したら、監視をつけて一定期間生活をする。
その生活で戸籍を必要とする手続きが発生した場合は、女体化特別対策委員会経由で処理されることになる。
戸籍関係が今後どうなるかはまだ未定。女体化特別対策委員会が話し合って決めるらしい。
この対策委員会、なんか首相主導で内閣府の中に作っちゃったらしい。なんか大事になってるみたいだ。
ちなみに女体化特別対策委員会に使われている『女体化』の文字だけど、これは「人の手を介さず、後天的に、“体の”性別が男性から女性に変化する」ことだけを表すために慎重に選ばれた単語なんだそうだ。
で、だ。会社に円滑に復帰するために、対策委員の人に説明に走ってもらったんだけど、その結果どうなったかというと……
退職金が出た。しかも色つき。
言わなきゃ出さなかったっぽいな。しかもだいぶ色をつけてあるって事は問題にせずにスムーズにやめてくれって事なんだろうな。
コノヤロ、訴えちゃおうかなホントに……
まあいいさ。あんな会社に未練なんか無い。
つか、性別が変わった姿で同じ顔で働くってのも、正直きついものがあるし……
でも、りっちゃんを迎え入れるためには収入が必要なのも事実――
「就職活動か…… めんどいなぁ……」
そんなことも言ってられない、りっちゃんを待たせちゃ駄目だ。
「できれば、家にいてもできる仕事がいいな」
せっかく子供にしたのにりっちゃんをかまってあげられなくなったら意味ないし。
何があるだろう?
「在宅プログラマー」
プログラミングのスキルがねぇ
「キーパンチャー」
う~む、タイピングの速度が足りてない。
「ライター」
文章力だけじゃなくて顔も広くなきゃいけないんだろう? 業界に知り合いもいないし、社交性も微妙だし……
「習い事の先生」
いや、教える資格とか何ももってないし……
……なにができるんだよ、俺。
やばい、何か本気で技術身につけておくんだった。こりゃいよいよ外に働きに出る必要があるな。
今だって待ってくれてるんだ。仕事の間の少しぐらいりっちゃんも待ってくれるだろう。できるだけ早く帰れそうなとことを探そう。
――数日後
全滅。面接にすらたどりつけねぇ……
買ったばかりの女物のリクルートスーツも、履歴書の写真撮影にしか使ってない。
30代子持ち毒女、スキルなし。しかも女体化などというなにやら前代未聞の病にかかっているとなると、向こうもつらいらしい……
こうやって、公園でブランコに乗ってたそがれていると、リストラされた中年サラリーマンみたいな気分だ……
っていうか、実際限りなくそれに近いしなぁ……
「はぁ~~……」
こうなったら、風俗にでも手を出すか? 無駄に容姿だけは良くなったし、かなり行けるだろう。
いやいやいやいや、それはだめだ。りっちゃんが悲しむ。
「はぁ~、現実って厳しいなぁ……」
りっちゃん、ママあしたは頑張るからね。あしたこそ見つけてみせるからね。そしたら、迎えに行くからね。
「あぁ、そうだ。りっちゃんに面会にいかなきゃ。りっちゃんがさみしがるといけない」
「はぁ~……」
いつものように公園でたそがれる。それがパターンになってしまった。
今日も仕事は見つからない。
「現実つれぇ~……」
現実とやらのあまりの厳しさに折れてしまいそうだ。
この勝ち目の見えない戦いにいままでなんとか挑んでこれたのは、りっちゃんの存在があったからだ。
「りっちゃんに幸せをあげるんだ。つつましくても、あったかい家庭をあげるんだ」
そのために頑張ってきたんだ。ここで折れる訳には行かない!
「さて、いかなきゃ」
くじけそうで力が抜ける足に無理やり力を込めて立ち上がる。帰って電話の一本くらいならかける時間もあるだろう。
――あれ?
ふと、立ち上がったベンチの横に設置されたゴミ箱に目が行く。
「新聞だ……」
満杯のゴミ箱の上にそっと置き忘れられたかのように捨てられている新聞。なぜか気になる。
「新聞なんて、もうどれくらい読んでないんだろう」
社会人になって上京したてのころ、まだやる気に満ちあふれていた俺は、社会人なら新聞くらい読まなきゃと思って最初に来た勧誘員と契約したんだった。
「あれからすぐに読まなくなって、いつの間にかただ惰性でとり続けるようになったんだよなぁ」
なつかしさにかまけて、ついつい新聞に手を伸ばす。
あ、女体化の記事が乗ってる、しばらくはこのネタで騒ぐんだろうなぁ。
「あれ、そう言えば新聞にも求人欄があるよな」
そこに何かがあるようなきがして、あわててページをめくる。
……あった
「……な、なんだ、この条件。まるっきり俺の事じゃないか?」
こんな条件だ――
求む 喫茶店雇われ店主
三十代前半の健康な女性
住み込みで働ける方限定
家族同居可
建物・運営費こちら持ち
社保完
俺、三十代前半、っていうか三十。同居するりっちゃんがいて、住む場所で働けたらモアベター。
そして元手なし。
間違いない、俺のことだ。なんかちょっとピンポイントすぎてて怖い。大丈夫なんだろうなぁ……
住み込みって事は、普通は家賃もかからないよな。これ、マジだったら都合良すぎる……
どうする、だまされたつもりで電話してみるか? してみるのか?
してみた。
そうしたらいきなり面接になった。履歴書は大量に用意してあるからなんとかなった。
場所は件の喫茶店。内装したての匂いがする。
「なるほど。確かに今は30代前半の女性だ」
面接相手の男が性格悪そう……
「女体化などという正体不明の病気にかかっている時点で健康かは微妙な線だが、まあいいだろう」
目つき悪いよ。でもなかなかキレそうでもある。仕事は出来ても嫌われるタイプって感じかな。
雰囲気としてはインテリや○ざってとこか? 本当にそっち系だったらどうしよう……
「ふむ、社会人経験があるようだな。なら仕事上の一般常識はあると判断するが、無いようなら事前に言ってくれ」
「はぁ……」
そんなこといわれて「私常識ありません」とは言えないだろう、常識的に考えて……
「目がきついな。だが容姿のレベルとしては十分だろう」
「あの、容姿が関係あるんですか?」
「店の雰囲気が悪ければリピーターなどつかない。店員も当然ながら雰囲気の一部だ。俺が店員やっている店に来たいと思うか?」
「はぁ……」
自覚があるならもうちょっとなんとかしようよ……
「きさまも元男なら、店員目当てで店に通う男の気持ちも理解できるだろうが」
「まぁ、たしかに……」
「もっと柔らかい雰囲気の店主がいる店を想定していたが、まぁこういう線もありだろう」
「えっと、どういう線でしょうか」
「Mっ気のある男が来そうな線だな」
なんともハッキリと言う人だ。たしかに、鏡で見た感じではそんな雰囲気だ。内容が伴っているかは別として……
伴わなくていいけど……
「まぁいいだろう。何か質問はあるか」
最後まで横柄な人だな……
ひとつ、はっきりとさせておかないといけない部分があるな。言いにくいが……
「失礼ですが…… どういった方なのか伺っても…… よろしいでしょうか」
言いづれぇ~。でも第一印象の通り真っ当とは言えない商売の人だったりすると、りっちゃんに顔向けができない。
「ふん、生意気に雇い主の背景が気になるか。まぁ社会人として正常な判断だろう」
怒ってるんだか怒ってないんだかわからない返答だな。
「貴様の職歴なら、これを見せれば十分だろう」
そういうと、懐から何やらカードを取り出して投げ放って来た。
「うわっ、見覚えのあり過ぎる社員証……」
某一流企業の社員証兼通行証になっている非接触ICカードだ。しかも役職つき。憎まれっ子世にはばかり放題だなこんにゃろ。
俺がいた会社の親会社で、よくお使いに行かされたものだ。受付で仮通行証が渡されるんだけど、デザインがこれと同じなんだよね。
でも俺のいた会社なんてグループの枝葉の先の先で、文字どおり枝葉末節扱いなのに、こいつよく覚えてるな。
「納得したか?」
「は、はい、納得しました」
人格には問題があるが、背景には問題は無さそうだ。
「ならば説明に入る――」
店の形態はこの憎まれっ子をオーナーとした小さな会社で、さっき見せた社員証の会社とは関係ない。副業らしい。
福利厚生等の条件も小さな会社向けにかなり考えて組まれている。こいつ、けっこうできるな……
住宅手当も交通費もでないけど、始めから一切かからないんである意味全額支給と同じだ。家賃は取らないらしい。これは都合いいな。
「経理関係も俺がやる。貴様はただコーヒーをいれて軽食をつくっていればそれでいい」
はっ! け、軽食……
「食品衛生責任者の資格はとってもらうが、これは講座を受講するだけで…… おい、なんて顔をしている」
「は、ははは、はははははは……」
おもわず乾いた笑いが漏れる。どうしよう、料理さっぱりだ。リンゴの皮もろくに剥けない……
「おい、まさか料理ができないとか言わないだろうな」
……するどい
「本格的な物を作れと言っている訳じゃない、リンゴの皮がむける程度でなんとかなるようなものを……」
……沈黙
まいった。本当にまいった。出来ないんだ、これが……
「き、貴様は何を考えて喫茶店の面接に来たのだ!」
まずい、これはまずい…… 今までの就活の経験から考えるとこんな好条件はない。というか、今後面接までいけるところがあるかどうかすら疑問だ……
「あぁ! もう話にならん! この話は中止d――」
「待って! 待ってください!」
まずい、食らいつかないとまずい。俺はりっちゃんのそばで暮らさなければならないんだから!
「覚えますから! すぐに覚えますから!」
「ふん! リンゴの皮むきすらできん貴様になにがd――」
「これしかないんです! ここで見放されたらもう……」
正直言ってこの憎まれっ子に頭を下げるのはむかつくが、だがそんな状況じゃない。
たのむから! なんでもやるから! おねがいだから……
「……ふん! せっぱ詰まってるようだな。ならば必死になれ、猶予は半月しかやらん!」
と言われ、なにやら投げつけられた。
「え?」
え? えと? ……鍵束?
「この建物の鍵だ。ガス、水道、電気は今日から使えるようになっている」
「え? え?」
「半月後にまたくる。その時にまともなものが出せないようならもう後はない。覚悟しておけ」
「あ、あ…… ありがとうございます!」
「食材は明日届く、足りないようならレジ横の端末から注文しろ。メニューも貴様が考えて用意しておけ!」
その日から、俺の特訓が始まった。
待っててねりっちゃん。ママ頑張ってるからね。
あの憎まれっ子世にはばかりまくっているオーナーの言ったとおり、翌日には食材が届いた。
「え~、耳切り落とし済みの食パンにレタス、チーズ、牛乳、コーヒー豆、じゃがいも、ブロッコリー、マカロニ……」
おや?
「『新米奥様でもバッチリ簡単レシピ』、『豪快・男の料理』、『簡単♪気軽にもう一品』、『小鉢の料理』、『3分でできる一品料理』、えとせとらえとせとら……」
お~お~、料理の本が一緒に届いてる。気が行き届いているじゃない。でも……
「二つ目ちょっと待て。男の料理って……」
しかも全部ダッチオーブンを使ったメニューだってさ。キッチンの備品にそんなものはないよ……
しかし、何冊あるんだこれ。料理本たのみすぎだろ!
まぁ、それはそれとして、だ。期限は半月
「みとめさせてやる。文句なしで認めさせてやる! 待っててね、りっちゃん!」
まずはコーヒーのいれ方。
「ん~、豆がたくさんあるね。キリマンジャロ、ブルーマウンテン、モカマタリ……」
コーヒーなんていままで何も考えずに飲んでたからなぁ。こだわればいろいろとあるんだろうねぇ。
「あ、そうだ。さっきの本の中にたしか――」
ごそごそ、と。おー、あったあった。
「『いつものコーヒーにもう一手間』。これだ」
味と香りを引き出すためのちょっとした工夫がたくさんかかれているらしい。
それから道具はどこかな~? っと。ん? これか?
「ん~、ネルだね」
紙フィルターでもなければサイフォンも使わないんだな。保温器も用意されてないし、お湯沸かしてその場でいれるのか。
で、工夫して何パターンかいれて見た。
「ん~、何か違うような、違わないような……」
しまった。あまり味わってコーヒーを飲んだ経験がないから、細かい味の違いがよく分からない。“舌が育ってない”ってやつだ。
「まいったねこれは。どうしようか……」
――からんころんからん♪
あれ? 誰か来たよ?
「すいませ~ん、まだオープンしてないんですよ…… ってあんたは!」
「ちょっとおじゃましますよ」
「なんですか突然」
あの妙に芝居がかった仕草の精神科医だ。俺が強制入院させられてたときの担当医で、りっちゃんの担当でもある。ってもしや――
「りっちゃんに何かあったんですか!?」
「いえいえ、そんな緊急事態なら電話で呼び出します。今日はあなた自身に用事があって参りました」
あいかわらずむやみに和やかな笑顔が逆にうさんくさい男だ。
「実は、女体化について少しだけ情報があります」
「え? どんな」
まさか、命に関わる病気だったりしないだろうな。やめてくれよ、りっちゃんと暮らさなきゃなんないのに。
「いろいろと調べました結果。現在女体化が発覚している人たちの年齢は、あなたを除いてすべて15歳です」
「……は?」
「現在のところ、あなただけが例外なんですよ」
「……えっと、どういう事です?」
「さぁ? 今のところわかったことはこれだけです。これがどのような意味を持つのかまではさっぱりです」
「それ… だけ、ですか? なにか命に関わるようなことがあったりとか――」
「いまのところそのような情報は入ってきておりません」
べつに、命には別状がない……
「なんだそんなことですか」
「おや、そんなこととはまた随分な物言いで」
「今忙しいんで、そんなことに関わっている暇ないんですよね~」
今はとりあえず、目の前のコーヒーをどうするかが重大で……
「あ、そうだ先生。あなたコーヒーはよく飲む方ですか?」
「え? えぇ、一時期は凝ったこともありますが、それがなにか?」
「あらそれは好都合」
数日後。
「サンドイッチ、ペペロンチーノ、パウンドケーキ、スコーン……」
簡単なものならいくつか作れるようになった。焼き菓子もハンドミキサーとフードプロセッサに頼り切ってみると案外と楽だ。
コーヒーは某精神科医の舌を信じる事にして、紅茶も本の内容とタイマーに頼り切ることでなんとかした。
卵料理だってあまり焦がさずに扱えるようになった。
「いや~、執念のなせる技だね」
さて、残りの日数はそれほど多くない。この時間を使って、少し手の込んだものを一品覚えたいな。
ぎりぎり合格なんかじゃない、唸らせてやれるだけの一品を!
ん~、なにがいいか……
――グラタン
え?
背後から声がしたような気がして思わず振り返る。もちろん誰もいるわけがない。
「外の話し声でも聞こえたのかな?」
しかしグラタン。じつは前々からここのキッチンについてるオーブンがかなり高性能である事が気になってたんだよね。
で、グラタンと言えばもちろんオーブン料理だ。
うん、なんか考えてるとグラタンって結構いいような気がしてきた。
いや、グラタンじゃなきゃいけないような気がしてきた。
よし、グラタンにしよう。グラタンに決定。俺はやるよグランディスさん!
「あぁ、ここでグランディスさん呼んだら全部激辛料理になってしまう」
え? わかんないって? 30歳くらいだと丁度“世代”なんだよ。
「…………」
そして、目の前にはいい色に焼き上がったグラタンがある。命名カトリーヌ(嘘だけど)。
グラタンを作るにあたって、いきなり困難に直面した。軽食ばかりの料理本の中に、オーブンを使った料理は焼き菓子しかのっていなかったのだ。
唯一あったのが『豪快・男の料理』だけど、これはダッチオーブン専門の本だ。ダッチオーブンとオーブンは違う。
しょうがないから頭の中で普通のオーブン用に考え直し、苦労するだろうなと思いながら挑戦。その結果――
「……できちゃったよ」
案外あっさりとできてしまってちょっと驚いてる。
それはちょっと不思議な体験だった。まるで以前からよく作っている料理であるかのように、スムーズに手が動いたのだ。もちろん作った経験はない。
まるで誰かに導かれたかのような、そんな気分だった。
ちょっと食べてみる。
「……うまい」
これ作ったの、俺? 本当に俺?
なんというか、あったかい味だ。
「りっちゃんに食べさせてあげたいな……」
そう思わずにはいられない、優しい味に仕上がった。
そして、約束の半月が過ぎ――
「どうでしょう、オーナー」
オーナーとの勝負の日。
勝負のメニューはグラタンとコーヒー。グラタンはもう俺の得意料理と言えるまでになった。
「……ふん、やるじゃないか」
うわ、にやりって笑われた。いま『国一つ滅ぼす案を考えつきました』ってくらい怪しい顔で笑われた。こぇ~……
でもとりあえずは認められたっぽい? のか?
「よし、動くなよ」
「え?」
なんか、メガネかけさせられた。
「え? え?」
「伊達だ、気にするな。まだ動くな!」
素早く背後に回り込むと、髪に素早く櫛を通して後頭部でパチリと…… え? バレッタかなにか?
「ふむ、こんなものだろう」
「え? え?」
そして、手鏡を見せつけられた。
「うわっ! きつっ!」
元来きつめな目に目尻のつり上がったメガネ、そしてきつく結い上げられた髪。
「どこのキャリアウーマンですかこれは!」
「貴様みたいなきつい目をしたヤツにはこれくらいで丁度いいんだ」
「それにしてもこんな……」
「ちなみに、それらは服務規程に盛り込んだ。規定が守れないようならやめてもらう」
「うわっ! ひどっ! ……って、え?」
ってことは?
「ということは、料理の出来は合格って事ですか?」
「そういうことになるな」
「え…… うわ、やった、やったよりっちゃん! ママやったよ~! うわぁ~~~!!」
「えぇい、泣くな鬱陶しい!」
とにかくこれで、りっちゃんをお迎えする日が一歩近づいた。もうちょっとだからね。まっててねりっちゃん。
後日。近所にやたらノラネコが増えた件。
いや、だってさ、失敗した食材もったいないじゃん。ねぇ?
「髪型が決まらない……」
服務規定に書き加えられたというキッチキチの結い上げ髪ができない。なんかゆるい。
人にされた髪形が自分でできないことってあるよね。
くぅ、あのオーナーはなんであの悪人面であんな器用なんだ。顔と器用さは関係ないけど……
とにもかくにもなんとか態勢を整えて朝の準備だ。一日も早く店を軌道に乗せて、りっちゃんを迎えに行かないと!
地を出さないように敬語のみで行くことにしよう、男言葉とか女言葉とか気にしなくていいし。あと一人称も“私”に換えよう。
「がんばるぞー! おーっ!!」
「コーヒー豆そろってますよ~」
…………
「グラタンおいしいですよ~」
…………
「……うぅ、ひまだ」
客が来ない……
「お店ぴっかぴかですよ~」
暇だからずっと掃除してるし、そもそも建物自体ができたばかりだしあたりまえだ。
閑古鳥の鳴く店内に、俺の…… もとい、私の台詞がむなしく響く。
「かっこ~、かっこ~」
閑古鳥すら居ないので自分で鳴いてみた。やる気が空回りしまくった今の精神状態はどこかおかしい、自分でもわかる。
ところで閑古鳥って、托卵先が見つからなかったらどうするんだろう。自分で子育てするのかな?
――からんころんからん♪
なんてくだらないことを考えてたら誰か来た。
「いらっしゃいませ」
「ちょっとおじゃましますよ」
あ、例の笑顔がうさんくさい精神科医だ。
「……あなた、暇なんですか?」
「またまた、キツイ言い方をなさる」
「キツ目に接するのがオーナーのご意向でして」
というか、いまひとつうさん臭いと思っていると、つい自然と、ねぇ?
「暇だなんてとんでもない。忙しい合間を縫って開店のお祝いに駆けつけた次第ですよ」
「それはそれは、わざわざ御苦労様です」
「どうです、開店初日のご様子は」
「ご覧の通り、閑古鳥が鳴いてます。困ったことにあなたが記念すべき初めてのお客様となってしまいました」
「いや、そんなに残念そうにおっしゃらずとも……」
そんなこんなで、その精神科医はコーヒーだけ飲んで足早に去っていった。
以後もそんな調子で、たまに人が入ってはコーヒーか紅茶を一杯飲んで、たまにスコーンも頼んで、すぐに去っていく。
記念すべき開店初日は空振りに終わった……
レジ横の端末がなかなか優秀で、メニューもこの端末を使って作ることができるようになっている。
それぞれのメニュー毎に材料のおおよその分量を登録するとだいたいの原価を計算してくれて、そのうえで単価を決めたりもできる。
会計が済んだ商品のデータがレジから自動的に入って来て、売上の履歴を眺めることができる。
廃棄するものもインプットするようになっていて、履歴を眺めると焼いたまま余ってしまった焼き菓子とか、そもそも焼かれなかった焼き菓子のタネとか、期限切れの野菜とかその他なまものとか……
「うわぁ…… 明らかに廃棄の方が多い……」
へこむなぁ……
開店してからしばらく立つけど、お客さんの増え具合はスローペースで……
今だってお客さんは一人しかいない……
あれ? そう言えばこの人――
「あなた、前にも来てくださいましたよね?」
記憶の片隅にこの人の顔が引っ掛かっていたような気がして、思わず声をかけた。
「え、ええ。コーヒーが気に入ったもので」
何やら気恥ずかしそうに頭をかいている。
「ありがとうございます」
そう言えばこの人、前に来た時も今日みたいに平日の真っ昼間じゃなかったっけ?
見た感じ20台後半くらいの青年で、学生と言うにはやや年がいっているような気も……
ニートか?
ま、お金払ってくれるなら何だっていい。
――チンッ!
お、オーブンに入れておいたスコーンが焼き上がったみたいだ。
カウンターキッチンの下に作り付けられている、成鳥の七面鳥でも楽に丸焼きにできそうなサイズのオーブン。喫茶店にこんな大サイズいらない気がするのだけれど……
ちなみにカウンターの裏側だからお客さんからは見えない。
「あ、いいにおいですね。何か焼いたんですか?」
お、話しかけてきた。一度会話が成立すると急に気安くなる人っているよね。客商売的にはありがたい相手かもしれない。
「えぇ、この時間にスコーンを焼くことにしているんですよ。ですから、この時間にいらっしゃると焼きたてのスコーンをお召し上がりになれますよ」
お客さんが少ないんで余るんですけどね……
オーブンをあけて、と―― うん、いい色に焼けてる。
「おいしそうですねぇ」
「一皿に2つで300円になります」
「スコーンというと紅茶という気がしますよね~」
「そんなことはないと思いますが……」
……むぅ、買ってくれない。
しかたないのでスコーンをストッカーに並べる。うぅ~、いい色に焼けてるのに……
焼きたてなのに……
絶対おいしいのに……
これがあまって廃棄なんてもったいない…… うぅ……
「ちょっと食べてみませんか!」
「え、いや、でも……」
「試食だと思ってください。どうせ余って廃棄される運命ですし……」
問答無用で目の前に一皿置く。
「そ、そうですか。それじゃぁ」
しぶしぶ受け取った風を装ってるけど顔がにやけてるんだよね。そりゃ、この焼きたてのにおいに惹かれなければどこかおかしいってもんでしょう。
サクリと一かじり。いま口の中には焼きたての香りが広がっているはずだ。
「あ、おいしいんですねスコーンって。コーヒーともあいそうですし」
はじめて食ったみたいな感想だなぁ。スコーン食ったことないのかな?
「コーヒー専門店のメニューにもよく載っていますし、コーヒーとの相性が悪いということはないと思いますよ?」
「へぇ~」
機嫌良さそうに食べてるなぁ。そもそも焼き上がったばかりの焼き菓子がおいしくない訳がないからね。
「あ、次回からは有料ですからね」
「えぇ~」
ちなみにこの青年、いままではコーヒーだけだったけど、今後スコーンも一緒に頼むようになった。
こんなふうに、常連ができてないこともないんだけど――
「申し訳ありません!」
月例報告。月一で来るオーナーにお店の状況を報告する日。
片手で数えられる程度の常連がついたところで経営状態がよくなる訳でもなく……
「すいません、赤…… 出ました……」
「ふむ……」
報告書を見ながら苦い顔をしているオーナー
うわぁぁぁ…… 沈黙が痛い……
「厳しいな……」
いやぁぁぁぁ!! なんかつぶやいた! なんかつぶやいたよ!
「すいませんごめんなさい申し訳ありません! 次は頑張ります! 頑張りますから! だから辞めさせないで――」
「アホか貴様は」
うっ! 一言で返された……
「最初から黒字を出せるなんて甘い見通しで俺が事業を始めるとでも思っているのか、バカにするな!」
「……は?」
えっと、どういうこと?
「3ヶ月程度の赤字は最初から覚悟の上だ、それくらいの資金は用意してある! バカなこと言っている暇があったら次の策でも考えていろ!」
「ということは、辞めなくても――」
「あたりまえだ馬鹿者! 素人のくせに最初から軌道に乗せられるつもりで居たのか図々しい」
うわ、図々しいとまで言われた。
「ただし!」
え、まだ何かあるの!
「貴様は最初に半月無駄遣いしているのだ。だから赤字はもう一ヶ月までしか赦さん、三ヶ月連続で赤字を出したらその時点で辞めてもらう!」
「はい! 頑張ります!」
さぁ、ママがんばるよりっちゃん!
まずは如何にして黒字を出すか。
この店の売りはなんと言っても、俺の… じゃない、私の得意料理になったグラタンだ。
そこで、マカロニグラタン、ジャーマンポテトグラタン、餅グラタンなど合計6種類にまで増やしてみた。
さらに、焼き菓子のタネは全部焼ききる。材料も廃棄になるくらいだったら無駄でも料理を作る。そして焼くときに出る香ばしい香りを窓からこっそり外に流す!
そのほかにも――
――チンッ!
おっと、そんなことしている間にグラタンが焼き上がった。ちなみに6種全部いっぺんに焼いてみた。
丁度お昼時だ。空きっ腹に響く香りだろう。さぁ誰か釣られてくれ!
――からんころんからん♪
「いいにおいなんですけど! ちょ~いいにおいなんですけど!」
「いらっしゃいませ」
なんかちっこいのが釣れた。一見小学生みたいだけど、制服から判断するに高校生なんだろうな。
ていうか、『けど』ってなんだよ。
「うわぁ~ おいしそうなスコーン♪ おいしそうなパウンドケーキ♪ おいしそうなマドレーヌ♪」
すぐさまカウンターに駆け寄ってきて、ストッカーにへばりついた。目が輝いてるなぁ。
「あうっ……」
あ、財布のぞき込んで固まってる。
「うぅ~~~……」
そのまま顔を上げて、半分恨めしそうな、半分悲しそうな目でなぜかこちらを見つめる……
「えぇ~と、ご注文は?」
「……うぅ ……だ、だ~じりんてぃ~、ひとつ」
あぁ~、おこずかい足りなかったんだね……
…………
そして――
「うぅ…… まどれ~ぬぅ~……」
ストッカーのすぐ近くに陣取り、中身を見つめながら悲しそうにダージリンティーを飲む女の子
あぁもう、しょうがないな……
「はい、どうぞ」
「え?」
あまりにも悲しげだったので、目の前にマドレーヌ一個とさっき焼いたグラタンを一皿置いてあげた。
「え? え? でも、あたし…… お金…… ないし……」
「いいんですよ。どうせ余れば廃棄処分される運命なんですから」
「でも、でも。グラタンとか、太っちゃう… かも……」
「文句を言う子にはあげません!」
「あぁ! うそ! うそですうそうそ! 冗談ですってば~、おねぇさま~」
「もう…… うちのグラタンは絶対おいしいんですから、よく味わって食べるんですよ」
「は~い、おねぇさま♪」
うわぁ~…… 調子いいなこの子……
「いっただっきま~す♪」
グラタンをぱくりと一口。
「うわっ! なにこれ! ちょ~うまいんですけど! めちゃうまなんですけど!」
だから、『けど』なんなんだよ……
「おいしいでしょう? グラタンには自信があるんですよ」
「うん! めちゃうま! こんなうまいの食べたことないんですけど!」
「ですけどねぇ…… ご覧の通り、お客さんはお嬢さん一人――」
「うそです!」
「いや、嘘と言われてもご覧の通りで……」
「おかしいです! 世の中間違ってます!」
世の中ってあんた……
「わかりました! あたしが友達連れてきます! 連れてきますから!」
「……から?」
「連れてきますから! だから、またおごって♪ ……なんて~、だめ?」
ほんとに調子いいなこの子……
翌日から、この子は本当に友達を連れてきた。仕方がないからまたグラタンを焼いてあげた。
この女子高生ネットワークがなかなかに強力で、紹介者が紹介者を呼び、気づけば店内は色とりどりの制服で埋め尽くされることになった。
それから、女の子に釣られたのか常連のニート風の青年までも男友達を連れてくるようになった。
店内に客が居ると安心するのか、次第に客層も広がってきて――
かくして、当喫茶店は2ヶ月目から軌道に乗り始めた。
この子には本当に感謝しないといけないなぁ。
お店で黒字を出せるようになった。これならりっちゃんを連れて来ても生活ができそうだ!
というわけで、りっちゃんの叔父夫婦からりっちゃんの親権を奪い取るべく覚悟して出陣! ……したのだけど――
「……納得が行かない」
むしろノリノリで渡してきやがった!
諸手続きも向こうが主導してどんどん進めるもんだから、たいして苦労もせずにちゃんとしたりっちゃんのママになることができてしまった。
できたのはいいんだけど……
「りっちゃんに対する愛情はないのか!」
いいんだ、叔父夫婦があげなかった愛情は私が代わりに注ぐんだから!
そんなこんなで、りっちゃんも無事退院。もともと受け入れる人がいないから病院から出られなかったってだけだし。
そして今は、二人仲良く並んで家に帰る途中だ。
家が違うことも『引っ越した』って言ってある。喫茶店のことも病院の面会時に既に伝えてある。その辺は大丈夫なんだけど……
まだ正直に言って不安はある。私は特別子供好きだった訳でもないし、もちろん子供を育てたこともない。そんな私がちゃんとりっちゃんと暮らして行けるのか。
でもきっと、あのまま病院に居続けても何も変わらないし。
だけどもしかしたら、外に連れ出せれば幸せをあげられるかもしれない。
だから、不安も大切に受け止めて、二人で暮らしていこう。ゆっくり少しずつ、親子二人で幸せになっていこう。
あぁ、そういえばそろそろお昼時だな。帰ったらご飯にしよう。
「ねぇりっちゃん。帰ったらすぐにご飯にしようね~」
「うん♪」
「りっちゃんは何が食べたい? 今日はなんでも好きなもの作ってあげる」
ちょっと前まで料理なんか全然出来なかったのに、今ではこんなことが言えるようになった。成長したなぁ。
「なんでも? ほんとになんでも? じゃあね、じゃあね、りっちゃんね、グラタンがいい!」
「……え?」
「ママのグラタンだ~いすき♪」
そっか。りっちゃんの大好物はグラタンなのか。
最初に覚えたまともな料理グラタン。お店の危機を救ってくれたグラタン。
なんか、グラタンに縁があるなぁ。
「よし、じゃあ今日はとびきりおいしいグラタンを焼いてあげよう」
「ほんと? やった~!」
あぁ、りっちゃんがこんなにうれしそうに笑っている。幸せだなぁ
はっ! 今、『ママのグラタン』って言ったよな……
りっちゃんにグラタンを作ってあげたことのあるママって、やっぱり天国の本物のママだよな……
当然『ママのグラタン』って、『本当のママが作ってくれた思い出の味』ってことだよな
勝てるのか、私に。いや勝たなくてもいい。というか勝ち負けは問題じゃない、ママの味に近づくことが出来るかが問題なんだ。
もしかしたら私は今、ものすごい難題に直面しているんじゃないだろうか……
「ママのグラタンだ~♪」
え~と…… なんか、問題なかったらしい。何かいろいろと悩んだというのに、なんか拍子抜けしてしまった……
幸せそうにたべている。あぁ、そんなに急いだらこぼしちゃう、まだ熱いのに火傷大丈夫かな……
「ママ食べないの?」
「え? あぁ、うん食べるよ。ちょっと考え事してた」
どうもボーッとりっちゃんを見ていたらしい。だってあんまり急いで食べたら…… 今だって――
「ほらほら、急いで食べるから口の周りベタベタにしちゃって」
おしぼりで拭ってやる。
「だっておいしいんだも~ん。りっちゃんね、ママのグラタン大好き♪」
「あんまり急いで食べるとすぐ無くなっちゃうよ」
「…………ゆっくりたべる」
「よし。りっちゃんはいい子だ」
あぁ、なんか幸せだなぁ。男の時にはこんな幸せな気持ちになったことがあったかな?
「あのね、ママ」
「ん? なぁに、りっちゃん」
「あのね、あのね……」
「うんうん」
「……ただいま!」
……え?
「お家かわっちゃったけど、りっちゃん、ママのところに帰って来たよ」
「りっちゃん!」
気づいたらりっちゃんを力いっぱい抱き締めていた。
「おかえり、おかえり! りっちゃん!」
もうりっちゃんが愛おしくて仕方がない。りっちゃんが私のそばを『帰る場所』だと言ってくれるなら、こんなに幸せなことはない。
絶対一人にしないからね。もうりっちゃんに寂しい思いはさせないからね。
明けて翌日。
「あいかわらずよく来てくださって、ありがとうございます」
「いや、おいしいんですよねスコーンって、なんか癖になっちゃって」
例のニート風の男性だ。本当にニートかどうかは聞いてないけど。
この人、よくカウンターでノートPC開いて何かやってるけど、何やってるんだろう?
「ですが、たまにはほかのものも頼んでみてください。おいしいですよ?」
「いや~、なんか同じものばかり頼むのが癖みたいで。自分でもどうかとは思うんですが」
どうかと思うなら別のもの頼んでみようよ。今日もコーヒーとスコーンだし……
とまぁ、いつものありがちな日常を過ごしていたら――
「りっちゃんもてつだう~!!」
居住区に通じる扉からりっちゃんが飛び出してきた。
「あぁりっちゃん、ママまだお仕事中だから、ね?」
「りっちゃんもお手伝いするの~!!」
あぁもう、仕様がないなぁ……
「よし、じゃあそこのお兄さんのところに、これを持って行ってみよう」
「うん、りっちゃんもってく!」
たぶん彼ならこぼしても怒らないだろう、たぶん。
「はいりっちゃん。こぼさないようにね」
「は~い! ……え~と、おまたせしました~♪」
カウンターに座ってるニート風の彼だ。カウンター越しに渡せばそれで済むんだけど、りっちゃんが頑張りたいみたいだし。
「え~と、はい。うん、ありがとう……」
ん~、微妙に困ってるね。
「ほかにご注文は?」
「え?」
「ごちゅうもんは?」
「……いや、あの、とくには――」
「グラタンですね~♪」
「……いや、あの」
「グラタンですね?」
「……いや、いらな――」
「グラタン……」
「……」
……あの、りっちゃん? なんか相手に詰め寄ってるし。
「グラタン、おいしいよ?」
止めた方がいいのだろうか……
「ママのグラタン、おいしいのに……」
「あぁ! はい! はいわかりました! グラタンお願いします!」
「は~い! ママー! グラタン一つぅー!」
りっちゃんが泣きそうな顔をしたら観念したみたいだ。いい人みたいだな。
「はい、ありがとうございます」
「わ~い!」
そのままりっちゃんは嵐のように居住区に戻っていった。満足したらしい。
…………
「あの、お嫌でしたらキャンセルしてもかまいませんよ?」
半分押し売りみたいだったし……
「あ、いえ、せっかくですからいただきます。それより、今の子だれです?」
「娘の律子です。かわいいでしょう? かわいいですよね? かわいくないなんて失礼な事を言い出したらどうなるかわかってるんでしょうね?」
「えぇ、えぇ、大変かわいらしいと思いますです。はい!」
そうでしょうそうでしょう。自慢の娘ですから。
「というか、娘さん居らっしゃんたんですか?」
「なにか問題でも?」
「いえいえいえいえいえ! 滅相もございませんです。はい」
以後、りっちゃんがちょくちょくお店に顔を出すようになった。
そして、同時に売り上げがまた伸びた。
そりゃかわいいりっちゃんが出てきたら人気も出るでしょうよ――
と、思ったら、どうやらりっちゃんが出てきたときにかいま見える私の『ママの顔』がいいとか言う声がちらほら……
う~む、なんか、ねぇ?
某月某日。
「ニャーーーーーー!!!」
猫乱入。
「ふわゎわわわゎわゎ!」
――すって~ん!
常連のミニマム女子高生が扉を開けた瞬間に滑り込むように入って来た。お陰で足元をすくわれたその子は盛大にすっころぶこととなった。
「いった~い。もう、ちょ~信じられないんですけど~!」
転んだ状態でブーたれてる。
「いらっしゃいませ響(ひびき)ちゃん。早く立ち上がるか隠すかした方がいいですよ」
パンツ見えてるから……
「みゃっ!!」
気づいたらしい。あわてて隠している。
この子は響ちゃんと言うらしい。友人からそう呼ばれているのを聞いたことがある。
いろいろな友人を連れてくるけど、そのすべての集団においてかならずマスコットキャラ的位置にいる子だ。
上の名前は知らない。聞いたことないし。
本日はお一人でご来店らしい。
で、入って来た猫はというと――
「ニャーーー、ニャーーーー」
私のひざに両前足をかけたまま後ろ足で立ち上がってしきりに鳴いている。なんかねだられているらしい。
「しかし見覚えのある子だねおまえは」
私がまだ料理修行中だったころに、どっかからやって来て近所に居着いた子だ。
「残念だけど、おまえにあげられるものはないんだよ」
もう人様に出せる料理が作れるようになったし、余り物もほとんど出なくなった。だから残飯もあげられない。
それにあんまり甘やかしてしまうと後で悔やむことになる。最後まで面倒を見切る覚悟がないなら軽々しく餌などやってはいけない。
「おねぇさまー。こんな子が外にちょ~たくさんいるんですけど。このお店、猫に囲まれてるんですけど~」
……ほら、こういうことになっちゃうから。
あぁ~、どうしようかなこの子ら…… お店取り囲まれたら商売に支障が……
やっぱ追い払うしか……
というわけで。
「猫追い払い作戦開始!」
「おーー!」
リーダー、私。手下、響ちゃん。報酬、グラタンひとつ。作戦、箒を振り回す、水をまく。以上。
最初に侵入して来た猫の首の後ろひっつかんでぶら下げつつ――
「出陣!」
入り口の扉を開いて、いざ外へ――
『にゃーーー!!』
「わきゃ~~!」
あぁ、響ちゃん弱い……
怒涛の猫なだれに押し負けて猫に踏まれまくる響ちゃん。
いきなり作戦失敗! むしろこっちが外に出られなかった!
『にゃーーー!!』
「あ、こら! やめなさい!」
テーブルの上に駆け上がってお客さんの皿の料理を奪い合うはストッカーの中の焼き菓子をねらって体当たりを敢行するは、猫達は我が物顔で店内を駆け回る。
「きゅ~~……」
あぁ、響ちゃん伸びてる。
もうお店の中めちゃくちゃだ……
こんにゃろぅ、猫どもめ!
「い い か げ ん に し な さ ーーーー い ! !」
箒を地面にたたきつけながら絶叫。大声にびびって思わず固まっている猫達の首後ろを引っつかんで店の隅に向かって投げ放る。
一緒にお客さんも固まってるけど、見なかったことにしよう……
――だんっ!
「こらっ! あんたたち!」
びびって硬直する猫ども。こういうのは気合だな。
「ひとの店に無断で踏み込んでよくもよくも好き勝手やっt――」
「ねこさんだ~♪」
……あら ……え~と、いきなり気が抜けた。
りっちゃんご登場だよ……
「ねこさ~ん♪」
追い詰められた猫の一団の中心目がけてりっちゃんがうれしそうに突っ込む。
猫も人も含めて誰ひとりとして状況が読めない。『ぽっか~ん』って感じ。
「ねこさんたくさんいる~♪」
「いや、あのね、りっちゃん……」
うわぁ、りっちゃん楽しそうだ。どうしよう。
「ねこさんたくさんいるよ? たくさんいるの。かわいいねぇ~♪」
「あのね、りっちゃん。猫さんたちね、帰ってもらわないといけな――」
「なんで~、なんで~、ねこさんかわいいよ?」
「かわいいけどね。猫さんのためにもあまりよくはなくって――」
「ねこさん、かわいいのに……」
「いや、だからね、飲食店だし、動物はちょっと……」
「ねこさん……」
「あの……」
「ねこさ~ん……」
いや、だから、そんな目で私を見ないで……
「ねこさ~ん……」
……だぁ! もう!
「わかった! ママに任せなさい!」
「ほんと~? ママだ~いすき♪」
え~い、もうどうにでもなれ!
そして。
「ママー、降龍たちが~!」
――ピピピピーー!!
「こら! 昇龍! 降龍! けんかするなら表でやりなさい!」
「にゃっ にゃぁ~……」
――かりかりかりかりっ
むむ、この音は。
――ピーーーーーーーーーー!
「こら! デルタ! 爪研ぎボードはあっち!」
「にゃにゃっ!」
――からんころんからん♪
あ、お客さんだ。
――ピッ!
「はい少佐! お客さん出迎えなさい!」
「にゃっ!」
「いらっしゃいませ~♪」
ふふふふ、私は猫を極めた! もうホイッスル一つで近所の猫たちを従えられるようになった。いや~、苦労した。
「あの、さすがに猫に出迎えられるのははじめてなんですが……」
「あら先生じゃありませんか。やっぱり暇なんですか?」
「いや、毎回毎回言われていますが、暇つぶしに来ているわけではなく、仕事の合間を縫って来ているわけで……」
某精神科の先生だ。いまだにこの店にちょくちょく顔を見せる。
「『少佐』というのはこの猫の名前ですか?」
「りっちゃんの名付けた名前に何か問題でも?」
「いえいえ、そんなとんでもない。ただなぜそう名付けたのかなぁと疑問に思ったもので」
「さぁ? 赤毛だからじゃないですか?」
「はぁ……」
りっちゃんはお店の隅で猫と戯れている。
その後、この店は『猫の居る喫茶店』として話題になり、さらに繁盛することとなった。
そして後日。レジ横の端末から注文できる品物の中に猫グッズが混じっていることを発見した。さすがオーナー、抜け目ないな。
「やっぱり暇なんですね?」
「いやいや、何度も申します通り忙しい仕事の合間を縫ってですね――」
このやりとりは、この精神科医とはもうお決まりのやりとりになってしまった。
「とはいえ……」
店内をぐるりと見回す。ちらちらと目に入るよく見た顔、顔、顔。
「看護師の皆さんもいらっしゃるようですし」
「それについてはなんとも……」
なぜか最近は、某病院の精神科勤務の皆さんが入り浸っている。
「だってだって、病院の激務の中で唯一の癒しだったりっちゃんを連れてっちゃうんだもん!」
この看護師さんはたまに幼児がえりするな……
「“もん”じゃありません。話がややこしくなるからあなたはそのへんで猫とでも遊んでなさい」
「うわ~ん、シュバルツ~」
「にゃ~ん」
彼女のお気に入りの猫らしい。
お、近くにいたりっちゃんも一緒に遊び出した。
「相変わらずきついですねぇ。それもオーナーのご意向ですか?」
「そういうことにしておいてください」
強引に放り込まれた病院の人間相手だしなぁ、ついきつくなっても仕方がないでしょう。この医者の笑みはうさん臭いし。
「りっちゃんは最近どうです?」
「どうって、そうですねぇ…… 猫に対して、少しお姉さんぶるようになってきました」
「なるほど、それはいい傾向ですね」
「こうして少しずつ育っていって、ものが分かるようになってくると……」
そう、りっちゃんの心は再び成長を始めている。そのうちに実年齢に追いつくのではないだろうか。
だからきっと、いつか本当の両親のことを伝えなければならない日がくるのだろう。
そのときりっちゃんは何を思うだろう。そのとき私はどうなるのだろう。それを考えると、少しだけ――
「……こわいですか?」
「こわくないと言えばウソになります」
「軽々しく『大丈夫だ』などとは申し上げられませんが、きっとあなたたちなら乗り越えて行けますよ」
「どちらにせよ、私はただ精一杯の愛情を注ぎ込むだけです」
「いい心掛けだと思いますよ」
りっちゃんが私の娘であり続けてくれるにせよ、私を拒絶するにせよ、最終的にはりっちゃんの選ぶ道だと思う。それを私は受け入れようと思う。
でも、たとえ拒絶されても、いつか気持ちがかわって帰ってきてくれるときのため、私はいつでも『帰る場所』であり続けようと思う。
「しかし、なぜでしょうね。あれから毎日のように女体化の報告があるのですが、『15歳』という条件に当てはまらない人は、いまだにあなた一人だけなんですよ」
「それについて、少しだけ考えていることがあるんですよ」
「ほう、といいますと?」
「きっと、りっちゃんが30歳の私を必要として、呼んでくれたんです」
「なるほど、それはいい」
――エピローグ――
夏の日差しまぶしいこのごろ、光を吸収する黒いスーツはことさら暑い。
あれから2年、りっちゃんの内面は急成長を続け、あとしばらくで実年齢に追いつきそうだ。だからもうすぐ、りっちゃんに本当のご両親のことを打ち明けなければならないときがくる……
「りっちゃんの本当のパパ、ママ。お初にお目にかかります」
ここはとある霊園。目の前の墓石の下にりっちゃんのパパとママが眠っている。
この場所のことは、前々からあの精神科医に聞いていた。
「随分とあいさつが遅くなってすいません。りっちゃんを引き取らせていただきました水戸和泉と申します」
ちょうど盂蘭盆会の時期、故人へのあいさつにはちょうどいい日取りだろう。今日はりっちゃんは家においてきた。
「りっちゃんのパパ。どうかご安心ください、りっちゃんは大病も無く元気にすごしています。
一時期成長を止めていた心も、最近は順調に成長していまして、今ではもう立派なレディーですよ。
勉強も教えているんですが、最近著しく力をつけてきました。そのうち高卒認定を受けさせるつもりです」
一呼吸おいて、心だけ、同じお墓に眠るもう一人の方へと向き直る。
「りっちゃんの本当のママ。ありがとうございます」
りっちゃんの本当のママ。私はどうしても彼女にあいさつしておかなければならなかったんだ。
「私にグラタンを教えてくれたのは、あなたですね?
レパートリーを考えていた時、後ろからりっちゃんの大好物をささやいてくれたのはあなたですね?
考えて見れば、料理経験のなかった私に最初からあんなに上手にグラタンを作れる道理がないんです。その時にも、あなたが手を貸してくれたんですね?」
思い起こせば、自分でやっているのに自分じゃないような、だれかに手を引かれているような、そんな感覚が度々あった。きっと頼りない新米ママを導いてくれていたんだろう。
りっちゃんに最初にグラタンを食べさせた時、りっちゃんは違和感を表さなかった。きっとそれは、りっちゃんの本当のママが私を導いてくれたから同じ味がだせたんだ。
霊とかそういうのは信じてなかったけど、そう考えなければ説明がつかない。
母の思いは偉大だった。
それにもしも私が今、りっちゃんを残して死んでしまったとしても、きっと同じことをする。
「今の私たちがあるのはあなたのおかげです。本当に感謝の言葉もありません。
どうかこれからも、私たち二人を見守ってやってください」
もうすぐ、私はこの両親のことをりっちゃんに伝えるつもりだ。そのときのことを考えると少し不安だ。
でも大丈夫。なにせ私にはこんなに強い味方がいるのだから。
いつでも、天の上から見守ってくれているのだから。