その日の夜九時。
風呂から上がったはじめは、髪を乾かした後で自室に入った。
「……あれ?」
部屋の中には、この家の同居人にしてメイドであるマナがいた。
ただし今はメイドではない。メイド服を着ていないからだ。
当然のことだが、マナは眠る時にはメイド服を着ていない。
その代わりに犬の絵がプリントされたパジャマを着ている。
しかし、それはマナにはマッチしていないように、はじめには思えた。
はじめが抱くマナのイメージは犬と言うより猫だ。
時折リビングの縁側でひなたぼっこをしつつ眠っているところが猫みたいだから。
そんなときはじめはついマナにいたずらをしたくなるのだが、以前に頬をつついた時には起こしてしまい、
さらにはこの上なく不機嫌な表情で睨み付けられたので、それ以来はやっていない。
そういう反応をするところも猫っぽい、とはじめは密かに心の中で呟いている。
もちろん、マナには言っていない。
今、マナがはじめの部屋に来ているのには理由がある。
今夜は、はじめの意志をほとんど無視して、やよいとマナの間に取り結ばれた約束に則り、
マナとはじめが一緒になって一晩過ごす番だったのだ。
そのことを半ば諦めつつ――最近はもういいやとさえ思いつつ――あるはじめは、
もちろん今夜がマナの番だということをわかっていた。
だからこそ、疑問を抱いた。
何を疑問に思ったのかというと。
「マナ……来るの、早過ぎないか?」
部屋の壁にかかっている時計の針を視界の隅で確認しつつ、はじめは言った。
そう。まだ時刻は九時。
いつもなら、マナがはじめの部屋にやってくる時間は日付の変ったころ。
もしくははじめが部屋の電気を消して、寝ようとしたころか寝静まったころ。
不意打ちのようなタイミングではじめの部屋に来るのが、夜におけるマナの行動だ。
だというのに、今夜は早めに来た。はじめが風呂に入っている隙にやってきて、待ち伏せていた。
いったいどのような考えのもとにそんな行動をとったのかが、はじめには気がかりだった。
「そう? いつもこんなもんじゃなかったかしら?」
「いや、違うだろ。見え透いた嘘をつくなよ」
「そうね。うん、嘘をついたわ」
あっさり、マナは嘘を吐いたことを認めた。
腕を組み少し天井を見つめ、んー、と唸ってから、口を開く。
「今日ははじめの邪魔をしてやろうかな、とか思ったから早めに来てやったのよ。感謝なさい」
「邪魔……って、僕がプラモ作りするのを妨害しようとしてやってきたのか?
それのどこに感謝しろって言うんだよ、お前は」
「今夜はじめがプラモデルを作っていたら、私は部屋の中にスーパーボールを投げ込んでやったわ」
「な!?」
「近所の駄菓子屋さんが閉店するみたいで、在庫一掃処分セールなんてやってたのよ。
そのときに買い占めたスーパーボールを全部投げ込んでやるつもりだったわ。きっかり五秒おきに」
「それ一体どれぐらいあるのかわかんないし、なんで五秒おきに一個ずつ投げるんだよ」
「一個ずつじゃないわ。ひと箱ずつよ。ひと箱六個入り」
「避けられるか!」
「避けられないでしょ? だから、感謝しなさい、って言ったのよ」
自分で危害を加えようとしておいて、なんて態度をとるんだ。
それに、どのみち邪魔することには変わりないじゃないか。
「冗談よ。スーパーボールなんか買ってないわ」
「ああ、そう」
「でも、駄菓子屋さんが閉店したのは本当。覚えてる? ほら、私たちが小学生のころによく行ったじゃない」
「……もちろん、覚えてるよ」
駄菓子屋さんというのは、藤森家の近くにある、老婦人が一人で経営している小さな店だ。
はじめは中学に進み始めてから一度も顔を見せていないが、その場所だけははっきりと覚えている。
小さいころに楽しい時を過ごした場所のことは忘れない。いくつになっても。
「そっか。もう無いんだ、あのお店……ちょっと残念だな」
「おばさんも残念がってたわよ。はじめくんはすっかり来なくなっちゃったねえ、って言ってたわ」
「そっか……」
「はじめくんが来るのを待ってたんだけどねえ、とも」
「う……」
そう言われると、罪悪感が芽生えてくるはじめだった。
はじめの家から、はじめがかつて通っていた小学校まではそう遠い距離ではない。
子供でも歩いていける距離だ。
しかし、運悪くというべきか、はじめの家の近くには子供のいる家庭はほとんどいなかった。
だから、必然的に駄菓子屋へ頻繁に通うのは、はじめと、はじめの幼なじみのマナだけ、ということになった。
老婦人がはじめとマナのことをしっかり覚えているのは当たり前のことだった。
「一度くらい行っておけばよかったかな。でも、今さら言っても遅いか。お家を訪ねていくのもなんだか変だし」
「そこまで気にする必要はないわ。だって、おばさんははじめの現状を知っているもの」
「なぜ……って、まさかマナ。お前」
マナは首を傾けつつ、にこりと微笑んだ。
「インドアなはじめと違って、私は散歩が好きだからね。いつだってバイクに乗っているわけじゃないわ。
この辺りは危ない車も通らないから、散歩するにはうってつけなのよ。
で、散歩していると、おばさんのお店の前をよく通るの」
「つまり、そのときにおばさんに……」
「私が散歩する時間はほとんどお昼だから、子供なんか来ないし、おばさんもお暇みたいでね。
お茶を飲みつつ、世間話に交えてはじめのことを話したわ」
マナの言葉を聞き、はじめは落とし穴に突き落とされたような気分を味わわされた。
マナは、はじめのことならばやよいよりもたくさん知っている。
二人の付き合いの長さは、やよいとはじめのそれよりも年季が入っている。
まして、マナははじめの恋人なのだ。
もはや、はじめの弱点を全て握っていることに等しい。
大勢の人間と同じに、はじめも過去の話をされることを恐ろしく感じている。
マナがはじめを陥れるようなことは言わない、とはじめは信じている。
だが、言ってしまっても内緒にしてもらえる話題であれば、一概には言えない。
例えば、恥ずかしい話。具体的には、男と女の話。
「はじめは強引な相手に対しては受けに回る、とか」
「おい、こら」
「最初はうろたえていたくせに、ノってくると責めてくる、とかね」
「なんでそんなおかしな話をするんだよ! おばちゃん、困ってただろ?!」
「おばさんはそれに対してこう応えました。はじめくんはギャルゲーの主人公みたいね」
「…………」
なんでそんなこと知ってるんだよおばちゃん、とはじめは思った。
「あ、違った。PC用の十八禁の、だったわ」
「お前嘘ついてるだろ」
「当たり前じゃない」
「だから、平然と答えるなよ!」
「で、PC用の十八禁のギャルゲーってどんなの? そもそもギャルゲーってどんなジャンル?」
「知ってて言ってるだろ、マナ……」
ちなみに、はじめのその手のゲームに関する知識は卓也に教わった程度のものでしかない。
それでも知らないわけではない。自分と、ゲームの主人公に似通った部分があることを。
もちろんマナだって、まるっきり知らないわけではないだろう。
「うん。まあ、ギャルゲー云々をおばさんが言ったのは嘘だけど。
おばさんね、喜んでたわよ。私と、はじめが……そういう仲になったこと」
「そう、か」
はじめは、自分の身長が一メートルに満たなかったときのことなど覚えていない。
だが、子供を相手に商い、大人も相手にしてきた人生経験豊富な老婦人は全て覚えているだろう。
だからこそ、小さな子供がいつのまにか成長していたということは嬉しいのだろう。
子供だと思っていた存在が、恋人を作っていた、しかも恋人同士になっていたと知れば、喜びもひとしおだろう。
「んー、でも、やっぱりやよいのことを話したら顔をしかめたわね。
無理ないわね、傍から見れば、ただれた関係だもの」
「ただれたって言うなよ」
「あら、そうじゃないって、言える?」
マナに睨み付けられたわけでも、詰問されたわけでもないのに、はじめは怯んだ。
自分の身に、心に思い当たることがありすぎた。
常日頃から卓也に言われている言葉が脳裏に甦る。
――お前は男の敵だ。美少女と美女を二人も侍らせているんだから。
「安心しなさい。今さらそのことをどうこう言うつもりはないから」
「そうしてくれると、ありがたいよ」
二人にまで責められたら、慢性的胃痛にかかってしまうから。
冗談でなく、はじめはその懸念を抱いているのだった。
「ただね――はじめ」
「うん?」
ここで初めて、マナの目に強い力が篭った。
「これ以上増えるとなると、さすがに私も黙っちゃいないわよ。……もちろん、やよいだってね」
「……」
気押されて、はじめは心の中で呻いた。――あう、と。
「あの人、酉島千夏さん? はじめはやっぱり、強気な性格の女が好きなのね。私のせいかしら」
「う……うん、そうだよ。マナが」
「黙りなさい。目と目の間を洗濯ばさみで挟むわよ」
今にも、洗濯ばさみを一つとは言わず二つは挟まれそうだった。
実際、はじめはその危機感によって言葉を続けられなくなった。
「どうして、はじめは女の子を引きつけてしまうのかしら? もしかして口説いたりしてるの?」
「いやいや! 断じてしてません!」
はじめが強く言える女性はマナだけ。そんなはじめが女性を口説くはずもない。
だが、女性二人を相手に恋人関係を続けていれば、対女性経験値は勝手に積まれていく。
知らぬ間に、軽口を叩いてしまうことだってあるかもしれない。
その軽口が、相手の女性にとって初めて言われた言葉だったりもする――こともある。
「そうよね、はじめは恋人が二人もいるのに、ナンパなんかしないわよね……」
恋人が二人、というフレーズにひっかかるものはあったが、はじめは即座に頷きで応えた。
「頷いたわね? うん、それでいいの。はじめは、私とやよいだけを、見ていればいいの」
「う、うん」
「でも、私と二人っきりの時だけは…………私のことだけを、考えなさい。
それが、年上の幼なじみに対する、礼儀ってやつよ」
マナは立ち上がり、立ったままのはじめの頭を両手で押さえた。
マナの瞳が閉じる。その動きを見取ったはじめは、まぶたの力を抜いて視界を閉ざした。
強く感じるのは自分の耳に触れる、マナの冷たい手の感触だけ。
それだけ。だが、それさえあれば充分だった。
あとは、心に恋しい人の輪郭を浮かべて、衝動に身を任せれば、唇を重ねることができた。
「…………んん、………………ふぅ、ぅん…………」
唇を重ねるだけの、静かなキスが続く。
どちらからも押さず、引かず、偏らないよう、バランスをとる。
マナよりも背の高いはじめは、こころもち腰をかがめている。
だが、気を遣っている点ではマナとて同じ事だろう。
マナも、はじめから離れないように背中を伸ばしているはずだから。
「………………ん、……はぁ」
二人は同時に唇を離す。
しかし、近寄った体だけは遠ざけない。
先に行動を起こしたのはマナだった。はじめの首に手を回し、その身を委ねる。
はじめはマナの体を抱いた。マナの矮躯は、はじめの腕の中になら二人は収まれそうなほどのもの。
力強く抱きしめてしまう発作を起こさないか、はじめはいつも心配になる。
マナが、はじめの胸に顔を埋めながら口を開く。
「ちょっと早いけど、いいわよね。もちろん」
「……うん。僕もそうしたい」
はじめの首に、マナの体重が強く掛かる。
その行動の意図を悟りきっているはじめは、然るべき行動として、左手をマナの背中に、右手をマナの腿に回した。
姫だっこでマナの体を支え、そのままベッドへと歩を進める。
ベッドの上にマナの体を横たえ同時に自分もマナに覆い被さる、という一連の行動を頭に浮かべる。
そしてその通りに動こうとした、まさにその時。
三回、ドアをノックする音が聞こえてきたのだった。
最終更新:2007年12月05日 08:02