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気だるい雰囲気の中、唯一教壇に立った教師だけがいつもの調子で淡々と授業を進めていた。
あくびをかみ殺しつつ説明を聞くふりをしている者が多い中、
一人の男子生徒が大胆にも机に突っ伏して高いびきをかいている。
「――このオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊とソビエト連邦の成立が、
 当時のヨーロッパの軍事バランスを崩してしまいました。1930年に連合国が
 ラインラントから撤兵すると、ドイツに対するフランスの優位性は完全に失われます」
そこまで話して教師は言葉を止めた。細い眼鏡を光らせて教室を見回し、
その真ん中で熟睡している彼を鋭い目でにらみつけた。
「……佐藤君」
緊張が走る中、彼女は静かな声で告げる。彼以外の生徒はみな背筋を震え上がらせ、
慌しく視線を交換して音のないざわめきをあげた。
教壇を降りて彼女が彼に近づく。眼鏡の奥から放たれる眼光も細身の長身も、
そして若く整った顔立ちもまた、その教師にふさわしいものだった。
肩の辺りで切り揃えられた黒いショートヘアが彼女の理知的なイメージによく似合っている。
「――佐藤君!」
ついに彼女の手がかけられ、一同は哀れな子羊に同情を寄せた。
状況を全く理解していない彼がようやく起き上がり、間の抜けた声をあげる。
「……へ? ん、あれ……」
首を振った彼が見たものは、揃って自分を見つめる同級生の哀れみの眼差しと、
自分の隣に仁王立ちして冷ややかに彼を見下ろしている女教師だった。
「佐藤君、ぐっすりおやすみだったみたいね……」
「え? あ、は、はい」
やっと自分に危機が迫っていることに気づき、彼が小さな声でうなずく。
彼女はそんな生徒の肩に軽く手を置いて息を吸った。
「――よくも毎回毎回、同じことしてくれるわねぇえぇぇっ !!
 ちょっとは反省しなさぁぁあぁぁぁいっっっ !!!」
鼓膜が破れそうな怒号に震えたのはこの教室だけではないはずだ。
怒り心頭に達した彼女のお説教は、チャイムが鳴るまで続けられた。

「……あー、死ぬかと思った」
今度は眠気のせいではなく、疲労と消耗に倒れ伏した彼がつぶやいた。
佐藤栄太。クラス一のお調子者の男子生徒である。
「むしろ生きてるのが驚きだな。あのクイーンをあれだけ怒らせる奴なんて
 この学年じゃお前くらいじゃないか、栄太?」
彼の後ろの席で弁当を広げだした男子生徒がそう言った。
端正な顔をした優しそうな少年で、名前は水野啓一。栄太の親友だ。
栄太は冷静に告げる啓一にうらめしそうな視線を向けた。
「誰がクイーンだよ、キラークイーンかっての。ありゃ大魔神か阿修羅の類だろ。
 あの肺活量、間違いなく人間辞めてるぞあれ。しかも何で俺ばっかり
 目の敵にするんだか……もしかして俺は不幸の星の下に生まれついてるんですかね?」
「単に居眠りしないだけでもだいぶ違うと思うんだが。
 前にお前が『彼氏いますか?』とかあの先生に聞いたときは、こっちが死ぬかと思ったよ」
そのとき腹の虫が鳴り、栄太は顔をしかめた。
彼は弁当を持ってきておらずいつも購買でパンを買っている。
しかし今日は先ほどの世界史のダメージがたたり、買いに行くのが遅れてしまった。
今から行ってもまともな物は買えないかもしれない。

彼は軽くうなり声をあげ、ひとり弁当に箸を伸ばそうとする友人に絡み始めた。
「啓一、俺にも食わせろ」
「断る」
「いやあ悪いなあ、それ恵さんの手作り弁当だろ? 本当に食っていいのか?
 やっぱり持つべきものは頼れる友達だよなあ、感謝するよ」
「断る」
「学年一の優等生、水野啓一さんが、生死の境をさ迷ってる大事な友人を
 まさか見捨てるはずがない! 皆そう思ってますって、よっ大統領!」
「断る」
「うおぉぉぉん、腹減ったよぉぉぉぉぅ……」
栄太が三たび机に突っ伏して泣いていると、二人の女生徒が彼らの元にやってきた。
一人は長い黒髪をストレートに伸ばした、見るからに清楚な印象の少女。
繊細な顔のパーツといい穏やかな雰囲気といい、どことなく啓一に似ている。
もう一人は茶髪を短く切って動きやすくした、活発そうなつり目の女の子だった。
「……栄太、あんた何やってんの?」
「おお由紀か。残念だが俺はここまでだ。
 俺の墓には姓名、階級と生没年月日だけを簡素に記しておいてくれ……ぐふっ」
そう言って栄太はわざとらしく力尽きた。
「啓一クン、この馬鹿どうしたの?」
よくわからないといった顔で、茶髪の少女が栄太を指差す。
「いや、こいつさっきの世界史の授業で居眠りこいててさ。
 それで升田先生に大目玉くらって、パン買いに行けなくて飢えてるだけだよ」
「……やっぱりあれ栄太だったのね。こっちのクラスにまで聞こえてたわよ」
半分は納得したように、もう半分は呆れた口調で彼女が言った。
「あの鬼教師の前で寝るなんてあたしでもしないのに……本当に馬鹿ねあんた」
「うう……死者に鞭打つお前らなんか、友達じゃねーやい!」
「あら、そんなこと言っていいのかしら?」
不意に茶髪の少女――坂本由紀は口元をニヤリと歪めた。
後ろ手に持っていたビニール袋を取り出して、息も絶え絶えの栄太に見せつける。
「そ……それは!」
「珍しくあんたが購買に来ないから、こんなことだろうと思ってさ。
 適当にパン買っといたわよ。ちゃんとお金払ってよね」
「うおぉぉぉぉっ、ありがとう由紀ぃ! 大好きだぁぁあ!」
栄太は救われた表情になって涙を流し、由紀にすがりついた。
「あ、コラやめなさい! 人前で抱きついたら張り倒すっていつも言ってるでしょ!」
「――てことは、二人っきりならいつもイチャイチャしてるんだね……?」
横で静かに話を聞いていた黒髪の少女、水野恵がぽつりと言った。
繊細で清楚、優美を絵に描いたような女生徒で、啓一の双子の妹である。
啓一と恵はギャーギャー騒ぐ二人をじっと見つめていたが、
「ま、こいつらは放って飯食っとこうか」
「……そうだね、啓一」
と同様に呆れた顔で、それぞれ同じおかずの弁当をつつき始めた。

やがて昼食も終わり、午睡の倦怠感が校内を覆いつくした頃、
生気を取り戻した栄太が急にガタンと音を立てて立ち上がった。
「――諸君に問う!」
三人は同じ表情で彼を見上げ、何か言いたそうにしている。
「本日俺は、あの極悪教師のせいで危うく飢え死にするところであった!
 あの升田とかいう鬼畜をこのままにしておいていいのだろうか !?
 ……いや、いいはずがない!」
(やれやれ、また始まったか……)
周囲の冷めた視線にもめげず、栄太は語彙の限りを駆使して升田の悪逆非道ぶりを非難し、
不当な体罰や精神攻撃を改めるよう力説した。
「そんなの、本人に直接言えよ」
「ふ、愚かだな啓一! そんなことしたら俺の命がないのは火を見るより明らか!」
「……派手な演説するわりには、すっごい弱気よねえ……」
力のない声で、由紀が横から言う。
一応栄太とは付き合っている仲なのだが、彼女にとっても未だにこの男がよくわからない。

そのとき、啓一が虚空を見上げて何とはなしに後を続けた。
「まあ確かにあの先生は怖いよな。誰に聞いても皆そう言うし」
「そうねー。顔もスタイルもそこそこいいのに、皆震え上がっちゃってるもん。
 あんなヒステリー、あたしも正直言って関わりたくないわ」
「でも、あれがいいっていう隠れファンも結構いるって聞いたよ?」
「えーそう? 信じられんないわね。男ってやっぱりMが多いのかしら……」
彼らは顔を見合わせて、知っている限りの升田の噂を交換し合った。
曰く、今年で二十七。結婚はしていないが彼氏持ちらしい。
曰く、気に入らない相手は容赦なく怒鳴りつけ、校長でさえ彼女には逆らえない。
曰く、身体能力も高く、痴漢を半殺しにして警察に突き出したこともあるとか。
どこまでが本当かわからないが、実際にあの罵声を聞いた者からすれば
どれも事実に思えてしまうようなものばかりだった。
栄太が拳をぎゅっと握り締め、三人に語りかける。
「そう! そんな暴虐の覇王をのさばらせておいていいはずがない !!
 今こそ団結してあの鬼婆を懲らしめないといけないのだ!」
「いや俺パス。死にたくないし、第一俺は被害蒙ってないから」
「この軟弱者め! お前は自分の成績さえ良ければそれでいいのかっ !?」
「うん」
次に発言したのは由紀だった。
「でも懲らしめるって、どうすんのよ栄太。
 いくらあたしでも教師相手に殴り合いなんてしたくないわよ。停学くらうもん」
「大丈夫だ、ちゃんと策は考えている!」
自信満々に答える栄太。目はキラキラと輝き、全身に活気が溢れている。
子供のように悪戯っぽい表情で笑う栄太を、三人は不安そうに見つめていた。

次の日、栄太は持ってきた物体を机の上に置いて三人に見せびらかした。
「という訳で、俺の用意した秘密道具はこれだ」
「……これ、携帯のストラップ?」
テカテカ光る金属部分から伸びる茶色の革。その先には小さな円形の飾りがついている。
どこからどう見ても、携帯電話につける革製のストラップである。
だが恵や由紀のような女子高生には、少し地味な感じが否めない。
全体的に落ち着いたデザインで、もっと大人の人間が持つにふさわしいものと思われた。
「啓一と恵さんには、何とかしてこれをあの死の教師に渡してほしい」
「……え、俺たちが?」
思いもしないことを言われた双子の少年少女は目を見開いた。
「当たり前だろ。俺や由紀がいきなりこんなの渡したって怪しいだけじゃねーか。
 教師に気を遣ってプレゼント、なんてのは君たち優等生のお仕事ですよ」
「私たちが贈っても充分怪しいと思うけど……」
「まあ大丈夫でしょう。先生方にも受けがいい水野兄妹ですから、
 升田も怪しまずに喜んで受け取るはず。
 可愛い生徒からの贈り物ということで、間違いなく使ってくれますよ」
周囲の生徒に聞こえないよう小さな声で由紀が問う。
「で、こんなストラップが何の役に立つのよ? ご機嫌取りのつもりでもないでしょ?」
「うむ、よくぞ聞いてくれた」
栄太は学生服のポケットからラジオのような機械を取り出した。
短めのイヤホンがついていて、ラジオか音楽プレーヤーにしか見えない。
「そのストラップの受信した音声をここで聞けるわけだ。ついでに録音機能つき。
 特別製の小型電池を使ってるから、当分電池は切れないぜ」
「これ、まさか盗聴器 !?」
「――しぃっ!」
思わず声をあげた恵に向かい、指を自分の口に当てて咎めだてる栄太。
幸いにも周りで今の言葉に気づいた者はいないらしい。栄太は胸を撫で下ろし、
声をひそめて三人に説明を続けた。
「ま、そういうことですよ。これであの女の私生活を暴いて
 弱みを握ろうという実に賢く理にかなった、まさに柔よく剛を制す方法ですね」
「それ、バレたら停学で済むのか……? 下手したら警察沙汰になるんじゃ……」
「なんかすっごいイヤなんですけど……こんなの渡すの……」
露骨に嫌悪感を示す双子を栄太が説得する。
「大丈夫、バレないよう細工は完璧だ。
 盗聴器がバレるのは大抵、電波を発信してるのが発覚してしまうからだが、
 普段から電波を出している携帯につけるんだから何の問題もない。まずバレないって」
「……それって、電波が混線とかしないのか?」
「多分しないと説明書に書いてあった」
「あんた、どっからこんなもん手に入れてくるの……?」
疲れた顔で由紀が言った。
「企業秘密だ。という訳で啓一、恵さん、頼んだぞ。
 俺たち善良な生徒たちの身の安全は、二人の双肩にかかっている!」
「啓一、どうする……?」
「うん、やっぱり聞かなかったことに――」
逃げようとする二人を必死で押さえつけ、栄太は説得に強要と強迫を重ねて
とうとう水野兄妹に協力を約束させてしまったのだった。

升田美佐は午後の授業でも猛威をふるっていた。
「ヴェルサイユ条約ぐらい覚えておかないと駄目でしょう !!」
「そこ、ちゃんとノート取ってる !? 後で見せてもらうわよ !!」
「人の話は聞きなさいっ !! 私の授業をサボるなんていい度胸だわっ !!」
講義は淡々と氷のように冷静に行うくせに、ひとたび生徒が自分の意に沿わぬときは
口から灼熱の炎を吐いて怒るのだ。
気の弱い生徒の中には泣き出す者すらいて、それがまた彼女を刺激する。
一日が終わり肩をいからせて職員室に帰っていく升田美佐の姿に、
廊下にいた者はみな畏怖を覚え、慌てて端に寄って道を譲るのだった。
「まったく、この学校のコはたるんでるわ……!」
自分の席に座って頭から湯気を出す女教師。
周囲の同僚も愛想笑いを浮かべるだけで彼女に近寄ろうともしない。

そんな升田に声をかけてきたのは二人の生徒だった。
「――升田先生」
「あら水野君、二人揃ってどうしたの?」
そこに立っていたのは成績優秀で評判の双子、二年の水野兄妹だ。
「ちょっと今日の授業のことで、先生に質問があって……」
妹の方、恵の言葉に升田は表情を緩めた。
優等生の二人はたまにこうやって授業中の疑問点を質問しに来る。
彼女としても、積極的に学ぼうとする二人のことを気に入っていた。
「そう? どこかしら」
いつになく優しい声で升田が問う。
もし栄太や由紀がこの声を聞けば、差別だと大声をあげるに違いない。
兄妹の質問によどみなく答え、升田はいい気分で説明をしてやった。
「――どうもありがとうございました」
「いいのよ。またわからないことがあったら、いつでも聞きに来てちょうだい」
「はい、わかりました」
そう言って二人は教師に頭を下げた。
そのまま帰るかと思ったのだが、ふと恵が顔を上げて言葉を続けた。
「あの、先生……」
「? まだ何か聞きたいことがあるの?」
「いえ、そうじゃなくって……その、先生、携帯のストラップはお持ちですか?」
「いいえ、持ってないけど?」
急に話を変えた生徒にきょとんとしつつも、彼女はポケットから自分の携帯を取り出した。
彼女らしく飾り気も何もないシンプルな銀のデザインだ。ストラップはついていない。
「えーと、先生に使ってもらおうかなって、私たち何人かで先生に似合いそうな
 ストラップを選んでみたんですよ。よ、良かったら使ってくださいませんか?」
そう言って茶色の革製のストラップを差し出す恵。
やや怯えたようなその表情と声に、升田が気がつくことはなかった。
「え、私に……?」
思いもしなかった贈り物に少々驚いたが、彼女はにっこり笑ってそれを受け取った。
「ありがとう。それじゃ使わせてもらうわ」
「あ、そ、そうですか! じゃあ私たちはこれで……あははは……」
硬い笑顔を浮かべ、何度も頭を下げて去ってゆく双子の生徒を笑って見送り、
彼女は再び机に向き直った。
「へえ、嫌われてるかと思ってたけど……そうでもないのかしら、私……」
そうつぶやいて、女教師は細い指でストラップをつけ始めた。

戻ってきた二人を栄太は上機嫌で労った。
「――ご苦労だった! これであの鉄の女の鼻をあかしてやれるぞ!」
「か、勘弁してくれ……すっげー緊張したんだから……」
「ホントよ……私、手がブルブル震えてたもん……」
疲れた声で言う双子に構わず、栄太は受信機を手に笑っている。
「俺の調査によると、噂の彼氏とやらは毎週あの女を学校まで車で迎えに来るらしい。
 そしてちょうど今日がその日なのだ! フハハハハ、なんと好都合!」
「あ、それ知ってる。白い車に乗った男の人じゃない?」
「それならあたしも見たよ。なんかひょろっとした兄ちゃんだったような?」
女子二人が記憶の淵からその事実を拾い上げた。
「さすがのやつも、彼氏と一緒ならば油断のあまり弱点の一端も露にするはず!
 それが狙いよ、あとはそれをネタに笑いものに……クックック……!」
低い笑い声をあげる栄太の隣で、由紀が双子に話しかける。
「恵、啓一クン。あんたたちもうこの辺で身を引いた方が……」
「いや、残念だけどもう深みにはまっちゃってる気が……」
「捕まるときは絶対、皆一緒だよね……ううぅ……」
こうして四人はそれぞれ帰宅し、私服に着替えてから水野家に再び集合した。

夕暮れ時、学校の裏門に白い乗用車が止まった。中から出てきたのは若く長身のやせた男。
穏やかな顔に笑みをたたえ、じっとそこで待っている。
そこに現れたのは、小奇麗なスーツを身にまとった若い女だった。
鋭い目を眼鏡で覆い、黒いショートヘアは乱れ一つなく整えられている。
「やあ、美佐」
男はへらへらした笑顔で彼女に声をかけた。
だが女はにこりともせず、冷たい声で吐き捨てる。
「愛想笑いはやめてっていつも言ってるでしょ?」
「ごめん。でもこないだ言ってた店、ちゃんと調べておいたから、
 今日は君にもきっと満足してもらえると思うよ」
「無駄口はいいから早く連れてって。グズは嫌いなの」
そう言って女は車に歩み寄り、そのまま助手席に乗り込んだ。
肩をすくめた男が運転席に乗り、車を走らせる。
夕日を浴びた白い車は、長い影を従えて街に飛び出していった。

“無駄口はいいから早く連れてって。グズは嫌いなの”
「……うっわー、升田先生、やっぱり彼氏相手でもきついね」
マイクから聞こえてくる会話に、恵は感嘆の声をあげた。
「まあ、でもいつも通りじゃない? 相手も慣れてるみたいだしさ。
 やっぱり男はMが基本なのよね、うんきっとそうだわ」
「言っとくけど俺は違うからな。いつもポンポン俺を殴りやがって……」
座布団に座った少年少女がそんな会話を交わす。
ここは啓一の部屋で、広くはないが真面目な彼らしく適度に片付けられていた。
盗聴器とマイクを持ち込んだ栄太は、由紀を連れて水野家に上がりこみ
四人で升田と恋人の会話を盗み聞きしているのだった。
その升田の台詞によると、相手の男の名は秀行というらしい。

“あれ、携帯にストラップつけたんだね。いい感じじゃない”
“もらい物よ。うちの可愛い生徒たちが私にプレゼントしてくれたの”
その会話に啓一と恵はひやりとしたが、自信に満ちた栄太の言う通り、
この盗聴がばれている様子は皆無のようだった。
“へえ、意外と子供たちに慕われてるんだね”
“意外とってどういう意味かしら、秀行?”
“ご、ごめん……”
男の謝る声がする。どうやらひょろりとした外見通りの気弱な性格のようだ。
やがて信号で止まったのか、エンジンの音以外に何も聞こえなくなった。

「……あ」
そのとき突然、由紀が声をあげて三人の注目を浴びた。
「先生たち、これから晩ご飯食べに行くのよね。
 あたしたちいつまでこれに付き合うの? ご飯どうする?」
「あー、そういや考えてなかったな」
栄太が頭を軽くポリポリと掻いて言った。
「一応録音してるし途中で解散してもいいけど、せっかくデートを生中継してるんだから
 晩飯の会話くらいは聞いてやろうぜ。俺たちの飯はその辺に食いに行くということで」
「でもうちのお母さん、いつも通り晩ご飯の買い物に行っちゃったけど……」
恵が困った顔にそう言葉を添えた。
「二人だけに食べに行かせて俺たちだけいつも通りってのもな……うーん……」
少しの間啓一は考え込み、数秒後に答えを出した。
「んじゃ恵、悪いけど由紀さんと夕飯の材料、何でもいいから買い足してきてくれ。
 作るのは俺も手伝うからさ」
「えー、みんなうちで食べるの? いいけどけっこう大所帯だね」
家主の双子の提案に、客の二人は歓声をあげた。
「恵さんの手料理ですか、イヤッホォォォゥ!」
「でも、とんだ夕食会になっちゃうわね。人のデートを肴にするなんて」
「気にしない気にしない! せいぜいあの地獄の使者を笑いものにしちゃいましょう!」
栄太の発言に、三人は揃って笑った。
最初は反対していた啓一と恵も少しずつこの悪戯を面白く思い始め、
今は栄太に協力しようという意図が見え隠れしていた。

賑やかな調理と夕食を手早く終わらせ、栄太と由紀はそれぞれの自宅にその旨電話を入れた。
「さて、じゃあ続きといきますか!」
ドタバタと啓一の部屋に戻り、静かに盗聴器のマイクに耳を傾ける。
「……あっちはお店に入ったとこみたいね。何か注文してる」
「さあて、どんな会話があるのかなっと♪」
すっかり悪乗りを始めた四人は、楽しそうに教師の私生活に聞き耳を立てた。
“ちょっと混んでるけど、いい感じの店じゃない”
“だろ? 土日はなかなか予約もとれないんだよ”
それからしばらくの間、食器を鳴らす小さな音と店内を流れるクラシックの曲が聞こえた。
彼らの期待に反して、二人はあまり多くの言葉を交わさなかった。
会話をリードしたい男に対して、淡々と物を述べる女教師。
「もっと喋れよな升田め。面白くねえ」
「やっぱりあの人、普段からあんな感じなんだね……」

そのとき、男が眼鏡の女教師に向かって話しかけた。
“――美佐”
“何よ秀行、改まって”
“僕たち、付き合って何年だっけ”
“学生の頃からだから、もう十年近くになるわね……それがどうしたのよ、突然”
“うん……実は今日、き、君に大事な話があるんだ……”
その台詞に生徒たちはにわかに色めきだった。
「十年って、先生意外と一途じゃない。びっくりだわ!」
「大事な話って何だろうな? ただ事じゃなさそうだ」
ごくりと息を呑んで少年たちが待つ中、升田は男を見つめて訝しがっている。
“何よ、早く言いなさい”
“え、えーと、そ、それが、その……”
男はもじもじとしたまま続きを言えずにいた。
その態度に四人が、そしてそれ以上に升田が苛立っているのが感じられる。
「あーもう、じれったいなあ。早くしろよ」
「これじゃ先生も怒っ――」
“早く言いなさいってば !! あんた人舐めてんのっ !?”
水野兄妹が、そして栄太も由紀も飛び上がり、彼女の怒声に背筋を震わせた。

震え上がったのは男も同様だった。
こちらをにらみつけている升田の視線におびえ、体を小刻みに振動させている。
大学生のとき知り合って以来、彼は未だにこの女に口で勝ったことはなかった。
だが、今日だけは気圧される訳にはいかない。
彼は震える手でポケットから小さな箱を取り出し、彼女に差し出した。
受け取った彼女の顔から急速に憤怒が消えうせ、やがて呆然としたものに変わる。
「……何よ、これ」
そのつぶやきにも力がない。こんな彼女は今までに見たことがなかった。
秀行は一生に一度の勇気を振り絞り、はっきりとその言葉を口にした。
「――美佐、その指輪を受け取ってほしい」
「…………」
「お願いだ美佐。僕と結婚してくれ」
それからしばらくの間、マイクからは何も聞こえてこなかった。

ようやく声を絞り出した彼女ができたのは、小さく笑うことだけだった。
「あはは……何よ秀行、冗談でしょ?」
「僕は本気だ。結婚してくれ、美佐」
「な、なんで……なんで……」
彼女は糸の切れた人形のようにテーブルに倒れ込んだ。
「なんで……あんたが先に、その言葉を言っちゃうのよぉ…… !?」
「美佐……?」
「こんな指輪まで用意してぇ……! あんたにその気がないって思ってたから、
 いつ言おうか、どうやって言おうか、ずっと考えてたのにぃ……っ!」
彼女は泣いていた。大きな喜びとわずかな敗北感に涙を流し、
そのまま愛する男の前で嗚咽を漏らし続けた。
「ごめん……美佐……」
「なんであんたが謝るのよ……嬉しいに決まってるじゃない……っ !!」
その言葉に反して、彼女は顔をくしゃくしゃにして泣いている。
「――すまなかった。ごめんよ、美佐」
「謝るなぁっ !! 謝るくらいならもっと言ってよ! 好きだって!
 私のこと愛してるって、結婚してくれって!」
こんなに取り乱した彼女を見るのは初めてのことだった。
子供のように駄々をこねて泣き続ける恋人に優しい目を向け、秀行が続ける。
「ああ、君がそうしてほしいなら何度でも言うよ。好きだ美佐。愛してる。
 そ、それで近くのホテルに部屋を取ってるから……今夜はその、い、一緒に……」
後半は緊張に固まりつつも彼女の了解を取りつけ、彼はほっと胸を撫で下ろした。

一方、啓一の部屋も大騒ぎになっている。
「うおぉぉっ !!? ま、まさかの急展開っ !!」
「ちょ、ちょ、ちょっとちょっとちょっと !! どうするのよ !?
 すっごい決定的瞬間じゃない !! ヤバすぎないこれ !?」
「まさかプロポーズとはなあ……先生、おめでとう」
「先生泣いてたね。ちょっと可愛かったかも」
顔を少し赤らめて恵がつぶやく。鬼教師の意外な姿に、彼らは驚きを隠せずにいた。
「しかもホテルに直行とか、相手は準備万端ね!
 今どきレストランで指輪贈って告白後にホテルなんて、実際にあるもんねぇ……」
「ん、待てよ皆 !? 落ち着いて俺の話を聞いてくれっ !!!」
荒げた声の栄太に三人は動きを止め、彼に続きを促した。
だが栄太はいつになく静かな声音になって、吐き出すように重々しく言った。
「この後、先生がホテルでえっちぃことする訳ですが……中継、続けますか?」
真っ赤になった三人がうなずいたのは言うまでもなかった。

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最終更新:2009年06月02日 02:33