1945ローマ近郊501基地
未だ季節は初夏とはいえ、地中海に面する基地は、既に汗ばむほどの陽気に包まれていた。
数日前から溜まっていた休暇をまとめて消費している俺は、しかし何をするでもなく日々を過ごしていた。その陽気から少しでも逃れようと、滑走路の脇に並んだ樹木の陰で、寝そべっていた。その表情は暗い。
もはや何度めかも分からぬため息をつくと、俺は胸のポケットから煙草の小箱を取り出した。呟く。
「……やめてた理由も、なくなっちまったしな」
煙草など百害あって一理なしと、切って捨てるあの人の姿を思い出し、胸の奥にずきりと痛みが走った。
小箱の底を叩き、飛び出してきた物を掴んだ。配給煙草の安い香りが、鼻腔をくすぐった。口の中がじっとりと濡れる。ライターの火打石が擦れて、火花が飛んだ。しかし火が付かない。俺は何度も試みるが、やはり火は付かなかった。
「クソったれ……」
言葉と共に煙草を吐き捨てる。
「こらっ!! 何をしているっ!! 煙草のポイ捨ては、軍紀違反だ」
唐突に後ろから声がかけられた。その言葉に心臓が跳ね上がった。跳ね起きて、振り向いたところで、気がついた。声をかけてきた人物を半目で睨む。
「……何をしてるんですか。ルッキーニ少尉?」
「バルクホルンごっこ~♪」
似てた?似てた?とくるくると回りながら訊いてくるルッキーニの姿に、俺は怒る気も失せて、小さく笑った。
「おっ!やっと笑ったな」
ルッキーニの後ろ、木の陰から現れたシャーリーがそう言った。ルッキーニが駆け寄り、定位置に収まる。弾力のある物体が大きく弾んだ。
「最近、元気が無いじゃないか。 何かあったのか?」
「あったのか~♪」
「そんなことないですよ。俺はいつも通りです。それでは、自分はこれで」
シャーリーの問いかけに、俺はぶっきらぼうに否定の言葉を返すと、その場を立ち去ろうとした。シャーリーがその手を掴んだ。
「そうつれないこと言うなって。一緒にお茶でもどうだ? 暇なんだろ?」
「俺~暇~♪」
「せっかくのお誘いですけど、ご遠慮させて頂きます。少々用事があるもので……」
俺はそう言うと、木陰を出て滑走路に向けて歩き出した。大尉の気遣いは有難いが、今の俺にはそれを受け入れることすら出来なかった。それに、大尉のそれは恐らく、俺だけに向けられたものではない。
俺が立ち去った木陰で、ルッキーニはシャーリーに呟いた。
「シャーリー。バルクホルンたちのこと聞けなかったね……」
「うーん……。思ったより深刻みたいだな
」
シャーリーはルッキーニの頭を優しく撫でながら答えた。
「え~!! なんか分かったのシャーリー」
「少なくとも、どっちかが悪いって話じゃないってことさ」
「何それ~? わっかんないよ!」
「ふっふっふ~。ルッキーニには、まだ早いかな~」
そう言って笑うシャーリーに、ルッキーニは不満を漏らすが、彼女はそれ以上のことを語る気は無いようだった。
遠く頭上から重なって響いた双発のエンジン音に、俺は思わず空を見上げた。滑走路上を歩いていた宮藤とリーネも同様に視線を上に向けていた。
「輸送機? そんな話は聞いて……っ!?」
俺は驚きに声をあげた。直線軌道で基地上空を通過した輸送機から、一つの影が飛び出していた。重力に身を任せて急降下してくる物体は、地上に近付くにつれて、次第にその姿を人のそれへと変えていた。
「危ないっ!!」
宮藤が叫んだ。
今やしっかりと視認できるようになったそれは、カールスラントの飛行服に身を包んだ、美しい少女だった。吹き付ける強風の中でもその長髪はしなやかさを失わず、むしろ少女が、そよ風の中を漂っているかのような錯覚を与えていた。
少女は空中で身を翻すと、その姿は光に包まれた。落下速度が急速に落ちていくのが分かった。着地と同時に感嘆の声があがった。宮藤だ。
その声を気にも掛けずに、少女は俺に向けて歩いてきた。少女は掛けていたゴーグルを外した。そこに現れた人物は俺の予想の通りで、しかしそこにいるはずのない人物の姿に、俺の口から間抜けな声が漏れた。
「……ティナ」
少女は不敵に笑う。自身が至高の存在だと確信したようなその笑みは
「マルセイユ大尉、だ。馬鹿兄貴」
カールスラントのトップエースにして、戦場の女神、アフリカの星、そして、俺の妹ハンナ-J-マルセイユのものだった。
俺とバルクホルンの物語第4話
「勝負と行こうか『坊や』」
深夜俺自室
夜の静寂に包まれた基地の部屋で、俺は一人杯を傾けていた。あの日から、目を閉じると思い出される光景から逃げるように、ただ酔うためだけの酒を飲んでいた。
窓から射しこむ月光だけが部屋を照らしている。そういえばあの日も、こういう夜だったな。俺はそう思い、同時に胸の奥にずきりと痛みが走ったのを自覚した。杯を煽り、熱い液体を流し込んだ。
「クソったれ……何をやってるんだろうな俺は」
「まったくだ。馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、まさかここまで馬鹿とはね」
予想外の返答に、しかし俺は驚かずにその声の方向に顔を向けた。何時の間にか開かれた窓の前で、彼女は笑っていた。
「……マルセイユ大尉」
俺の言葉を聞いて、マルセイユの表情が苦虫を噛み潰したように歪んだ。
「ティナ、だ! アホ兄貴」
マルセイユは靴音も高く歩み寄ると、俺の手からグラスを奪い取って、ずいと眼前に突きつけてきた。何も言わず酒を注ぐ。一息で飲み干して彼女は言う。
「不味いな」
マルセイユはベットの上、俺の隣に腰掛けると再びグラスに酒を満たした。俺は何も言わずにそれを飲み干した。
交互に酒を注いでいく。お互いに言葉は無いが、不思議と居心地の良い空間だった。
そういえばティナと飲むのは
初めてだったな。俺は思った。気付かれないようにそっと隣を伺う。
凛と窓の外に広がる星空を見つめる横顔に、何故か、お兄ちゃん行かないでと泣く少女の面影を見た気がした。
相当酔ってるなこれは。そう思った。八年前俺が軍に入った時の記憶だった。今ではすっかり生意気に育ったティナも、あの頃は素直に慕ってくれていた。
俺の視線に気付いてマルセイユは訝しげにこちらを見返した。あの頃よくしていたように、ぽんぽんと頭を撫でる。マルセイユは一瞬目を見開いたが、無言で正面に向き直るとちびちびと杯を舐め始めた。耳まで赤い。こいつそんなに酒には強くないんだな。無敵の妹様の弱点を見つけたような気がしてて、小さく微笑んだ。そっと髪を撫で付けた。柔らかい感触が指先に伝わった。マルセイユはくすぐったそうに目を細めている。
何時の間にかマルセイユが俺の肩にもたれかかるような体制になっている。ずいぶんと酔っているらしい。
軽く上気した頬と伝わる体温に、香るような色気を感じた。下から俺の目を覗き込むようにしてマルセイユは言った。
「振られたんだってな」
マルセイユの酔いに濡れた瞳が微かに震えていた。その言葉を俺は半ば予想していた俺は用意していた言葉を返す。同時に、回りくどいことを絶対にしない妹へ憧れに近い感情を抱いている。
「ああ……。綺麗さっぱりこれ以上ないってくらいに振られたよ」
「それで一人で自棄酒か! 馬鹿極まり、だな」
呆れたように言うマルセイユに、俺は小さく苦笑を返した。まったくその通りだと思ったからだ。
苛立たしげにマルセイユは言葉を続けた。
「大体、あの堅物のことだから、今は戦時中だそんな暇はない、とかそんな理由だろ?」
だったら、兄貴のせいじゃ無いじゃない。そう言ってマルセイユは微笑んだ。
それが理由だったらどれだけ良かっただろう。
「そうじゃないんだ」
「えっ?」
「『私は貴様が嫌いだ』と、はっきり言われたよ。みっともなく、そんなの嘘だと言い募る俺に、しっかりと理由まで説明してくれた」
「……なんだと」
もしかしたら大尉も俺のことを、なんて考えていた自分が嫌になる。まして、今は十も離れた妹にその愚痴を漏らしている。最低の男だな、と俺は思った。
「ありがとう、ティナ。励まそうとしてくれたんだろ」
俺なら大丈夫。そう続けようとしたところで、俺はマルセイユの異変に気付いた。
「ティナ……?」
マルセイユの体は小さく震えていた。暗い部屋の中で、目をだけが爛々と輝いているように感じられた。
マルセイユは静かに激昂しているのだった。
「……なに、情けない兄貴を笑いに来ただけだ。礼には及ばないさ」
マルセイユは自身の頭に置かれた俺の手を、何か大切な物を扱うように横に除けると、立ち上がった。窓の手前まで無言で歩くと、言った。
「少し酔い過ぎてしまったようだ。戻って寝るとしよう。久々に良い酒を飲んだ。お返しは必ずするよ」
マルセイユはそのまま、言葉とは裏腹に酔いを感じさせない軽快な動作で窓枠に身を翻した。
「……久々に怒らしちゃったかな」
俺はベッドに身を横たえると、 酒精が誘う眠気に身を任せた。
(ティナの前ではかっこ良い兄貴でいるはずだったのに。こんな情けなくちゃ、ティナが怒るのも当たり前か……)
その日俺は数日ぶりに眠った。
翌日の晩、再びマルセイユは俺の部屋に訪れていた。最上級のブランデーを一瓶と、赤く腫らした頬を手土産に。
「少々躾のなってない犬がいてね。礼儀というものを教育してやろうとしたんだけど、あいにく言葉が通じないときた。お手上げだ」
そう言ってまた、隣に座り自前のブランデーグラスを回すマルセイユの口元は、苛立たしげに歪んでいた。
「……ほどほどにしとけよ」
新しい部隊に配属されるたびに一悶着を起こす、妹の悪癖に俺は小さくため息を漏らした。その悪癖は、ごく短期のこの派遣任務でも遺憾なく発揮されているようだった。
濡らした布をそっと頬にあてがうと、マルセイユはぴくりと身を竦めた。肌に傷が付いていないか確認しようと、顔を近づけた。
香りを楽しむこともなくストレートで一息に煽ったブランデーがもう、効いているのか、マルセイユの顔は赤くなっている。
「弱いんなら、そんな強いの飲むなよ……。顔真っ赤だぞ」
「っ!? うるさい!! 馬鹿っ!」
そう恥ずかしげに怒鳴るマルセイユの姿は、将兵に女神の如く崇められているエース、アフリカの星のものとは思えず、俺は思わず笑いを漏らした。
「笑うなぁっ!」
ぽかぽかと俺の肩を叩くティナ。さらに強まった俺の爆笑は、右頬に彼女の拳が突き刺さるまで続いた。
お互いのグラスを満たすブランデーの香りが、部屋に漂った。グラスを回す水音が、静かな部屋に響いた。ただ、時折それぞれが近況を話した。楽しそうにアフリカの仲間のことを話す様子に、思わず顔をほころばせた。
「んっ」とマルセイユが何かを促す。自然に手が伸びて、彼女の頭をぽんぽんと撫でる。目を閉じたままマルセイユが口を開いた。
「兄貴はもう、諦めたのか?」
短い言葉に俺はさらに短く返した。
「……わからない」
本心を言ったつもりだった。マルセイユの追求が続く。
「私は、もとから反対だった。あの女は、兄貴には相応しくないよ」
「っ……そんなこと」
「頑固で、融通のきかない、妹狂い。図星を付かれたと思ったら、すぐ暴力だ」
そう言ってマルセイユは自身の頬を指差す。
「いつだって自分のことで一杯なやつだ。俺を傷つけたことだってきっと気づいてもいないさ」
「違うっ!!」
マルセイユの言葉に反射的に否定の言葉を叫んだ。心の奥から言葉が湧いてくる。
「彼女は、バルクホルン大尉は、優しい人なんだよっ!融通のきかない所だって、いつだって誰かのために、自分のできる全てをしようとしてるからなんだ!そんな大尉だから俺は……」
「痛いよ、兄貴」
マルセイユの言葉に、俺は彼女の頭に置いた手に知らずに力が入っていたことに気づいた。謝罪しようとして、視線を向けると、マルセイユと目があった。マルセイユは微笑んでいた。いつも浮かべている不敵な笑みではなく、どこか憂いを帯びたような悲しい笑みだった。
「ほら、答えはもう出てるんだ。気付いてないない振りをするのは、俺の悪い癖だよ。私はもういくよ。明日は作戦の決行日だからね」
気付かないふり。先日ハルトマンにも言われた言葉が、俺の中で何度も繰り返された。立ち上がるマルセイユ。頭に置いていた俺の手は、胸の前に大切そうに抱えられていた。
手を離して、マルセイユは窓に向けて歩き出した。
「そうだ、渡したいものがあるから明日見送りに来てくれないか? 予定通りなら1700にここを発つことになってるんだ」
そう言って窓枠に手を掛けるマルセイユに、俺は慌てて声をかける。
「ティナ」
「……」
「ティナ!」
「……なんだ、鈍感兄貴」
振り向かずにマルセイユは問い返す。言いたいことがありすぎて俺はとっさに声が出なかった。やっとのことで搾り出した言葉は、どうやら及第点に達していたようで、マルセイユは軽く手を挙げると、窓枠を飛び越えて行った。
「ありがとう。ティナ」
翌日滑走路上1700
マルセイユの指定した時刻にのこのこと滑走路に現れた俺を待っていたのは、滑走路の中央に独り仁王立ちでこちらを見つめる、バルクホルンとその横に立つハルトマンだった。無言で見つめ合う。強い視線に身が竦んだ。
バルクホルンの前に立つのは、あの日以来だった。長い沈黙の末バルクホルンが口を開いた。
「……すまなかった」
「えっ?」
「すまなかったと言っているっ!」
混乱する俺を見かねたハルトマンが口を挟んだ。
「もー、トルゥーデそれじゃわかんないよ」
「むっ、そうか?」
「そうだよ!」
気の抜けたやりとりに緊迫した空気が霧散した。
「えーっと。つまり……?」
「……うむ。前に『私はお前が嫌いだ』と言ったが……」
「……はい」
「あれは嘘だ」
「はい……?」
「あれは嘘だ」
「はい……って!えええええええええええ!!」
「要件はそれだけだ。呼び出して悪かったな」
そう言って、バルクホルンはもう用はないとばかりに立ち去ろうとした。俺はその後姿に声をかけようとして、やめた。
ハルトマンがバルクホルンに飛びついた。
「照れちゃって! トルゥーデカワイイ~」
「なっ!? 照れてなどいない! 私はただカールスラント軍人として、誤りをそのままにしておくなど許されないことだと思ってだな! 誤断と知りつつなお攻むるは、大にして戒むるべし、だ。」
「そんな事言って~。ハンナにお礼言っときなよ~」
「あんなやつ関係ない!」
遠ざかる二人の会話を耳にしながら、俺は胸の奥から沸き上がってくる感情を自覚した。
マグマのように激しく沸き上がるそれを、俺は放出する。
「いやったあああああああ!!!!!!!!!!」
基地中に響き渡るような大声に二人が振り向く。
バルクホルンが叫んだ。
「かっ勘違いするな! 嫌いじゃなかっただけで、べっ別に好きとかそういうのじゃないんだからな!」
そう言って、バルクホルンはハルトマンを置いて駆け去って行った。
「素直じゃないね~トルゥーデは」
呟くように漏らしたハルトマンの言葉に、俺の後方から返事が返った。
「まったくだ、少々躾が足りなかったようだ」
ハンガーの中からマルセイユが姿を表す。
「すまないな、兄貴。出発は1800の間違いだったよ。私としたことがな……兄貴?」
俺の前までマルセイユは歩み寄った。
呆然と立ち竦む俺の様子に気付いて、マルセイユは訝しげに俺の顔を覗き込んだ。
「ティナっ!」
俺はそう叫ぶと、マルセイユの体を抱きしめた。
「なっ!? 何をする!! 離せっ! バカ兄貴!」
「やったよ! 俺、嫌われてなかったんだって!」
「分かった! 分かったから離さないか! このアホ兄貴っ!!」
ハルトマンが近寄り、マルセイユに声をかける。
「素直じゃないね~、ハンナも」
「っ! 知るか! 大体、それを言うなら貴様もだろう! ハルトマン!」
俺の体を突き飛ばして、マルセイユは叫んだ。
「ん~、どうかな~?」
そう言ってハルトマンが俺に駆け寄る。ハルトマンの手が俺の目を覆った。
「えいっ」
ハルトマンの声が聞こえると同時に、俺の唇に柔らかい感触が伝わった。甘い香りが感じられた。
「なっ!?」
マルセイユの声。
「えへへ~。私は素直に行くことにするよ!」
そう言う、ハルトマンの顔が赤く見えたのは、夕日のせいではないのだろう。ハルトマンはくるりと身を翻すと、駆け去って行った。
「……今のは?」
呆然とした俺の呟きに返ったのは
「知るかっ!! 変態ロリコン兄貴!!」
マルセイユの放った渾身の平手打ちだった。
続く
俺の頬に、赤い紅葉を残して、マルセイユはアフリカに帰って行った。しかし、彼女の残したものはそれだけではなかった。新たな騒動が501基地で巻き起ころうとしている。俺はその嵐を乗り越えて、バルクホルンと結ばれることができるのか!?
次回俺とバルクホルンの物語第五話「ずっと好きでした」
最終更新:2010年11月24日 22:21