「せいっ!せいっ!」
虚空に向かって正拳突きを繰り返す。
道場には俺──二之宮貞雄の声だけが木霊する。
時間は午前7時15分。まだまだ他の生徒は登校して来ないだろう。
恐らく、今頃起き出しているんじゃないだろうか。
「おはよう…二之宮、今朝も早いな」
不意に声をかけられ、手を止め振り返る。
「竹内先生、おはようございます」
現れたのは空手部顧問の竹内先生だった。
ややメタボリックシンドロームが気になりそうな体型の男性教師である。
部員わずかに1名、廃部すれすれのこの空手部が存続していられるのも、ひとえに竹内先生の尽力あってこそだ。
体育系の先生ではないので組み手などはできないのだが、贅沢は言っていられない。
しかし、今年3年の俺が引退すれば部員はゼロ。確実に廃部になるだろう。
この春の新入生も誰一人として入部希望者はいなかった。
みな、サッカーやバスケの方が良いのだろう。空手も悪くない…と思うのだが。
「何か、用ですか?」
「いや、特に用ということもないんだが。…二之宮、もうじき引退だな」
季節は初夏。じきに進路相談やら高校見学やらのシーズンになるだろう。
「そうですね。でも、ギリギリまで続けます」
「…そうか。まぁ、練習頑張れよ。道場の鍵は職員室に戻しておくように。
先生は朝会に行くが、何かあったらすぐに連絡すること」
「わかってますって」
それが、竹内先生との最後の会話だった。
翌日
「おはようございます。道場の鍵、借ります」
いつものように職員室に鍵を借りに行くと、何か空気がいつもと違う。何だ?この違和感は…
「二之宮か?すまんが、しばらく空手部は活動自粛してくれんか」
「なぜですか?」
余りに唐突な活動自粛要請に疑問しか出てこない。
一人しか部員がいないなんてのは理由にならないし、一体何故?
「うむ、昨日竹内先生が交通事故に遭われてな。現在重篤状態なんだ。
顧問のいない部活は活動させるわけにいかんし──」
なんだって?
竹内先生が交通事故?
重篤状態?
顧問──責任者がいないから活動できない?
目の前が真っ暗になるのを感じた。
それから数日、竹内先生は帰らぬ人となった。
通夜、葬儀には参列し、ありったけの涙を流した。
空手部は顧問がいないこと、部員が一人であること、新入部員が望めないことを理由に廃部となった。
思わぬ形で部活を引退した俺は、これまでではありえないくらい勉強に打ち込んだ。
高校見学では空手部のある学校へ行き、志望校は全て空手部のある学校にした。
もっとも、俺の学力ではやや無理があるところばかりだったのだが。
そんな中、もう一つの事件が起こることになる。
「兄さん、起きて!兄さんったら!!」
んー…?なんだ、この可愛い声は?俺には双子の弟はいても、妹なんかいないぞ?
妹が欲しいなと思ったことはあったけど、両親に話したら無茶言うなって一蹴されたっけ。
「こうなったら…!えいっ!!」
布団が引っぺがされる。あぁ、毛布だけでも返して寒いのは駄目なんだ。
冷えた空気が脳を覚醒させる。
布団を奪ったのは…誰だ?
「お嬢さん、どちらさん?」
あれ?なんか声が高い…
「兄さんもなんだ…はぁ…」
「俺を兄さんと呼ぶのは真之(まさゆき)しかいないはずだぞ」
「僕が真之だ、って言ったら信じる?兄さんも鏡見たほうがいいと思うけど。…はい」
真之と名乗る見知らぬ女の子に渡された手鏡を見て、絶叫することになった。
空手部廃部、俺自身の女体化…
これは空手やめろ、ってことなのかと何度も思った。
しかし、調べてみると俺が志望する高校の一つに女子空手部があることがわかった。
俺の学力ではやや厳しいかもしれないということだったが、そんなのは関係ない。
そもそもの学力の差、勉強を始めた時期のハンデ…
全てを空手への冷めない情熱がカバーした。
過去問題集や模試の点数も回数を追うごとに伸びていった。
さらにそれから月日が経ち、高校の受験結果が出た。
結果は…合格。奇しくも、真之…いや、真奈美も同じ高校を受験していた。
進路についてはお互い不干渉、話題には出さないということだったのだが。
後から知ったのだが、この高校には女子空手部まであるらしい。
願ったり叶ったりだ。これでまた空手ができる。
「1年C組、二之宮沙奈美!女子空手部入部希望します!!」
fin
最終更新:2008年09月17日 17:50