『あっちゃんの夏』

「残念だけど、あんたはもう女性よ」
「え?」
「だから、もう完全無欠の女性よ。決定なの、現実なの」
「現実って…はは、何を言って――」

『現実よ』

「え、ちょっと……」

「現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実現実」
「――うわああああああああああっ!」

耳を塞ぎたくなる。
「全く、あんたが選んだ道でしょうか! いい加減現実を見なさい」
現実と言われても、どこからどこまで現実でどこからが幻想なのか、その境界がひどく曖昧で、
でもそれが、私が足を踏み入れた世界。

――私は女性として生きていく道を選んでしまったのだ。

「あのよ、童貞病って知ってるか?」

去る陰鬱な出会いの季節も終わり、本格的な夏の幕開けとなった六月も中ごろ。いつもの
ように他愛もない会話に明け暮れていたある日の昼休みこと。彰二は恥もなく、わけのわ
からない事を言い出した。

「――童貞病?」
大層な冠が付けられたその名に、ついうっかりと聞き返してしまう。

「なんていうか、一種の都市伝説なんだけど。思春期の童貞君がある日突然女の子になっ
ちまうって病気らしいんだよ。なぁ、興味わかねぇ?」
「そんなの、またその手の迷信でしょ?」
「あ、信じてねーだろ? 今度のはほんとのほんとなんだぞ!? 世界でもそう言う事例の
報告されてるんだって!」
「されてるんだって……。所詮噂の域に過ぎないんじゃ……」

さっき自分で都市伝説って、言ってなかったっけ?
どこから見つけてくるんだろう、こんな誰も知らないような『噂』を。

「違うって! マジだって、次こそは本当にマジなんだって!」

「――本当からマジに変わっただけじゃん」

彰二の都市伝説好きは今に始まったことではない、けど嬉々として真面目に語るその表情
に毎度の事ながら噴出しそうになる。

次は童貞病とか言われても。
かく言う僕も女性経験が今まで一度もなく、その機会にも恵まれたことがない。かと言っ
て、そのための努力さえもしたことがないんだけど。

不思議と、女性に魅力を感じないのだ。

「ケッ! このままだとお前もそのうち女になっちまうかもな!」

いつものように、効果がないと悟ったのか彰二は会話の終わりを捨て台詞で締めくくる。

「……………………………。」
無意味に核心を突く、彰二の言動に不安を煽られながら。

――いつか、ずっと前に、聞いた事がある。

異姓に魅力を感じない、っていうのは精神の問題ではなく肉体的な問題にあるって。単に、
発達が遅れているだけの事らしい。(彰二はこの事を知らない)
そんな危機的状況という他人事を我が身のように感じているのか、彰二はよくこう言った
"遠まわし的な脅し文句"を使う。そうやって、何かと女性に興味を持たせようって言う友
人の姿勢はありがたくあるんだけど――。
そんな彼の姿勢に反してこの時僕は、『女性になる』と言うフレーズに少し、心惹かれた。

多少危うく思いつつも、そんな都市伝説が実在したら面白いかもしれないって。

このままずっと童貞であることで女の子になれるのなら、そんな魔法のような事態に見舞
われたら僕の生き方はどう変わるのだろう?

世界もきっと面白いものとなるに違いない――。
いつもの妄想という名の逃げ道、でも考えれば考えるほど楽しい事しか浮んでこなかった。

「おい、聞いてるのか?」

「――――?」

突然、声をかけられて。僕の意識は現実へと引き戻された。
「次の授業体育だろ? 何、ぼーっとしてんだ。遅れちまうぞ」
「…ん、次サッカーだっけ?」
僕が軽くトリップしているうちに彰二は既に体操服に着替えていたらしく、僕はそっと目
配せして、
「あー……、さっさと着替えてこいよな。俺まで遅れるのは嫌だぞ」
彰二は彰二で言いたいことを察して、ぎこちない足取りで教室から出て行った。長年とは
言わないけど、今や体育前の習慣となっている僕の意図を理解した上で。

「こー言うのを女々しいって、言うのかな」

「ぜー、ぜー、ぜー………」

息つく、暇もない。サッカーの体育実習という事でもう二十分は動き回っている。
体力も運動神経もない僕だからこそ必然的に守備に回されたんだけど、余りものの穴埋め
は逆に全体に悪影響を及ぼしていた。なぜなら――、

「よっしゃあああ! またまたゴーーール!!」

相手側に一人、非常に張り切りすぎている奴がいるからだ。

「コラァー! 宮元、少しは手加減しろ。実習にならん!」

体育教師から激昂に似た諫言を受けるのは宮元 彰二(みやもと しょうじ)。
僕の小学時代からの友達(唯一のって形容がつきそうで泣きたくはあるけれど、本当なの
だから仕方がない)
「良いじゃないっすか、手加減しても授業になんないっしょ?」
おちゃらけながら彰二は笑う。サッカー試合としての運び自体はほぼ一方通行だった。
失点が桁一つ上がってからは皆のテンションは著しく下がる。
彰二のボールキープ技術も去ることながら、老成された巧みな動きはディフェンス陣を翻
弄し、やがてアタック陣が完全にその本質を忘れディフェンスに回ってからも全くと言っ
て良いほど効果をなしていなかった。

そして、またゴール。

「よっしゃー! 大人気ないが悪く思うなよ。俺はどんな相手であれ手加減しない主義なんだ」

本当に大人気ない……。

「サッカー部は引っ込めー!」
という声が所狭しと飛んでいたが当の本人は汗を垂らしながらも涼しげな顔をしている。

――そういった無鉄砲さが許されるのが、宮元 彰二という人間だった。
僕なんかと違って本当に運動神経も良くて、顔も良くて、人当たりも良くて……、三拍子
どころか四拍子も五拍子も揃っていて……。
天秤を前にして釣り合っているとはとても言えないけど、友達として付き合ってくれるの
は素直に嬉しかった。

「ったく、お前は本当に体力がねーな。ディフェンスの癖に息切れしてんなよ」
他を寄せ付けず、シュートを決めて早々軽口を叩く彰二に、
「誰かが、遠慮なく、攻めまくるからでしょ……」
僕は息を切らせながら反論した。おかげで走りっぱなしだったのだ。
それでもボールに到達した事は一度も無く、傍から見ればただいたずらに走り回ってい
るようにしか見えないんだろうけど。その時、

「ウスノロはウスノロらしく守備を全うしろよ、使えねえな」

不意に聞こえた、背後からの声に、電撃が走る。彰二はその相手を一瞥して、少し時間を置き、

「てめぇにいわれたかねーよこの豚野郎――……って言い返さないのか?」
「いいよ。本当の事…だし」
「ばかたれ、奥田みてーな馬鹿の言うことなんか本気にすんなよ。
なんなら俺がバシっと言ってやろうか。自分で言うのも何だけど俺様人気者だし、あんな奴イチコロだぜ?」

冗談だろうけど。奥田君も、どちらかと言えば僕サイドの人間だ。影が薄くあまり目立た
ない方だし、彰二が本当にけしかければクラス内では孤立してしまうだろう。でも、

「いいよ、悪気があって言ってるわけじゃないと思う、から」
そう、軽口なだけで決して悪意あっての事じゃない。自分に言い聞かせながら荒くなった
動悸を落ち着かせて、彰二の申し出を敢えて丁重に断った。

「お前、あいつの事となるとやけに擁護するよな。気にくわねー」

擁護しているわけじゃない。ただ、そう思いたいだけで。
彼は『友達』だから。

でもこんな事、彰二に言える筈もない。

「……そんなことない、って」

「でもよ、言うべき時に言うべきことは言った方が良い。あーゆータイプは言わせるまま
にしてると調子に乗るぞ」

「――彰二」

「なんだよ」

「……………なんでもない」

彰二のその忠告は実に的を得ていて、僕は何も言えなくなった。

その後、誰よりも早く教室に戻って、人の目につく前に学生服に着替えて、ホームルーム
を終えたその帰り道。

「なぁ、ゲーセンよっていかね?」

と、脈絡もなく彰二が言い出したことで駅前のゲームセンターに行く事になり、商店街を
歩いていると、

「あら、泉じゃない。何やってんのよ、こんなとこで」

長身でスレンダーな女性に声をかけられた。

白衣にグラサン……この時点で怪しさ満々だけどその雰囲気はどこか覚えがある。
街中で声をかけられる心辺りと言えば、彼女ぐらいしか思い浮かばないもんだ。女性の知
り合いって言ったら他に思い浮かばないし……、そもそも母さんや姉さんがこんな格好を
するとは思えないし、妹に至っては問題外である。という本当に少ない知り合いの女性陣
を篩いにかけて出てきた結論が彼女なのだが、しかし、いざ声をかけて別人だったらどう
しようという羞恥心で僕は恐る恐る確認するように返答した。

「……もしかして、宮穂さん、ですか……?」

それを聞いた目の前の女性は意を汲むようにグラサンを小指で吊り上げて、額にかける。
その奥にある顔は間違いなく彼女のものだった。

「あったりー。そんな事で馬鹿みたいに悩んで……相変わらずねぇ。あんたも」
「……びっくりしました。でも、こんな所で油売ってていいんですか?」
こんな所で出会うなんて。彼女の生息域はずっとあそこで篭りっきりのイメージがあるのに。
完璧超人もたまには外の空気を吸わないと死んじゃうのだろーか。

「うっさいわね、こっちにもジジョウってもんがあんのよ!」
「………へぇ、宮穂さんも疲れるんですね」
「そりゃそうよ。あんた私を超人か何かと勘違いしてるんじゃないの?
誰かさんの家族の姉じゃあるまいし、疲れるもんは疲れるわよ」

確かに……、姉さんが色んな意味で怪物なのには同意だけど。
彼女の体力に限りがあった事にも充分驚いたが、それにしてもなんだろう、この格好。

タンクトップに、下ジャージに、白衣に、サングラス……。
いくら流行、いや……女性としていかに無頓着な人とは言え、正気の沙汰とは思えない。
タンクトップの下に下着をつけていないのか、胸の辺りに突起が二つ出来ている。

そのまま流行の最先端に立ち続けて、反面教師として生きていけるんじゃないかと思った。
どちらかと言えばかなり美人の部類に入るんだろうに、勿体無い……。

「そんなだから彼氏出来ないんですよ。まずはその服装からどうにかした方が」

無頓着な所を直しても彼女の性格上、彼氏が出来るとは思わないけど。
結婚適齢期を逃しているとは言え、彼女はまだ二十代(多分)
いつかゴミ箱から拾ってくれる彼が現れる事を祈りつつ――……。

そして、言ってしまってからしまった、と思った。

「ゴミ箱って……あんたね、全てが余計なお世話よッ!」
「って何で分かるんですか…っ!」

「これでも専門士よ。あんた程度のお子ちゃまが何を考えているかなんて表情見ればお見
通しなのよ~~っ!」

理屈じゃなかった。僕の両こめかみに拳を合わせグリグリと。丁度、フィットした宮穂さ
んの拳が凄い勢いで回転する。さすがに洒落にならないので、命からがら逃げ出す。

「あのー…? 知り合いか何かで……?」

隣にいた彰二がもの問いたげに言う。彰二の存在を、すっかり忘れていた……。

「――え…、……うん、まぁそんなとこ、だけど」

どう、フォローしようか。そのまま言うわけにもいかないし。

「へぇ、君が―――」「って先生…!」
彰二に気付いた宮穂さんが興味深げにしていたので思わず叫んでしまった。
「ん? 先生??」
「いや、なんでも……ないから」

うぅ、また墓穴を掘るところだった。っていうか何を一人で焦ってるんだろう……。
自然でいればバレる事なんて何もないのに。

「心配しなくとも何もしないわよ…――で、君が、彰二君ね」

僕に邪魔をされた先生が、改めて彰二の顔を見入るように、
双方、顔の距離が二十センチほどに近づいた。

「うっ………な、ななんですか」

彰二は返答に窮しながら答える。それに気のせいでなければ、彰二の顔がすごく赤くて、
そんでもって上気しているような……。
僕は、不審に思い彰二の視線を追うと――…その先には、彼女の胸があった。

「む」

思わず、

「いてえ…っ! な、なにしやがる!?」
思わず、手が出ていた。割と本気で横腹を殴ってしまった。

「――――変態」
思い思いの言葉を、彰二に投げかける。彰二の今を明確に二文字で表せる素敵な言葉だ。

「くっ……!」
彰二は図星を突かれて気恥ずかしそうに顔を逸らす。

「あはは、君も見かけによらずウブなのねぇ」

僕もって言いたいんだろうな、絶対…。言う前に絶対こっちに視線投げかけたもん。

「ねぇ、彰二君って言ったっけ。君に聞きたいんだけど」

「――――友達と彼女、あなたならどっちを取る?」

「彼女と友達…? それって、どー言う意味っすか?」

「極めてそのままの意味よ。質問に特別な理由なんてない。ただ、君ならどちらを選ぶの
か聞いておきたいだけ。ただそれだけよ、そんなに重く考えないで気軽に答えてくれても
構わないわ」

彰二にとって不可解な質問。しばらく、彰二は考えに沈んでいた。
考えるに考える事、数分後、

「――友達、かな……」

――――――――――――………。

「そっかそっか、やっぱそーよね。あっはっは」

宮穂さんがこれまでにないほど、邪悪な表情に染まった気がした。この人はこの人で何を
考えているかわからないけど、何か彰二の気持ちを感じ取れたのだろう。

「そろそろ、私行くわ。あまりブラブラするわけにはいかないもんでね」

「先生、ワザとでしょ?」

「あん? 神様でもあるまいし、ただの偶然よ偶然。あ、そうそう。泉、三日後だから。
一応、自宅に連絡は入れといたけど忘れたら承知しないわよ」

まるで推し量ったようなこのタイミング。とても作為的なものを感じた。
考えすぎとは思えない。なんせあの宮穂先生だし……。

「なぁ、あの人なんなの……?」

「ただ言える事は、関わり合いにならない方が良いって事かな」

「でも、綺麗だったよな……。うわぁ、俺あーゆー大人のお姉さんが好みかも」

「ぶッ…! 絞りつくされるからやめたほうがいいよ……」

この後、彰二が『絞りつくされる』のくだりに反応したのは言うまでもない。

先生と別れた後僕らは当初の予定通り、ゲーセンへと向かった。
生まれてこの方一度も行った事がないくせに、物見珍しさにほいほいついていったのが全ての誤りだった。

「一人で暇してるっぽいからさー、俺達相手を探しているわけ」
「そーそー、遊ぼうよ~。楽しいよきっと」

まさか、こんな事になるなんて。

そうなる少し前――。

「お前さー、なんか隠してるだろ!?」

カコンッ!

「ないよ、そんなの…」

カコン。

「俺から見れば、お前が、何か、隠してるって、見え見え、なんだけどよ…!」

カコンッ!

「気のせいだって…」

カコン。

「馬鹿言え。気のせいなわけ、ねーだろって――……あぁ、また負けた!」

「いい加減諦めてよ」

もう少なくないお金をこの台にお布施してしまっている。こんな所で彰二の負けず嫌いさ
が明確に出てしまうとは……。

ゲームセンターに入るなり、彰二が言い出した突飛な提案はこうだ。

それは、エアホッケーでの対戦。俺(彰二)が勝てば、僕が悩んでいるその理由について
教えろと言う単純明快なもの。ある意味、力技。

彰二に言わせてみれば、このゲームに自信あっての事なんだろうけど、その選択は誤りだ
った。とりたてこれが得意というわけではないけど、彰二はなぜか極端に下手で、グラウ
ンド上で見せた手際のよさもここでは形無しだ。

「い、いや、あと一回、あと一回で買ってみせるから! な?」
「それ、もう何回目?」
多少焦りと苛立ちが入り混じった様な声で、彰二は財布の中を探る。

「――ってあぁ、もう小銭がねえ! ちょっくら、両替してくる」

彰二の遠まわし的な手段がここまでくると、少し腑に落ちなかった。

「ねぇ、君一人だよね?」

そんな中、少し考えごとをしているうちにいかにも、な二人組みが歩み寄ってきた。
僕の苦手なタイプだ。何か、用でもあるのか……?

「君だよ君、今一人でしょ?」
二人組みのうちの一人、短髪――恐らくさっき声を出した方――が言いながら、僕を指す。

「……僕、ですか?」
「うわ、ボクっ子! 可愛いー!」
対するもう一人。金髪の男が黄色い声をあげる。
………何なんだろ、この人たち。

「そんなコスプレしてるからさ、ナンパ待ちしてるのかなって思って」
「コスプレ? ナンパ? なんですか?」
「よかったら俺たちと付き合わない?」
「えぇっ………!?」

更に続く不可解な言動にいっそう混乱する。

「一人で暇してるっぽいからさー、俺達相手を探しているわけ」

暇、相手、ナンパ。
まさか。もしかしてこれは。

「そーそー、遊ぼうよ~。楽しいよきっと」

世に聞こえた、ナンパと言うやつでは?

――ていうか。え、ナンパ……ナンパ…って――!
僕かッ! 僕なのか………ッ!

「そんな……」

男に……、ナンパされた………。
その衝撃は、半端なかった。混乱から冷静になった頭で、事態を把握すると、今度が頭が
真っ白になって、自然と腰の力が抜けた。

地べたに両膝をついて図らずも正座する形になる。

「あはは、見かけに似合わずオーバーなリアクションするな~」

あなた達は良い。恐らく、僕を勝手に女の子と勘違いしてくれた上での発言だろうから。

「……あの、もしかして、それ僕に言っているんですか?」

とにかく現状を否定したい。
単に、僕の後ろに見知らぬ誰かがいるのかもしれない。
そうだ、きっと彼らは"彼女"に話しかけてるんだ。
僕ではなく彼女。そう、だからこれは僕の壮大な勘違い。
次に彼らが否定することで、それは真実のものになるだろう。

男なのにそんな勘違いをするなんて。自意識過剰にも程がある。
なんて、恥ずかしい。なのに帰ってきた答えは、

「それ以外に何があるんだよ?」

目を丸くしていた。
愕然とする。そのまま体育座りで塞ぎこみたくなる(実際にそうした)
彼らは僕に合わせて答えている。それは間違いない。それを裏返すには――、

「もしもし、そろそろはっきりしてくれないかな~?」
そうだ。彼らに僕が見えていなかったら?
彼らが僕ではなく、僕の位置にいる誰かに、話しかけているのなら。
僕に覆いかぶさった得体の知れない誰かを見ているなら。
僕の言う事がその得体の知れない誰かを通じて、彼らに伝わっているのなら。
その理由も頷け――、

「おい、いい加減にしろよ! 聞いてんのかよ!?」
「―――――っ! ご、ごめんなさい……っ!」

彼らの語気が荒くなる。僕がはっきりしないから、か。
ここに来て、逃げのためのわけのわからない妄想も、出来なくなった。
互いの認識に著しい相違があるのはわかる。目の前の二人が何かの間違いで倒錯的な人間
でない限りそれはきっと、正しい。

なら、正さないと。
でもその結果に逆上して彼らが殴りかかってきたらどうしよう。
見るに、彼らの性格は荒そう。だったらそれはあり得なくはないこと。
でも、このまま何も言えないでいたら同じことになる――。

錯綜する感情の中で、僕は何とか口を開こうとして、

「あ、あの……、何か、勘違いをされて――」

「あん?」
「………………っ」

しかし、言うべき事へのリスクに臆し、そればかりを考えて意に従わず口は震えるのみ。

言葉が、出なかった。

その時、

「――――……、――――」

ふと、頼りになる誰かの声が聞こえた気がして。

そうなると不思議で。
ただそれだけで、後押しされて自然に言うべき事を言おうと口が動く。

「………僕、男なんです。ですから、ごめんなさい!」

い、言えた――! それは、僕にとっては大きな進歩。

――だが、失敗だった。
返事を聞いた二人組は互いを見合わせ怪訝な顔をすると、やがて不可解な笑みへと変わり、

「あー、もう傷つくなぁ。もうちょっとましな断り方ってないのかよ」
ニヤニヤと。瞬間、二人は悪意へと変貌した。

理解する。
ダメだ……、この人達は、怖い。これから何をされるのかが、よくわかる。
それほど、生理的に受け付けないほどの笑み。
「俺らは傷つきました、ってことで強制連行決定~! ひゃっほーい」
金髪の男が、ふざけて僕の手を掴むと抜かしていた腰が強制的に立ち上がる。
掴まれた手の痛みで、一瞬意識が落ちそうになる。

全身が震えてしまい硬直する。

「で、ですからお二人のご期待には添えません……っ!」
「もうー、堅苦しい敬語なんて良いからさ~。言ってないで、遊ぼうよ!」
必死に弁明するが、正体を現した彼らは聞く耳もたず、掴まれたその手を振り解く事も出
来ず。抵抗してなお、入りから連れ出されて、ふと建物裏の路地が目に入る。
「悪いようにしないって♪ ほら。あそこ、いこっか?」

指で示された先は先程目に入った路地裏だった――。

ゾッとした。そんな状況がいつかの光景と似ていて……。
また、こんな事で、繰り返すのだろうか、と。過去と現在の絶望に似た感触

「――おいコラ」
でも、この時は確かに誰かの声がして。
僕は二人に抗い、必死にその方へ振り返る。その視線に入ったもの、それは彰二の姿だった。
「あぁ!? なんだよ、てめえ」
邪魔をされた二人は苛立ちを隠せずに、彰二を威圧する。しかし彰二は事もなげに相手の
敵意を受け流し、
「それ、俺の彼女なんだけど。お前ら、どうする気?」

とんでもない事を言ってのけた。

「彼女、だぁ……!?」
「そう、ソイツ、俺の彼女。だよな泉?」

反論したい所山々だが、不良二人に挟まれた手前、そう言われると頷くほかはない。
二回、三回、頷いただろうか、

「チィ、てめぇの彼女をコスプレされてこれからお楽しみかよ。
胸糞わりい、おい行こうぜ」
それを見ていた短髪は一転、興味をなくしたのか、
「おいおい、まじかよ。良いじゃん別に彼氏付きでも。彼女を前に粋がっている彼氏なん
てうぜーだけだし、フルボッコにしねえ? その後でまわしちゃおーぜ」
「アホ、そんな面倒くせー事出来るか。いくぞ、さっさと」
「マジかよ、つまんねー」

悪意の塊のような金髪を促して、ゲームセンターへと引き下がった。

「あっはっは! しっかし、お前がナンパされるなんてなー!」
さっきから、彰二はツボを得たかのように笑い続けている。それも爆笑といった類のもの。

「他人事みたいに笑って………」
「他人事だからな」

………………………。

他人事とは言え、彰二の行動は普通じゃなかった。つい先程の、彰二の言動を思い出し恥ずかしくなる。

彼女か――……。
もうちょっと言い様があったようにも思う。それ、俺のツレなんだよ、とか。
そいつ、本当に男なんだよ、とか。その結果の問答で彰二が確かめてみろとか言い出して、
大変な事に――……。

――いや。いやいやいや。
さっきから。何を考えてるんだ……!
またもや、軽くトリップしたまでは良いものの、無言の時間が相当経っていたのか、彰二
は気まずそうにしていた。あぁ、何か言わないと、

「――あの、」
「――まぁ。ある意味誇れるよ。お前の容姿も」

口を開いたのはほぼ同時だった。彰二はそれに気付かなかったのか構わずなのか、続ける。

「制服を来てても、女のコスプレだって思われるくらいなんだからな。自信持てよ」

「自信って、何が――」

「だからさ、男の俺から見ても女にしか見えねーほど、女の顔と遜色ねーって事だよ!
しかし、あいつらも不幸だよな。女と思って声かけた奴が実は男なんて。正体明かさない
で正解だぜ。つーかさ、わざわざ相手の事考えて男なんて言わなくても一言で断ればよか
ったんだぜ。それぐらいの機転がないもんかねー。だいたいお前、なよなよしてて男らし
くねーから絡まれるんだよ。傍目に見れば、可愛くて大人しい上に小柄ときたもんだ。奴
らでなくとも格好の的だっての!」
僕は知っている。彰二が饒舌になる時、それは――。
気恥ずかしくなり、それ以上は考えられなくなる。そんな中で出てきた言葉は、
「それで自信を持てって、女顔である以前に男なんだけど。酷なんじゃないかなそれは」
極めて平然を装って言ってみせた。
「ははっ、違いねえ」
ふとその時、冷静になる頭である悪事が浮んだ。彰二の言っている事が正しいのなら。
「じゃあさ、男らしかったら絡まれないのかな?」
「あぁ?」
「男らしかったら絡まれないのかなって」
女の子でも通用するのなら、それに先程の事もありと、少し仕返ししてみたくなった。
僕は真剣なまなざしで彰二の顔を見据える。自然と、視線が交わされるが少し間を置いて
彰二は顔を逸らした。
「ま、まぁ、お前には一生無理だな」
なるほど、彰二には通用するらしい。今後、色々と使いようがあるかもしれない。
しかし、男らしさか――、

「まさにそれなんだよね。僕の悩み」

悩み、と言うほどでもない。僕の根本的な問題。
それらを覆し、男らしくなれたら、きっと現状も変わるのだろう。

「――――――え?」
それが、どんなあり得ない事だったのかは知らないけど、
「こんな性格じゃなくて強くなりたい、ただそれだけだよ。僕の悩みって」

それ以降、彰二は口を閉ざしていた。心境まではわからないから何とも言えないが、僕が
言った事が思いもよらない事だったのかも。

しばらくは沈黙のまま、僕達は夕陽に染まった海沿い小道を歩く。夏の到来を告げる心地
よい風が吹き、海は穏やかに夕凪の時刻を迎える。
僕は長く、長く続く沈黙に耐えかねて、堤防の上を歩くような真似をしてみた。彰二が反
応するかなと思って始めた事だけど、やってみるとこれが意外と楽しい。
当の本人はまだ二の句が言えない状態なのだろうか。堅苦しく口を紡いだままだが、僕は
堤防の上でバランスをとりながら歩く事に夢中になっていた。そんな時、

「……そうだったのか!」

彰二がこれまたオーバーなアクションで急な叫び声を上げるものだから、

「うわっ……!」

ただでさえ、足場の悪い堤防の上にいた僕は足を踏み外して――、

「――おっと」「………あ、ありがと」

大した衝撃といったものはなく、道路に叩きつけられそうになった所を、彰二に受け止め
られたのだと理解するまで少々時間がかかった。

「大丈夫か? てか俺も混ぜろよ」

実に楽しそうに、彰二は軽口を叩く。どうやら、いつもの彰二に戻ったらしい。
話好きの彰二が押し黙るなんてらしくなかったから何気なく訊ねる。

「なんで、黙ってたの?」
「いや、お前から言い出すなんて思わなかったからさ」

――そうか。そうだったんだ……たった、それだけの事で……。

「それでお前、男らしくなりたいのか」

先程とはうってかわって真剣なまなざしで見つめてくる。少し、動揺する。

「ま、まぁね」

どもりながら、何とか返す。
彰二の単純な思考パターンを考えると後にくる言葉は決まっていた。

「よし! なら、明日から特訓するぞ!」
「僕には男らしくなんて無理だよね。彰二曰く『お前には一生無理』らしいし」

彰二の言い出すことをいちいち真に受けてはまず身が持たないので、先手を打つ。

「あっ…! お前、そーゆー事かよ、きたねぇ……っ!」

僕の意図にようやく気付いたようだった。それ以降は、僕の家に着くまで他愛もない問答
を繰り返す。それが、彰二と僕の日常だった。

「――そうだ。さっき何か、言おうとしてなかったか?」

今になってわざわざ拾わなくても。

「いや、何でもないことだから」

例えそれが空耳であってもそのおかげで"僕"はほんの少し、強くなれたのだ。
それだけは、決して間違いじゃなかった。

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最終更新:2008年06月12日 00:07
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