思えば15年も前のこと。当時両親を亡くしたワタシを大旦那様――タカシ様のお父様――が引き取って日本へ連れ帰ってきたのが、
8歳のときでした。ワタシの褐色の肌を気にも留めず、タカシ様も大旦那様も、よくして下さいました。どことも知れない外国の小娘
に、日本国籍を与えて教育まで受けさせて頂けました。もしあのまま、大旦那様がわたくしを引き取らなければ、今頃は半ば廃墟のよ
うな街の中で、ゴミを漁るか、あるいは身体を売るかしかなかったでしょう。
 最初は、故国のことを思うときもありました。両親の記憶がないわけでもありません。けれども、いまやワタシの故郷は日本で、実
家は別府家と言っても良いほど、根を深く張ってしまったのです。
 別府家のメイドになったのは5年前のこと。高校卒業と共に、ワタシの方から願い出たのです。義務教育のみならず、高校まで出し
て頂いたのですから、この身を捧げて尽くすのは当然のことです。もちろん、大旦那様もタカシ様も、そのようなことは気にしなくて
よい、やりたいことがあるなら遠慮せず言いなさいと言って下さいましたが、この上に大学まで出していただくのは恐れ多く、またワ
タシにはこのようにご恩を返すしか思いつかなかったのです。
 これはワタシなりの線引きで、けじめと言えるでしょう。

 ――けれども。あぁ、神様。コレは罰なのですね?

 ワタシは確かに件のようなことを言って、別府家のメイドとなりました。
 しかし、それは建前。本当はタカシ様と離れたくない一心でした。ずっと傍にいたくて、誰よりも近くに居たくて。けれども、この
気持ちを口にするなどとてもできるものではなく。ワタシの取った手段は、実は酷くワタシ自身を傷つけるとも知らずに。
 タカシ様専属の役を仰せつかったときは、本当に嬉しかった。タカシ様は結構面倒くさがりでだらしのないところがあり、それはワ
タシも口を酸っぱくして申し上げるのですが、それでも2人で過ごす時間は何物にも換えがたい幸せでした。まるで夫婦みたいだと、
出すぎた考えをすることもありました。
 しかし、その分。距離は広がっていくのです。
 華やかなパーティーに出席するタカシ様。その帰りをモノトーンのメイド服姿で待つワタシ。
 家柄も財産も容姿もお持ちのタカシ様。貧しい国の、さらに貧困層出身のワタシ。
 人種や身分を越えたラブストーリーなど、所詮は絵空事だから楽しめるのです。
 傍にいたいという思いだけで志願した身分ではありましたが、それは本当に傍にいられるだけの、酷く空虚な席でした。この家での
生活は、それを思い知らされるばかり……。


 ――先月のことでした。
 いつに無く神妙な顔をしたタカシ様が、ワタシをお呼びになりました。
 ここは、タカシ様が一人暮らしを始めるときに引っ越したお家です。住宅街のごく普通の建売物件ですが、別府家の持ち物であり、
男一人で暮らすには広すぎるから、とワタシも身の回りのお世話のため、一緒にお屋敷からお供したのでした。
「メイ、話があるんだ」
「なんでしょう、タカシ様。ワタシ、これでも少々忙しゅうございますので、手短にお願いします」
「あぁ、その……込み入った話でもないんだけど、とりあえず座ってもらえるかな?」
 向かいのソファを勧められましたが、ワタシは
「いえ、込み入った話ではないのなら、このままで」
と固辞しました。
 と言うのも、それは予感があったからです。
 形が違えば、幼馴染と言って良いほどの時間、共に過ごしてきたのです。その心地よい、ぬるま湯のような時間が壊れてしまう。聞
いてしまえば、落としたケーキのように、二度と元に戻すことは適わないほどの何かが待っていると、そう感じたからです。
 ですが、『聞け』と言われれば聞かなければならないのがメイドとしての責務です。ですから、せめてもの抵抗として――あるいは、
自分の立場への線引きとして――タカシ様と対等に向かい合って話をすることを拒否したのです。
 タカシ様は少し困ったように眉を寄せました。
 それから、ワタシの抵抗も空しく立ち上がって、向かい合います。これ以上はどうしようもありません。主が立っているのに、メイ
ドが座って話を聞くなどありえないことなのですから。
 ワタシと目線を同じくして、タカシ様はおっしゃいました。
「メイが家に来てから、もう何年たったっけか?」
「込み入ったお話ではないと伺いましたが」
 質問には答えず、動揺を悟られぬようにはぐらかそうとしましたが、上手くいきませんでした。
「メイ」
「特にお話がないのでしたら、もう、これで――」
 耐えられませんでした。
 内側から何者かが『逃げろ』と急き立てます。大急ぎでこの場を離れなければ、取り返しのつかないことになる。
 言葉はいつも不可逆的です。聞かせる方にとっても、聞かされるほうにとっても。宙に出た言葉は取り戻すことは適わず、耳に入っ
た言葉は追い出すこともできません。だから、本当に聞きたくないことは、最初から耳に入れてはならないのです。
 だけど。
 けれども。
 ――あぁ。
 逃げようとするワタシの手をつかんで、タカシ様はワタシの鼓膜をその言葉で震わせてしまいました。
「好きなんだ」
 すぐに口をついたのは拒絶。
「おやめください」
「俺の傍にいてくれ」
「おたわむれを」
「戯れじゃない! 昔みたいに、普通に話してくれよ」
「お断りします。今はもう違う――」
「違わない!」
 ヒステリックに叫んで、タカシ様はワタシの頭を両手で無理やり自分の方に向けます。その段になって、ワタシはこの部屋に呼ばれて
から、一度もタカシ様の顔を正面から見ていないことに気付きました。日本人でありながら、どれほど日光に当たっても日焼け一つしな
い白い肌。それを赤く血潮で染めて、タカシ様はワタシを見つめます。
 ワタシの目には、タカシ様しか映りません。それは、いつからのことだったでしょうか。解っています。『それ』と『これ』とは、文
法的に別だということくらいは。『それ』は隠喩で、『これ』は直喩です。だけど、けれども。今、この瞬間に限っては、それらは同義
なのです。
「俺と、付き合ってくれ」
「無理です。立場が違いすぎます」
「立場なんてどうでもいい。メイが、俺をどう思ってるかが問題なんだ」
「どうぞ、お気を確かにお持ちくださいませ。タカシ様はゆくゆくは別府グループを背負うお方。そのような一時の気の迷いに囚われる
より、やることがおありです」
「ずっと、言いたかった。せめて一人前になるまではって思ってた」
「一人前になれば、使用人の一人いくらでも自由にできると?」
 ――そう。
 言葉はいつも、不可逆的です。聞かされるほうの都合などお構いなしに、何もかもを蹂躙します。 
 ワタシの言葉は、本当に酷いものでした。たった一言で、一人の男性を打ちのめしてしまうほどに。
 ゆるゆるとタカシ様の手から力が抜けます。一歩後ろに下がるだけで、なんなく抜け出すことができました。
「お夕飯の買い物がございますので、失礼いたします」
 一礼して、走ることもよろけることもなく、部屋を出ることができました。後ろでタカシ様が泣きそうな顔をしているのが解りました
が、無視することができました。
 けれど、部屋のドアを閉め、階段を上り、自室に入ったところが限界でした。
 とめどなく涙が溢れます。膝を着いて床に直接額をつけて、けれども声だけは殺して、泣きました。だけど、これには耐えることがで
きます。ワタシが耐えれば、タカシ様は幸せになれるのです。
 こんな元ガイジンの元使用人は、タカシ様の邪魔になるに決まっています。大旦那様はきっと諸手を挙げて賛成してくださるでしょう。
けれども、口さがない人々は居ます。あられもない醜聞を振りまいて、どうしようもない与太を捏造して、妬みと恐れと怒りを動力源に
貶める人々は必ずいるのです。
 ワタシはどうでもよいのです。ですが、大恩ある大旦那様やタカシ様、ひいては別府家をそんなものに晒すわけには参りません。そし
て、ワタシが恐れるのは、そのスキャンダルがもたらすものたちです。別府グループほどの企業複合体ともなれば、子会社、孫会社、そ
れぞれの数は国内外問わず天文学的な数に上ります。そこで働く人々のことを考えると――母体グループの評判一つで職を失う人もいる
かと思うと、ワタシにはそれを背負う覚悟などできそうもないのです。
 そんな馬鹿なと笑う方もいるでしょう。ですが、ワタシは本当の貧困を知っています。
 いつも焦げ臭い街で、どこかに埋まっている地雷に怯えながらゴミを漁ります。価値基準は食べられるか、売れるか。それだけの生活。
今も、あの頃のワタシと同じ境遇の子供たちが、あの国には居るのです。
 貧しい国で、貧しい人たちがやっとありついた仕事。それをワタシが、ワタシの身勝手な想いが、取り上げてしまうのです。
 タカシ様はきっとどこか、別の大企業か他国の王族のご令嬢と結婚なさいます。別府グループは、それでますます発展をします。大旦
那様はワタシを引き取って以来、発展途上国の支援に力を入れておいでです。貧しい国にはさらに手が差し伸べられ、世界中から貧困は
なくなるかもしれません――それでよいのです。
 ワタシの恋など、介入する場所はありません。
 だから、耐えれば、それで済むのです。

 ――そして今日、タカシ様はお車でお出かけになりました。
 真っ赤なジャガーを玄関に横付けしたのは、見るからに上流のオーラを放つ女性です。小物一つ一つがブランド品でありながら少しも
嫌味でないのは、そのセンスもさながら、彼女自身がそれらに負けない存在感を持っているから。タカシ様もいつもより少しだけお洒落を
された格好で、ジャガーの運転を代わると、見送るワタシに軽く手を挙げて発進させました。
 その低いエンジン音が、自分の鼓動とリンクしていると気付いたとき、再び地の底に落ちるような落下が訪れます。
 居ても立っても居られず、ワタシは予定していた掃除もせずに、自室のベッドへと倒れこんだのでした。
 そう。これでよいのです。何も問題はありません。
 目を閉じると、ゆるやかに眠りへと誘われました。
 夢を見ました。
 遠い異国で、褐色の肌した女と、同じ肌の色をした男が恋に落ち、結婚して、子供を設けて、年寄りになるまで幸せに暮らす。
 ただ、それだけの、詰まらない夢でした。
 本当に詰まらない、退屈な、夢――。



「……メイ?」
 その声で飛び起きてしまいました。
「た、タカシ様!?」
 寝起きでまぶたが上手く開きません。目をこすると、確かにタカシ様が目の前にいらっしゃいました。
「い、一体どうなされたのですか。いくら主といえど、使用人の部屋に勝手に入るなどと……」
「ごめん。いくら呼んでも返事がないから……」
 どれほどの間熟睡していたのでしょう。そう思って顔をめぐらせると、西日が差してはいましたが、まだ明るい時間帯でした。
「……ずいぶん、お早いのですね」
「何が?」
 とぼけているのでしょうか? 女性と出かけておいて明るいうちに帰ってくるなど、中学生のデートではないのですから。朝帰り
とは言わずとも、ディナーくらいはご一緒しても良かったのでは?
 頭の中では言葉が回りますが、口からは出てきません。
 寝ぼけているのではなく、目の前に唐突に出されたものが眩しかったからです。
 ワタシの認識は以下の順でした。
 西日を反射している。
 金色。
 箱に入っている。
 タカシ様が出している。
 小さい輪っか。指輪くらいの。
 ―――いや……これは。
「これを買ってきたんだ。それだけだよ」
「た、タカシ様……」
 このときばかりは、ワタシの声も上ずります。
 あり得ません。
 見目麗しい女性と出かけておいて、実はその女性は別の女性への贈り物を見立てる相談役――そんな展開、ラブコメでも使い古さ
れ手垢塗れで擦り切れたような、そんなこと。
 ですが、どんなことをされようと。この指輪にどんな想いが込められようとも、受け取るわけにはいかないのです。どうして解っ
てくれないのでしょう。ワタシの懊悩を全部説明しなくてはならないほど、鈍いお方とは思っていなかったのですが。
 結果として、ワタシの認識は正しかったといえました。
「言っておくが、断っても無駄だぞ」
「え?」
「次はウェディングドレスの採寸をする」
「は?」
「その次は、式場の予約。それから新居の契約」
「ちょ、ちょっと……」
「もし詰まらない噂を気にしてるなら、そういう連中を全員探し出して名誉毀損で訴えて、顧問弁護士フル活用して慰謝料をふんだ
くる」
「あのー……」
「断れば断るほど、逃げ場をなくしていってやるからな」
「しょ、正気ですか?」
「あぁ。メイがほかの男と付き合って結婚するなんて我慢できない。隣に誰も立たせない」
 正直、眩暈がいたしました。正々堂々と真正面から言っているものの、内容は『金と権力にモノを言わせたストーカー』以外の何
物でもありません。
 タカシ様はそこでワタシの手を取りました。ブラウンの肌と、タカシさまの白い肌。それが絡み合い、繋がれています。コーヒー
とミルクのコントラスト。
「2回目だろうが、3回目だろうが、101回目だろうが、100万回目だろうが言ってやる。俺はメイが好きだ、他の女と付き合
う気も結婚する気もない」
 まっすぐに目を見て、断言するその顔を見て、同時に後悔しました。
 こんなに切羽詰っていて、必死で、真剣な顔。
 もし、この間の告白のときに直視してしまっていたら。
 タカシ様が『好きなんだ』といったときの顔を見てしまったなら。
 ワタシにはきっと、断ることなどできなかったでしょう。
 だって、あの時はとっさに出た拒絶が、今はもう喉で詰まってしまっているのですから。
「それに、だ。逆に考えるならば」
 と、そこでタカシ様は悪戯小僧の顔になりました。それは昔、ワタシが大旦那様に引き取られて間もない頃に、なんのしがらみも
なく、ただ同年代の子供というだけで心から遊びを楽しめた頃に良く見た表情でした。
「使用人一人、自由にできないで大企業の跡継ぎなんか務まらないだろ?」
「あ……」
 思わず、息が漏れました。
 ワタシは、酷いことを言ったのに。タカシ様が貶められるのを何よりも恐れる臆病者で、なのにワタシ自身が傲岸にもタカシ様を
一番貶めていたのに。
 それすらも、タカシ様は許して、ただの笑い話にしてしまうのです。
「どっ……」
「?」
「どこまで……お人よし、なんですか……?」
 喉から絞り出せたのは、拒絶ではありませんでした。もっとも、甘い言葉とも言いがたいものでしたが。タカシ様は笑って、
「好きな女には優しいつもりだよ」
と気障ったらしい台詞を吐きます。歯の浮くような、どうしようもない台詞。ドラマか何かで聴いたなら、鼻で笑ってしまうような。
だけど、それがどうしてこんなに胸に染みるのでしょう。陳腐な台詞で不覚にもときめいてしまったのを押し隠すため、ワタシは唾
を飲み込んで呼吸を整えると、言いました。
「……タカシ様は、酷いお方です」
「おい、お人よしって言ってなかったか?」
「金と権力を使って、ワタシを囲い込む気でしょう? 間違いなく酷い人です。人攫いと変わりありません」
「そうかもなぁ。でも、囲みを破る手段は残してるつもりだけど」
 えぇ、そうなんです。100万回でも告白すると言ったのは、ワタシが明確な意思を出さない場合のはずです。ワタシが、ワタシ
自身の意思でタカシ様を拒絶すれば、それ以上は追ってこないはず。立場や周囲の目や会社のことなど一切含んでいない、ワタシ自
身の言葉で拒めばよいのです。
 ですが、それがまた質の悪いところです。そもそも、それを証明する手段があるのでしょうか? もし、1%でも嘘があれば、た
ちどころに見破られてしまいます。だって、子供の頃から共に育った家族ですもの。タカシ様が納得するまで、ワタシは繰り返され
る告白に付き合わなければならないのです。
 本当に――酷い人。
 さらにダメ押しとばかりに、タカシ様は続けました。
「まぁ、しばらくは五月蝿い奴らも居るだろうけど、放っておけばいい。こんな若造とメイドがイチャついたくらいで、子会社孫会
社の面倒が見切れなくなるようなグループなら潰れちまった方がいいだろうし、俺はメイと一緒なら6畳1間で貧乏暮らしでも構わ
ない」
「そ、そんなこと、軽々しく口には……」
「でも、本心だ」
 ぴしゃりと言い放って、タカシ様はワタシの目を見つめます。握られたままの手に、痛いほどの力が込められました。催促されて
いるのがわかります。自分は本心を晒したのだから、次はワタシの番だと、無言で言っているのです。
 ウェディングドレス? 新居の契約? 顧問弁護士? そんなものが無くても、逃げ場なんてどこにもありません。
 大きく、息を吸いました。それだけで、ワタシの悩みは遠く流れ去ってしまいます。心無い噂も、職を失うかもしれない誰かのこ
とも、どうでもよくなってしまいます。
 なるほど『覚悟を決める』とはこういった心境なのですね。ワタシは、勘違いをしておりました。あくまでメイドとしてタカシ様
を支えようと誓ったアレは、覚悟ではなくただの欺瞞と、自己陶酔だったわけです。道理で、これっぽっちもすっきりしませんでし
た。なんともお恥ずかしい。
 ――神様、ワタシをお許しください。いいえ、許さなくても結構です。
   ――――というか、今だけ適当にその辺を散歩でもしててもらえますか? 2時間くらい。
「わ、ワタシも……です」
「ん?」
「ワタシも、タカシ様の隣を誰かに渡すなんて……我慢できません」
 そうです。今日、ジャガーで出かけた二人を見送った後、ワタシに訪れたのは強い嫉妬でした。悲しみも喪失感もなく、ただ、そ
れだけだったのです。
 こんな感情を抱えて、タカシ様とその『奥様』のお世話をすることなどできません。そんな昼ドラみたいなことができるほど、ワ
タシの面の皮は頑丈にできてないのです。だから、ワタシは今日、タカシ様が帰ってきたなら、辞職を切り出そうと思っていました。
 なのに、フタを開ければ
「ずっと、ワタシをお傍において下さいまし……この指輪を、ワタシ以外にあげるなんて、耐えられそうもありません」
こんなことねだる始末です。タカシ様はうやうやしく、ワタシの左手の薬指に指輪を嵌めてくれました。誰にも取られないよう、そ
っとこぶしを握り、それからゆっくりと離します。
「似合ってる」
 タカシ様はそれだけ言うと、もう我慢できないとばかりにワタシを抱きしめました。
 至福、と言って良いでしょう。肩口に顔を埋めて、タカシ様は子供のようにねだります。
「メイ……また、昔みたいに読んでくれるか? 日本語を覚えたてだったときみたいに」
「そ、それは、少し恥ずかしいですが……」
「頼むよ」
 そう言われては、断れません。『旦那様』とか『あなた』というのは、もう少し後にいたしましょう。でも、ただ呼ぶというのも
詰まりませんから、ワタシの本当の気持ちを織り交ぜます。

「たぁクン、好き、だゾ?」

 シンプルでした。でも、さらに強くなった腕の力は、それが間違いでないことを教えてくれます。
 それからのことは、ラブコメでも昼ドラでもお馴染みの『あの』シーンが、そう、あの混じりあうコーヒーとミルクのような光景
がワタシの部屋で繰り広げられた、とだけ申し上げて後は皆様のご想像にお任せしたいと存じます。




 終り?








 半年後。ワタシたちは大忙しでした。婚約の発表に加えて、大急ぎで結納に式まで済ませる必要があったからです。
 大旦那様は、予想通りなんの反対もなさらずに、二つの理由で大喜びでいらっしゃいました。
 それというのも……大変申し上げにくいのですが……
「いやぁ、まさか自分ができちゃった結婚をするとはなぁ」
「そ、それはタカシ様が……」
 あぁ、どうしましょう。本当にお恥ずかしいどころの騒ぎではありません。
 とはいえ、無理もないのかもしれません。ずっと想いあっていた男女が、誰はばかることの無い家の中で二人暮らしなのですから。
いえ、ワタシは自重なさるように、再三再四申し上げたのです。しかし、タカシ様はもう、その、なんと申しますか。どうやら半端
でないほどのリビドーをワタシに対してお持ちのようでございまして、こちらが心配になるほどにワタシをお求めでございました。
それは嬉しくはあり、結果として大旦那様がお喜びになったわけなのですから良しと言えなくもないのですが……やはり、その……
えぇ、複雑です。
 そして、大旦那様がお喜びのもう一つの理由はといえば。
「でもさぁ、知らなかったなぁ。お袋も別府家のメイドだったなんて」
 そう。奥様(今はお義母様と及びすべきでしょう)も、もとは別府家に仕えるメイドであらせられたとのこと。大旦那様と恋に落ち、
周囲の反対を押し切り、今では内外で大旦那様を立派にお支えになっておられます。
 その凛とした姿は、紛れもなくワタシの目標と呼ぶべきものでございましょう。しかし、その決意は今は置いておいて、やや皮肉っ
ぽくタカシ様に言ってみます。
「本当、メイド好きは血筋でございましょうか」
「言うな、悲しくなる……」
 半ば冗談でございましたが、タカシ様は座席で頭を抱えてしまいました。もしかしたら図星なのかもしれません。
 そう言えば、仕事着を着たままで行為に及んだことも、一度や二度ではございませんでした。
 そのバリエーションも、エプロンを外したものとエプロン着用を厳密に区別し、果ては『メイド服で足元は裸足』であるとか『メイ
ド服でガーターベルト』であるとか『水に濡れたメイド服』であるとか、着ているもの自体は同じなのですが、かなり限定的な注文を
おっしゃることもあり、ワタシとしては困惑することも多かったのです。言っておきますがワタシが仕事着としているのは、某電気街
で見られるようなミニスカートにパステルカラー、過剰なフリルをトレードマークとしたものではありません。くるぶしまでのロング
スカートに濃紺をベースとし、エプロンとカチューシャのみ白が見えるという、いたって実用主義のものです。ただ、タカシ様曰く
『それがいい! 王道はまさに『王』だから王道なのだ』とのことで、まぁ、応じてしまった以上は、ワタシも同罪なのですがこれも
……えぇ、複雑……です。
 ともかく、飛行機の中、しかもせっかくの新婚旅行の始まりなのですから、余りしょぼくれた顔をされても困るのですが、かえって
いい薬かもしれません。
 のどの奥で笑いをかみ殺しながら、ワタシは落ち込む旦那様の背中を、優しくさすってあげたのでした。

 あげたのでした。 

 あげたのでした――が。
 その夜、ワタシは激怒しました。
 トランクの中に、入れた覚えの無いメイド服が入っていたので。





 終り



最終更新:2011年10月27日 02:51