『蘭丸』(8)

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 我輩は猫であった。名前は蘭丸。
 人生は短く、技芸は長い


 我輩はやはり、猫であった


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 蘭丸の卒論発表の日だ。
 俺の部屋だけが世界のすべてだったような臆病猫が、いまや並の人間では追いつけないほどの知識量を誇る人間になった。
 もちろん俺なんかではとても追いつけない。『おとうさん』としては情けない限りだ。
 しかし、変われば変わるものだな……
 今日おそらく卒論発表後に開かれるであろう飲み会を振り切って、蘭丸は早めに帰ってくるつもりのようだ。そこで蘭丸のための簡単なパーティーを3人で開こうと思う。
 俺も会社の仕事を早めに切り上げて帰ってくるつもりだ。いや、つもりじゃだめだな、絶対に帰ってくる。これはもう決定事項だ。
 蘭丸は最近『ここが頑張りどころだ』と言ってかなり疲れをためているようなので、今日は思いっきりリラックスして、ゆっくり休んで欲しい。


 というわけで、人の世話の大好きなうずめがそれはそれは楽しそうに作り上げた海鮮づくしのご馳走がテーブルに並べられ、準備万端整った。
 俺も定時で会社を発ち、全速力で帰って来た。
 あとは蘭丸が帰るのを待つだけだ。
「いや~、ビールがうまい」
「蘭ちゃんが帰ってくる前にできあがっちゃわないでよ?」
「ビールの一本や二本じゃ酔いやしないさ」
「そう思ってても、こういう楽しい日は危ないのよ」
「だいじょうぶだいじょうぶ」
「それに、先に盛り上がっちゃって、蘭ちゃんの卒論発表が上手くいってなかったらどうするの?」
「うちの蘭丸に限ってそんなことはないさ」
「もう、親ばかなんだから。お茶でも飲んでおきなさい」
 そういいながらウーロン茶を注ぐうずめも、なんだか楽しそうだ。
 そうこうしているうちに
――がちゃり
「ただ今帰ったのだ~」
 玄関の扉が空いて蘭丸が帰って来た。
 さあ、楽しい時間の始まりだ。


 食事が終わってもまだ長々とおしゃべりは続いていた。
 どうやら蘭丸の発表は大成功に終わったらしい。
 卒論のテーマは『人間以外の哺乳動物における女体化症候群の可能性に関する考察』で、なかなかの高評価を得たようだ。
 なんでも、論文全体の出来栄えも然ることながら、女体化症候群を「性別が反転する病」ではなく「人間の女性の体になる病」とした新しい視点が、今後の女体化研究においても重要な視点となる可能性があるとの評価があったとか。
 素人目にはなんだかよくわからんが、医学的には重要な違いらしい。

「ご主人、奥方。大事な話がある」

 ふと話題が途切れた時、蘭丸が突然真剣な顔になって話を切り出して来た。
「どうした蘭丸。いきなりまじめな顔をして」
「我輩はやはり、猫だったようだ」
「なんだよいきなり」
「聞いた事はないだろうか。猫が死に際に姿を隠すという話を」
 あくまで真剣な目をして話を続ける。よくわからないが、どうやら冗談の類いではないようだ。
「まぁ、よく言うよな。プライドの高い猫は家族の前に屍をさらさないとか」
「そう。猫によっては自らの死期を悟ると姿を隠すものがいる。猫には自分の死期がわかるのだ」
 えっ…… それは、つまり……
「そもそも猫が人間に変わるなど、生物として無理があり過ぎるのだ。猫の我輩が人間の寿命をもらえると思うなど、贅沢な望みだったのかもしれん」
「蘭丸……」
「だいたい、我輩の体は猫の時分から既にガタが来ていた。そのボロボロの体が、たとえ少し変わったからといって何年ももったことが奇跡なのだ。
 我輩のからだがもうもたないことは、だいぶ前からわかっていた……」
 そうか、だから最近の蘭丸は生き急ぐみたいに無理をして……
「蘭丸……」
「蘭ちゃん……」
 さっきまでの楽しかった空気を拭い去って、辺りを静寂が包んだ。
 蘭丸にかけてやれる言葉がなにも見つからなかった。
「そんな顔をしないでくれご主人。我輩は幸せだったのだぞ? 誰よりも幸せだったのだぞ?」
 笑うなよ蘭丸…… そんな泣きだしそうな顔で笑わないでくれ……
「だから、ご主人はもっと誇ってよいのだ。こんなに誰かを幸せにできた人間など、そうは居ないのだから」
 だめだ、蘭丸はこんなに気丈に涙をこらえているというのに、俺はもう止められそうにない。
「蘭…… ちゃん……」
 うずめはもう涙が止まらない。俺ももうだめそうだ……
「あぁ、ご主人。もうすぐ時間のようだ。最後にもう一度だけ、ひざを貸してもらえないだろうか」
「あぁ…… もちろん……」
 そういう俺のひざに這い上がり、蘭丸は俺の胸に抱きついてきた。
「ありがとう。ありがとうご主人、奥方。あなたたちのおかげで、我輩は幸せだった」
 とうとうこらえられなくなった蘭丸は、俺の胸に顔を押しつけたまま泣き始めた。
「ありがとう! こんな我輩を愛してくれてありがとう! 娘と呼んでくれてありがとう!」
「蘭ちゃん……」
「蘭丸……」
 俺はもう、無言で抱き返すことしかできなかった。見つからない言葉の代わりに、力いっぱいに。
 こんなに華奢な体で、今まで無理して走りつづけて来たのか……
「今日は楽しかったのだ。最後に最高の思い出がつくれた」
「蘭丸!」
 蘭丸の言葉からちからが抜けて行くのがわかる。あぁ、もう……
「我輩はなんて幸せ者なのだろう…… すばら…… しい――」
 力の抜け切った体が、先程より若干重くなったように感じられる。
 今この瞬間、蘭丸の命の火が尽きたのだと悟った。
 となりではうずめが大声で泣き叫んでいる。俺はのしかかる喪失感に、声も無く涙を流し続けた……
 いつまでも、蘭丸を抱きしめる手を弛めることができなかった……
 蘭丸の遺体は、幸せそうにほほえんでいた。


 しばらくして、俺達は籍を入れた。
 うずめが言うには、蘭という特別な存在ができてしまった以上、もう学校の子供たちを平等に愛してやることはできそうにないからプロポーズを断る理由がなくなったのだそうだ。
 今では、蘭丸を正式に自分の娘にできなかったことをすこし悔やんでいるみたいだ。


 それからしばらくして、俺達の間に子供が生まれた。
 蘭丸のようにかわいらしい女の子だ。


    ~~~~~~


 我輩は猫であった。名前は蘭丸。ご主人がつけてくれた大切な名だ。
 我輩は人でもあった。名前は蘭。奥方が呼んでくれた大切な名だ。
 我輩は一度死に、そして我輩はここにいる。
 この記憶は徐々に薄れ、きっと消えて行くのだろう。
 だがそんなことは本当はどうでもいいんだ。
 我輩はご主人のそばにいる。それだけが唯一大切な真実なのだから。
 これからもずっと――

 すばらしい。


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最終更新:2008年09月13日 23:33
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