森厳学園には一人の女帝が君臨していると言われている。
彼女の名は山置雲雀(やまおきひばり)
鬼女、クールビューティー、冷血仮面、氷の会長。
数々の呼び名を持つその存在。
警察官の父と弁護士の母の間に生まれた彼女は正に規律の具現者だった。
彼女は入学して数ヶ月、一年生にして生徒会長に当選すると、あっという間に学園の勢力図を塗り替えた。
具体的に言うと、不良の更生、駄目教師の追放、生徒会への権力集中である。
通常、いきなりこんな強引な行動がまかり通るはずがない。
しかし、彼女は見事に自らの豪腕をもってそれをやり通した。
ある人間には言論で、ある人間には策謀で、またある人間には実力行使で己の意を通していったのである。
『山置会長には逆らうな』
これは森厳学園関係者における鉄則であり、暗黙の了解であった。
昼休みの生徒会室。
用がない限りは役員すら立ち寄らないと言われているその一室に雲雀はいた。
目の前には開かれた弁当箱が鎮座している。
中身は玉子焼きにタコさんウインナー、そぼろごはんと色とりどりの女の子らしい可愛いラインナップだ。
彼女を知る者からすればいささか意外性のある中身といっていいだろう。
何せ、三食栄養剤で済ましているのではないかといわれている彼女なのだから。
閑話休題。
雲雀は真剣な表情で箸を伸ばす。
そして摘んだタコさんウインナーを持ち上げると、そっと口元へと運んだ。
ぱくり。
人差し指程度の大きさのそれが口の中に吸い込まれる。
もぐもぐと咀嚼、ごくりとのどを通る。
雲雀は緊張した面持ちで箸を下げた。
「…うん、美味しいですよ。雲雀さん」
「ほ、本当っ?」
ぱぁぁっ……
花のつぼみが開くかのような満開の笑顔が雲雀の表情に生まれる。
視線は目の前の眼鏡をかけた少年に固定されて動かない。
「でも、その…自分で食べますから。食べさせてもらう必要は…」
「私に、あ~んされるの…嫌なの…?」
「いえ、決してそういうわけでは…」
目元を潤ませる少女に男子は慌てた様子で手を振る。
雲雀は、よかったと微笑むと次のおかずにと箸を伸ばし、先程と同じように少年の口元へとそれを運んだ。
「あ~ん」
「……あ~ん」
ぱくり。
渋々と口を開いた少年――懐は、この場面を他の誰かが見ていたらあまりの衝撃的光景に
卒倒するだろうなと遠い目をしながら生徒会室の扉を見た。
だが一向に扉は開く気配を見せない。
「余所見しちゃ駄目」
誰も入ってくる様子のない扉からすぐさま視線を戻される。
眼前には頬を膨らませた生徒会長様。
そう、彼女は生徒会長なのだ、巷では幾つもの呼び名と共に恐れられているはずの。
「まだまだあるからたくさん食べてね」
にこにこと微笑みながら箸を差し出してくる少女に、氷の会長と呼ばれる面影は欠片も存在しなかった。
むしろ、今の彼女を見てそういった単語を連想するほうが難しい。
それほどに今の雲雀は可愛らしく、また献身的だったのだ。
(時々、事情を知ってる俺でも二重人格って疑いたくなるからなぁ…)
ふと、思い出す。
二重人格といえば、昨日見たあれはなんだったのだろうかと。
学校のアイドルとして名高い鳴風真白(なるかぜましろ)の突然の怒号と奇行。
雲雀とほぼ同レベルの有名人である彼女のことは当然懐もよく知っていた。
常に微笑を絶やさず、周囲に優しさを振りまき、それでいてそれを鼻にかけることもない完全無欠の聖女。
それが周囲における真白のイメージであり、懐も少なからずそう認識している部分があった。
しかし、昨日見た彼女はそんなイメージをぶち壊すものだった。
表情を崩して声を荒げる、まるで普通の女の子のようだった。
(まあ、あっちのほうが好感はもてるけどね…)
どっちが真白の本当なのかはわからないけど、と懐は玉子焼きを咀嚼しながら考える。
甘い、美味しい。
雲雀の料理の腕は妹分である珠美のそれに匹敵する。
懐の知る限りで二人には交友関係はないはずだが、意外に話が合うかもしれないな、と思った。
「……」
「雲雀さん?」
咀嚼が終わり、玉子焼きを飲み込んだ懐は首をかしげた。
すぐさま次が来ると思われたのに、雲雀の箸は机の上に置かれていたのだ。
「…懐さん、ぼーっとしてた」
「え」
「何を考えてたの?」
じーっと上目遣いで見つめてくる視線。
懐はその可愛らしい仕草に少しばかりほのぼのとしたものを感じつつも、焦った。
「何か、悩み事でもあるの? ……それとも、女の子のこと?」
ぎくり、と身体が硬直する。
両方とも当たりだった。
だが、馬鹿正直に答えられるはずもない。
雲雀が冷血仮面のあだ名通り、氷のような視線を向けてきているのならばあるいは圧力に負けていたかもしれない。
しかし今の雲雀はおどおどとまるで小動物のように問いかけてきている。
これで、彼女を悲しませるとわかっている回答を口にできるはずがない。
「あ、いや、その…」
「…ごめんなさい、困らせるつもりはなかったの」
懐の困った様子を見て取ってか、シュンと落ち込む雲雀。
「あーうー、いや、昨日ちょっと珍しいというか…意外なことがあったもので」
「意外なこと…?」
「ええ、ちょっとラブレ……あ」
「ラブレ………ター?」
ピシリ。
僅かに首を傾げ、語句をつなげた雲雀の動きが止まり、空間にヒビが入った。
懐も自分の迂闊さに声をつなげられない。
「懐さん、ラブレターもらったの…?」
「い、いや、それが悪戯だったみたいで!」
「悪戯…?」
まるで切り出された別れ話を信じられない女の子のように確認を取ってくる雲雀。
だが、懐の次の言葉をきいた瞬間、その表情が変わった。
「そう…悪戯…ね」
ゴゴゴゴゴ…!
あえて効果音を出すとすればこんなところか。
懐は呆然とそんなことを考えながら眼前の少女を見つめる。
雲雀は、今までの態度が嘘だったかのように氷の会長の名の如く無表情になり、目を細めていく。
「懐さんにそんな残酷な悪戯をするなんて…許せない」
「ざ、残酷って…」
たらり、と冷や汗を流す懐。
一体雲雀の脳内では自分はどんな傷心少年になっているのか。
「懐さんの優しい心をもてあそぶなんて言語道断。山置雲雀の名の下に犯人を処罰しなくては」
「うえっ!? い、いいよそんなの!?」
本気と書いてマジと読む。
そう瞳に書いてあった雲雀のただならぬ様子に懐は必死でストップをかける。
このままでは犯人――この場合は真白ということになるのだろうか、は明日の朝日を拝めないかもしれない。
雲雀がそれを行うだけの行動力と権力を持っていることを知っている懐はあたふたと慌ててしまう。
「いいの、私のなつ……こほん、この学園の副会長を貶めた罪は重いのだから」
「き、気にしてないから!」
「私が気にするの」
雲雀はすっかりその気になってしまっていた。
まずい、このままではとんでもないことに。
そう考え、必死に考えを巡らせる懐。
コンコン
その瞬間、緊迫した生徒会室にノックの音が鳴った。
刹那、机の上に置かれていた弁当箱が雲雀の手によって消える。
寄せられていた懐の椅子はあっという間に離され、雲雀との間に距離がとられる。
どこからともなく書類が現れ、机の上に置かれていく。
この間、僅か二秒。
「し、失礼します。今年度のクラブ予算の決算書を持ってきました」
恐る恐るといった風体で扉の向こうから現れたのは生徒会の一員である一年生の男子だった。
懐の一つ下にあたる彼は魔境と呼ばれる森厳学園生徒会において貴重な存在だった。
何せ、懐と雲雀を除けば生徒会に残っているのはもはや彼だけなのだから。
「…そこに置いておきなさい」
「ひっ、わ、わかりました!」
絶対零度の視線が無垢な一年生を射抜く。
普通、雲雀のような美人に視線を向けられれば喜の感情が出るものだ。
しかし、今の彼はまるで蛇に睨まれた蛙のようだった。
(……うわ、可哀想に。ガチガチに固まっちゃったよ)
そんな二人のやり取りを半分他人事のように見つめる。
よく耐えていたが、そろそろ彼も辞めてしまうかな?
懐はほぼ確定した未来を嘆きつつ、視線を雲雀に向ける。
(相変わらず、変わり身早いなぁ…)
つい先程までたんぽぽのような笑みを見せてくれていた女の子は今能面のような表情を見せている。
いつもさっきまみたいな顔を見せていればこの人の評価もかわるだろうに。
懐はそんなことを考え、くすりと笑う。
だがその瞬間、ギラリと雲雀の目が光った。
「副会長、何を笑っているのですか?」
「え、そ、そんなことは…」
「そんなことでは困ります。生徒会副会長たるもの、いつも威厳を持ってもらわないと」
「…は、はい」
「全く、それでは……あら?」
男子生徒の姿はそこにはなかった。
ただ、『辞表』と書かれた一枚の紙切れが落ちていたのを懐は見逃さなかった。
(…これで、また残ったのは俺だけか)
はぁ、と溜息をつきつつ懐は床に落ちている紙を拾う。
雲雀が美人だからお近づきになりたい。
所詮は女だろ、生徒会の権力はもらった!
そんなことを考えて生徒会への参加を希望するものは多い。
だがそういった者たちは例外なく数日で辞めていく。
理由は簡単、雲雀の圧力に耐え切れなくなるからだ。
先程の男子は前者の理由からの参加だったようだが、ついに耐え切れなくなったようだった。
(五日か、持ったほうだよな)
五日というとここ一年の中では長い部類の記録である。
うんうん、と頷きながら懐は紙を雲雀に渡すべく振り向く。
そこには、不安気な表情を浮かべた生徒会長の姿があった。
「あの、懐さん…」
つい先程までの凛々しさが嘘のように弱々しい声で雲雀が呟く。
最後の一人が辞めたことで雲雀もやはりショックだったのだろうか。
どう慰めたものかと悩みかけた懐の制服の裾が握られた。
勿論、犯人は雲雀に他ならない。
「ごめんね、睨んだり、あんなこといったりして…」
「え」
懐は固まった。
てっきり辞表にショックを受けたのかと思っていたら、雲雀は懐への態度について落ち込んでいたのである。
「でも、皆の前だとああしないといけないから…」
「ああ、いや、気にしてないですから」
ぱたぱたと手を振って否定の意を示す。
そして素早く移動すると扉を閉める。
誰も通りかからないとは思うが、万が一にも今の雲雀を誰かに見られるのはまずい。
(けど、誰も信じないだろうなぁ…会長の素顔がこんな可愛い女の子だとは…)
多少の優越感を抱きながら懐は再び溜息をついた。
表情一つ変えずに重大な決断を下し、悪意ある者たちを文字通り投げ飛ばす無敵の生徒会長。
だがその実体は一人の男子の動向に一喜一憂する普通の女の子に過ぎなかったのだ。
(といっても、それを知ってるのはおそらく俺一人…なんだよね)
ふと、懐は思い出していた。
それは一年前のこと。
懐が雲雀の『本当』を知り、今の役職――生徒会副会長につくことになる切欠の出来事。
それはちょうど雨の日のことだった。
最終更新:2008年01月15日 18:21