【ポリエナメル・ケイジ】#1
井筒屋で開催されていた『世界のワニ展』は素晴らしいものだった。わざわざ電車に乗って独りで稲口まで来た甲斐があったと、ヤモっちは思った。ヤモっちはスマホを手にして、特に良く撮れたメガネカイマンとワニガメの写真をレプ友の理佐にLINEで送信する。
ヤモっちは、夏休みを利用して、母方の実家である山口県に遊びに来ているのだ。「キィ」足元に置いた、スポーツバッグを改造して作った自作ケイジの中で、相棒の大ヤモリが不満げに鳴いた。どうやらキーちゃんはワニ展がお気に召さなかったらしい。そりゃそうだ。怖いに決まってる。
祖父母の家は、神手市中心部である稲口駅から急行と鈍行を乗り継いで40分。最近になって神手市に合併された旧村地区にある。ピロローン。ヤモっちのスマホが鳴る。「うらやましー!」とヨダレを垂らすイグアナのスタンプが、理佐から返ってきた。それを見てヤモっちは満足そうにフフッと笑った。
電車が上倉駅を通過した時のことだった。「あっ、あっ、あああああーっ!」電車の中に女性の奇声が響き渡った。ヤモっちがそちらを見ると、髪の長い女の人が遠ざかっていく上倉駅を呆然と見送っていた。年の頃は20代だろうか。ヨレヨレのTシャツに、摩り切れたジーンズ。ちょっと危ない人かも。
ヤモっちはスマホの中のレプ(爬虫類)達に夢中で気付いてなかったが、稲口駅で乗り込んだ時からその女性は車両内で結構な注目を集めていた。なにしろ美人だ。服装はみすぼらしいが、却ってそれが
スタイルの良さを引き立てている。そして、オドオドと挙動不審。つい目線がそちらに行くのも仕方ない。
「こっ、こ、これキュウコウ? ……ど、どうして? ……ど、ど、どうしよう?」女性は気の毒なほどに動転して、真っ青な顔でブツブツと呟いていた。上倉駅に行くつもりだったのに間違えて急行に乗ってしまったのは解るが、それにしても狼狽し過ぎだ。関わらないでおこう、とヤモっちは思った。
しかし、次の駅に着いて乗り継ぎのために降りようとしたヤモっちは、その女性が席から立とうともせずに青い顔で震えてるのを見て、うっかり声を掛けてしまった。「駅に着きましたよ? 上倉駅に行くんじゃないんですか?」それが、ヤモっちの大失敗であった。
「ひゃっ、……す、すす、すみません……」怯えたように御礼というか謝罪を述べた彼女は、ヤモっちと共に急行列車を降り、ヤモっちと共に向かいのホームに停まっている鈍行列車に乗り込んだ。「って、違うよーっ! 上倉駅に行くならこの列車じゃないよ!」「えっ、えっ、す、すみません……」
「あ、あの、……では、上倉駅……」と言って、彼女は俯いて黙ってしまった。「はー、やんなるなぁ、もう」ヤモっちは大きな溜め息をひとつ。「暇だから、上倉駅まで送ってあげるよ」ポリエナメルのケイジを手に持って立ち上がる。「キー!」ケイジの中でキーちゃんが鳴き声を上げる。
「あたしの名前は、時々雨宮守。言っとくけど、この辺に住んでるわけじゃないから、あんま詳しくはないよ」ほんの二駅折り返すだけだけど、なんだか長い旅になりそうな予感を感じながらヤモっちは名乗った。「……わ、わ、わたしは、スミです。……明石、澄美です」それが、彼女の人間名であった。
【ポリエナメル・ケイジ】#1おわり
【ポリエナメル・ケイジ】#2
上倉駅まで、待ち時間も合わせて電車でふた駅30分。ヤモっちと澄美はとりとめのない身の上話をして過ごした。澄美の話は要領が悪い上に、何か知られたくない事情を隠しているようで、ヤモっちに判ったことは澄美が独り暮らしをしていることと何らかの『職人』らしいと言うことぐらい。
一方のヤモっちはそれなりに要領良く説明したものの、自分の周りの狭い世界しか知らず、その狭い世界の理解すら極めて怪しい澄美にとって理解できる内容ではなかった。トウキョウの、キボーサキガクエンに通ってるとか言われても、遠い遠い異世界の話にしか、澄美には思えなかった。
「キーキー」大ヤモリのキーちゃんも、ケイジの中から何やら自己紹介をしてるようだが、その言葉はヤモっちにも澄美にも分からなかった。「この子はキーちゃん。ウチに住んでるヤモリで、あたしの家族みたいなものだよ」と、ヤモっちは紹介した。これは、澄美にも良く分かった。
そしてもうひとつ澄美に良くわかったことは、ヤモっちのことだ。ヤモっちは、つっかえつっかえ喋る澄美のことを遮ったり怒鳴ったりせずに、じっくり話を聞いてくれている(少しイライラしてはいるみたいだけど)。とっても良い人だ。だから上倉駅に着いた時に澄美は、勇気を振り絞り、こう言った。
「あっ、あの、……あの! ……うっ、う、うちに遊びに来てください! お……美味しいものとか、あります!」とんでもない申し出! 初対面の人をいきなり家に招くなんて、なんて非常識な人なんだろうとヤモっちは正直ドン引きした。この人、どうやって今まで生きて来たのか不思議でしょうがない。
同時に、ヤモっちは興味を持ってしまった。芸術家って変わり者が多い印象あるけど、澄美さんは飛びっ切り変わってる。ひとりでマトモに電車にも乗れないような人が、一体どんな生活をしてるのか、覗いてみたくなった。「もしもし、おばあちゃん? うん。あたし。ちょっと寄り道するから遅くなるね」
神手市上倉区五番町。駅からバス通り沿いに徒歩15分ほどの古びた雑居ビルの地下に、澄美の住む部屋はあった。驚くべきことだが、駅からビルまではほぼ一本道にもかかわらず澄美は一度道を間違えてヤモっちに指摘されるまで気付かなかった。「ええと、左……」と呟きながら右に曲がったのだ。
雑居ビルの暗くて埃っぽい階段で地下に向かうときには、流石のヤモっちも気味が悪く引き返そうかと思ったが、折角ここまで来たので黙って澄美の後について降りていった。「キーキーキー」暗い場所が好きなキーちゃんは、ケイジの中で機嫌が良さそうだ。突き当たりの、錆が浮いた扉が軋みながら開く。
そのワンルームは、狭く、コンクリートの壁が剥き出しだった。これが女性が独り暮らしする部屋だなんて、ヤモっちには信じ難いことだった。部屋の他には狭いバスルームとトイレ。開けっ放しのクローゼットは空っぽ。キッチンにはコンロもない。静かに唸る、ところどころ塗装の剥がれた冷蔵庫。
ボロボロの毛布が一枚。床に直置きされたアンティークじみた黒電話が一台。空き缶とペットボトルが無分別に突っ込まれたビニール袋がいくつか。澄美の部屋には、まともな人間の生活感はなかった。そして、六畳一間の中で最も異彩を放っているのは、澄美の『作品』であった。
その『作品』を見て、ヤモっちは背筋がゾッとした。少女の、石像。高校生のヤモっちよりもやや幼い雰囲気で、中学生ぐらいの姿だろうか。石像の少女は、瞳のない眼を恐怖で見開き、立ちすくんでいた。まるで生きているかのような石像の表現に圧倒され、ヤモっちは恐怖と共に美しさを感じた。
【ポリエナメル・ケイジ】#2 おわり
澄美ちゃんの秘密1:改札が怖くてなかなか通れないぞ。
【ポリエナメル・ケイジ】#3
部屋に招いたヤモっちが食い入るように少女の石像を見つめてるのに気付き、澄美は焦った。他の人に『作品』を迂闊に見られてはいけないと言われていたことを思い出したからだ。(……もし、この子がさわぎ出したら……やるしかない……かも……?)頼りない電灯に照らされて壁に映る澄美の影の輪郭が、揺らいだ。
大きな感嘆の溜め息をひとつついて、ヤモっちは言った。「……すごい」上手いこと言えてないけど、それが正直な感想だった。少女の石像は、髪の一本一本まで精密に作られていて、まるで生きた人間をそのまま石にしたかのような迫真のリアリティがあった。澄美の『職人』としての高い技量が伺える。
ヤモっちが怪しまずに『作品』を見てくれているので、澄美も警戒を解いた。「……ど、どう、どうかな?」だいぶ打ち解けて普通に話せるようになってきた澄美だったが、『作品』の感想を聞くのはやはり緊張した。「……澄美さん、すごい、です。こんな立派な像、はじめて見ました」
本当に、その少女の石像は見事な出来映えで、学校や駅前に据えられてる石像や銅像とはまったく次元が違う、とヤモっちは思った。頭のてっぺんから指先まで、隅々に至るまで一切の妥協なく生き生きとした少女の姿が作り込まれている。触ったら弾力があるのではないかと錯覚してしまうほどに。
石造りの少女の顔に浮かぶ表情は、恐怖。顔だけでなく、手足の筋肉の強張りまで完璧に表現されていて、それが石像に生々しさを与えている。何度も上から下まで『作品』を眺めていたヤモっちは、あることに気付いて「あっ」と小さく声を出して“そこ”から目を反らし頬を少し赤くした。
石像の少女は衣服を纏っていない。もちろん、裸婦像は公共空間にも普通に設置されているものだが、普通の像では“そこ”だけは作り込まれてない場所まで、澄美の『作品』は見事に表現されていた。その表現は極めて自然で、恥ずかしく感じる自分の考えの方が卑猥なのだとヤモっちは思った。
澄美はと言えば“誉められる”という経験にあまり縁がないものだから、ヤモっちからの惜しみない称賛を受けて天にも昇るような気持ちであった。ふわふわとした足取りで冷蔵庫に向かい、途中で毛布を踏んで一度転んでから、冷蔵庫の扉を開けてヤモっちに振る舞うための『ごちそう』を取り出した。
冷蔵庫の中には缶詰めの蟹フレークと鯖の水煮、あとペットボトルに入った水。奥の方にはラップでぐるぐる巻きにされたタッパーがひとつ。澄美は蟹フレークの蓋を開け、2リットルのペットボトル水と並べて床に置き「どうぞ」と言って笑顔を浮かべた。コップも取り皿も、箸すらもない。
「えっ……」ヤモっちは戸惑った。こんな雑な歓待を受けるのははじめてだ。でも、澄美の笑顔には一点の曇りもなく、精一杯のもてなしをしているつもりであることは理解できたので「いただきます」と言って手を合わせた。「キーちゃんも、どうぞ」と澄美はニコニコ顔で勧めた。
ポリエナメルのスポーツバッグを改造して作ったケイジの、側面に付けたメッシュの扉を開けて、キーちゃんを出してあげる。缶の縁で切ってはいけないので、キーちゃんの分の蟹フレークはハンカチを敷いてその上に取り分けた。ヤモっちは、澄美と同じように缶詰めから手掴みで食べた。
ラベルから判断するに蟹フレークはかなり高級なものであり、美味しい。ただし、キーちゃんには少し塩分がきついかも? 澄美は蟹が大好物なので、満面の笑顔で美味しそうに食べていた。何もかもがアンバランスな晩餐であったが、澄美が随分と楽しそうなのでヤモっちも悪い気分はしなかった。
ヤモっちが食事をしている様子を見て、澄美は気付いた。この人は、私に気を許してくれている。それは、澄美にとってはじめての経験だった。そして、思ったのだ。今ならば。ごく自然な日常の風景を、そのまま切り取ったような『作品』を作れるのではないか、と。
澄美はそっと立ち上がり、何気ない素振りでヤモっちの背後へと回った。そして、ヤモっちの肩に、慎重に腕を伸ばした。無数の吸盤の付いた、異形の蝕腕を。「キー! キー!」キーちゃんが警告の叫びを発する。しかし、ヤモっちが警告の意味を汲み取ることはできなかった。
【ポリエナメル・ケイジ】#3 おわり
【ポリエナメル・ケイジ】#4
窓ひとつなく、頼りない裸電球の光に照らされた地下室の中。異形の蝕腕が蠢く。蟹フレーク缶詰を無心に食べる少女は、背後から迫る脅威に気付いていない。「キー!」大ヤモリの鳴き声が虚しく響く。赤黒くうねる四本の腕には、無数の吸盤。それらの吸盤が開き、中央から黄色がかった液体が染み出す。
澄美は、神経毒を用いて獲物を捕獲する。それは、海の中で普通の生物として暮らしていた頃から変わらない。口腔内に分泌されていた神経毒が、吸盤から分泌できるように変化したが、獲物の動きを封じる効果には違いがない。澄美はヤモっちの背後から、四本の長い蝕腕で抱き締め、一気に毒を注入した。
原理は不明だが、澄美の肉体は人間を捕食することに適したものに変化していた。その神経毒は、ヒトの皮膚から速やかに吸収され、瞬時に全身を麻痺させる。例えば、蟹フレークを食べている姿そのままに。四本の蝕腕に抱き締められて毒を受けたヤモっちは、最早身動きすらできぬ……はずだった。
「……やんなるなぁ」ヤモっちは、忌々しげに言葉を吐き捨てた。「電車でオロオロしていたのも。楽しかったおしゃべりも。ぜーんぶ、嘘だったんだ。あたしをおびき寄せるための、擬態だったんだ……こんなにやんなること、なかなか無いよ」ヤモっちは憤懣に満ちて、ゆっくりと立ち上がった。
吸盤で吸い付かれて、四本の蝕腕で押さえつけられていたヤモっちだったが、その束縛からもつるりと抜け出した。ヤモっちは、ゆらりと振り向く。怒りに満ちて見開かれたヤモっちの大きな目に、澄美の異形なる『真の姿』が映る。楕円形の遮光板に覆われた頭部。長くうねる四本の赤褐色の蝕腕。
「……タコ……そう言われたら嫌かも知れないけど、そんなの知らないよ。あなた、タコの化け物だったんだ」ヤモっちの全身は、粘液で濡れて艶かしく光っていた。澄美の毒液ではない。ヤモっち自身が分泌する毒粘液である。ヤモっちもまた、澄美と同様に神経毒の使い手であったのだ。
有毒生物にも色々ある。蛇や蜂は自前で毒を合成できるが、河豚やスベスベマンジュウガニ等は微生物が作り出した毒素を生体濃縮して強力な毒を獲得する。タコから変化した澄美は後者であり、ヤモっちも後者の原理で環境由来の毒を蓄えている。故に、ヤモっちは澄美の神経毒を代謝排出できたのだ。
「……ち、違う、違うの!」澄美は、怪物の姿に似つかわしくない怯えた口調で言った。これは、ヤモっちを騙そうとしてた訳ではないという意味で、否定するのが何テンポか遅い。「先に逃げて、キーちゃん」なんにせよ、ヤモっちに聞く耳はもうない。キーちゃんは自分のケイジをくわえて走り出した。
キーちゃんはバスルームの壁を登り、天井の換気孔から抜け出した。ヤモっちはポケットからスマホを取り出してチラリと見る。やっぱり圏外。スマホの中でワニガメが笑っていた。(キーちゃん、ワニ展、怖かったよね。ごめんね……今度は、昆虫展でも見に行こうね)フラットソールの靴と、靴下を脱ぐ。
窓のない地下室。たったひとつの出口である扉の前には、立ち塞がる蛸の怪物。吸盤による吸い付きは、ある程度ならばヤモっちの分泌する粘液で無効化できるが、完全に組み付かれたらもう逃げられないだろう。神経毒の代謝排出にも限界がある。ヤモっちは呟いた。「……やんなるなぁ、まったく」
【ポリエナメル・ケイジ】#4 おわり
澄美ちゃんの秘密2:その正体は恐るべきタコの怪人なのだ!
【ポリエナメル・ケイジ】#5
「……あ、ああ、あうー」うまく言葉が出てこない。どうしてこんなことになってしまったのだろう。ヤモっちと、仲良くなりたかっただけなのに。素敵な『作品』を作りたかっただけなのに。正体を見られたからには、ヤモっちを逃がすわけにはいかない。それだけは、澄美も十分に理解していた。
ヤモっちは怪物に変貌した澄美の姿を上から下まで見て背筋に寒気を覚えた。タコが人類を冒涜するために演じる邪悪なパロディのような姿であった。肩はプロレスラーよりも逞しく隆起し、そこから左右二対の蝕腕が伸びる。両脚に相当する部分は、それぞれ2本の蝕腕を注連縄の如く撚り合わせて形成されていた。
壁際に置かれた少女の石像。脱出に失敗すれば、ヤモっちも物言わぬ石像の仲間入りだ。お互いに使う神経毒の効果は薄い。目鼻口や傷から直接体内に流し込まない限りは、どちらもちょっと痺れる程度の効果しか及ぼせないだろう。そして、澄美の目や口は楕円形の遮蔽板で防護されている。
(若干あたしが不利……かな?)ヤモっちは手の平と足裏の粘液を、キャミ裾と床に擦り付けて拭い、澄美の正面から踏み込んだ。「え、えいりゃあーっ!」気の抜けた掛け声とは裏腹に強烈な破壊力を秘めた澄美の蝕腕が二本、嵐のように振るわれる。ヤモっちはジャンプで回避。空中で一回転!
「ッヤァーッ!」そしてヤモっちは、澄美の頭部を狙って回転踵落とし。攻撃を空振りしたところに
カウンターヒット。ぐにゃり。打撃の感触はヤモっちの予想とはかなり違った。戦闘機の堅牢なキャノピーを思わせる楕円形の頭部遮蔽板は、見た目に反して弾力性に富み打撃を吸収。ほぼノーダメージ!
身体を捻ってヤモっちは両手両脚で着地。「え、ええーいっ!」そこに澄美の四本の蝕腕が同時に降り下ろされる。ヤモっちは全身のバネを使ってバック転回避。いったん6畳部屋の奥、冷蔵庫の辺りまで下がって距離を取る。だが、狭い部屋のおよそ半分の空間は澄美の長大な蝕腕の支配空間だ。
ヤモっちは冷蔵庫を蹴ってジャンプ! そして天井に張り付く! 天井に!? そう。打ちっぱなしのコンクリート天井のごく微妙な凹凸をヤモっちは手足の指先でホールドして張り付いたのだ。そのまま素早く天井を這って澄美の頭上を抜けようとするが「……て、ていりゃあ~!!」澄美の蝕腕が長い!
天井を這うヤモっちの胴体を、澄美の蝕腕先端が掠めた。「ぐあっ!」澄美の腕力は凄まじく、それだけでヤモっちは苦悶の呻きを上げて天井から落下した。澄美は素早くヤモっちを四腕で押さえ付ける。ヤモっちは全身の毒腺から毒粘液を分泌、澄美の吸盤を無効化してつるりと抜け出す。
(……おのれ、おのれ、おのれ!)優しくて良い人。友達になりたい。素敵な『作品』にしたい。逃がしてはいけない。――澄美のヤモっちに対する感情は、矛盾していることに気付きもせず多様なものであったが、今の澄美の気持ちはただひとつ。(こいつは……敵だ!)ヤモっちが冷蔵庫を蹴ったからだ。
静かな海の底で蟹を食べて暮らしていた澄美は、『石化の概念』に触れて人類を捕食する天敵となり陸の上にやって来た。『生命の根源』を喰らい、人を石像に変えることは澄美の本能に基づく営みである。だが、今やそれは単なる生存のための活動ではない。澄美には、守りたいものがあるのだ。
ヤモっちは、澄美の大切なものを足蹴にした。それは絶対に許せない行為だった。澄美の赤黒く隆起した肉体が、怒りに染まり赤色成分を強める。(優しい人だと思っていたのに……!)澄美の怒りは激しく、裏切られた絶望は深い。四本の腕を大きく広げ、ヤモっちを部屋の隅へと追い詰めてゆく。
――その頃、地下室から抜け出した大ヤモリのキーちゃんは、ポリエナメルのケイジを引き摺りながら雑居ビルの屋上まで登っていた。物干し竿と、地デジのアンテナ。そして錆び付いて傾いた金属製の箱。キーちゃんは、屋上に並ぶ金属箱に大きな隙間があるのを見つけ、その中へと入っていった。
【ポリエナメル・ケイジ】#5 おわり。次が最終セクションだよ。
【ポリエナメル・ケイジ】#6
窓ひとつない狭い六畳の地下室の片隅に、ヤモリっぽい少女、ヤモっちこと時々雨宮守は追い詰められていた。コンクリート壁を這い登り、空のコンロ台の上の、天井の角に貼り付いて迫り来る蝕腕を払いのけて凌ぐ。蝕腕の
主は、この部屋の住人である、蛸の怪物・明石澄美。恐るべき石化能力者。
「えいっ、えいっ、えーいっ!」澄美は四本の蝕腕を次々に繰り出す。ヤモっちは壁に両脚を突っ張って姿勢を保持し、両手の平に毒粘液を満たし、粘液潤滑を活かしながら恐るべき破壊力の蝕腕連撃をいなし続ける。天井が高く、澄美の長い蝕腕でも射程ギリギリだから辛うじて耐えられている。
(そうだ……台の上に登れば届く……!)澄美にバナナモンキーじみた天啓! コンロ台に這い上る澄美。だがそれは、ヤモっちの狙い通りの行動だった。つるりどしーん! コンロ台にヤモっちが撒いておいた粘液によって澄美は滑って転倒! 「今だっ!」倒れた澄美の上を飛び越え出口へ走るヤモっち!
(逃がさないっ!)澄美は蛸墨を拡散させずに固めて射出した。黒い液体の弾丸がヤモっちの脚に命中して転倒させる! 両脚の蝕腕もほどいて八足となった澄美は、立ち上がらずに床を這ってヤモっちへと迫る! 擬似二足歩行に馴れ切ってない澄美はこの方が速い! 追い付かれる! ……その時!
雑居ビルの屋上に来た大ヤモリのキーちゃんが侵入した金属製の箱は、ビルの電源を受電する高圧メタルクラッドであった。本来ならば小動物の侵入を防ぐ措置がしてあり、いかにキーちゃんの身体が扁平でも入ることができない筈の設備だが、ビル会社の管理は杜撰だった。
受電設備に侵入したキーちゃんは、ポリエナメルのスポーツバッグを改造してヤモっちが作ってくれた大切なケイジを口にくわえて引き摺りながら、低いうなり声と熱を発する変圧器へと近付いた。高圧電気による感電の危険も顧みず! そして、力一杯首を振り、剥き出しの電極へケイジを接触させる!
ポリエナメルは、絶縁体である。しかし、あなたが商用高圧受電母線になったつもりで考えてほしい。あなたは今、全裸だ。あなたの身体に押し付けられた物体は、ポリエナメルの薄い皮膜のなかに魅力的な導体が入っている。……絶縁破壊したくなってきましたね? 正解です!
あなたは辛抱堪らず激しい閃光と炸裂音を放ちながらアーク放電して薄いポリエナメルの被膜を突き破り、ケイジ内のヒーターユニット金属部位に通電! S相とT相を短絡させる! 短絡によって流れる大量の電流に反応した電気的保護装置が作動! 給電が……停止した!
突然闇に包まれる地下室! ヤモっちの大きな目が見開かれる! 普段はヤモリのように細い瞳孔が丸く開く! ヤモっちは夜目が効くのだ。ヤモっちは素早い右ステップで澄美の側面に回り込み「ヤーッ!」ミドルキックを遮蔽板に覆われた頭部に叩き込む!
真っ暗な地下室の中。暗闇の攻防!「いっ……たぁーい!」澄美はヤモっちの攻撃が来た方へと反撃の蝕腕攻撃! だがヤモっちは既にそこにはいない!「ヤーッ!」ジャンプしたヤモっちは空中で回転し、体重を乗せた肘打ちを澄美の頭部に叩き込む!「ぎゃーっ!」効果あり!
澄美の蝕腕に絡み付かれる前に、ヤモっちは側転で離れて澄美の背後に回る。だが……澄美に蝕腕は的確にヤモっちの位置を捕らえて捕獲した! 粘液スリップでヤモっちが逃れるよりも速く、澄美はヤモっちを引き付け、8本の蝕腕を絡み付かせのし掛かりヤモっちを制圧する!
「……や、や、やっと捕まえた!」夜目が効くのはヤモっちだけではなかった! タコである澄美もまた夜行性! 高度に発達した視力を備え、側面についた目は360度死角無し! さらに優れた聴力が、他に音を発する物がない地下室でヤモっちの動作を聞き逃すこともない! 澄美の吸盤が開く!
ヤモっちの全身に張り付いた吸盤から、大量の神経毒が注入されてゆく。「あっ、うあっ、ああああっ」全身に広がる痺れに呻く、ヤモっちの苦し気な声が、静かな地下室に響き渡る。そして、脱出しようともがくヤモっちによって発されるねちゃねちゃした粘液の音。地下室に響く音は、それだけだ。
……音は、それだけ? そう。それ以外の音はしない。そのことに、澄美は気付いた。聞き慣れた、大切な音が聞こえない!「……あ、あ、ああ、うああああーっ!?」澄美はヤモっちを放り出して半狂乱になって叫んだ。冷蔵庫の音が聞こえない!! 腐っちゃう! 大切なものが腐ってしまう!
澄美は慌てて冷蔵庫に向かい、扉を開け奥のタッパーを見る。遮蔽板を開き匂いを確認。大丈夫、まだ腐ってない。そこに!「ヤアアァーッ!」背後からヤモっちの叫び声! 振り向く! 面前に迫るヤモっちの投げた毒粘液玉! 避ける!? 避けたら冷蔵庫が危ない! 遮蔽板を閉めて防……間に合わ
「グギャアアァーッ!!」剥き出しの顔面に毒粘液を直撃された澄美の絶叫を背に、ヤモっちは体当たりで鉄の扉を破壊して脱出! 狭い階段を一気に駆け昇る! 既に日の落ちた神手市上倉区五番町は、停電によって闇に包まれていた。見上げると星空を背に、キーちゃんがビルの壁を這って降りてきた。
壁から跳ね、ヤモっちの肩にストンと着地するキーちゃん。「あれ? ケイジはどうしたの?」「キー!」得意気に、キーちゃんは鳴いた。「……そっか。キーちゃんが助けてくれたんだね。ありがと。また、新しいケイジを作ったげるね!」そして、ヤモっちは澄美の元から去っていった。
程なくして、停電は解消された。ヤモっちの毒にしばらく悶絶していた澄美は、冷蔵庫の灯りが再び点ったのを見てほっとして、慌てて扉を閉めた。良かった。大切なタッパーが無事で、本当に良かった。澄美は、胸を撫で下ろし、人間の姿に戻った。でも、あの子はなんであんな酷いことをしたんだろう?
ヤモっちは優しい人で、澄美の大切な物に酷いことをするとは思えなかったのだ。かなり長い時間考えて、ようやく澄美は謎の答えに辿り着いた。ヤモっちは、澄美がタッパーを大事にしている、もしかすると自分の命よりも大切にしていることを知らなかったのだ。(やっぱり悪い人じゃなかった!)
今度ヤモっちに会ったら、今度こそはちゃんと友達になろう、と澄美は思った。そして、毒粘液でまだぐわんぐわん痛む頭を抱えて、ボロボロの毛布を被り、眠った。そんな澄美を部屋の隅から、石像の少女は恐怖に満ちた表情で物言わず見つめていた。
【ポリエナメル・ケイジ】おしまい
最終更新:2015年03月23日 21:13