グレーゾーンのメイドと家政婦2-2
カーテンで閉め切られた室内に電子音が響く。
朝の独特の清らかな静寂を打ち破る音は、携帯電話から発せられていた。
壁際に設置してあるシングルサイズのベッドの上で、はじめは目を覚ました。
寝起きの頭にとって不快な電子音を止めるためにはじめはベッドから這い出した。
机の上に置いてある携帯電話のアラームを止めて、今が朝の7時だと確認する。
カーテンを開けると、朝の日差しが部屋に差し込んできた。
一階にあるはじめの部屋の窓は出窓になっていて、身を乗り出せば庭の様子を観察できる。
家は洋風なつくりをしているので、調和をとるように庭も洋風になっている。
敷地は木柵と背の低い木で囲まれていて、芝生が広がっている。
部屋の窓からは見えないが、玄関や家の裏手には母が趣味でやっているガーデンがある。
藤森家の敷地は内外問わずマナが手入れをしているため、ガーデンの手入れもマナがやっている。
同じ家に住んでいるせいで、はじめはマナが手入れをしている姿を何度も見たことがある。
メイド服を着たマナが花の手入れをしている姿は絵になっていたが、
芝生を機械で刈っているときも同じ格好をしていたときは多少の違和感を覚えた。
それでもしっかり手入れができているので、結果的には問題はないのだが。
パジャマを脱いだはじめは大学へ通うための服に着替え始めた。
6月の空気はすでに夏と変わらなくなっており、服の選択も軽装になる。
下着を替えてから、2年ほど履き続けているジーンズと、カーキ色の半袖シャツを着る。
バッグに必要な本と筆記用具を入れれば、出発の準備は完了する。
しかし、はじめはまだ大学へは行かない。
時間が早いというのもあるが、朝は他にやることがある。
ドアの向こうから、コンコン、というノックの音。
続いて、ドアの向こうからやよいの声がはじめの耳に届く。
「はじめくん、起きてますか? 朝ごはんできてますよ」
朝にやるべきこと。やよいに起こしてもらうこと。
今日のようにはじめはいい時間に起きることはあっても、寝坊することは少ない。
例え肉体が相当に疲労していようとも、起きることはできる。
それでもやよいには起こしてもらう振りをしている。
なぜかと言うと、やよいが朝のあいだ不機嫌になってしまうからだ。
同居してやよいの性格・行動パターンを少しだけ理解してからは、
やよいが起こしにくるまではじめは部屋から出て行かない。
鍵がかかっていない――一度壊れてから鍵を取り外してしまった――ドアを開けて、
はじめはエプロンドレスを身に纏ったやよいと向かい合った。
「おはようございます、はじめくん」
「おはよう、やよいさん」
「昨晩は、よく眠れましたか?」
「ええ」
「そうですか……それは、よかったです。ふふふ」
朝の挨拶を終えると、はじめは洗面所へ向かって歩きだした。
はじめは顔を洗い終えて居間に向かうと、すでにテーブルの上には料理が並べられていた。
今日の朝食は白米、味噌汁、塩鮭、青菜のお浸しだった。
やよいとマナは、床に敷いたクッションの上で正座して、はじめを待っていた。
部屋に入ったはじめに気づいたマナが声をかける。
「おはよ、はじめ」
「おはよう」
はじめはマナの顔を見て返事をすると、自分の席に座った。
「なんだか眠そうね。どうかしたの?」
「どうもしてないよ」
そう言いながらも、はじめは自分の頭に睡魔がまだ居座っていることを自覚していた。
しかし、耐え切れないほど眠いわけではないので顔には出さない。
ここ最近のはじめにとっては、昨晩の出来事は慣れたことだからだ。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
はじめは手を合わせると、味噌汁に口をつけた。
「どうですか? お味の方は」
「いつも通り美味しいですよ」
「そうですか。ありがとうございます」
やよいは嬉しそうに笑うと、箸を持って朝食を食べ始めた。
他人から見てもわかるほどの上機嫌だった。
マナは2人のやりとりを視界のすみに収めていた。
青菜のお浸しを口に含み、味わうように何度も噛む。
「んー……悔しいけどやっぱり美味しいわ。なんでやよいの味には敵わないのかしら」
「マナも先生に弟子入りしてみたらどうですか?」
「いやよ。私にとっておじさまはおじさまのままだもの。先生じゃないわ。やよいが教えてよ」
「それはできません。お浸し一つとっても秘密のやり方があるんですから」
「けち」
やよいは同居しているはじめはおろか、マナにも料理を詳しく教えない。
一般的に知られている調理方法を教えたりはするが、美味しく作る方法のようなものは教えない。
どうやらはじめの父に口止めされているらしく、どれだけ粘っても口を開かないのだ。
はじめは朝食を残らずたいらげると、やよいが淹れてくれたお茶を飲んだ。
安物の茶葉を使っているというのに、はじめが淹れたものとは別物だ。
やよいの師匠の父が淹れたらもっと美味しいのだろうか、とはじめはなんとなく思った。
はじめがお茶を飲み干して時計を見ると、すでに大学へいく時間になっていた。
「それじゃ、僕はそろそろ行くね」
「はい、いってらっしゃい」
立ち上がったはじめを見て、マナが口を開いた。
「私、送っていこっか?」
「……いや、いいよ」
「そう? まあいいけど。いってらっしゃい、はじめ」
はじめが玄関から出ると、朝の涼しい空気と日差しがすぐに感じられた。
今日の天気予報は晴れ。降水確率は0%。
雲は少しだけ空を覆っていて、降り出しそうな気配を見せていなかった。
はじめが大学の講堂に入って最初にやることは卓也を探すことだ。
いつも卓也は入り口に近い場所で講義を受けるため、入ったらすぐ見つかる。
今日もいつもと同じように入り口付近、廊下から見える位置に卓也は座っていた。
友人の隣の席に座って、はじめは声をかけた。
「おはよ、卓也」
「おう」
「昨日はあれからどうした?」
「地獄を見る一歩手前だった。千夏のやつが道場で稽古していけって言い出しやがってな。
千夏を車から降ろしたら、すぐに逃げてやった」
「それから?」
「バックミラーで後ろを見たら追いかけて来やがった。
もし信号が道場の近くにあったらあいつにとっ捕まってたな。
ま、そんなことになってたら今頃俺はここにいないけど」
「なるほど」
卓也にとって千夏の家、酉島道場は危険スポットらしい。
稽古を受けただけで大学にも来られなくなるかもしれないということは、
相当に厳しい稽古をさせられるということだろう。
運動系の部活に所属したことのないはじめにとっては想像がつかないが、
苦い表情を作る卓也を見ていると恐ろしいものであるということはわかる。
ここで、はじめはあることに気がついた。
「そういえば、どうして稽古が厳しいってことを知ってるんだ?」
卓也ははじめの顔をちらりと見て、また顔を逸らした。
教壇の方を見ながら、卓也は語りだした。
「昔の話だぞ。俺と千夏は小学校のころ喧嘩したことがあったんだ。
最初は口喧嘩だったんだけど、次第にエスカレートして俺が手をだしちまったんだ。
今思えば、あのやりとりが俺の人生を狂わせたんだと思う。
学校が終わってから千夏の家に呼ばれたんだ。決着をつけようって言われて。
んで、コテンパンに叩きのめされた。鼻血は出るわ口の中は切れるわ。
翌日はひどい筋肉痛になって最悪だったよ」
卓也は長い、かなり長いため息を吐いてから言葉を続けた。
「それからことあるごとに千夏の家に連れて行かれて、
中学卒業するまで稽古と言う名の体罰を与えられた。今でも時々会うと稽古に誘われるんだ」
「じゃあ、卓也も空手ができるのか?」
「いや……真似できるだけだな。千夏とは比べることすらできない」
「でもさ、稽古に誘われるってことは、酉島さんは卓也に気があるんじゃないのか?」
「お前は何を言っているんだ。仮にそうだとしても断固拒否させてもらうぜ。
それに、昨日の素振りを見ていたら……」
卓也は何かを思い出すように視線を上に向けた。
固まったまま口を開かない卓也に向けて、はじめは声をかけた。
「どうかしたのか?」
「……なんでもねえよ。ハア、なーんでお前ばっかりいい思いをするのかねえ」
肩を落とすと、卓也は再びため息を吐き出した。
大学からの帰り道。はじめと卓也は帰りがてら商店にある本屋に立ち寄っていた。
卓也は書籍のコーナーへ向かうと、目を皿にして本棚を見始めた。
背表紙を指で指しながら、横へ向かい、端にたどり着くと下の段で同じことをする。
「何の本を探してるんだ?」
「うむ。それはだな……おう、これだ!」
卓也は一冊の本を指すと、本棚から抜き出した。
本の表紙にはメイド服を着た女性が描かれていた。両手で箒を持ち、廊下にたたずんでいる。
本のタイトルは『徹底図解 正しいメイド服の作り方』。
「そんなもの買ってどうするんだ」
「決まっている。俺達でメイド服を作るんだ」
「作って、自分で着るのか?」
「馬鹿を言うな、メイド服は男が着るもんじゃねえ! 美女が着るからいいんだ!
やよいさんとマナちゃんにあげるに決まっているだろう!」
「ああ、そういうことね」
「というわけで、はじめも手伝えよ。お前裁縫も得意だっただろ?」
「それなりにね」
藤森家に住む人間には役割分担がある。
誰に言われたからというよりは、3人の得意分野が分かれているから分担されたのだ。
やよいは当然、料理の一切を取り仕切っている。料理と力仕事以外はなぜか上手くできない。
マナは几帳面な性格を反映し、掃除を全て1人で行っている。
人手が足りないときははじめとやよいの手を借りるが、基本的に1人で掃除を行う。
はじめが唯一任されているのは、裁縫や大工作業だ。
他の家事をやらせないやよいとマナも、こればかりは率先してはじめに任せる。
2人が着ているメイド服もはじめが作ったものである。
「それぞれの特徴に合わせたメイド服をプレゼントしたほうがいいと俺は思うんだ。
マナちゃんはフリルをふんだんに使ったものにしてな」
「やよいさんは戦うメイドさんって感じ?」
「なんでそうなる。そんなイメージはちっともないだろうが」
はじめは卓也の反応が意外なものに思えた。
しかし、自分がさらわれた時にやよいが見せた戦いぶりを思い出し、すぐに思い直した。
そういえば、卓也はやよいさんが戦ったときにいなかったっけ。
「そうだな……やよいさんは、料理が得意で……あと清楚な美人で……えーっと」
卓也は腕を組んで、うんうんと唸っていた。
せっかくのイメージをあえて壊すこともないだろう。
はじめは新刊の本を手にとって、卓也が落ち着くまで立ち読みすることにした。
はじめと卓也が本屋から出て駐車場を通りかかったときのこと。
停めてある車と車の間から女性が出てきて、卓也の腕を掴んだ。
「た、助けてください……あ、の、変な……」
髪の毛を三つ編みにしている、いかにも大人しそうな女性だった。
息切れしているせいで、喋る言葉は途切れ途切れだったが、紛れもなく助けを求める声だった。
卓也は女性の肩に両手を置くと、事情を聞くことにした。
「どうしたんですか。何か困ったことでも?」
「あの! 男の人たちがいきなり声をかけてきて!」
女性は後ろを指で指した。彼女がやってきた方向から、数人の男がやってきた。
全員がぶかぶかのズボンや大きめのブーツを履いて、いかにもガラの悪そうな男達だった。
「なんだお前ら、その女の知り合いか?」
と、近づいてきた男の1人が口を開いた。
卓也は女性を自分の後ろに隠しながら、返事をした。
「いや、知り合いじゃないけど」
「んじゃあ、さっさとその女よこせよ。その女、俺達にガンくれやがったんだからよ」
「……何をするつもりだ」
男達は返事をする代わりに、仲間と顔を見合わせて、下卑た笑いをうかべた。
はじめにも卓也にも、男達の目的がなんであるのか理解できた。
2人は視線を交わし、とるべき行動を見定める。
こういう場合は男達を相手にせず、逃げるのが得策だ。
卓也は女性の手を握ると、全力で走り出した。
はじめも2人の後ろにつくようにして走り出す。
「おい、待ておまえら!!」
後ろから、男達の怒鳴り声と足音が聞こえてくる。
「おいコラ、今すぐ止まらねえとブッ殺すぞ!!」
予想通りの反応。
男達は熱くなり、はじめたちを追いかけることしか考えていない。
追いかける対象がいれば、男達にとってはそれだけでいいのだろう。
すでに女性のことは記憶から消えているはずだ。
はじめと卓也と追われている女性はデパートの中へ入った。
どこかの店に入れば男達も諦めるかもしれない、という考えからだった。
入り口付近にあるエスカレーターに乗り込み2階へ上がる。
天井に吊るされている案内を見てトイレへ向かう。
女子トイレの前に来たら、息が上がった状態の女性をトイレへ押し込んだ。
「いいですか、ここでしばらく……何十分かじっとしていてください。
俺達があいつらをどこかに連れて行きますから。その後で誰かに連絡してください」
「え……で、でも……。お、お2人が……危険な目に、会い、ますよ……」
「大丈夫ですよ。こんな経験は何度かしたことがありますから、な?」
卓也の言葉に対して、はじめは頷くことで返事した。
なぜか普段と変わらない卓也とは対照的に、はじめはすっかり息が上がっていた。
はじめは運動オンチ、ついでに運動不足でもあった。
「それじゃあ、お元気で!」
「あ、あの……お名前は?!」
「名乗るほどのものじゃありませんよ。それでは、さようなら!」
どこか芝居がかった口調でそう言うと、卓也はトイレから立ち去った。
はじめは運動不足の自分を呪いながら、卓也の後を追った。
1階に下りるまで、2人はガラの悪い男達に発見されなかった。
2人は壁に隠れながら、これからどうするか対策を練ることにした。
「正面、裏口、どっちから出る?」
「たぶんあいつらは僕達がここに入るのを見ているはず。だとすると正面にいる可能性が高い」
「だとすると、正面から出なけりゃいけないな」
男達を女性から引き離すためにはどうすべきか。
あの手の男達は人の顔を覚えないから、女性の顔を覚えていない可能性もあるが、万が一ということもある。
はじめと卓也が、男達をこのデパート離れさせないといけないのだ。
「よし、それじゃ正面から行くとしよう」
「うん。……はあ。なんで今日はこんな目に会うんだろ」
「知るか。メイド神様にでも聞け」
「……架空の神様を作り出すの、やめようよ」
こんなときでも落ち着いている卓也を少しありがたく思いながら、はじめは嘆息した。
卓也の後ろを歩きながら正面へ向かう。
すると、正面の入り口脇に置いてあるベンチに座っていた男の1人と目があった。
女性を追いかけてきた男達の1人だった。
「おい、いたぞ!」
男の声を聞いて、周りにたむろっていた男達も顔を一斉に顔を上げた。
「はじめ、裏に回るぞ!」
きびすを返した卓也の後を追って、はじめも走り出した。
店内中央の通路を歩く人たちを掻き分けながら2人は突き進む。
後ろから男達の怒号と、いろいろな非難の声が聞こえてくる。
卓也は裏口の押すタイプのドアを突き破るようにして外に飛び出した。
はじめも卓也に続いたが、前を見ていなかったせいで開いたドアの向こうにいた女性とぶつかってしまった。
ぶつかった反動で、はじめは地面にしりもちをついた。
女性は腕を盾にしていたようで、はじめのように倒れていなかった。
「ご、ごめんなさい!」
「ちゃんと前を見て歩け! いきなり飛び出してくるなんてなにを考えているんだ! ……ん? はじめか?」
「え?」
はじめは女性に向かって下げていた頭を上げた。
ぶつかった人物は、はじめと卓也の共通の知り合いだった。
「酉島さん!」
「やっぱりはじめだったか。まさか昨日の今日で会えるとは思わなかったぞ」
「うん、僕も……って、そんな場合じゃないんだ!」
「どうかしたのか? さっきは急いでいたみたいだったが」
はじめと卓也の2人とは対照的に、千夏は落ち着いたものだった。
少し前を走っていた卓也は、道を折り返して戻ってきた。
「今はお前の相手をしてられないんだよ! 行くぞはじめ!」
「……なんだその言い草は。また骨を折られたいか?」
「だから、それどころじゃ」
その時。
「いたぞ!」
卓也の声を遮る形で、追ってきた男達の声が割り込んだ。
「今度は一体なんだ。騒々しい」
千夏はいかにも不機嫌そうな顔を作ると、男達に目をやった。
飛び出してきた男の数は8人。
はじめが本屋で目にした数よりも多くなっているように思えた。
男達を見つめていた千夏は、後ろにいる卓也のほうを振り返った。
「お前、何をやったんだ」
「何もやってねえよ! こいつらが女の子を無理矢理どうにかしようとしたから逃がしただけだ」
「ほう、卓也にもそんな殊勝なことができたのか」
感心したように千夏は頷いた。
「おいコラ、お前もこいつらの仲間か?!」
千夏の態度が気に食わなかったのか、先頭にいた男がくってかかってきた。
女性としては背が高い千夏と比べても、その男は大きかった。
肩幅は千夏の1.3倍はあり、盛り上がった胸筋の位置は千夏の頭と同じ高さにあった。
つまらなさそうな顔をして、千夏は口を開いた。
「ただの知り合いだ。だが、無視するほどに冷めた間柄でもない」
「ああ? 何言ってんだァ?」
「言葉がわからないのか? そうか、学が無いのか。そんな顔をしているものな」
「てめえ、舐めてんのか! 犯すぞクソアマ!」
千夏は腕を組むと、男に向かってこう言った。挑発するように。
「できるのか? 見たところ、モノが小さそうだが」
お前はただ体が大きいだけだ。そう言っているように、はじめには思えた。
千夏の言葉を聞いた男は見る見るうちに怒りで顔を赤くすると、
わけのわからない言葉を叫びながら拳を握り、千夏に殴りかかった。
男の右拳は千夏の左頬に命中した。後ろにいたはじめにも、殴る音が聞こえた。
鈍い音が1回と、小さくて軽い音が、1回。
千夏が殴られたときに逸らした目を千夏の後ろ姿へ戻すと、奇妙な光景が見えた。
千夏の立ち位置が、殴られる前の場所からまったく変わっていない。
男の拳は千夏の頭を殴ったときのまま変わっていない。
変わっていたのは、男の頭の向きだった。
顎が右側に移動していて、頭が斜めを向いている。
男は千夏の前で膝をつくと、後ろに倒れた。
「どうしたんだ、人の顔を殴っておいていきなり倒れるとは」
千夏は倒れた男を見下ろしながらそう言った。
仲間で一番大きな男を倒された男達は、すでに及び腰になっていた。
「てめ……今何をしやがった!」
痩せた顔の金髪の男が千夏に向かって怒鳴った。
悠然と見返しながら、千夏は答えを返す。
「何も。だって、何か見えたか?」
男達は何も言えなかった。千夏の言うとおり、彼らの目には何も見えなかったのだ。
それが巨体の陰に隠されていたせいなのか、目で終えなかっただけなのかはわからないが、
とにかく彼らの目では何が起こったのか理解できなかった。
同様に、目を逸らしていたはじめにも見えてはいなかった。
だが、千夏が何かしたということはわかっていた。
男が千夏を殴った音の次に聞こえた、軽い音。
あれだ。あのときに酉島さんが男に向かって何かしたんだ。
「ち……くそったれ、帰るぞ」
金髪の男が悔しそうに言うと、他の男達は千夏から目を逸らして立ち去ろうとする。
「ちょっと待て。こいつも連れて行け。お店の入り口に転がったままじゃ他の客の迷惑になるんだよ」
千夏は倒れた男を指で指した。
男達は2人がかりで倒れた男の肩を担いだ。
脱力した男の体は2人でも持ち上げるのが難しいようで、何度も持ち直していた。
金髪の男は最後までその場に残っていたが、唾を吐き捨てると千夏に背を向けた。
地面についた唾を見た千夏は男に近寄ると、肩を掴んだ。
「待て、金髪」
「ああ?」
「謝れ」
「なんだと、てめ……」
金髪の男の声は、千夏が手に力を入れることで止められた。
千夏の指先が男の肩にめり込み、さらに沈み込んでいく。
「痛ってえええ! 放せよ、おい!」
「謝れ、と言っているだろう。私に不愉快な思いをさせたんだからな」
「くそ……わ……悪かったよ」
「ん? なんだ? 言葉遣いがなっていないな。謝るときは、ごめんなさいだろう?」
千夏は指にさらに力を加えた。
「あ、あああああ! ごめんなさい、ごめんなさいぃぃ!」
「……よし」
謝罪の声を聞いた千夏は、男の肩を解放した。
金髪の男は千夏を一度睨むと、肩を抑えて走って逃げていった。
男達が全員立ち去る様子を千夏は見送っていた。
はじめは千夏の背中を見ながら、あることを考えていた。
以前、はじめの目の前でまたたく間に大柄の男3人を倒したやよいとマナ。
たった今、殴られてもびくともせず何らかの方法で男を気絶させた千夏。
自分の周りにいる女性は何ゆえにびっくりする人間ばかりなのか。
何度考えても理由はわからなかったが、自分みたいな人間もいるんだろうなあ、
と他人事のように結論づけることはできた。
最終更新:2007年08月04日 18:45