来栖壽人(くるすかずひと)は将来パティシエになるため専門学校に通い、叔父が経営するスウィーツ店の
『ソプラノ』に泊り込みで修行を行っている。
外観はシンプルでおしゃれとはほど遠いが味は本物であり、このお店のデザートを求め遠方から訪れる人は
珍しくもない。壽人のケーキより叔父が作る品のほうが売れるが人気がないわけではなく、叔父の実力が並
外れているのだ。
同じように作っていても、口の中で広がる甘さや香りにスポンジの舌触りは再現できない。世界一位を
何度も獲得した人間に楽々と上回ることは難しいと解っていても、壽人は諦めない。
そろそろ仕込みの時間。今日こそは叔父に一歩近づくためにと壽人は果物と包丁を手にする。
「ありがとうございましたっ」
最後の客が店を後にし、壽人は扉に掛かっている札をOPENからCLOSEにひっくり返してホッと息を
吐く。残すは夕食とクローズ作業だけだ。先ほどとは別世界と思わせるほど静かになった店内を見渡すのが
壽人の癖だ。目を閉じてイメージする。自分の店に自分の作品を。そして、それを嬉しそうに美味しそうに
食べる客の姿を。
傍から見ればただの妄想をしているだけだが、壽人は気にもせずにイメージを続ける。ここにいるのは
どうせ俺だけ。叔父さんは奥の調理場にいるだろうし、バイトの人は控え室だ。
その考えが甘かった。
「立ったまま寝るなんて器用だね、壽人」
「ぬぅわっ!み、みかん!?お、お前いつからそこに?」
「アンタがニヤニヤしながら食器がどうたらってとこから」
壽人は目を見開きやっちまったというような表情をする。
簡単に言うと最初からいたのだ。それが解ると壽人は頬を赤らめ美甘から目を逸らす。そして美甘が壽人の
次にニヤニヤし始めた。
美甘は叔父の一人娘でソプラノのウェイトレスをしている。いつもは着替えに行っているはずだが、今日は
何故か店内にまだいた。
「いるなら声かけろよな」
「別にいーじゃん、暇つぶしだから」
「俺を暇つぶしに使うな」
「おーい、2人ともーご飯にするぞー」
「「はーい」」
叔父からの一言により壽人と美甘は夕食の準備に取り掛かった。
壽人は食事を作る叔父の手伝いに美甘はテーブルにイスを用意する。一般的に見て遅い夕飯はソプラノ
唯一のゆっくりと出来る貴重な時間だ。オープンすると同時に客でごった返しになるこの店はスタッフに
安らぎの時間なんていうものは休憩以外にはない。四六時中ソプラノは戦場なのだ。
調理場から良い匂いがフロアに流れ込む。美甘が用意したテーブルにはとても美味しそうな料理で鮮やかに
飾られる。
「いただきます」
「いただきまーす」
「いっただきまーす。ねえ壽人が作ったのってどれ?」
「ん?俺が作ったヤツ?このベーコンとアスパラのスパゲッティ」
壽人が指差したスパゲッティはオリーブオイルの匂いがほのかに香り、湯気と共に店内を包み込む。
「ふーん、これが壽人が作ったんだ。やっぱり見た目はお父さんのに劣るわね」
「じゃあ喰うな」
「ばかねー、私以外にあんたの料理を食べる人がどこにいるのよ」
「私たちが美甘の分まで食べてやるぞ」
「まっ、待ってお父さん!ダメ!これは私が食べるの!!」
「言っておくけど美甘、それ半分だけ俺が作ったってだけだからな」
スパゲッティを美味しく作る際に必ずぶつかる壁がある。それはアルデンテだ。火の強さや湯で時間に
大きく左右されてしまうスパゲッティは美味く作るのが難しい。
まだ完璧にパスタを茹でることが出来ない壽人は、料理全般をこなす叔父に任せ具と絡めることに力を
注いだ。
「もぐもぐ……うん、結構おいしい。やっぱりお父さんが手伝ったからかな」
「美甘の言うことは気にするな。壽人と初めて会ったときよりかは随分成長している」
「ありがとうございますっ」
「……お世辞お世辞」
「うっさい!」
夕食は叔父が作るデザートでいつもしめられる。美甘にとって一日で最も至福であり贅沢な時間だ。
「今日はティラミスだ」
「うっわ~、おいしそー」
「いただきます、叔父さん」
壽人が口に入れた瞬間に口内は砂糖の甘さと、ココアパウダーの代わりに使用されたエスプレッソの豆を
挽いた粉がほんの少しだけ、苦味を味あわせる。
―――やっぱり遠い
自分と世界トップのパティシエの距離を嫌なほど教える。だが諦めるわけにはいかない。壽人はこの
距離を受け入れ、やる気の燃料とする。
「ふぅ~ご馳走様」
「じゃあ私は自室でやることがあるから、壽人。後はよろしくな」
「了解っす」
「私はのんびりしてようかな~」
美甘が机に体重を預けると目の前にケーキが置かれた。それは先ほど食べたティラミスではなく、
生クリームが乗ったキャロットケーキだった。
「どうしたのこれ?」
「ためしに作ったんだ、味見してくんない?」
「しょうがないわね、アンタがそこまで言うなら食べてあげるわよ」
器用にケーキを一口取りその上に生クリームを乗せ口に運んだ。ニンジンの味は少ししかなく、代わりに
甘さが広がる。
「あっ、おいしい」
「よっし!」
ガッツポーズを決める壽人。
「実はそれ砂糖があんまり使われてないんだ。他のケーキよりも低カロリーに作ってみた」
「うそっ!?だってこれ、ちゃんと甘いよ!」
「どうやってその甘さを出すか悩んだけど、無事成功かな」
「ねえねえ、壽人も食べてみなよ。ホラ」
美甘はケーキにフォークを刺し壽人に食べさせた。
そして美甘はあることに気が付いてしまう。
(こ、ここここれって間接キス~~~!?)
壽人は美甘に食べてもらうため1つしかフォークを持ってこなかった。とすれば自然に間接キスになる。
しかし美甘は壽人に『あ~ん』をしたことには気付いていない。
「うん、結構うまくできたな」
1人で自分の力作に納得していたが、目の前にいる美甘の様子がおかしい。「アワワ」と呟きながら顔を
赤くさせている。
美甘が手にしているフォークと美甘の性格……壽人はすぐに答えを見つけた。そして彼の中にあるS心が
疼いてしまった。
「みかん~、これって間・接・キ・スだよなー」
「キャーーーーー!!言わないでーーー」
「しかも、あ~んしてもらったし」
「えっ…うっそーーー!?」
「マジマジ」
壽人は顔を歪ませニヤニヤと笑っている。何年も一緒にいるが美甘を苛めるのがおもしろくて仕方ない。
「くっそー、私だけ壽人に馬鹿にされるなんて……こうなったのもアンタが悪いんだからねっ」
「イヤイヤ、俺は悪く…」
セリフを言い終える前に美甘の唇によって壽人は何も言えなくなった。首筋からほのかに香る香水に
壽人は目を覚まされる。
「お、お前なにしてんだ!?」
「アアアア、アア、アンタが悪いんだからね!!私に恥を掻かせた罰よっ!」
「恥ってなんだよ!?それに間接キスなんて別に恥っていうほどでもないだろ!」
「ううう、うるさいわね!!私に恥ずかしい思いをさせた分、アンタは罪を償いなさい!」
そして二度目のキス。このキスの甘さは先ほど食べたケーキのせいか、それとも、彼女がそうさせている
のか。甘い空気が漂う中2人は恋人になり、これから甘いケーキと甘い生活を作っていくのだった。
最終更新:2007年12月05日 07:54