One day in high summer
入ってみて驚いたことに、クーラーの駆動音以外に何にも聞こえなかった。
今日は、否、今日も真夏日で、外では元気に蝉や子どもの声が響いていたはず。
それなのに、耳をよく澄ませてみてもやはり外の音はまったく入ってこないんだから、ずいぶんしっかりした防音が施されているものだ。
「ちょっと郁斗!聞いてんの!?それ飲んだら…やってくれるんでしょ?」
あぁ、やっぱり呼びかけられてたんだな。見上げると、氷の浮かんだグラスにご丁寧にストローまで差したのを片手に、真島さんが立っていた。
すぐに彼女は、胡坐を掻いている僕の隣にグラスを下ろした。雫が外側を伝って落ちた。
早く手に取らないと絨毯が濡れてしまうという些細な心配も手伝って、早速僕は彼女が出してくれた飲み物に口をつけた。
「うん、おいしい。ありがとう」
美味しいけど、このカルピスちょっと濃い。
「いいから!さっさとしてよ!」
「分かったからちょっと待ってって、ば!」
飲み終わったばかりのグラスを僕の手から半ばひったくる様に奪い、彼女は部屋を出た。わざわざグラスを流し台まで片付けに行ったんだろう。
彼女が戻ってくる前には準備をしておいたほうがよさそうだ。…特に心の。
「さ、やるわよ!」
速い。足音も感じさせないのにこの高速。あぁ、そうかこの部屋は防音なんだ。
「何でこの部屋ってこんなに遮音性が高いんだ?」
「はぁ?何言ってんのよ。普通の部屋だったら迷惑極まりないでしょ」
と、真島さんが目で示した方には…あれはピアノだろうか。
何で今まで気づかなかったのかと言われてもまぁ目立たなかったとしか答えられない。とにかく最近触った後もないし、スペースとるからインテリアにもならず、
部屋の隅に追いやられ上や周りに物を置かれたのだろう。
「そういえばここって真島さんの部屋じゃないよね」
その一挙一動の割に几帳面な性格の彼女が、自分の部屋をこんな物置みたいな状態にしておくとは考えられない。
「へ?あ…。もう!その呼び方はやめてって言ってるじゃない!ちゃんと下の名前で呼んでよね!」
あー…そうだった。でもなぁ、なんか気恥ずかしいんだよな。
「何言ってんのよ。もう何ヶ月経つと思ってんの?」
自分が下の名前で呼ばれるのにはそんなに抵抗ないんだけど、どうしても異性の名前を呼ぶのは恥ずかしい。
去年の秋、その、付き合いだした頃に「お互い名前で呼び合おう」って言われて頷いたのは自分なんだけどね。
「なによその純情さアピール。高校生にもなって」
別にそんなアピールはしてないんだけどな。確かにちょっと情けないかも。
「分かったよ。ちゃんと呼ぶから」
「宜しい。あぁ、そうそうこの部屋だっけ?ここね、兄貴が昔ピアノ弾くために使ってた部屋なのよ。最近は全然弾いてるの見ないけどね。
飽きちゃったのかしら。…でもなんでそんなこと聞くのよ?あ、もしかしてあたしの部屋のが良かった?あー…そのね、残念ながら今エアコン壊れてんのよ。設定温度何度にしてもいい感じに熱風吹いてくれるけどそれでも良い?」
「さっさと直せよ」
「タダじゃないのよタダじゃ!」
それもそうだ。
「じゃ、始めましょ」
そういうが速いか彼女は埃の積もったベッドカバーを取り払ってその上に寝転がり、肘をついた。
「おい、せっかく机もあるんだからそっちで良いだろ」
問題集にノート、筆記用具を携えて僕は窓際の机に向かった。
喫茶店にあるような感じの正方形の木製のテーブルで、向かい合うように二脚の椅子が置かれている。
ちなみに、全部僕の。勉強するのは、彼女。ノートぐらい用意しとけよ。
「ヤだ、めんどくさいもん」
さっき彼女のことを「几帳面」と形容したのは撤回した方が良いかもしれない。
「いいじゃないの、布団はちゃんと定期的に干したりしてるから綺麗だし」
だいたい、あなたはそんなところで数学の勉強するんですか。字、書きにくいだろ。
「…あのなぁ。ほら、一葉ってば」
ベッドに腰掛けて真島さんの体を揺する。
「…仕方ないわねー。その代わり、あたしがきっちり理解するまで付き合いなさいよ?」
「はいはい…」
ようやくのろのろと椅子に腰を下ろした。ホントに勉強する気はあるんだろうか。
だいたい、彼女は勉強が苦手な訳じゃない筈なのになぁ。
カルピスをもらったのが午後三時過ぎ。今、丁度四時。
そもそも僕は「数学教えて欲しいから家に来て。すぐ終わるから」とのメールを頂いて真島さ…一葉の家に来たんだ。
それがどうして彼女の寝顔を見ながら自分もウトウトしてるんだろう。
いつの間にか眠くなってきて、はっと我に返ると既に眼前のこの人は夢の中、という具合。
一時間弱で進んだのがたったの二ページなんだから多分僕は家庭教師のバイトには向いてなんじゃなかろうか。
それにしたって僕だけのせいじゃない。彼女のせいで相当の脱線はしているはずだ。
にしてもどうしたものか。教えるといったからにはキリのいいところまでやってしまいたいという気持ちもある。
起こしてでも続けるべきか。
…まぁ、いっか。
そのうち彼女が起こしてくれるだろうという安易な考えのもとで、僕は潔くテーブルに突っ伏した。
それからさらに一時間後。
僕は肌寒さに起こされた。見るとまs…一葉はノートを抱え込むようにして相変わらず伏して眠っている。よく寝るなぁ。
が、彼女の二の腕には鳥肌が立っている。やっぱり寒いらしい。
冷房病にかからないように(もう手遅れかもしれないけど)温度を少し上げて、ま…一葉を起こそうと試みに肩を叩いてみた。
無反応。
左右に揺する。
無反応。
横腹を左右から人差し指で突いてみると彼女は
「ひゃん!?」
と、素っ頓狂な声を上げてちょっと飛び上がったものの、すぐにその茶色の双眸で僕を睨みつけた。
すっかりお目覚めの様子。って言うか今気付いたけど眼鏡したまま寝てたんだこの子は。
「なにすんのよこのバカっ!」
「いや、あまりにも気持ち良さそうだったもんでつい…」
「だからって!世の中にはやって良いことと悪いことがあるでしょ!」
すると横腹をつんつんつつくのはやっちゃいけないことなのか。
「と、当然でしょ!」
意外に効くみたいだ。覚えておこう。
「…でさ、どうすんの、数学。ぜんぜん進んでな」
「あんた何処に目ぇ付けてんのよ。これが見えない訳?」
僕の言葉を遮って、けらけらと得意気に笑った一葉はノート(僕の)を目の前に突きつけた。
確かに一通り済んでいるようだ。ということは、僕が居眠りしている間に起きてやってたのか。
ってやっぱり普通に自力で全然理解できてるし…。
「あたしが居眠りなんてするわけないじゃないの。ちょっと見くびりすぎじゃない?
…それより、もう三時じゃない。おやつの時間ね。なんか食べたいもの、ある?
用意できるものならするけど…」
「ありがと。でも特にないかな」
「そう。じゃあいいや」
立ち上がっていたm…一葉はベッドに腰を下ろして、
「はぁーっ…。久々に頭使ったから疲れちゃった。ちょっと寝よっかな」
ため息のようにも思える大きな欠伸をひとつ。
そういえば欠伸ってうつるよね。
そして僕も欠伸。
「あ、もしかして郁斗も眠いのぉ?一緒に寝る?」
「は?」
「あははっ。冗談よ、冗談!そんなに驚かなくてもいいじゃないの。ホントにウブなんだから」
なんか無性に悔しいな。
「まぁこっち座ればいいじゃない。…何にもしないわよそんな顔しなくても!」
よっぽど怪訝そうな表情をしていたのだろうか。一葉は苦笑とも軽い嘲笑ともつかない微妙な笑顔を向けた。
とりあえず僕も彼女の右隣に腰掛ける。見た目に比べてよく沈むベッドだった。
ぼすっ。
一葉が両手を広げて背中からベッドに倒れこんだ音だった。そのまま目を閉じる。
僕はというと、しばらく所在無く正面の壁を見つめていたんだけれど。
「ねぇ」
彼女が言った。目を閉じたままで。
「何?」
「…何でもない」
「何だよ」
「別に」
「気になる」
「何でもないってば!」
ついに起き上がって声を上げた。
「…あのさ」
急に声が小さくなる。
「ん?」
「あたしたち、付き合い始めて今日で、九ヶ月なの。知ってた?」
“そうだっけ?”とは言えない、とても。
だから「あぁ」と曖昧な返答で彼女の話を促す。
「だから」
「うん」
「…キスして」
唐突…でもないかな。
僕は以前に異性と付き合ったことはないし、そもそもそういう事情には疎いから九ヵ月という時間が長いのか短いのかはよく分からない。
一方で一葉はというと器量も人柄もいい(どういう訳か大多数の人は彼女を性格がいいと評するのでそういうことにしておく)し、
きっとそれなりに経験もあるのだろう。その彼女がそう言うのだから、然るべき時期なんだろうな。
なんとなく他人事のような気がして、大して動揺することもなく僕はぼーっと考えていた。
「…ホントに良いの?」
「良いって言ってるじゃない。…するの!?しないの!?」
「一葉が良いって言うなら…」
「もう!煮え切らない男ね!別にキスくらい大したことじゃないじゃないの!」
そうなのか。
「じゃあ…」
いざとなると途端に緊張が襲ってくる。どうしたら良いんだろう。手は肩に回した方が良いのかな。
左を見ると、一葉がギュッと目を瞑っている。涙を堪えているのは明らかだった。まるで何かに怯えるかのように、彼女は目を閉じていた。
もしかして、僕は拒絶されているのか。
「…大丈夫?」
「…何が」
「いや、何がって。ホントに良いの?」
「しつこいわね。そんなこといちいち気にしないでさっさとしなさいよ」
「…うん」
さすがにこれ以上モタモタしているとグーが飛んできそうなイライラを感じていたので、僕も心を決めた。
「いくよ」
抱き寄せるために左手は一葉の左肩に回した。
温かかった。
部屋を出て行っていた一葉が再び音も無く戻ってきた。
「何処行ってたの?」
「別に」
なんか今日「別に」って返事が多い気がする。気のせいか。
「ゴメン、僕そろそろ帰っても良いかな」
「…好きにどうぞ」
一体どういう意図があってそんなぶっきらぼうな言い方をするのかいまひとつ掴めないんだけど。
正直、あのキスは間違いだったんじゃないかと疑いたくなる。
「お邪魔しました」
玄関でそう告げて、僕は一葉の家を後にした。
一葉はさっきの部屋から出てこなかった。見送りは無しという訳だ。
外はまだまだ暑くて、蝉もしっかり声を張り上げていた。何と言っても真夏日だ。
去年の今頃も、確か暑かったっけ。
最終更新:2007年08月03日 23:10