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グレーゾーンのメイドと家政婦

  • 作者 ◆Z.OmhTbrSo氏

 藤森家の庭は、庭の入り口から母屋の玄関まで石畳が続いている。
 石畳の長さははじめの歩数にして20歩、約10メートルほど。
 石畳は庭全体を覆う芝生を真っ二つに分けるように存在していた。
 はじめは石畳の上を歩き玄関までつくとドアを開けた。
 ドアはかなり大きめに作られている。縦にも横にも長い。
 成人女性2人分の肩幅ほどにドアの横幅はあった。
 はじめの父親が言うには、玄関が広くて綺麗な家は福を呼び込みやすいらしい。
 その言葉に倣って玄関は広い。だからドアも大きめに作られている。

 今でこそ難なく開けることができるが、小学生のころのはじめにとってこの玄関を開けるのは
なかなか重労働だった。
 ドアノブまで手が届かない小学校低学年だった頃はドアが鉄壁のように見えていた。
 親が留守にしているときなどは大変だった。
 ドアに鍵がかかっているから、開けようとしたら自分の手で鍵を解かなくてはいけないのだ。
 さらに悪いことに、はじめの両親は昔から家を留守にしがちだった。
 結果的に、小学生だったかつてのはじめは家に帰ってくるのが億劫になってしまった。
 もっとも、今では億劫になることなどない。
 家に帰ったら同居している使用人であり従姉であり恋人である女性が待ってくれているからだ。

 藤森やよいの髪型は、肩まで伸びる艶やかな黒のショートヘアーだ。
 動くたびに滑らかに動く髪は、統率のとれた部隊のように一本たりとも乱れない。
 頭を下げたらやよいの顔を隠し、頭を上げたらまた元の状態に戻る。
 着ている服は、一般的に言うメイド服というものだ。
 はじめやはじめの両親に言いつけられたわけでもないのに、やよいは女中服を身にまとっている。
 もしかしたら、はじめが作った服だから気に入って着ているのかもしれないが、真相ははじめも知らない。
 はじめは、自分の作った服を誰かが着ている事実があればそれだけで嬉しいのだ。
 変なことを言って、二度とやよいのエプロンドレス姿を見られなくなっては困る。
 きっと、卓也も同じ事を言うだろう。

「おかえりなさい、はじめくん。今日は結構遅めでしたね」
「ただいま。今日はちょっと買い物に行っていたから遅くなったんだ」
「7時になったらご飯ができますから、部屋へ呼びに行きますね」
「うん」

 やよいとのやりとりの後で、はじめは部屋に向かった。
 部屋のドアの前に立ち、ドアノブを見る。
 ドアノブとセットになっていた鍵穴は、今はもう存在しない。
 鍵穴があった場所は木製のドアの一部になっている。
 数ヶ月前、はじめを連れ出すためにやよいが鍵ごとドアの一部を破壊したからだ。
 それまで、はじめの部屋のドアには鍵をかけられるようになっていた。
 年頃の男子高校生なら隠したいものがあるというのも理由のひとつだが、
もっとも大きな理由は誰も部屋に入れたくない、というものだ。
 プラモデルに限らず、趣味を持っている者は自分の領域を荒らされたくないと思っている。
 はじめも例に漏れず、部屋に誰も入れたくない人間だった。数ヶ月前までは。
 今ではやよいとマナ、どちらかが突然部屋に入ってきても何も言わない。
 鍵をかけないほうが、逆に開き直れて気分が楽だとはじめは思っていた。

 はじめはドアを開けて、部屋の中にいる人物を確認した。
 同居している使用人であり幼馴染であり恋人でもある女性、古畑マナだ。
 はじめがいつも使っているベッドの上で横になり、寝息を立てていた。
 マナの髪の毛は、やよいとは比べ物にならないくらい長い。
 普段リボンを使ってポニーテールにまとめている髪の先端は、腰を過ぎる位置まで伸びている。
 今のようにベッドに寝ていると、長い髪は小柄なマナの体を大きく見せてしまう効果を発揮する。

 マナが着ている服もやよいと同じデザインのメイド服だ。
 同じ人間が作ったのだから同じになるのは当然だが、サイズは全く違う。
 全体的にマナの方がサイズは小さい。特に差のついているのが胸囲だ。
 はじめは2人のメイド服を作ったとき、やよいとマナに身長だけ聞いた。
 あとのサイズは目測だ。だが、完成した服は2人の体にぴったりのサイズだった。
 そのときのやよいの胸囲は、マナのものとは大きな差を開けていた。
 例えるなら、プチトマトとみかん。
 一回りも二周りも大きい、というやつだ。
 当然、はじめは2人のスリーサイズを把握している。
 しかし、誰にも教えたことはない。これからも言うつもりはない。
 特に卓也には土下座されても脅されても言わないだろう。

 はじめはかばんを床に置いて、椅子に座りながらマナの寝顔を観察した。
 自分より2歳年上だとはとても思えないほど幼い顔立ち。
 服で隠し切れない部分から見える肌は白く、閉じられた瞼から伸びたまつ毛は長く、
薄く開いた上下の唇は小さかった。
 ときどきうめきながら体を揺する。そのむずがるような動きは愛玩犬にも見える。

 ずっと見ていたくなる気持ちを戒めて、はじめはマナの肩を揺すった。
「ただいま、マナ」
「ぅ……ん……みゅぅ……」
 マナは、はじめに抵抗するように眉根を寄せて小さな声をだした。
 はじめはまたマナの肩を揺する。今度は声をかけながら。
「起きろって、もうすぐ夕食の時間だぞ」
「うー……ん……。あ、おはよ。……じゃなくておかえり、はじめ」
「ただいま」
 はじめが返事をすると、マナは寝ぼけ眼のままはじめの顔を見つめた。
「んん……? なんではじめが私の部屋にいるのよ?」
「それはこっちの台詞。なにやってるんだよ、僕の部屋で」
 マナはゆっくりと首を動かして、周囲の状況を確認しだした。

「ここ、はじめの部屋だね。私なんでここにいるんだっけ……」
「それは僕が聞きたい」
「あ。そうそう、はじめの部屋の掃除をしてたんだった」
「そうだったのか。ありがとな、いつもいつもやってくれて」
 はじめの部屋の掃除はマナが担当している。
 もっとも、マナが入ってくるとわかっている以上部屋を散らかすことはできない。
 そのためあまり汚れていないのだが、マナは毎日はじめの部屋を掃除する。
 今日のように、帰ってきたらマナがベッドに寝ているのはよくあることだった。

 はじめが礼を言うと、マナは体を起こしてベッドから下りた。
「気にしなくていいわよ。仕事仕事。そうじゃなきゃ誰がこんなシンナー臭い部屋を掃除するもんですか」
「やっぱりシンナーの匂いする? ちゃんと換気扇を回しているんだけど」
「室内の物にも匂いは染み付くの。……ま、やめろとは言わないけどね。言っても無駄でしょうし」
「うん、無駄だね」
 断言を聞いて、マナは俯いてため息を吐きだした。
 リボンでまとめられた髪を揺らしながら、呆れたようにかぶりを振る。
「それでさ、あんたこの趣味をずっと続けていくつもり? 止めろって意味じゃないからね、ただの質問」
「まだ考えているところだけど……できたら模型に携わる仕事に就くつもり」
「ということは、さらにこの部屋はシンナー臭くなっていくわけね……」
「うん。けど、もし嫌だったらこの部屋は掃除しなくてもいいよ。僕が……」
「だめ」
「僕が掃除をしても」
「不許可」
「だけどマナが」
「駄目と言ったら駄目!」

 マナが語気を荒くして、はじめに言葉を投げかける。
「この部屋は私が掃除するの!」
「そ、そっか。じゃあ、これからもマナにお願いしよっかな……」
「うん、それでよし」
 マナは満足したのか、部屋から出て行こうとする。
 扉を開けようと手を伸ばしたとき、勝手にドアが開いた。

「はじめくん。ご飯ができましたよ……あら、マナ?」
「あ……やっば……」
 マナがたじろいで、目の前に立つやよいから離れる。
 気まずそうな顔をするマナの顔を見て、次ににこにこと笑いながらも肩を震わせるやよいを見て、
はじめは首を傾げた。
 2人とも顔を合わせただけなのに、なんで変な顔をしているんだろう。
 もしかして喧嘩でもしたのか?

「マナ。昨日は、誰の番でしたか?」
「えーっとね、私だった」
「それでは、今日は誰の番だったかもわかっていますよね?」
「……はい」
「わかっていてやったということですか?」
「あの、これははじめの部屋を掃除していたら寝てしまったわけであって」
「マナの夕飯のおかずは抜き」
「ええっ?! やよい、私に死ねって言うの? やよいのご飯を食べなかったら私、死んじゃうじゃない!」
「では、その代わりに今から36時間はじめくんに接触するのを禁止します」
「えっ……それだったらご飯は食べられるけど……」
 マナは後ろでやり取りを見守っていたはじめを見た。
 ショーウインドウの向こうにあるおもちゃを見つめるような目がはじめに向けられている。

「どうかしたのか、マナ?」
「くぅぅっ……」
 数十秒かけて苦渋の決断を下したマナは、やよいと向き合った。
「今晩、おかず抜きでお願いします……」
「はい、よろしい。それでははじめくん、ご飯にしましょう」
「……あ、はい」
 突然話を振られて、はじめは生返事を返した。

 やよいとマナが揃って廊下を歩く。
 2人の後ろ姿を眺めながら、はじめは廊下を歩いていく。
 やよいの優雅な足運びとは対照的に、マナの足取りは重りでもついているかのように重かった。
 うなだれて、視線を床の木目に向けながら、マナは口を開いた。
「ねぇ……やよい。今日のおかずは何?」
「アジのから揚げ野菜あんかけです」
「あぁ、ぅぅぅ……今日に限って魚料理だなんて……」
 今にも涙を流しそうな顔をして、マナが呻く。
「はじめくん。今日はマナの分が余っていますから、たくさん食べてくださいね」
「はい」
 2人のやりとりに混じろうとして、マナは口を開いた。が、開いただけで声は出さない。
 やよいがおかず抜きと言ったら絶対におかず抜きになることは、よく分かっていたからだ。

 夕食後、はじめはやよいの淹れてくれたお茶を飲んでいた。
 居間に同席しているのはやよいだけ。マナはいない。
 マナは夕食の後ですぐに風呂に入り、自室に篭ってしまった。
 やよいの作った料理を食べられなかったのがよほど悔しかったのだろう。
「ねえ、やよいさん」
「なんですか?」
「マナが部屋に入っていただけで夕食おかず抜きって、なんで?」
「女同士で交わした約束があるからです」
「約束ですか」
「はい。約束です」

 はじめはやよいの言葉を聞いただけで、それ以上追求する気がうせた。
 やよいとマナが約束という言葉を持ち出したとき、たいていが自分に関わっていることがわかっているし、
2人の間で交わされている約束はあまりにも多い。
 藤森家の暗黙のルールのようなものだ。
 なので、はじめはあまり気にしないことにしている。
 できるなら、はじめも2人と約束を交わしたかった。
 『3日に1日、自分1人で眠らせること』。これがはじめの欲しているルールだった。
 しかし、はじめは2人に話を持ちかけられない。
 おそらく断られるだろうし、食い下がったところで2人の強硬な姿勢を見せられては
どうにもできないとわかっているからだ。

「はじめくん。聞きたいことがあるのですけど、聞いてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
 テーブルの上に湯飲みを置いて、はじめはやよいとテーブル越しに向かい合った。
 感情を抑えろと言われたように平坦な調子で、やよいは喋りだす。
「昨日会った酉島さんのことですが」
「ああ、千夏さんのこと?」
「……え?」
「え?」
 はじめはおうむ返しに聞き返した。
 やよいが何かに驚いている。やよいが驚くなど滅多にない。
 見ればやよいの表情は少しだけ固くなっていた。
 若干、本当に若干、親しい間柄の人間だからわかる程度に眉根を寄せている。

「今、酉島さんのことをなんとおっしゃいましたか?」
「千夏さんって言ったけど……どうかしたの?」
「いつのまに名前で呼ぶほどの関係になったのですか?」
「今日から」
 正確には数時間前からだが、そこまでは言わない。
「そう……ですか。只者ではないと感じていましたが、まさかここまでだとは……」
「? やよいさん?」
「はじめくん。私はじめくんを……」
「はい」
 やよいは軽く身を乗り出して、はじめを見つめた。
 勢いに押されるようにしてはじめが体を後ろにそらす。
「……いえ。なんでも、ありません。お茶を片付けてきますね」
 やよいは何かに耐えるように表情を固くして、お盆に急須と湯飲み茶碗を乗せて台所へ向かった。



 一夜明けた翌日の朝。はじめは少しだけ緊張していた。
 なぜかというと、大学に向かって歩いているはじめの3歩後ろにやよいがついてきているからだ。
 いつも通りの格好、はじめが作った女中服のままで。
 カジュアルな服装で出歩いてくれればいいのに、メイド服という目立つ服装をしているせいで
はじめの方から声をかけることができない。
 声をかけても問題ないだろうが、やよいがこんな奇行を行うのは初めてなので、
なんと言って声をかけたものかわからなかった。
 怒っているのか、それとも喜んでいるのか。
 はじめを尾行しているつもりなのか、何か用事があってそうしているのか。
 大通りに入って何気なく振り向いたときに見たやよいは、素の表情だった。
 やよいの無表情は長い付き合いのあるはじめにも感情を読み取らせない。
 もちろんやよいの目的などわかるはずもない。
 昨日から一週間前まで記憶を辿ってもやよいに何かした覚えのないはじめは、
やよいが無言で後ろからついてくるという状況に言いようの無いプレッシャーを感じていた。

 はじめが大学の正門前についたとき、やよいが駆け寄ってきた。
「はじめくん、今日もしっかりお勉強してきてくださいね」
「うん。……あの、なんで今日やよいさんがついてきてるの?」
 はじめの問いに対して、やよいは即答しなかった。
 じっとはじめの目を見つめ、しばらく無言で立ち尽くす。
「あの、やよいさん?」
「お買い物に行くついでに、はじめくんを見送っていこうかと思いまして。
 はじめくんの通う大学を見てみたかったですし」
「それならちゃんと着替えてからにしてほしいな……」
 はじめは周囲の好奇の視線と囁き声を感じながらそう言った。

「この服で出かけないと、わからないじゃありませんか」
「なにが?」
「あの人はまだ、私のこの格好しか見たことがないでしょうし」
「あの人って、誰?」
「この格好で出歩かないと、牽制になりません」
 珍しくやよいと会話が成り立たない。
 無意味にはじめを尾行してきたわけではないらしいが、それでも動機は不明だった。

 校門の周囲で、はじめとやよいを取り巻くようにして人が集まりだした。
 周囲の視線はやよいに7割、はじめに3割ほど割り当てられていた。
 やよいに向けられているのは羨望の眼差し。
 抜群のスタイルと整った容姿、さらにメイド服。
 注目が集まらない方がおかしい。
 はじめに向けられているのはいかがわしいものを見る視線だった。
 恋人にメイド服を着させるなんて。さらに大学に連れてくるなんて。
 といった感じのメッセージが視線に込められている。
 気まずくなり、汗までかきはじめたはじめは大学へ避難することを決意した。
「じゃあ、気をつけて帰ってね」
「はい。行ってらっしゃい」
 やよいは惚れ惚れするような仕草で、大学へ向かうはじめの背中に礼をした。



 今日受講する講義をはじめが全て受け終えたころ、時刻は正午を差していた。
 普段ならばやよいの作ってくれた弁当を卓也と一緒に食べる時間だ。
 しかし卓也は午後からも講義を受けるらしく、1人でどこかへ向かってしまった。
 仕方なくはじめは1人で弁当を食べることにした。
 大学の敷地にはいろいろな場所にベンチが設置してある。
 食べる場所には困らないが、一人だけでベンチのある場所を占領するのは他の人に悪い。
 はじめは大学の外で弁当を食べることにした。

 大学を出て10分ほど歩くと、公園に到着する。
 今日は平日だから、公園の遊具で遊ぶ子供たちの姿はない。
 小さい子供たちがここに来るには、あと3時間ほどかかる。
 公園のベンチに座って食事を取ることに決めたはじめは、日陰になっているベンチに向かった。
 ベンチには先客がいた。
 はじめは人の姿を見た瞬間引き返そうかと考えたが、座っている人物を確認して考え直した。
「千夏さん」
「ん。ああ、はじめか。どうした、こんなところで」
「今日は大学が昼までだったから。ここで弁当を食べようと思って。隣いいかな?」
「ああ」

 千夏と少しの距離を開けて、右側にはじめは座った。
 バッグを開けてベージュの布に包まれた弁当箱を取り出す。
 布を解いて弁当箱を開けると、今日の昼食と対面だ。
 昼食の中身はサンドイッチだった。
 たまご、野菜とハム、鳥のから揚げがそれぞれ別のパンに挟まっている。
「酉島さんも食べる?」
「いや。私はいいよ」
「そう」
 はじめは手を合わせて礼をしてから、サンドイッチに手をつけた。
 たまごサンドから食べる。美味い。
 野菜とハムのミックスサンド、から揚げサンドも美味い。
 昼食を食べるたび、はじめはやよいに感謝する。
 美味しいお弁当を作ってくれてありがとう、と。
 やよいに料理を教えてくれた父にも、はじめは少しだけ感謝した。

 弁当の中身を空にしてから、はじめはペットボトルでお茶を飲んだ。
 そのころになって、ようやく千夏の様子がおかしいことに気づいた。
 さっきから千夏が一切話しかけてこない。
 千夏は両肘を腿の上につき、下を向いていた。
「千夏さん、どうかした?」
「いいや、どうにもしていないぞ」
「何か悩みごとがあるんなら、僕でよければ聞くけど」
「そうか」
 千夏ははじめの顔を見ずに短く応えた。

「はじめ。父親の跡を継ごうと考えたことはあるか?
 仕事、地位、財産、なんでもいいが、どれかを継ごうと思ったことはあるか?」
「父さんの、跡……」
 はじめはペットボトルのキャップを閉めて、空を見た。

 この空のどこか向こうにはじめの父はいる。
 もしかしたら日本にいるかもしれないし、海の向こうにいるかもしれない。
 母親と再会して2人一緒にどこかでのんびりしている可能性もある。
 はじめの両親は、はじめにあまり連絡を入れない。
 最後に連絡があったのは大学に入学した4月で、それ以来何の音沙汰も無い。
 息子としては心配だからせめて月1回のペースで連絡がほしいとはじめは思っている。

 はじめの父親の職業は料理研究家だ。
 藤森家ではずっと前の先祖の代から料理の技を受け継いできているとやよいから聞いている。
 事実の裏づけはない。
 息子を金で雇った男達にさらわせるような父親だから嘘をついている可能性もある。
 だが、父親が優れた料理の腕を持っていることだけは事実。
 はじめ自身、父が料理番組に何度か出演しているのを見たことがあるのだ。
 父の跡、父の料理の技を継ぐことになったのはやよいだ。
 それははじめが父の跡を継ぐことを拒んだからだ。
 はじめはそのことを後悔したことは一度も無い。
 それだけは確かだった。

「僕の父さんは、料理人なんだ。本当は僕がその跡を継ぐはずだったんだけど、僕から断った」
「なぜだ?」
「理由は僕が模型にしか好奇心を見出せなかったから」
「他に、何か理由はないのか?」
「無いかな。僕は父さんのことを……うん、尊敬している……と思う。
 反発心とかそんなもので父さんの跡を継がないことにしたわけじゃないよ」
「そうか……」
 千夏は地面を向いたまま返事をした。
「では、はじめが父の跡を継がなければならない立場にいたとして」
「うん」
「……あ、すまん。そうじゃなくて、父の跡を継がなければ自分が駄目に、いや違う。
 父がはじめに強制をしてきたら……でもない。ああ、もう!」
 千夏は頭を抱えて首を振った。
 はじめは下を向いている千夏の顔を覗き込んだ。
 そこには、千夏の凛々しい顔つきはなかった。
 苦悶の表情。見えない痛みに耐えているようにはじめには見えた。

「千夏さ――――」
 はじめが口を開くのと、千夏が立ち上がるのは同時だった。
 千夏は立ち上がるときにベンチから一歩離れていた。
 そのせいではじめに千夏の顔は見えていない。
「すまん、はじめ」
「? なんで謝って……」
「これから、私に会わないでくれ」

 千夏の言葉ははじめを突き放すものだった。
 振り返らずに歩き出す千夏を止めようと、はじめは立ち上がった。
「待って、千夏さん。なんで――」
 いきなり、どうして。
 友達になれると思っていたのに。
「ついてくるな! ついてこないでくれ!」
 千夏はそう叫ぶと、駆け出した。
 はじめも千夏の後を追いかけるが、足の速さでは千夏の方が圧倒的に上だった。
 はじめが公園の出口についたときには千夏の姿はすでに見えなくなっていた。

 追いかけることを諦めて振り返り、ベンチに戻る。
 さっきまで隣に千夏がいて会話をしていたというのに、一方的に絶交されてしまった。
 こめかみと顎の辺りに圧迫される感覚を覚えた。
 わけがわからない。悲しい。いきなりなんなんだ。腹がたつ。
 そんなとめどもない感情が湧き上がる。
 落ち着かなくて、座っていられなくなった。
 はじめはバッグを持ってベンチから離れた。
 太陽は雲に隠れることなく空に浮かんで地面を照らしていた。

 こんなときこそ雨でも降ってくれればいいのに。

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最終更新:2007年08月04日 19:01