「……邪魔するぞ、はじめ」
ドアを開けて部屋に入ってきたのは、千夏だった。
やよいと一戦交えた後でも顔に傷ができていないのは、顔面を狙われなかったからか、全て躱していたからなのか。
しかし、外から見ただけでは怪我らしい怪我を負っていないにしても、動きはどこかぎこちない。
部屋に入るときに出した声も、ドアを開ける手にも勢いがない。
それでも瞳に気が籠もっているところは変わらない。
隙を見せないよう、相手の機先を制することができるよう、前を見据えている。
はじめがマナの背中と脚を持ちベッドへと運び、今まさに横たえようとしている様が、千夏の目にははっきりと映っていた。
「あ、その……本当に、邪魔だった、か……?」
気まずい顔で、言葉を詰まらせる。
はじめも困惑を声に出したい気分だったが、出さなかった。
マナを抱えた状態でそんな声を出すことはできない。それはマナに対する見栄のようなもの。
なにせ、ついさっきまで自分はマナと唇を重ねていたのだ。その直後に呻いたらかっこ悪く思われそうだ。
はじめは気づかない。千夏が闖入してきた時点で良い雰囲気が台無しになっていることを。
千夏の方向を向いているから、マナが不機嫌なオーラを放っていることにも気づかない。
そうして、はじめと千夏が向かい合い、マナがしかめっ面をしたまま時が過ぎる。
部屋の壁に掛けてある時計が、動き続ける。一秒ずつ律儀に、等間隔で小さな音を立てる。
静けさに包まれた部屋がため息をついた――ような錯覚を、はじめは覚えた。
実際にためいきをついたのは部屋ではなく、だっこされ続けていたマナだった。
「はじめ」
「うん、なに?」
「そろそろ下ろしてくれない? ていうか、下ろしなさい」
吐き捨てるようなマナの声に従い、はじめはベッドに小さな体を横たえた。
続けてその体の上に乗ったりはしない。数分前まではそうしようと考えていたが、今はできない状態にある。
千夏の視線を浴びながら行為に及ぶほどはじめは愚かではない。
だから、とりあえず問題のなさそうな動きをとることにする。
「千夏さん、起きたんだね」
「う……うん。実際は結構ふらふらな状態だがな。目が覚めてしまって、眠ることもできないから、
誰か居そうな部屋を探して歩いていたんだ。そうしたら、この部屋の灯りがついていたから……入ってしまった」
「そう、なんだ」
「うん、そう。あ、ははは、ははははは……」
間を持たせることができないはじめは苦笑い。千夏は乾いた笑い声を漏らす。
そのまましばらく同じ行動が繰り返された。
「はあぁ…………」
あからさまな落胆のため息を吐いたのはマナだった。
ベッドに腰掛けながら床を見つめている。
はじめと千夏には目を向けない。
足をぶらぶらさせながら、退屈そうにしている。
「あんたたち二人とも、何やってんのよ」
「何、と言われても」
どうやってこの気まずい空気を振り払おうか、とはじめは考えている最中だった。
それはそうだ。さっきのはじめとマナが作り出していた空間は恋人たちだけに作ることのできる甘いもの。
いきなり千夏が部屋に入り込んできたせいでその空気が一気に台無しになった。
湯煎をかけているチョコレートに水が入り込んで台無しになったようなものだ。
こうなったせいでマナがどう思うのか、考えるだけで気分が落ち込む。
しかし、その事実を千夏を前にして言うのもなんだか悪い気がする。千夏に悪気はなかったのだ。
もう一度、今度は肩をすくませながらマナがため息を吐く。
「はじめの考えてることなんかわかってるわよ。
私にもその人にも気を遣って、なんて言って場を取り繕おうか、悩んでるんでしょ」
少しだけ救われた気持ちになったはじめは頷いた。
「それは無駄なことよ」
「へ? 無駄って、どういうことだ?」
「無理をして取り繕おうとしなくてもいいってこと。だいたい、はじめが今更格好つけたって遅いわよ。
そんなことしたって、私にとってのはじめのイメージはずっと固定化されたまま」
面と向かって、あんたは格好良くない、ともとれる台詞言われてしまったはじめは、当然ながらショックを受けた。
これでもマナややよいの前ではしっかりした姿を見せようと努力していたのだ。
気分が落ち込んでいく。僕って、マナにとってはずっと昔から変わっていないのか。
その時はじめは、マナが自分の顔をまっすぐに見つめていることに気がついた。
マナの瞳に映っているのは憧れではない。しかし失望でもない。
出逢った頃からずっと変わらない親愛の情だった。
「私ははじめがいいの。
同じ家に住んで、同じ釜のご飯を食べるっていうことの繰り返しを一緒にしたい相手ははじめだけ。
いくらあんたが間抜けなことやヘマをやらかしたって私は見捨てないわ。
だから、そんな落ち込んだ顔しないの。泣く二歩手前ぐらいの顔つきになってるわよ、今」
「……え、あ…………」
はじめは、あんたは格好良くない発言ではなく、マナの大胆な告白のせいで涙腺が緩みそうだった。
これほどまでにマナが自分のことを想ってくれているとは、今まで気づかなかった。
歯を噛みしめて溢れ出そうなものをこらえる。
喉の奥にじんわりとした、けれど心地いい、そんな痺れが拡がった。
「ま、そんなわけだから私に悪いなんて気持ちは持たなくてもいいわよ」
「ああ。ああ…………ありがと、マナ」
「どういたしまして。
それで話は戻るけど、私はこうなったのが嫌だってわけじゃないのよ。……実を言うと、ね」
言葉を一旦切ったマナは、千夏の方を見た。
千夏は口を脱力しきったように開け、呆然としていた。
「酉島、千夏さんだったかしら? 名前」
「え、あ! あ……ああ。うん、そうだ」
そして不意に声をかけられ、慌てて平静な表情を作った。
「歳はいくつ?」
「今、十八だ」
「じゃ、私より年下なのね。年下だからってわけじゃないけど、千夏って呼んでもいいかしら?」
「構わない。私もマナと呼ぶことにする」
「そう。私もその方が気楽でいいわ。
実を言うと、千夏に話を聞いてみたかったのよね。今回の件に関しては」
「今回の、件?」
疑問に思った千夏が首を傾げる。
しかし、すぐに思い当たったようで、小さな声を漏らした。
「さっき、庭ではじめを押し倒していたことについてか」
「あ、それはいいわ。どうせはじめのことだから喜劇みたいな出来事があってああなったんでしょうし」
どうせ、というところにひっかかるものはあったが、はじめは口を挟まない。
マナの言うとおり、コメディーのような展開を経て二人は庭でくっついたのだ。
千夏をはじめの方へ向けて押したのは卓也なのだが、狙い通りに事が運んでしまったのは、はじめだからこそだろう。
「そのことではない、ということか?」
千夏は腕を組んで眉をひそめた。
「わかんない?」
「わからないな。私はただはじめと仲直りしただけで」
「あ、それよそれ。いや、それそのものじゃないんだけどね。
仲直りしなければいけなかったってことは、つまり友達にはなっていたってこと、でしょ?」
「う……うん。そうだ。なあ、はじめ」
はじめは無言で頷いた。
仲直りしたおかげで、以前よりも千夏に親しみを覚えるようになっている。
今では卓也の次ぐらいに仲のいい友達だ。
「そこに、私は疑問を覚えるのよねぇ……」
「どういう意味だ?」
「ねえ、千夏。しょーー……じきに、答えてよ」
わかった、と言ってから千夏は首肯した。
マナの目が真剣味を帯びる。その変化ははじめにはもちろん、会って間もない千夏にも分かるもの。
声の調子を抑え、マナが口を開く。
「本当に、はじめはただの友達?」
「さっきもそれには答えたぞ」
「よく聞きなさい。ただの友達なのか、って言ってるの。
はじめはただの友達で、親しみ以外に何か他の感情を抱いていないの?」
「他の……? たとえば?」
「だいたいわかってるんじゃないの?
親しみに近い方向で、他のって言えば、恋愛感情ぐらいでしょ」
マナ以外の二人が絶句した。おそらくこの場に卓也がいれば同じ反応をしただろう。
はじめは驚愕のせいで、千夏は言葉が見つからなかったせいで、卓也は大笑いしそうな口を押さえているせいで。
「わ、わ…………」
最初に立ち直ったのは千夏だった。
唇が震えているせいで、声までもが震えていた。
「私が、はじめを、好きだと。そう言いたいのか、マナ」
「そうじゃないかな、と疑ってる。あ、好きって言っても友達として、とかナシだから。
ちゃんとはじめのことを男として意識して、モノにしたいと思っているかどうか、それが知りたいの」
「モノ……はじめは人間だが……」
「モノにするっていうのは、独占するって意味。
毎日片時も離れず傍に居て、他の女には目を向けさせない。そうしたい欲求が独占欲」
「ど、どどど……独占、欲……」
初めて聞いた単語であるかのようにどもる。
千夏の顔は紅くなっていない。
だが、目がはじめとマナと部屋のインテリアの間を行ったり来たりしていて、落ち着いていない。
まるで頭の中に強い負荷がかかっているようだ。もう少しで処理落ちしかねない。
「武道家たるもの、煩悩は振り払うべし。……と父は言っていた。だから私は……」
「やよいが言うには、その人の歩む道には大きな通りはあっても、それ一つで成り立っているわけじゃない。
小道や、荒れた泥だらけの道や、大通りと見間違えそうな整った道があって、ようやく形になる。
だから私は全身全霊ではじめくんを愛します、だって。
やよいの言うことにならえって言うつもりはないわよ。
でも、自分をごまかすっていうのは道を無理矢理壊しちゃうようなもんじゃない?」
「うむ…………うぅ……」
千夏が手近にあった壁に手をつけた。目の焦点が合っていない。
やよいを前にしてもひるむことなく立ち続けていた勇姿は見る影もない。
「どうしろというんだ、私に」
「正直に答えればいいのよ。
はじめとは友達のままでいたい、それか、恋人の関係がいい。どっちか」
「私、には……」
ようやく、千夏の目に意志の光が灯った。そこに映ったのは、力強いものではなかったが。
「――わからない。私は誰かを好きになったという経験が一度もない。
一人で今まで生きてきたわけではない。父と道場の門下生と、卓也と。あと……母と。
いろんな人の助けがあって今の私がある。そう思う」
「本当に誰も好きになれなかったの?」
「嫌、なんじゃないな。怖いんだ。
誰かを好きになっても、いつか嫌われるか、去られるかもしれないと思うと。
私には父がいる。道場の師範を務めている。はじめも知っているだろう?」
はじめが頷くのを見てから、千夏は言葉を続ける。
「母もいた。優しくて暖かくて、厳しくて怒りっぽくて、でも真っ直ぐな人だった。
私は、母のことが大好きだった。小さな頃は母にずっとくっついていた。
でも、母はある日、病気で亡くなった」
マナもはじめもじっとしたまま、込められた感情を聞き逃すまいと耳を傾けている。
「私がどれだけ落ち込んだのか、今では覚えていない。卓也が言うには相当なものだったらしいが。
母が亡くなって、父は厳しくなった。それが過保護ゆえのものだとは知っている。
しかしそれはここ数年で気づいたこと。
母が亡くなって間もない頃の私にとっては、世界が闇に包まれたほどの変化だった。
子供心に思ったことは……もう誰も好きなるまい、というもの。
誰かを好きになっても、いつかはいなくなってしまう。いつかは嫌われてしまう。
ならば最初から誰にも深く関わらなければいい。
誰に対してもとりつく島もないほどに厳しく接すれば、近づいてこないだろう、と」
「それで、残った友達が卓也一人なの?」
「あいつは、なんだろうな……そう、お節介焼きなんだ。
おちゃらけているように見えて、実は他人のことを考えている。
私だけでなく、身近にいた人に対してはいつもそうだったよ。
卓也のことは人間として好きだ。男としては見られない。
はじめ。私が、卓也は私のものだ、と叫んだときのことを覚えているか?」
「うん」
忘れるはずもない。
千夏の告白もインパクトが強すぎたし、その次に卓也へ向けて放たれた正拳突きも衝撃的だった。
「あの言葉、自分でもどうして言ってしまったのかわからなかったのが、今になってわかった。
ずっと私と仲良くして欲しい。これからも世話を焼いてくれ。それが変じてあの言葉になった」
「そう、なんだ……。でも、それなら」
遮るかのように、千夏は手を伸ばした。手のひらがはじめの顔へ向けられている。
二三度首を振ってから、千夏が口を開く。
「それは恋愛感情とは違うものなんだ。無理だ。もう卓也は友達としてしか見られない。
でもずっと近くにいて欲しい。ふふ、これも独占欲かな、マナ?」
「ん…………かも、ね」
自信なさげにマナは頷いた。
「話が逸れたな。私が、はじめのことをどう思っているか。言うよ、今から」
千夏がはじめへ向けて一歩踏み出す。
真正面から見据え、目と目を合わせる。
二人とも瞬きをすることはあっても、視線を逸らすことはない。
はじめは何を言われても聞くつもりだった。
おそらく、最初は友達の友達だった、今では直接の友達だ、と言われるだろうと予測を立てた。
それは思いつきで閃いた、浅すぎる予測だった。
はじめの深刻度は、決意を固めた表情を浮かべる千夏に対してレベルが低すぎた。
「さっきも言ったように、私は自分から誰かを好きになろうとも、好かれようとも思わない」
言葉を聞き、はじめの心が軽く痛んだ。
自分に対しても同じように考えていたのだろうか、と思ったのだ。
しかし、千夏の言葉には続きがあった。
「だけど、この間の模型の展示会が行われていた会場に行った日、例外が起こった。
はじめの作った模型がきっかけだ。テーマは家族、季節ごとに分けて作られていたな」
「うん」
「父親と母親と子供の三人家族だった。それを見て、自分の家族の姿と重ねてしまった。
こんな風に父と母と手を繋いで、日々を過ごしたいという夢を浮かべた。
模型を見ているうちに、久しぶりに、いや初めてかも知れないが、
これを作った人に会ってみたい、と思った。
感動したことをその人に伝えたい。あなたは私の恩人だと伝えたかった。
そんな時に現れたのが、卓也と一緒にやってきたはじめだった。
本当にありがとう。もう一度礼を言わせてもらう」
千夏が頭を下げる。想いのこもった礼をされて、はじめは戸惑った。
コンテスト会場で千夏に礼を言われたときもだったが、自分の作ったものがここまで人に影響を与える。
それははじめにとってまだ慣れないことなのだ。
慌てて言葉を探しているうちに、千夏が頭を上げた。
「……それから、はじめと会話するようになり、今まで味わったことのない楽しさを知った。
私と仲良くしたいとはっきり言ったのははじめぐらいのものだ。
理由も告げずに絶交宣言しても、私を見捨てず、捜し回ってくれた。
本当に嬉しかった。同年代の人と触れ合うのがここまで楽しいと思ったのは初めてだった。
これからもはじめと仲良くしたい。だけど――卓也とは違う意味で」
――え?
思考をさっぱりと洗い流された。頭がクリアになり、千夏の言葉が頭の中で跳ね回る。
スーパーボールのようにそれはひとところに落ち着かない。
そして、さらにはじめの思考を混乱に陥れる言葉が投げかけられる。
「今、はじめを想う心が恋心なのかは、私にはわからない。
ただ、はじめのことをもっとよく知りたい。
……この願いだけは、何度自分に問いかけても変わらない」
はじめが千夏の言葉を理解するまで、十回以上の反芻が必要だった。
最終更新:2008年01月30日 03:48