27 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 19:54:34.04 ID:lE+uNN9j0 [2/15]
 深夜の3時。いかに『眠らない街』というフレーズがあろうとも、未だ睡眠をとる者が多数派である時間帯。
 一組の夫婦が、一つのベッドで眠っている。
 とは言っても、この話は艶話ではない。2人はきちんとパジャマを着て、布団を肩辺りまで被り、すやすやと穏やかな寝息を立てている。
 夫の名前はタカシ、妻はいずみという。
 ごく普通の2人は、ごく普通の恋をして、ごく普通の結婚をした。ただ一つ普通と違うのは……という話でもない。奥様は魔女でも宇宙
人でもアイドルでもない、当たり前の専業主婦。夫の方もいたって常識的な勤め人で、怒りの感情で緑色の巨人になったり、実は元伝説の
傭兵だったりということもない。
 と――いずみのまぶたが二回ほどぴくぴくと動いた。
 そのまま、ゆっくりと目が開き、首だけを動かして時計を確認すると、軽くため息をついた。
 ごく普通の彼女を起こした理由は無論、心霊現象でもなく、敵の気配を感じたからでもない。
 誰もが経験のある感覚で、ある程度の進化を経た動物ならば逆らうことのできない、本能に根ざした衝動ではあるものの、おおっぴらに
口にするのは特に女性には躊躇われ、『レコーディング』や『お花摘み』などの隠語を生み出した――身も蓋もない言い方をすれば、尿意
である。
 だが、今のいずみはベッドから抜け出ることができなかった。
 タカシの手足がいずみの体に絡みつき、抱きしめられているからである。
 これはタカシの癖のようなもので、一人で寝るときも、ベッドに入ったときには体の上に乗せていた布団が、いつの間にか抱き枕のよう
になっているのである。だから、隣に眠った人間がこのような形になるのは必然であり、いずみの朝は相手を起こさないように、これから
抜け出すことが日課となっていた。
 いたのだが。
 いつものように体の上に乗っている手を振りほどこうとするも、びくともしない。眉をひそめ、もう一度、今度は強めにもがいてみたが、
「うぅ……ん」
といううめき声と共に、より一層強く引き寄せられてしまった。
 なにか夢でも見ているのか、それとも眠りの深さの問題なのか、朝とはかなり勝手が違う。
 思わず夫の顔を見上げた。だらしなく半開きになった口。男にしては長いまつげ。起きているときは散々『不細工』とバカにする顔だが、
実のところ嫌いではなかった。毎朝、抱き枕状態から抜け出してから、しばらく間抜けな寝顔を見つつ、頬をつついてみたり、額にキスを
してみたり、そういうのをするには罪悪感を感じない丁度いい顔である。
 と、その唇がもごもごと動くと、寝言が飛び出した。

28 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 19:55:23.64 ID:lE+uNN9j0 [3/15]
「ま……マキ……」
「!」
 思わず息を呑むいずみ。無理もない。夫の寝言に女性の名前が出て、心穏やかなはずがないのだ。つまり、本人は否定するが、その程度
にはいずみもタカシのことを好きなのである。
 しかし、マキ、という名前に心当たりがない。少なくともいずみの知り合いには居ない。
 ということは仕事先の女か? よもや浮気か? と尿意も忘れて、タカシの口元に注意する。もちろん、結婚していようが夢の中は自由
である。妻以外の女性とナニをしていようが、夢の話となれば法的にはセーフだろう。だが、言うまでも無く、いずみはそんな理屈を許せ
る性格ではなかったのだった。
「んぐ……とろ、とろ…………」
 『トロトロ』……微妙な言葉だ。聞き様によってはいかにも卑猥であるし、まるで関係ないようにも聞こえる。
 いずみはさらに耳を寄せて、タカシの寝言に全神経を注いだ。たかが寝言に何を必死になっているのか、と自分でも馬鹿馬鹿しくはある
のだが、気になるものは気になるのである。
 さらに、タカシの口がもごもごと動く。
 いずみは目を閉じて耳をすませた。

「か、かんぴょう巻きは……もう、食べられません…………と、トロが、食べたい……トロ……」

「…………」
 かんぴょう巻き。
 かつて、自分の人生で『かんぴょう巻き』というフレーズがこれほどの怒りを掻き立てたことがあっただろうか。
 それまで相手を起こさないようにと息を潜めていたいずみだったが、腕を伸ばすとタカシの頬に指を立て、そしてそのまま――思い切り
つねり挙げた。
「あひっ!?」
 奇妙な声を出して、タカシが一瞬で覚醒する。だが、それでもいずみの力は抜けない。
「いだだだだだっ! ちょ、な、ひゃに!? にゃひゃぁぁぁ!!」
「このアホがあああぁぁ!!」
「ぎゃあぁぁぁぁぁ!!」
「紛らわしいんじゃ、このボケーーーーーっ!!

29 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 19:56:10.67 ID:lE+uNN9j0 [4/15]
 渾身の力を込めて、頬をむしりとらんばかりにねじり挙げる。
 寝込みを襲われたタカシは手足をばたつかせて暴れる。いずみはそれに構わずさらにねじる、ひねる、引っ張る。
 しばしの攻防のあと、いずみの気が済んだところで手は離された。
「な、なにすんだよ!」
 当然夫は抗議する。しかしいずみは涼しい顔でベッドを降りた。
「しょんべんしたいだけや! 毎度毎度、人を抱き枕みたいにしてからに。鬱陶しいっちゅうねん」
「そんなら普通に起こせばいいだろ。なんでいきなり……」
「知るか、先に寝とけや!」
 赤くなった頬を撫でながら口を尖らせる夫を無視して、トイレに向かう。
 ――ったく、心配して損したわ。
 そんな捨てゼリフは、胸の奥にしまった。


 用を足して戻ると、タカシは横になっていたが、まだ起きていた。
「なんや、寝とけ言うたやろ」
「まだほっぺた痛いんだよ」
 憮然として答える夫は、はっきり言って子供っぽい。
「しゃぁないやろ。こっちも非常時やってんから」
「だからってなぁ……あぁ、もういいや。ほら、寝ようぜ」
 そう言いつつ、体を横向きにして腕を伸ばす。
「なんやの」
 その意図は十分に解っていながら、いずみはあえて尋ねた。
「いや、ほら。腕枕」
「……はぁ」
 いずみは軽くため息をつくと、大人しく夫の横に寝そべり、腕に頭を乗せた。乗せてから、念のためと確認する。
「言っとくけどな、別に腕枕なんかいらへんのやで?」
「んぁ?」
「どうせ抱き枕にされるんやから、無駄やと思ただけや。ここでごちゃごちゃ言うと、睡眠時間が減ってまうからな」
「あぁ……解ってるよ」

30 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 19:57:25.73 ID:lE+uNN9j0 [5/15]
 その返事の語尾が笑いを含んでいたので、いずみは眉を寄せた。
 別にいずみはタカシなど居なくても、眠ることができるのだ。しかし、タカシはいずみが居ないと上にかけてある布団を抱き枕にして、
みっともなく腹を出して風邪を引く。つまり、この状況が必要なのはタカシであっていずみではない。
 なのに、タカシはまるでいずみが自ら進んで抱き枕にして欲しがっていると勘違いをしているようだ。
 ――それは、面白くない。
 いずみは復讐とばかりにタカシの体に腕を回し、足を絡めて体を密着させる。
「お、おい?」
「なんや? はよ寝ぇや」
 何食わぬ顔で答えるが、タカシは目に見えて落ち着きがなくなる。体の位置を直す振りをして、さらに胸を押し付けてやった。余談だ
が、いずみはEカップである。
「ぐ、お、おう……」
 明らかな挑発ではあったが、『寝ようぜ』と言ったのが自分である手前、乗ったら負けとばかりにタカシは無理やり目をつぶった。
「かぁわえぇー♪」
「うるさい。寝るぞ」
 からかいもはねつけて、ぶっきらぼうに答える。
 いずみは『おやすみ』の代わりに喉の奥でくすくすと聞こえよがしに笑ってから、目を閉じた。
 タカシは細く長いため息をつくと、いずみの頭をゆっくりと3回なでてから、目を閉じた。
 ――ここで襲わへんところが、いいとこなんやけどなぁ。損なヤツやで。
 それこそ、夢の中でしか言えない台詞を胸の内で唱えながら、いずみは眠りに落ちる。

 深夜3時。時間にすれば10分足らずの出来事だった。


 終り
最終更新:2011年10月27日 02:52