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我輩は猫であった。名前は蘭丸。
言うまでもなく、健康とは大切なものだ。
猫であった時分に獲得した抗体は、どうやら余り役に立たなかったようだ。
……つくづく、健康とは大切なものだな。
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「38度8分。と」
「9度ちかい。けっこうあるな」
「うぅ~~、頭が重いのだ」
蘭丸が熱を出した。額に冷却ジェルシートを貼ったままうんうんうなっている。
「あんまり熱が上がるようなら、病院に連れていかないといけないかもしれないわねぇ」
「病院かぁ」
少しでも落ち着くように頬をなでてやる。やはりだいぶ熱い。
「あれ? ちょっと待て」
「どうしたのよ」
「病院ってやっぱ…… 獣医じゃやばいよな?」
「……そうよね」
猫♂から人間♀になった蘭丸は、これから人間として生きていかなければならない。そういう現実問題が、いま目の前に現れた。
つまり……
「保険証がない」
緊急作戦会議。
「今のところただの風邪みたいだから早急に医者に診せることもないとしても、万一のことを考えて手を打っておいた方がいいわね」
「風邪の診察くらいなら10割負担でもなんとかなるだろうけど、重い病気に罹ったら大変だな。どうする?」
「あなたの扶養家族にして、あなたの会社の健康保険組合から保険証を出してもらう」
「……まぁいいけど」
「生命保険とかも考えておかないとね、傷病見舞金特約とかつけて」
「いろいろ大変だなぁ……」
「教育とかどうするのよ? 一生あなたがめんどうみる訳にはいかないんだから、そのうち自立してもらわなくちゃだし」
「……急に現実が押し寄せて来たな。今から教養をつけさせるのも大変そうだ」
「小学校の範囲までだったらあたしがなんとかするわ、勉強も楽しいみたいだからなんとかできるでしょう。問題はその後よね」
「……なぁ、そういうことをやるときって、戸籍とかいるよな?」
「免許やパスポートでもとるんじゃなければ提出させられる機会もそれほどないと思うけど、必要よね……
でも養子にとる気はあるんでしょう? このあいだ言ってたじゃない、本当の娘にしないかって」
「……それはプロポーズの文句であって、いきなり未婚の父になるのは精神的にきついものがあるのだが――」
「養子にしてあげないなら結婚してあげない」
「ずるい奴だ……」
うずめは意地の悪い笑みを浮かべている。
「でも養子ってそんなに簡単にできるのか? たしか子供を育てられる環境にあるかいろいろな審査があるんじゃなかったか?」
「なんとかなるでしょ」
「日中は家にいないし年収も人並みだし、そんなに好条件ではないと思うぞ。まぁやってはみるが」
「なんとかならなくても、なんとかなるわよ」
「なんだそりゃ」
――で
「ほら、なんとかなった」
「なんとかなったなぁ……」
というか、「なんとかした」という方が正しいかもしれない。うずめが。
目の前には、さっき役所で取って来た戸籍謄本がある。そこには、俺の娘の名前として「蘭」の一文字があった。
この戸籍ができあがった瞬間から蘭丸は、本名「蘭」愛称「蘭丸」という一人の人間の女の子になった訳だ。
それにしても――
「おまえの親父は一体何物なんだ……」
「ふふふ、それはひみつです♪」
申請が難航しそうな気配を見せ始めたとき、うずめはおもむろにケータイを取り出すと父親に電話を掛けた。そして、『めずらしく娘が頼りにしてあげてるんだからおとなしく協力しなさい!』とかいって強引に協力を取り付けた。
あとは送られて来た数枚の用紙にサインして印鑑を押しただけだ。
目の前には売薬と自宅療養で風邪を治した愛猫改め愛娘が、うずめのひざを枕にしてのんきに寝こけている。
腹が出ている。病み上がりだというのに、また風邪をひいても知らんぞ。
「蘭丸はのんきでいいな」
「なんにしても、たいしたことがなくてよかったわね」
「まったくだ」
頬をなでてやると、寝ぼけているのか「うにゃあ」と一声鳴いた。頬はもう熱くない。
「こいつも外に連れ出してやらないとな。このままだと一人の引きこもりニートができあがってしまう」
「とりあえず、服でも買いに出掛けましょうか」
――ぺたっ ぺたっ
「おーーー」
履くものがないのでテキトーにビーチサンダルを買ってきて履かせたのだが、何が珍しいのか、その足を踏み鳴らしながら何やら感嘆の声をあげる蘭丸。
さっきまで外出を嫌がって大暴れしていたので、二人で両側から腕を掴んで無理やり引っ張り出した。しかし外に出ると好奇心が勝ったようで、さっきまで渋っていたくせにもう上機嫌だ。
さっきから興味深そうに周囲を見回しては感嘆の声をあげている。
「いいか、もう一度確認しておくぞ。すくなくとも人前では俺のことは父親として呼ぶんだぞ」
「わかったのだご主人」
……わかってない、ぜんぜんわかってない。だから人前でご主人と言うなと
「おお。ご主人! 母上! なんか黒くて小さいのが列を作っているぞ!?」
だからなんでうずめのことはスムーズに母上と呼ぶかな。そう呼べとは教えてないし、まだ戸籍上では他人なのだが……
「我輩は知っているぞ。これはアリという虫なのだ! このあいだ図鑑で見た、すばらしい!」
「蘭丸、絶好調だな」
「連れ出してよかったわね」
「猫だったときからこうやって連れ出せばよかったかな?」
「かもね~」
「知っているか、働きアリの3割は働いてないのだぞ」
「あぁ、知ってるぞ。その働かないアリを隔離すると、残りのうちまた3割がサボりだすんだよな」
「すばらしい! さすが我輩のご主人、物知りなのだ」
「だから人前でご主人と言うな……」
「わかったのだご主人」
「わかってないわかってない……」
なんか覚えたての知識を披露したくて仕方がない幼児のようだ。
そんなこんなで、にぎやかに買い物が続いた。
そして、俺の貯金が吹っ飛んだ……
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我輩は猫であった。名前は蘭丸。
世界は広いな。我輩の知らなかったすばらしいことがそこらへんにたくさん転がっている。
こんなにおもしろいなら、もっとはやく外に出るのだったな。
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最終更新:2008年09月13日 23:25