グレーゾーンのメイドと家政婦2-5
卓也はスキップでもしそうなほど浮かれていた。
これほど上機嫌になれたのはいつ以来だろう。卓也は過去を思い出すため、しばし黙考した。
しばらくして、思い出した。あれは、卓也とはじめが高校2年生だったころ。
はじめが趣味で作ったプラモデルを見にいこうと思い立って、藤森家へ行ったときだった。
卓也ははじめの住んでいる家を見て驚いた。
芝生に覆われた庭、庭を囲むよく剪定された木、そして異常に思えるほど大きな玄関を持ち、
さらに卓也の家の4倍はあろうかという大きさの家。
それまでに友人の家に行って、家の大きさに驚いたことがなかったわけではなかった。
不本意ながら幼馴染のようなポジションにいる、千夏の家に行ったときも驚いた。
しかしはじめの家はそれ以上に大きく、綺麗だった。
卓也は、藤森邸の大きさと、はじめが実はいいところの育ちだということに気づいてしまい、ショックを受けた。
けれど、この時点で受けたショックは軽いものだった。
はじめの家に上がって、メイド服を着ていかにもメイドという雰囲気をかもし出している女性と、
メイド服を着てメイド喫茶にでもいけばたちまち人気ナンバー1になれそうな愛らしさを持つ女の子を見たときの
衝撃に比べれば軽いものだった。
脳天から串刺しにされて地面に固定されたように動くことができなかった。
はじめが卓也の肩をゆすっても反応しなかった。
金縛り状態に陥った卓也を開放してくれたのは、お客様をもてなすための言葉だった。
「ようこそ、いらっしゃいませ。はじめくんのお友達ですか?」
うやうやしく頭を下げるやよいを見て、卓也の心臓は大きく波うった。
外から胸をハンマーで力強く叩かれているようだった。
頭の中では、実際に太鼓を叩く音が響いていた。お祭り状態だった。
今までにもテレビや雑誌や街中でメイド服を着た女性を見たことはあった。
しかし、やよいとマナの2人に比べれば幼稚園のお遊戯とミュージカルの演技ほどの差があった。
ここまでメイド服の似合う女性などどこを探してもいないだろう。
その日以来、卓也の心に花が咲いた。
雑草よりも強く、樹木よりも地に深く根付く花だった。
それからいろいろあって、卓也はやよいとマナに恋心を抱くことはやめた。
やよいとマナがはじめに惚れていることを知ったからだ。
卓也は3人の邪魔をしなかった。
親友がいいやつだと知っているから邪魔をする気にならなかったというのもある。
しかし、本当は別の理由があった。
自分が惚れていたのはやよいとマナ自身ではなく、彼女達がメイド服を着ているからなのではないかという
疑念を抱いてしまったのだ。
そんなことはない、と何度も思い直した。
だが結局、卓也は自分の心に根付いた不信感を消し去ることはできなかった。
はじめとやよいとマナが付き合いだしたのは、卓也にとって喜ばしいことだった。
これで恋の悩みから開放される。これで自分を疑わなくて済む。親友の嬉しそうな顔も見られる。と思っていた。
実際は、はじめはやよいとマナの2人と付き合いだしてからどんどん痩せていっているのだが、
卓也はそのことに気づいていない。
卓也が今日浮かれているのには当然理由がある。
今朝大学へ向かう途中、女性から手紙を渡されたのだ。
その女性は大学の周りを囲む塀にもたれかかって卓也を待っていた。
昨日卓也とはじめが不良たちから逃がした女性だった。
卓也が差し出された手紙を受け取ると、女性は何か喋ろうとして、しかし何も喋らずに走りさった。
手紙の中には便箋が一枚入っていた。
綴られていたのは、短い文章だった。けれども、率直な文章だった。
簡潔に言えば、ラブレターだった。
3行程度の文章だったが、かえってわかりやすかった。
最後の行に書かれていたのは、女性の名前と、女性と初めて出会った本屋の名前と、『待っています』という文字。
卓也は、もう一度あの本屋で会いましょう、という意味だと受け取った。
そのようなことがあって、卓也はたった今浮かれているのだった。
付き合うとか、そういうことまでは考えていない。
ただ、女性とどこかで待ち合わせをしたり、どこかへ行ったりするということが久しぶりだったから、
どうしても嬉しくなってしまう。
ちなみに、卓也にとって千夏は女性として認識されていない。
千夏に性的な魅力を一切感じたことがない、というのがその理由だ。
だというのに、卓也が一緒にでかけたことのある異性の人間は千夏しかいない。
それは卓也の女性の趣味が偏っているせいなのか、女性と仲良く話すことはあっても交際の申し込みをしたことがないせいなのか。
いずれにせよ、卓也には恋人がいたことがない。
しかし、今日は昨日助けた女性から誘われているのだ。
さらにわざわざ手紙で告白までされてしまった。
ここまでされて浮かれるな、期待するな、というほうに無理がある。
付き合うかどうかは女性の言動をよく観察してから決めることにした。
告白までされても簡単に交際まで持っていかないのは卓也の性格だ。
その性格ゆえに今まで恋人がいなかったのかもしれない。
浮かれ気分の卓也は待ち合わせ場所の本屋に向かって路地を歩いていた。
路地は左側にある大学の塀に沿ってずっと続いている。
右側には花壇があって、等間隔で木が植えられている。その向こうには車道が走っている。
道幅は2メートルにも満たないほどしかない。それでも人と人がすれ違えるくらいの幅はある。
卓也は路地の左側、大学の塀の近くを歩いていた。右側にはスペースが空いている。
だから、後ろから誰かが走ってくる音が聞こえても卓也は警戒しなかった。
走ってきた人は右側を通っていくだろう、と考えていた。
しかし、走ってきた人物と卓也はぶつかった。それはもう見事な衝突だった。
周りから見ていれば、どう考えてもあれは無傷じゃすまないだろう、と思うほどの衝突だった。
卓也はぶつかってきた人物の下敷きになって、アスファルトで舗装された地面に倒れた。
突然ぶつかられたというのにかすり傷ひとつ負わなかったのは奇跡か、
それとも空手女とのスキンシップで鍛えられた反射神経があったからか。
地面に叩きつけられた衝撃にうめきつつ、卓也は身を起こした。
文句を一つ二つ三つ言ってやろうと思い、自分にぶつかってきた人物を見る。
そして、卓也は固まった。
自分の体の上に乗っている人物が忌々しくも長い付き合いをしてきた酉島千夏だったことと、
その千夏が自分の着ているシャツを掴みながら泣いていたことの二つの事実に驚いて。
特に驚きだったのは後者の事実だ。
卓也が千夏の泣き顔を見たのは初めてのことだった。
だからだろうか。泣いている千夏を、不覚にもかわいいと思ってしまったのは。
おそるおそる右手を伸ばし、泣いている千夏の頭を撫でる。
卓也はこの瞬間、人生で初めて千夏の髪の毛に触った。
いや、触ろうと思ったことすらないのだが、触ってしまった以上はどうしようもない。
ともかく千夏の髪の毛が意外と柔らかいということを、卓也はよくわかってしまった。
千夏の頭に手を乗せて、さて次はどうしようと考えているうちに、千夏の目が卓也を捕らえた。
2人の視線は、千夏が2回嗚咽を漏らす間だけ交錯した。
次の瞬間には、卓也は千夏の拳を顎に受けて、そのまま押しやられて塀に頭をぶつけた。
痛かったのは塀にぶつけた右頭部だった。顎はあまり、というかまったく痛みを覚えなかった。
それでも頭が痛いことには変わりない。
卓也が目を回している間に、千夏は卓也に追撃を仕掛けてきた。
しかし、卓也にとってナイフや金属バットよりも恐ろしい対象だった千夏の拳には、力がこもっていなかった。
卓也は泣いている千夏を慰めるべきか、泣きながらも攻撃を仕掛けてくる千夏の攻撃に痛がる演技を
するべきか、とても困った。
卓也の逡巡は、自分達を見物する野次馬が周囲を取り囲んでいることを自覚するまで続いた。
卓也は千夏を大学の構内に連れて行き、人目のつきにくいベンチに腰を下ろした。
続いて、千夏もベンチに腰を下ろす。
卓也は自販機で買ってきたお茶の入ったペットボトルを千夏に渡した。
千夏の手が力なくペットボトルを掴んだことを確認してから、卓也は自分用に買ってきた缶コーヒーの
蓋を開けて、甘ったるいコーヒーを飲んだ。
千夏はすでに泣き止んでいたが、お茶を飲むことなくぼーっと地面を見つめていた。
そして一向に口を開こうとはしない。
卓也は正直参っていた。
まさか千夏の泣き顔を見る日が来るとは。さらに泣いている千夏の近くに自分しかいないとは。
この状況では、泣いている千夏に対して慰めるなり何なりできるのは自分しかいない。
はじめ、頼む。ここに来て俺を助けてくれ。
卓也のテレパシーはもちろんはじめに届くはずもなく、風に卓也の頬を撫でさせるだけの効果しかもたらさなかった。
意を決し、卓也は口を開いた。
「なあ、一体何があったんだ?」
問いかけに対し、千夏は応えない。
「……何も言いたくないのか? なら、俺は帰るぞ」
卓也は缶コーヒーを飲み干して、ベンチから腰を上げた。
しかし不意の力によって再びベンチに腰を下ろすことになる。
卓也の腕を引っ張って無理やりベンチに座らせたのは千夏だった。
不機嫌な顔をして、卓也は千夏の虚ろな顔を見た。
なんとなく勢いを削がれた形になりつつも、卓也は再度問いかけをした。
「何かあったんだろ? はじめと喧嘩でもしたか? ……それとも、親父さんと?」
千夏は、卓也の最後の言葉を聞いたときにようやく反応をした。
「ああ、父と……いや、父に家を追い出された。しばらく帰ってくるな、と言われた」
「なんで?」
「昨日あの男を倒したとき、右手にかすり傷を作っていて、それを父に発見された。
理由を正直に話したら、この通りだ」
千夏の右手を見ると、甲に引っかいた跡があった。
おそらく、昨日作った傷というのはこれのことだろう。
「よくわかるもんだな。こんな小さな傷に」
「昔から、父はそういったことに対して鋭いんだ。道場の外で怪我をしたときは必ず理由を聞いてくる」
「空手をやってる娘なら、日常的に怪我をしてもおかしくないと思うんだけどな」
「父は道場の外で一切怪我を負うな、と私に言いつけているんだ。
それを破った場合は、しばらく家に帰ることを禁じられる」
「ってことは……昔お前が俺の家に突然来たりしたのは、それが理由か?」
千夏はあっさりとうなずいた。
ここ3年ほどなかったが、それ以前は千夏が卓也の家に突然やってくることがあった。
卓也が学校から家に帰ってゆっくりしているとき部屋にやってきたり、時には卓也が居ないときに部屋に上がっていることもあった。
卓也の両親は千夏の顔を覚えているので、簡単に卓也の部屋に通してしまう。
しかも何か勘違いしているようで、千夏がやってきたときには両親揃ってどこかにでかけることがあった。
どんな勘違いをしているのか聞くのが怖いので、両親を問い詰めたことはない。
千夏が泊まりに来る理由の答えを聞けたのは、今日が初めてだ。
今までははぐらかされたり、無理やり口を封じられたりしたせいで答えを聞けなかったのだ。
ここにきて、ようやく千夏は卓也の顔を見た。
「すまないが、今日泊めてもらってかまわないか?」
「それは別にいいけどな……」
「なんだ?」
卓也は、今日千夏に会ってから覚えていた違和感を千夏にぶつけることにした。
「お前、今日はいつもより落ち込んでるだろ」
千夏ははっとして、卓也から目を逸らした。
「図星か」
「……うるさい」
「はじめと何かあったのか?」
「黙れ」
千夏は低音の声を出し、卓也を威嚇する。それにかまわず、卓也は言葉を続けていく。
「お前、俺をなめるなよ。何年付き合ってると思ってんだ。
そういう態度をとるとき、だいたいお前は言い当てられて焦ってんだよ。
正直に言ってみろ。もしはじめと何かあったんなら、俺がなんとかしてやるから」
卓也は精一杯の優しさを込めて、そう言った。
背中のむずがゆさを覚えずにはいられなかった。
まさか自分が、千夏に優しい言葉を向ける日がくるなんて。
千夏は卓也の言葉を聞いて、うつむいていた体を少しだけ起こした。
言いにくそうに、つぶやくように、言葉を紡ぐ。
「さっき、はじめに会った。昼ごはんを一緒に食べないかと誘われた。
けど、私は断った。お腹は空いていなかったし、食べる気分でもなかったからだ。
食べ終わってから、はじめは私に何かあったのか、と聞いてきた」
ここから、千夏の言葉は涙まじりになっていく。
「正直に言えばよかった。父に追い出されて、落ち込んでいると言えばよかった。
けれど、私は何も言えなかった。それどころか……はじめにひどいことを言ってしまった。
もう会わないでくれ、と言ってしまった。本当はそんなことを言うつもりじゃなかったのに。
これでは、もう私ははじめに会うことが……」
「できるだろ」
はっきりと、卓也は断言した。
「もう会わないでくれ、とか言われただけではじめはお前に会わなくなったりしねえよ。
むしろ積極的に会おうとするだろうな。あいつの性格なら」
「しかし、いきなりあんなことを言われたら、はじめは怒っているに違いない……」
「だったら、謝ればいい。許して欲しいと思ってるんならな。
はじめの家に押しかけて、何度も頭を下げればいいんだ。
お前が謝れば、女に甘いはじめならすぐ許すに決まってる。
もしはじめがそれでも許さないとか言ったら、俺があいつを怒ってやるよ。
いちいち小さいことで怒ってんじゃない、ってな」
「……小さいこと?」
「ああ、小さいことだね。俺からすれば。
友達やってりゃ、絶交だとか喧嘩だとか、そんなことは当たり前にやり合うもんなんだよ。
はじめだってそのへんのことはわかってる。わかってないのは……お前ぐらいだ」
卓也は厳しい目で千夏を見つめた。
千夏は何を言われているのかわからない、という顔をした。
「お前さ、昔っから友達少なかっただろ。仲良くしてたって言えば……俺ぐらいか。俺にとっちゃ不本意だけど」
「私だって不本意だ」
「お前はわかってないんだよ、友達づきあいの仕方が。
何でも深く考えすぎてる。それがかえって問題を大きくしてる。親父さんのことでもそうだ。
親父さんに家をしばらく追い出されたくらいで捨てられたみたいな気分になって、自暴自棄になってる」
「自暴自棄? そう見えるのか、私が?」
「俺の家に泊まりにくるときのお前の顔、酷いもんだぞ。
目だけはギラギラしてて周りを威嚇するような感じのくせに、他のパーツはだらしなく脱力してて。
あの顔を見たら、誰も近寄りたがらないだろうな」
千夏は自分の顔を手で触った。
指で頬をつり上げ、眉をしかめ、歯をかみ締め、何度もまばたきをする。
「そんなに酷い顔をしているか、今の私は」
「酷いというより、変な顔だ。面白い百面相だな」
「……馬鹿にしているのか、お前は」
千夏が卓也の襟首を掴み、顔ですごむ。
しかし卓也はひるむどころか、笑顔まで作ってみせた。
「何を笑っている」
「いんや。なんでもねえよ」
ふん、と鼻で笑うと、千夏は卓也の襟を解放した。
シャツの襟を直しながら、卓也は口を開く。
「話を戻すぞ。お前が家を追い出されたときの話までな。
つまり、自暴自棄になる必要なんかないんだよ。親父さん、お前のことを心配してんだぞ。
俺の家に電話をかけてきて、うちの娘がそちらにお邪魔していませんか、って言うんだ。
そんで、今うちに千夏さんはいますよ、って言うと親父さん一気に声のテンションがあがってな。
どうかうちの娘をよろしくお願いします、って言って電話を切るんだよ」
「……嘘だ」
「本当だ。俺がお前の親父さんについて嘘を言うわけ無いだろ。後が怖いんだから」
「……そういえば、そうか」
「お前の周りにいるやつは、お前が思っている以上にいいやつが揃ってんだよ。
はじめも、親父さんも、俺も、みんないいやつ揃いだ」
「ああ。そうだな……お前を除いてな」
ここで、ようやく千夏は笑顔を見せた。
ペットボトルのキャップを開けるて、お茶をごくごくと飲んだ。
卓也は千夏に顔を背けながら、奇妙に顔をゆがめた。
なんで俺千夏にこんなこと言ってんだろ。馬鹿か、俺は。ああ、寒い寒い。
このときの卓也は、心で思っている言葉が表にあらわれたかのような、変な顔をしていた。
卓也は大学を後にして、本屋へ向かうことにした。
もちろん、手紙をくれた女性に会うためだ。
何時に会うか決めていないので今の時刻にいるとは限らないが、行かないよりはいい。
もしかしたら来るまで待っているかもしれないし、と卓也は思った。
卓也の心の中では万歳三唱が繰り返し起こっていたが、その気分を顔にだすことはできなかった。
周りの目があるというのもある。しかしそれ以上に顔に出せない理由があった。
「今からどこにいくつもりだ。早くはじめの家に向かうぞ」
「1人で行けよ。俺は用事があるんだから」
本屋へ向かう卓也の後ろを、何故か千夏がついてきているのだ。
「そんなことは後にしろ。とりあえず私の用事を優先しろ」
「あのなあ、はじめに謝りに行くんなら1人で行ってくればいいだろ。まさか、怖いのか?」
卓也は千夏の反発心を煽るつもりで口にした。
しかし。
「ああ、怖い。だからお前も来い」
しれっとした顔の千夏の切り返しを受けてしまった。
「……謝るんなら、お前1人のほうがいいぞ。その方がはじめの受けもいい」
「なら、はじめの家の前まででいい。付き合え」
「ちぃっ……」
卓也は焦っていた。
どうする。待ち合わせ場所まで千夏がついてきたら、誤解されるかもしれない。
逃げるか?いや、千夏の足は俺より速い。逃げられない。
なら、無理矢理ねじ伏せて……はもっと無理か。
頭を捻って思いつく限りの対策を練るが、いずれも失敗の映像しか浮かばない。
2人の足は本屋へ向かっている。次の信号を渡って少し歩けば、待ち合わせ場所の本屋だ。
横断歩道の信号は赤になった。卓也と千夏は歩道で立ち止まる。
このままでは千夏が本屋までついてきてしまう。早急になんとかしなければ。
卓也が諦めつつも周囲を見回したその時。
救いの友が現れ、卓也の暗い心を照らしてくれた。
「はじめ! こっち来ーい!!」
卓也たちが歩いてきた方角から、はじめがやってきていた。
卓也は大きく手を振り、親友を呼ぶ。
暗い顔をしていたはじめは、卓也の傍に立つ千夏を見た途端に走り出した。
卓也と千夏の傍まで来ると、はじめは停止した。
「あの、千夏さん」
「……な……なんだ、はじめ」
はじめが千夏に声をかけると、千夏は逃げるように顔を背けた。
しかし顔は笑っていた。軽く涙目になっていた。
「ごめん、千夏さん」
「なぜ、はじめが謝るんだ」
「もしかしたら、僕がなにか悪いことをしてしまったんじゃないか、って思って」
「はじめは……はじめは何も悪いことなどしていない。
悪いのは……卓也……でも、父でもなく、て……その……」
俯いて途切れ途切れの言葉を千夏は紡ぐ。
その様子を、卓也は半分だけ真剣な気持ちで見守っていた。
もう半分は野次馬の気分だった。
千夏が言葉を探し、はじめが千夏の言葉を待ち、卓也が生暖かく見守っている間に、
歩道の信号は青になっていた。
3人を遠巻きに見ていた人たちも、信号を渡っていく。
「千夏。早く言えって」
「わかっている。……その、あの…………は、……はじめ、私は!」
千夏が覚悟を決め、はじめの顔を見た。
その時のはじめは、横合いからやってきた腕に頭を押しやられているところだった。
倒れはしないものの、押された勢いで車道まで進んでしまっている。
「はじめ!」
卓也がはじめの傍に駆け寄る。
千夏は咄嗟のことで動けなかった。唖然として、はじめを押した人物を見る。
「おい、早く行けよ。いつまでもンなとこにいられると邪魔なんだよ」
そこにいたのは、千夏にとって大嫌いなタイプの人間の不良少年たちだった。
絶妙のタイミングで謝ることを邪魔されて、千夏の顔が不快に歪んでいく。
彼らは千夏の目の前を通ろうとする。
そして、先頭を歩いていた少年が倒れた。
千夏の出した足にひっかかり、こけてしまったのだ。
倒れた少年は即座に立ち上がると、千夏を睨んだ。
千夏も負けじと少年を睨み返す。
「てめえ、今足ひっかけただろ!?」
「ああ。足がこっていたのでな。すまないな、足が長くて」
「てめえ、ぶち殺されてえのか? ああ?!」
「お前達が言う言葉は全て同じものばかりだな。できもしないことばかりだ」
千夏は不良少年達全員に視線を向けて、そう言った。
当然、少年達は激昂する。
「この女! もう許さねえ!」
「殺す! ボコボコにして殺す! ぶっ潰してやる!」
「おい、携帯で人呼べ! 全員でフクロにしてやる!」
口々に叫ぶ少年達を、千夏は上から見下ろす。
「何人来ても同じことだ。お前たちが束になろうと私にはかなわない」
拳を鳴らし、千夏は戦闘態勢をとる。不良少年達はナイフや警棒を取り出してそれぞれに構える。
一触即発の状態。今は牽制しあっているが、このままでは確実に喧嘩になってしまう。
卓也とはじめは揃ってその光景を見ていた。
はじめは不安そうに。卓也は呆れたように。
「卓也、どうする。このままだと千夏さんが……」
「千夏は昔から、群れている奴らが嫌いだからな。不良なんかその最たるもんだ」
「のんきなこと言ってる場合じゃないだろ! なんとかしないと……」
「まあ、そりゃそうだな。仕方ない。はじめ、足をほぐしとけ」
そう言うと、卓也は千夏のほうへ歩いていった。
千夏の手をとり、軽く引っ張る。
「何をする、卓也。邪魔する気か?」
「なんだ、てめえは。この女の仲間か? あ?」
千夏と不良少年が同時に不機嫌な声を出す。
卓也は一度車道の方を振り向いた。
横断歩道の信号は青の点滅を始めている。間もなく、赤になる。
そのことを確認した卓也は、千夏の手を握ったまま、横断歩道へ向かって走り出した。
「卓也! 何をする!」
「うるせえ! いいかげんに成長しやがれってんだ!」
卓也と千夏が走っていくのを見て、はじめはようやく走り出した。
足をほぐす時間はなかった。そのうえ昨日の逃走劇のせいで足は筋肉痛だった。
慢性的な痛みに耐えながら、はじめは卓也と千夏の後方についた。
後ろからは不良少年達の怒号と足音が聞こえてくる。
3人が反対側の歩道についたとき、少年達はまだ横断歩道を渡りきっていなかった。
「二手に分かれよう。俺は左。千夏とはじめは右に行け」
「何? 私とはじめが一緒に?」
「その方がいいだろ。逃げ切ってからじっくり話せるんだから」
「……わかった。はじめ! 行くぞ!」
はじめと千夏が走っていったことを確認して、卓也は2人に背を向けて走り出した。
「どうにか、逃げ切ったか」
少年達をどうにかまいた卓也は、はじめの自宅前にやってきていた。
はじめが今不良に追われている、ということをやよいとマナに知らせるためだった。
正直に言うと、事実を2人に伝えるのは恐ろしい。
自分のせいでないとはいえ、はじめを危険にさらしてしまったこと。
たった今、はじめと千夏の2人と別行動をとって1人で逃げてきてしまったこと。
しかし、気が重くても知らせないわけにはいかない。
もし、はじめが本当に危ない目にあったら、事実を伝えなかったことで、やよいとマナからの信用を失うに違いない。
正直にいったところで2人からの心証がよくなるわけでもないのだが。
ともあれ、ハイリスクノーリターンだということを自覚しつつも、卓也は藤森邸の玄関前にやってきていた。
卓也が玄関のチャイムを押した。チャイムの音が鳴るのを壁越しに聞いた。
続いて、澄んだ声が玄関のインターホンから聞こえてくる。
「はい、藤森です。どちら様ですか?」
「やよいさん、卓也です。ちょっとお話したいことがありまして」
「卓也さん? どうかされたんですか?」
「実は、はじめが……あの、直接喋れませんか? ここからじゃ上手く説明できそうにないんで」
「切羽詰ったご様子ですね。わかりました。少々お待ちください」
プツッ、という小さな音が鳴って通話が終わった。
卓也が玄関前で待っていると、遠くから声が聞こえてきた。
声は、だんだんと近づいてくる。
「こっちに来たのか?」
「ああ。このへんの家に入ったのを見たんだ」
誰かを追っている様子の声。不良少年達の声だと卓也は見当をつけた。
まずい。ここにいることがばれたら、やよいさんとマナちゃんが……。
卓也は男達に見つからずにこの場から離れる方法を考えた。
家の裏か、家の中に隠れるか、真正面から突破して逃げるか。
しかし、事態は卓也にゆっくり思考している時間さえ与えない。
「いたぞ!」
不良たちが卓也を発見してしまった。
道路の向こうから、卓也を捕らえるために藤森家の庭へと入ってくる。
追ってきたのは2人。ぱっとしない男と、昨日千夏に倒された男だった。
卓也より二周り大きい男は、卓也の前にやってくると見下ろしてきた。
「お前、昨日のやつだろ。……今日はあの女はいないみたいだな」
「ああ、残念だったな。お礼参りのつもりだったんだろうが」
「ふん、馬鹿言え。俺の目的はな」
男がそこで言葉を区切った。
嫌な予感を覚えて、卓也は両腕を交差させた。
大男は握り締めた拳を卓也の腕目掛けて振り下ろした。
体格に比例したように重い拳の一撃。
どうにかそれに耐え切ると、男の言葉の続きが聞こえてきた。
「俺の目的は、お前を人質にすることよ」
「なに?」
「お前を人質にして、あの女を倒す。俺を馬鹿にした女は許さねえ」
「はあ? ……お前、馬鹿か? 俺を人質にしたって、アイツは構うことなく打ち込んでくるぞ。それに……」
卓也は右足を半歩踏み出した。
突き出されたままの男の腕を逸らすと、男の懐に潜り肘を打ち込んだ。
ひるむことなく振るわれる男の左フック。これを卓也は予測していた。
腰を落として避けると右に移動し、男の左脇に拳を打ち込む。
打ち込んだ後、卓也は男の手の届かない位置へと飛び下がった。
「でかいだけの男じゃ、俺は倒せない」
「このガキ……てめえも俺を馬鹿にするってのか」
「事実だろ、それ。お前でかいだけじゃん」
あからさまな挑発。しかし、この挑発は大男には有効だった。
右腕を大きく振りかぶった、隙だらけの攻撃をしかけてきた。
卓也は右腕とのカウンターのタイミングを合わせるため、避けようとしない。
男の拳が卓也の目前に迫る。卓也が拳を避けるため、体に命令を送った。
まさにその時。
「お待たせしました、卓也さん。お話を……?」
突然鼓膜を震わせたやよいの声に聞きほれて、卓也は殴り飛ばされた。
やってきたのは浮遊感。
男のパンチは千夏ほどの鋭さは持ってはいないが、それなりに威力を持っていた。
卓也の体を2メートルほど吹き飛ばすほどの威力はあった、ということだ。
地面に叩きつけられた卓也は、やよいの顔を見ながら意識を薄くしていった。
逃げてください、やよいさん。この男に捕まったら、何をされるかわかりません。
必死に卓也は腕を伸ばす。しかし、その腕がやよいに辿りつくことはなかった。
卓也が目を覚ましたとき、そこは叩きつけられた芝生の上だった。
ああ、俺は負けたのか。やよいさんを守りきれず、負けたのか。
卓也の目尻に、涙が浮かんだ。
千夏に打ちのめされる日々に負けないために体を鍛えてきたのに。
千夏に対抗するために空手を自己流で勉強してきたのに、それは何の役にも立たなかった。
やよいさんを守るには、俺の力じゃ足りないんだ。
無力感を味わいつつ卓也が首を横に向けると、そこにはしゃがみこんで卓也を見つめる愛らしいメイドさんがいた。
「ああ……マナちゃん。ここは天国かい……?」
「ようやく目が覚めたと思ったら、何馬鹿なこと言ってんの?
あとさ、私のほうが年上なんだから、ちゃん付けで呼ぶのやめてよね」
「おおう! そのツンっぷり、まるで本物のマナちゃんみたいだ。
そうだ……現世で今まで手を出せなかった分、天国にいるマナちゃんに……」
マナに向かって手を伸ばした卓也の顔面に、モンキーレンチが打ち下ろされた。
続いて金属製の四角い箱が卓也の頭上に現れた。整備用具の入ったツールボックスだ。
もちろんやっているのはマナ。無表情のままでツールボックスの中身をひっくり返す。
「痛い! 痛いって! ってこれなに? 歯ブラシとか落ちてきたし、しかも毛先が黒!
こんなんで歯を磨いたら真っ黒になっちゃうじゃないか!」
「バイクのチェーンを洗うときにそれを使うとやりやすいのよ。だから箱の中にいれてたの。
欲しいんならあげるわよ。私ので、しかも使用済みだし」
「なんだって、使用済み?! しかし、これを使用したら俺の歯が真っ黒に! ああ、どうすれば……」
卓也は頭を抱えて悩みだした。このときばかりは真剣に悩んでいた。
しかし、その悩みはすぐに吹き飛ぶ。
自分の左側に、やよいのいつもと変わらぬ姿があったことに気づいたからだ。
「やよいさん! 無事でしたか!」
「当たり前です。私はこの家の家政婦。そして藤森家の料理の技を継ぐもの。
後世にそれを伝え、そしてはじめくんの…………を残すまでは、死んでも死に切れません」
「あの、さっきの男達は?」
「丁重にお帰りいただきました」
「え? ……本当に?」
「はい。一言二言交わしただけで、快く帰ってくださいました。
まだまだ青いですわね、あの方は。私も人のことは言えませんが」
やよいは自分の右手の甲を見つめてそう呟いた。
「はあ……よかった……」
卓也は安堵のため息をついて、地面に伏せた。卓也の体を睡魔が蝕んでいく。
眠ろうとする卓也を起こしたのは、マナだった。
「あの、マナちゃん。頬をそんなに強くひっぱると痛たたたたたたたたたたた!」
「あんた、何か用事があってきたんでしょ。しかもはじめ絡みで」
「あ! そう、そうだった。忘れるところだった。あの、実は……非常にいいにくいことではあるんですが……」
卓也の説明を聞き終わった2人は、緊迫した面持ちで立ち上がった。
2人は顔を見合わせると、頷き合った。
そして2人揃って家の裏、車庫のある方向へ走っていく。
卓也がいまだ痛みを残したままの頭に邪魔をされているうちに、バイクの音が聞こえてきた。
重低音は辺りの空気を響かせ、卓也の心臓を揺さぶる。同時に地面もわずかに揺れているような感覚を覚えた。
排気音は、一際大きな音を響かせると遠ざかっていった。
卓也には、やよいとマナが突然どこかへ出かけていった理由がわからない。見当すらつかなかった。
その方が幸せなのかもしれない。イメージはいつまでも美しいままで存在しているにこしたことはない。
これから、やよいとマナが何をするつもりなのか、もし卓也が知っていたらどうしただろうか?
いや――事実を知っていたとしても、2人を止めることはできなかっただろう。
なぜなら、やよいとマナのはじめを助けようとする意思は固く、何者にも邪魔できるものではないからだ。
最終更新:2007年08月04日 19:08