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我輩は猫であった。名前は蘭丸。
万事が順風満帆だ。我が人生に、今をもってたった一片の悔いすら残していない。
何もかもすばらしく順調。
順風満帆――
されど、波高し……
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蘭丸は、本当に6年連続学費免除を達成してしまった。
5年次にトップを取った時点で6年次の学費免除はすでに決まっているのだが、蘭丸の勢いは止まりそうにない。どうやら6年次でもトップを取りそうだ。
今は卒業に備えて論文作成の真っ最中のようだが、指導教授の評判もすこぶるいいらしい。
蘭丸の人生はなにもかも順調に進んでいるようで、父親としても鼻が高い。
なのだが――
「なぁ、蘭丸」
「どうしたのだご主人?」
「おまえ、無理してないか?」
最近、表情に疲れを見せるようになって来た。
「そ、そんなことはないぞ! 我輩は絶好調だぞ!」
あやしい……
「ほらほら! こんなに元気なのだ!」
何やら一生懸命に跳びはねている。わざとらしすぎる……
「あのな蘭丸。何年一緒に暮らしていると思っているんだ、おまえの顔色の違いなんてすぐにわかるよ。俺はおまえの『おとうさん』なんだぞ」
だから『おとうさん』って呼んでほしいなぁ……
「ななな、な、な、なにをいっ いっ いっ 言っているのだ ごごごごごご主人! わっ わがっ わがっ 我輩は こ、こ、こんなにも 元気いっぱい、いっぱいではないか」
なんか『元気いっぱい』というか『いっぱいいっぱい』だな。まともにしゃべれてないじゃないか。そんなので誰かがごまかされてくれるとでも思っているのだろうか?
というか、こんなにあわてるとは思わなかった。
「ほ、ほら。なにも心配ないぞ。我輩は絶好調だぞ」
蘭丸の目を正面からじっと見つめる。
「学業だってうまくいっている。研究室の仲間も愉快な奴らばかりだ」
じーー……
「卒論だってもうすぐできあがる。前評判も良好なのだぞ」
……
「だから、だからご主人が心配するようなことは……」
「蘭丸」
「ことは……」
「蘭丸」
「……」
「……」
「ふぅ~、わかったのだ、言うのだ。ご主人にはかなわない」
蘭丸はあきらめたようにひとつため息をついた。
「確かに我輩は疲れている。卒論で今が大事な時期だからな」
開き直った様子で話し始めた。
「あまり深く眠れてもいないかもしれない。卒論の文面が、何度書き直してもまた書き直したくなるのだ。だがそれは仕方がないことであろう?」
「まぁ、な……」
「あと少しなのだから、ここは無理のしどころであろう?」
……
「もう、あまり時間がないのだから……」
……
「なぁ、蘭丸。本当にそれだけか?」
「……それだけなのだ」
「そうか、ならいいんだが……」
それでも不安が拭えないのはなぜだろう、俺の考え過ぎなのだろうか?
「なに、心配しなくとも最悪な結果だけは避けるようにするさ。だいたい、奥方が作る栄養満点の料理を毎日食べているのだ、簡単に倒れる訳がないであろう?」
「……そうだな。俺の考え過ぎだな」
「そうなのだ。考え過ぎなのだ」
「ただ、たまにはちゃんと休めよ」
「わかっているのだ―― と、そうだな。ご主人、ひさしぶりにひざを貸してくれないか?」
「あぁ、かまわないが」
「恩に着る」
蘭丸は俺をリビングのソファーの端に座らせると、上半身を俺のひざの上に突っ伏してうつ伏せに転がった。
「久しぶりのご主人のひざなのだ。昔は毎日乗っかっていたのに……」
「大きくなったからなぁ」
いい位置に頭があるので、つややかな黒髪をなでてやる。
「なつかしい感触なのだ……」
猫だった時には、よくこんなふうに毛並みに沿って撫でてやっていたな。つやのある黒い体毛の感触が好きで、テレビなんかを見ながら飽きもせずにずっと撫でていた。
なつかしいな、丁度この髪みたいにつやつやの毛皮だったんだ。
「うにぅ…… く~…… す~……」
いつの間にか眠ったみたいだ、穏やかな寝息が聞こえている。
「ふに…… ま、まぐろ……」
何の夢を見てるんだろう? そんなにマグロが好きか?
「にへぇ~~……」
おぉ笑ってる笑ってる。
今は幸せな夢を見てゆっくり休めばいいさ。
「おやすみ。蘭丸」
あ、ちなみにうずめはまだプロポーズを受けてくれない。
もうお互いいい年なんだけどなぁ……
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我輩は猫であった。名前は蘭丸。
人生は短く、時間は限られている。
大学に入ったらもっといろいろなことがわかるのだと思っていた。しかし違った。
大学では「今わかっていること以外は誰も知らない」という当たり前を知りにいく所だ。その上で、人はその生涯をかけてわからないことを少しずつ解き明かしていく。
しかし、人間の短い人生ではとてもすべてを知ることなどかなわない。
ましてや、我輩の人生では……
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最終更新:2008年09月13日 23:33