192 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/09/27(火) 01:16:52.50 ID:C6bYMRo10 [3/15]
「しばらく距離を置いてくれないか?」
僕の言葉に、萌茄の表情は僅かに翳ったように見えた。萌茄は頬杖を突いたまま机の上に置いた文庫本のページを一定のペースで片手でめくり続けている。
「……僕の話聞いてる?」
「理由は?」
「そ、それは特にないけど……」
「……ふうん」
興味なさげな相槌は、本の物語に夢中になっているからだろうか、それとも彼女なりの反抗の表現方法の一つなのだろうか。
そのどちらとも判別つけがたく、罵声が飛んでくるだろうと身構えていた僕は肩透かしを食らった気分だった。
たまに肩から落ちてくる絹糸のように繊細な髪を指で絡めたり掻き揚げたりする仕草はいつもと何ら変わらず穏やかで、僕は内心ほっとしていた。
「それじゃあ、私そろそろ帰るから」
本に栞を挟んで萌茄が席を立つ。僕は暫く教室に残っていた友達と談笑して、少し遅れて家路についた。
その日は帰り道のコンビニでも、自販機が目の前にある公園でも、地元ではちょっと大きな本屋でも、どこかしらで偶然に会う萌茄の姿はなく、普段より少し遅く学校を出たはずなのにいつもより早く家についてしまった。
距離を置いた理由を話したほうが良かったかもしれない、と今更ながらに思うが、訂正するのはどこか見苦しい気がした。後ろめたい事があるわけではないが、それに似た後味の悪さが残っている。
翌日から、僕は普段通りの、しかしいつもとは少し違和感のある生活を始めた。
後ろの席で萌茄はいつもと同じ様に静かに文庫本を読んでいて、僕が彼女と関わりはじめてから見なくなったイヤフォンが、その日から彼女の耳に挿さっていた。
僕はといえば彼女と距離をおいて、他の友人と談笑をする話が増えた。僕と萌茄の関係を勘繰って真っ先に、そしていつも冷やかしていた友人が、僕といるときには萌茄の名前を出さないようになった。
家に着く時間も早くなった。距離を置いた理由の目的だからこれでいいのだが、やはりもどかしい。
放課後の教室は静かで、一緒に談笑していた友人達が帰ると僕は教室に一人になった。窓から差し込む西日に、教室全体が淡く橙色に染まっている。
バッグに荷物を詰めようと机の中身を出すと、見慣れない便箋が入っているのに気づいた。
女子どうした交換するような可愛いものではなく、パソコンのアイコンで見るようなシンプルで飾り気のない白い便箋だった。
封はされておらず、外側には今日の日付と宛名―――僕の名前だけが、黒のボールペンで小奇麗に綴られている。
封を開けようとしたとき、教室の引き戸の音が聞こえた。目をやると、萌茄が入り口に立ってこちらを見つめている。
「今から帰るの?」
「うん、ちょっと先生と話してて」
「そっか。あのさ、たまには一緒に」
萌茄は僕の言葉を最期まで聞かずに首を横に振った。

193 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/09/27(火) 01:18:07.68 ID:C6bYMRo10 [4/15]

「理由、あるんでしょ?聞かないけど。中途半端な人間って嫌い」
「そっか、そうだよな。ごめん、また明日」
「うん」
萌茄の口から『またね』の言葉が無かったことに、僕は少なからず寂しさを覚えた。萌茄はバッグを肩にかけると、直ぐに教室を出ていった。
手元に残った便箋を見つめる。
この小奇麗な字体を僕は知っている。前後ろの席ですぐに話せるはずなのに、どうしてそうしないのか考えたが、思えば萌茄は直接感情をあらわにするような性格はしていない。
だからこの便箋に、なにかしらの思いを綴ったのだろうか。
便箋を開こうとすると、再び引き戸の音が鳴った。
僕に尻尾が生えていれば引きちぎれんばかりに振っていたかもしれない。手拍子を聞いたパブロフの犬張りに顔を向ける。
「……さっきぶり。やっぱり一緒に帰る?」
「本を忘れただけ」
萌茄の反応はぶっきらぼうで、さらにいえば冷たかった。ぱっと明るくなった自分の表情が、困ったような笑顔に変わっていくのを感じる。
萌茄は本を僕の後ろの席からとってまたさっさと出て行ってしまった。萌茄が取った本は僕が見たことのない本で、栞は本の後ろのほうに挿し込まれていた。
翌日、萌茄の姿は無かった。
翌々日も、萌茄の姿は無かった。
その次の日、家に着いてバッグに入れっぱなしにしていた便箋のことを思い出した。

194 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/09/27(火) 01:18:41.30 ID:C6bYMRo10 [5/15]
便箋の外に書かれていた日付の三日後、彼女が親の都合で遠くの町に引っ越すこと、そして僕が理由も言わず距離を置いたことに対しての非難の嵐が悪辣に綴られていた。
「三日後……って、今日じゃないか!」
ベッドの上においていたものをバッグに詰めて、僕は制服のまま家を飛び出した。萌茄の家の場所は知っている。親のママチャリに跨って、僕は必死にペダルを漕いだ。
ああ、夕焼けが綺麗だ。風が心地良い。オレンジ色に染まった町並みはとても美しくて、だけど気分はこれ以上になく最悪だ。
シャツも前髪も、汗に塗れてへばりついていた。胸が痛んで苦しい。萌茄の家について、僕は白い息も切れ切れに彼女が住んでいた家を見上げた。
星がちらほらと出始めた薄暗い夜空の下、萌茄が住んでいた家は真っ暗で、インターホンを何度押してもその音が響くだけだった。
間に合わなかった。すっとその言葉が胸に落ちた。
不思議と気持ちは落ち着いていて、僕は冷静に倒れた自転車を起こしてそれにまたがっていた。漕ぎ始めたペダルは重く、汗ばんだ体に夜風が響いて肌寒かった。
目頭だけが熱く、しかし嗚咽や泣き声は出なかった。その全てが胸にぽっかりと開いた穴の中に吸い込まれている気がして、同時にその穴は決して埋まらない気がした。
帰路の途中で自転車のかごにバッグが入っていないことに気づいた。どこかに落としてしまったらしいが、もうどうでもよかった。
家について、母親に借りていた編み物セットと本を返した。
「あら、もういいの?」
「うん、やっぱり僕には向いてないわ」
「なーにが『僕』よ。地が出てるわよ」
「……そうだね」

195 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/09/27(火) 01:19:22.39 ID:C6bYMRo10 [6/15]
母親との会話は早々に切り上げた。その後夕飯を食べて風呂に入り、テレビを見て床についた。その日は不思議とよく眠れた。
次の日、僕の後ろの席は空いていた。よく僕と萌茄を冷やかしていた友人がそのことについて尋ねると、僕は何も知らなげに肩を竦めてみせるだけだった。
僕は普段通りの、しかしいつもとは少し違和感のある生活を送った。友達と談笑して、少し遅れて家に帰る。
何日か繰り返すうちに違和感は少しずつ薄れていって、しかし暇なときに体を捻って後ろを振り返る癖は直らなかった。
振り返るたびに薄れていた違和感は再び色濃くなって、いつしかそれも含めて日常を感じるようになった。
一週間が経って、僕はいつも通りに学校に通学して自分の席に座り、朝礼の時間を待って友達と談笑していた。
あいつが可愛い、いやこいつが可愛い、という話になって、そのうちに誰かが萌茄の名前を挙げた。皆が首を縦に振るが、あの無愛想さにはどうしても近寄りがたいという意見でまとまる。
「そういや、なんで―――は萌茄ちゃんと仲いいんだ?」
「俺が読んだことある本を読んでたりとか、好きなバンドの曲聴いてたりとかでいろいろ好みが似通っててさ、それがきっかけ」
「へえ、なんか意外だなー。で、付き合ってんの?」
唐突な質問に周りの友人が笑う。聞くまでもないだろ、といった顔だ。
僕はしばらく答えなかった。確信できなかったわけではなく、色々なことを思い出していた。焼きそばパンの出来事が脳裏によぎった。
「うん、好きだよ」
僕の言葉に周りは沈黙し、困ったような、ばつの悪そうな子をしていた。友人同士で顔を見合わせると、そのうち苦笑して散り散りになる。
真面目に答えすぎたのだろうか、空気を読めない人間ではないと思っていただけにショックが大きい。
話し相手がいなくなり、僕は手持ち無沙汰になっていつもの癖で体を捻って後ろを振り返る。萌茄が少し顔を赤らめて、イヤフォンをつまんだ指を耳元でこねながらこちらを見ている。

196 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2011/09/27(火) 01:19:32.78 ID:C6bYMRo10 [7/15]
「朝一番に恥ずかしい話で人を巻き込んで、どういうつもりなの」
寝ぼけているか、あるいは気でも遣ってしまったか。
深呼吸をして眼を擦る。まだ見える。
言いたいことが山ほどあった。言葉を発しようと口が開閉するが、それは全て彼女がもう傍にいない前提での話で、結局何も口にすることができず、僕は一つ咳払いをした。
「おはよう」
「おはよう。『しばらく』はもう終わった?」
飄々とした顔で、彼女は世間話でもするような口調で聞いてきた。意地の悪い質問に頷いて、便箋の内容を思い出す。
「ちょっと待って、え、なんで?引っ越したんじゃないの?」
「女は黙っているときですら嘘をつく。どこかの国のことわざなんだって。手紙に書いた嘘、言い得て妙だと思わない?」
「じゃあここ最近学校に来てなかったのは……」
「旅行。ローマの休日に夢を見すぎたわ。汚いし、駅の周りは雰囲気悪いし。
真実の口は簡単に手が抜けちゃったし、あれ自体が嘘ね」
そう言いながら萌茄はバッグの中から文庫本を取り出して読み始めた。栞は本の一番最後のページと外拍子の間に挟まれている。
萌茄が連休を取る前日に見た本だ。僕は首を傾げる。
「あれ、その本読み終わったんじゃないの?」
「……ぜんぜん内容が頭に入らなかったから、読み直してるだけ」
「はあん、なるほど。気が気じゃなかったってやつですか」
「それ、自分のことでしょ。友子ちゃんが様子がおかしいって言ってたよ」
「自分から言い出しといてかなりかっこ悪いな」
「ほんとその通りね。で、距離を置きたかった理由って?」
「あー、えっと……その」
「言いたくない、ね……。もっとかまってほしい、って言ったの、まだ覚えてる?」
「あ、はい」
「……これで十分だなんて勝手に思わないでよね。私、あなたが思ってる以上に満たされないんだから」
片手で開いている文庫本で顔の下半分を隠して、萌茄は言いながら視線を伏し目がちに横に逸らした。
僕は苦笑しつつも、埋まった穴にはいっていたものが溢れるを堪えるのに精一杯で、ようやく違和感のない日常がまたすぎていくことに歓喜した。

197 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2011/09/27(火) 01:22:31.79 ID:C6bYMRo10 [8/15]
〆。
最終更新:2011年10月01日 17:09