『世界で一番やさしい嘘』

12 名前: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 投稿日: 2007/09/08(土) 20:21:15.56 ID:ob6RIxxx0


姉さんの三回忌は、何の滞りもなく終わった。
たんたんと進んでいったその単純作業に、何か意味があるとは僕には到底思えなかった。

親戚たちの会話には、姉さんのこと以上に僕の母さんのことが挙がっていた。
僕の母さんは今入院している。余命はもう、後わずからしい。

あんなに大きく頼もしかった父さんの背中が、この二年で丸く、小さくなった。
僕の家族はもう、再生しようが無いほど、バラバラになっていた。


――世界で一番やさしい嘘


13 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 20:22:35.87 ID:ob6RIxxx0

学校が終わると病院に行くというのが日課になっていた。
病院に着く前にはっと思いついた僕は、花屋に寄って母さんが好きだったアネモネの花を買った。


アネモネの花束をもって、病室の入り口を抜けた。受付の横を通り、階段を目指す。
途中すれ違ったおじいさんが、僕が手に持っているアネモネを見て、顔をしかめた。

確か、白い花は縁起がよく無かったんだっけ。
それよりも、アネモネの花言葉がいけないのかもしれない。
でもそんなの関係ない。僕の母さんが好きなんだから、それでいいじゃないか。

14 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 20:23:56.31 ID:ob6RIxxx0

看護師の人が僕に気付くと、軽く会釈をしてくれた。僕も慌てて頭を下げる。
毎日病院に通っているので、ここで働く人は大体僕のことを知っている。
僕の母さんのことも。母さんの病気のことも。


母さんの病室は個室で、他に誰も患者がいないから、気兼ねなく毎日来ることが出来る。
病室の扉をノックすると、中から母さんの声が返ってきた。声だけ聞くと昔と変わらない。
扉を開け中に入る。母さんは上半身を起こして、僕の方をじっと見ていた。

「どなたですか?」


母さんはもう、僕のことを覚えていない。よくわからないけど、そういう病気なんだ。

15 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 20:25:19.92 ID:ob6RIxxx0

父さんと一緒に母さんの病気の説明を聞いたけど、高校生の僕にはよくわからない病気だった。
たぶん父さんも完全に理解している訳ではない。
わかったことは、脳がどんどん病気に冒されていって、いずれ死ぬということだけだ。


「花を持ってきたよ。アネモネ、好きだよね」
「あらあ嬉しいわあ。どうもありがとう」

母さんは子供のようにニコニコしている。やつれた頬が、痛々しかった。
花瓶に水を入れ、束になったアネモネを入れて窓際に飾った。
カーテンは全開になっていて、太陽の光がとても眩しく、目がくらんだ。

「いい天気ですねえ」
「うん。そうだね」


殺風景な病室から見える青空が、妙に儚く切ない色に見えた。

16 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 20:26:39.90 ID:ob6RIxxx0

母さんのいるベッドの方からごそごそと音が聞こえた。
振り返ると、母さんがベッドの傍にある小さな机の引き出しから、紙を一枚取り出しているのが見えた。
その紙には見覚えがある。

「これ見て下さいな。うちの娘がコンクールで優勝したときの表彰状です」

僕の姉さんが中学校の時とった、読書感想文のコンクールの表彰状だった。
最優秀賞という字が大きく書かれた紙の下の方に、青木優衣(あおき ゆい)という名前が楷書で書かれている。


母さんは僕や父さん以外にも、病室に訪れる人みんなに、姉さんの話をしていくそうだ。
どんどん記憶を失っていく中で、姉さんの記憶だけが鮮明なものとして残っていた。

17 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 20:28:01.18 ID:ob6RIxxx0

「五万円分の図書券をもらったんだよね。姉さん、こんなの使い切れないってぼやいてた」
「うちの娘は本当に出来た子でねえ。最近見ないけど、元気にしてるのかしら」


姉さんは本当に良く出来た人だった。

勉強は学校でトップだったらしいし、部活でやっていたソフトテニスでは県二位という成績を残している。
優しくて裏表の無い性格で、友達も多かった。何もかも、僕とはまるで正反対だった。


「あの子は本当に優しくてねえ。私が熱を出した時とか、おかゆを作ってくれて……おいしかったわあ。おかゆ」

19 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 20:29:01.08 ID:ob6RIxxx0


どうして姉さんが死んで、僕が生きているんだろう。
どうして母さんは姉さんしか覚えていないんだろう。

あ、そうか。



「誕生日には毎年アネモネの花をもらってるのよ。
 あら不思議、花瓶にアネモネが挿してあるわ。誰がやってくれたのかしら」


母さんの中では、姉さんは生きているんだ。
死んでいるのは、僕の方なんだ――。

20 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 20:30:20.14 ID:ob6RIxxx0

病院を出ると、さっきまで病室で見ていたような青空はなく、分厚い雲が空を覆っていた。
この雲が世界中を覆ってしまえばいいのに。光が無ければ、影も消える。

生まれた時からずっと日陰を歩いてきた。
姉さんという光が生み出した影の中で、僕はずっと息をひそめて生きてきたんだ。
光は消えて、影も消えた。影の中にいた僕は、誰にも気づかれることなく、消えていった。




家に着く頃には外は暗くなっていた。冷たい風が体から体温を奪う。
玄関のドアを開けると、中は真っ暗で、まだ父が帰っていないのだとわかった。

二階にある自分の部屋に入り、カバンを床に投げ出しパソコンの電源をつけた。

21 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 20:31:41.18 ID:ob6RIxxx0

インターネットに接続し、アネモネの花言葉を検索する。

『儚い恋』『薄れゆく希望』『見放される』
真っ先に出てきたそれらの言葉を見て、それ以上調べるのをやめた。

自嘲的な笑みがこぼれた。この花言葉と今の現状が、笑えない程マッチしているじゃないか。
本当に、笑えないよ。


ふと携帯の電源を落としたままになっていることに気がついた。
病院に入るとき電源をOFFにしてから、戻すのを忘れていたらしい。

電源をつけ、新着メール問い合わせをすると、父さんからメールが来ていた。
今日は遅くなるから、一人で適当に食べてくれ、とのこと。

姉さんが死に、母さんが病気になってから、家に帰るのが遅い日が多くなった。
そして遅く帰ってきた日は例外なくべろべろに酔っていた。

22 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 20:32:32.61 ID:ob6RIxxx0

大人はずるい。そうやって酒に逃げることが出来るからだ。
僕はどこにも逃げる場所が無い。光が無いと、影も出来ないから。

とりあえず部屋を出て、居間に向かおうとした時だった。
唐突に眠気が襲ってきた。まだ夜の七時半だというのに。
体が重く、反応が鈍い。脳みそが粘土になったような感じだ。

ばたんとベッドに倒れ込むと、意識せずにまぶたが閉じた。
ふと思い出した……明日は僕の、誕生日だ……。
ずぶずぶと体が沈んでいき……徐々に意識が遠ざかっていった……。

23 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 20:33:32.77 ID:ob6RIxxx0



「……! 起きろ!」



ゆっくりと目を開けると、父さんの顔がそこにあった。
何をそんなに慌てて……!

いつも頭の隅にある、最悪の予想が頭に浮かんだ。
まさか……母さんが……。ベッドから跳ね起きた。息を呑んで父さんの反応を待つ。

「……いいか。気をしっかり持てよ。……鏡を見てみろ」

母さんのことでは無いのだろうか。だが、父さんの言っていることがよくわからなかった。

「鏡……?」
「ああ」

勉強机の横に立てかけてある全身鏡の前に立った。
鏡に映った人物を見て、心臓が止まりそうになった。



「……姉、さん……?」

25 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 20:34:34.11 ID:ob6RIxxx0

鏡には、十七歳のままの姉さんが映っていた。
いや、着ている服は僕が昨日来ていた学生ズボンに、カッターシャツだ。
これは僕だ。そうか……十七歳になったから、女体化したんだ……。

「……今日は学校を休め。学校の方には俺から連絡をしておく」
「……わかった」

すっかり女声になっていたが、記憶の中にある姉さんの声とは少し違って聞こえた。
でもそれは僕が姉さんの声を喋っているからであって、人が聞いたらたぶん、ほとんど同じ声なんだろう。


「今日は家でゆっくりしているといい」

幾分混乱していた僕だけど、父さんのその言葉には、首を振ってはっきりと否定した。

「病院……行くから……」

父さんは何も言わず、ぽんと肩を叩いて、部屋を出て行った。
時計を見ると、もう朝の七時だった。

26 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 20:35:55.50 ID:ob6RIxxx0


父さんが仕事へ行った後、姉さんの部屋に行き洋服ダンスをあさった。
顔だけでなく、背丈から体型まで姉さんそのものなので、姉さんの服は全部僕にぴったりだった。

適当に服を選んで、鏡の前に立つ。服を着替えると、ますます姉さんそっくりだ。
姉さんを知る人が僕を見たら、気絶してしまうかもしれない。


母さんは今の僕を見て、何を思うだろうか。男の時の僕と同じ反応だろうか。
それとも……。


下駄箱の奥から姉さんが使っていたシューズを取り出し、履いてみた。
やっぱりサイズはぴったりだった。玄関を開けると、昨日の雨雲はすっかり消え失せ、青空が顔を見せていた。
女になってからも、やはり青空は不快な眩しさを放っていた。

27 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 20:37:15.91 ID:ob6RIxxx0


病院の入り口をくぐり、階段を上り、いつもの病室の前に出る。
青木の名札がかけられている病室。もう見慣れたものだ。

ノックをする。いつもの母の声。何も、変わらないのか……?
そう思い扉を開けたが、僕を見る母の目は、今まで見たこと無いくらい輝いていた。


「優衣……! 優衣! 来てくれたのね!」
「あ……母さん……」
「さあ、こっちに来て座りなさい。学校はどうしたの? 今日は休みなの?」


僕は迷った。自分は優衣では無いと言うべきなのか。

でもこんなに嬉しそうな母さんを見るのは、病気になってから初めてだった。
僕に母さんから笑顔を奪う権利なんて、あるのだろうか。

28 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 20:38:36.88 ID:ob6RIxxx0

「今日は……創立記念日で休みなの」
「あらそう。良かったわねえ。貴方が来るのを知ってたら、メロン食べずに取っておいたのに!」

痩けて肉がそぎ落ちた顔で、満面の笑みを浮かべる母さんを見て、僕の方まで嬉しくなってしまった。

「聞いてよ優衣。あのね、母さん昨日ね……」


饒舌になった母は、止まることなく話し続けた。僕はときどき相づちをうちながら話を聞いていた。
注射が下手な看護師や、まずい入院食のことなども話していたが、一番多いのはやはり姉さんとの思い出話だった。

姉さんが生まれた日から、十七歳で亡くなるまで、一つ一つの思い出話を母さんは語った。
ただ、姉さんが死んだことについては一言も話さなかった。
その部分の記憶が無いから、今の僕を姉さんと思いこんでいるのかもしれない。

29 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 20:40:00.67 ID:ob6RIxxx0

小一時間ほど経ったとき、病室をノックする音が聞こえた。
入ってきたのは、検診にきた担当の医師だった。

「ん……? 君は……」


女体化は医学の分野でも研究が行われている。
病院で女体化した人のカウンセリング等を無料で行っているところもある。
そういうことがあってか、先生は僕を一目見ただけで、僕の正体を見抜いてしまった。

先生が口を開く前に、母さんが先に僕を紹介した。

「先生、ほら、いつも話している私の娘です。どうです、美人でしょう?」

先生は姉さんが死んだという話を知っている。
母さんが病気にかかったのは、姉さんが死んだことによるストレスが大きく関わっていると前に説明を受けた。

31 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 20:41:11.22 ID:ob6RIxxx0

先生が僕の方を見る。僕は無意識に訴えるような視線を投げかけていた。
一瞬だけ、先生が小さく頷いたような気がした。

「……ええ、写真で見た通りですね」
「でしょう!」


先生は僕の意図を汲み取り、母さんの話に合わせてくれた。
この時既に、自分の正体を明かすという選択肢は、僕の中で消滅していた。


いや、消滅したのは僕自身か。


「はい。検診終わりです。何かありましたら、ナースコールで。それじゃ」

先生は僕をちらっと一瞥し、少し会釈しただけで部屋を出て行った。
全てを委ねる、ということなのか。

「母さん。お昼になるから、ご飯食べてくるよ。食べ終わったら、また来るから」
「うん、そうね。ご飯食べないと元気出ないもんね。お母さんも頑張るから!」

32 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 20:42:48.64 ID:ob6RIxxx0


病室の扉を閉め切るまで、笑顔で手を振り続ける母が見えていた。


僕は姉さんじゃない。それはわかってる。
姉さんの代わりにはなれない。それもわかってる。


――それでも、最期の時まで、僕は姉さんのふりをし続けよう。
母さんの記憶の中で生き続けているのは、他の誰でもない、僕の姉さんだけなんだから。


本当の僕は、もう死んでいるのだから。


48 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:29:29.32 ID:ob6RIxxx0



家に帰ったのは、日が暮れてからだった。
父さんは先に家に帰っていて、遅く帰ったことを叱られるかと思ったが、そんなことは無かった。

夕食の時、父さんに昼間のことを話した。
これから母さんの前では姉さんに成りきるつもりだということも。
最初は猛烈に反対された。久々に見る父の怒りの顔だった。

死者に対しての冒涜だと言われたが、僕はもう死んでる、と言ったら、父さんはそれ以上何も言わなくなった。
母さんは父さんのことも覚えていなかった。僕たち親子は、もう死んでいるのだ。

夕食を食べ終わった後、食器を洗う父さんの背中が、今日は一段と小さかった。

49 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:30:33.83 ID:ob6RIxxx0


それからも毎日、学校帰りに病院に寄った。
担当の先生が他の医者や看護師に僕のことを話しておいてくれたらしく、僕の正体がばれることは無かった。

僕と話している時の母さんは、病気が回復しているのではないかと疑う程元気に笑う。
そんな母さんを見ていると、僕の方も病気のことなど忘れるくらい楽しかった。
それでも病気の方は確実に進行しているらしく、日に日に症状は悪化していった。

50 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:32:06.22 ID:ob6RIxxx0


「あのねー。先生がー、わたしの絵をほめてくれたの。いい絵だねって。上手くかけたら、ほめてくれるの」

母さんの記憶は徐々に幼い頃に戻っていき、姉さんの話すらあまりしなくなった。
それでも記憶の片隅に姉さんが生き続けているらしく、ふと思い出したように語り出す。
完全に姉さんの記憶が消えたら、僕が姉さんのふりをする必要が無くなるのだが……。


そのとき僕は、一体誰なんだろうか。
母さんの中の姉さんが死んだら、僕はこの世から完全に消滅するんじゃないだろうか。


それでもいいかと、最近思えてきた。この世界には、辛いことがあまりにも多いから。


51 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:33:57.33 ID:ob6RIxxx0


ある日学校にいるときに、病院の方から連絡が来た。母さんの容態が急変したという報せだった。

学校の外に父さんが仕事で使うバンが止めてあり、それに乗り込んだ。
青い顔をした父さんが震える手でハンドルを握っているのを見て、僕は何も言えなかった。


病院につくと入り口で先生が待っていた。
父さんは開口一番母さんの容態のことを聞いた。
先生は病室で説明すると言って、僕らはそれに従った。
はやる気持ちを抑えて、先生と一緒に母さんがいる病室へ向かう。


ベッドには、呼吸器をつけて静かに横たわる母さんの姿があった。
先生が父さんに何か言っていたが、僕はそれをあまり聞いてはいなかった。

52 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:36:53.76 ID:ob6RIxxx0


ついに母さんは喋ることさえ忘れてしまった。

母さんの脳を冒している病気は、記憶のみならず、母さんが培ってきた人格さえ破壊したのか。
もう僕が姉さんの真似をしても、意味は無いのだ。


先生が喋らなくなると、部屋に静寂が訪れた。父さんは声を殺して泣いていた。
それを見てようやく自分も泣いているということに気がついた。
悲しみに満ちた病室で、電子的な機械音だけが、時を刻んでいた。


それからずっと、母さんの傍にいた。
先生や看護師の人たちが代わる代わる病室に来たが、それに対応する気力を僕も父さんも持っていなかった。

53 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:38:55.58 ID:ob6RIxxx0



僕も父さんも、一言も喋らないまま、夜が明けた。

さっきまで看護師の人がいたが、今病室にいるのは僕と父さんだけだ。


締め切ったカーテンから、外の光が漏れている。


母さんの意識があったなら、言葉が喋れたなら、きっとカーテンを開けてと要求するだろう。

54 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:40:46.89 ID:ob6RIxxx0


そのとき、カーテンの隙間から差し込んでいた一筋の光が、眠っている母さんの顔にすーっと伸びてきた。
僕と父さんは、まるで魅入られたかのようにその光の動きを目で追っていた。

光は迷うことなく、母さんを目指して一直線に進んでいく。


光が母さんの顔の上まで来たとき、奇跡が起こった。
眠っているはずの母さんが、ゆっくりとまぶたを起こし、僕たちを見たのだ。

僕と父さんは声にならない悲鳴を上げて、椅子から立ち上がった。
母さんは呼吸器をつけたまま、懸命に口を動かし何かを喋ろうとしていた。

55 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:41:50.42 ID:ob6RIxxx0

すぐに父さんが駆け寄り、母さんの呼吸器をそっとずらし、耳を近づけた。
僕も父さんに続いて母さんの口元に耳を近づける。
その時祈るような気持ちだったのは、きっと父さんも同じだったんだろうと思う。




「あなた……」
「……!」



小さく、か細い声で、それでも確かに母さんは、そう言った。

父さんが必死に嗚咽を我慢しているのがわかった。
母さんは、父さんのことを覚えていたのだ。
最後の最後まで、父さんを忘れてはいなかったのだ。

56 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:43:47.80 ID:ob6RIxxx0

「それに……」


母さんは苦しそうに呻いた。まだ何か喋ろうとしている。

僕も父さんも、何も言わずに母さんの言葉を待った。
それは永遠とも思える時間だった。

57 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:45:23.71 ID:ob6RIxxx0




「……」




58 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:48:24.15 ID:ob6RIxxx0




「……」




59 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:50:03.64 ID:ob6RIxxx0






「……」




61 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:52:11.41 ID:ob6RIxxx0





「……ユウ君――」




「――!」






死んだはずの、男の名前だった。

62 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:53:37.81 ID:ob6RIxxx0

母さんは、僕のことも忘れてはいなかった。
消滅したはずのその存在が、光に照らされ再び輪郭を取り戻す。

その者がいるのは、影の中ではない。優しい光に満ちあふれた場所だ。
僕は、生きている。僕は、僕だったんだ。



病室に医者と看護師が駆け込んできた。
途端に母さんが咳き込み、心電図が乱れる。


僕と父さんは母さんの手をしっかり握り、最期の時を待った。

63 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:54:29.15 ID:ob6RIxxx0




全て、終わった。母さんは安らかな顔で逝ってしまった。
まるで生きているようだった。まだ体温を感じるその体に、死が訪れたという実感は沸かなかった。



母さんのいる病室を後にし、僕たちは医務室へ連れてこられた。
先生に深く頭を下げ、僕たちは泣きながら挨拶を交わした。

その後、親戚へ連絡しなければならないため、部屋から出ようとした僕たちを、先生は呼び止めた。


「これは……理恵さんから口止めされていたことなのですが……」



それを聞いたとき、枯れ果てたと思っていた涙が、再び流れ始めた。

64 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:56:25.24 ID:ob6RIxxx0

母さんは嘘をついていた。
本当は、僕の正体を知っていて、わざと知らないふりをしていたのだ。


母さんは先生にこう言ったらしい。
あの子が私を励まそうとしてる。だからもうしばらく、騙されたふりをしようと思う、と。

思ったより病気の進行が早く、言い出せないまま危篤状態になってしまった。
それでも母さんは、最後の力を振り絞って、僕の存在を教えてくれた。



嘘をついていたのは、僕ではなく母さんの方だった。

65 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:58:31.55 ID:ob6RIxxx0

「君が女体化してから、理恵さんの記憶の、あなた方の部分が戻ってきたのです。
 よくあなた方の話を聞かせられました。ちょっと支離滅裂でしたけど、私がメモに書き取ってあります」


先生は机の上から、何枚かの二つの紙の束を僕たちに差し出した。
僕が受け取った紙には、小学生の時ガラスを割ったことや、中学校のテストで名前を書き忘れ
あやうく零点になりかけたことなど、些細なことでさえそこには書かれていた。


「私から、記憶が戻ったことを話した方がいいと勧めたんですが、理恵さんはそれをしませんでした。
 あの子の気持ちを無駄にしたくないから……と。結果的に、あなた方に伝えられないままでしたが……」

66 名前: 世界で一番やさしい嘘 投稿日: 2007/09/08(土) 21:59:09.43 ID:ob6RIxxx0

先生がすまなそうにうなだれると、僕と父さんは顔を見合わせて笑った。

「いえ、ちゃんと間に合いました。ありがとうございました」

父さんの声に、以前の力強さが戻っていた。僕の家族はバラバラになどなっていなかった。
心のどこかで繋がっていた固い絆は、不治の病でさえも断ち切ることは出来なかったんだ。



病院から出ると、空は眩しいほどの青空だった。
鮮やかな青色に、もう不快感は感じなかった。




――世界で一番やさしい嘘   終

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最終更新:2008年06月14日 03:59
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