46 名前:TOKIO 1[sage] 投稿日:2012/01/02(月) 22:11:04.71 ID:5YnJazgH0 [4/13]
――次は、南九州空港……南九州空港
乗り物特有の心地よい揺れは、僕を眠りの世界へと誘ってしまっていたらしい。
電車の窓ガラスごしに見える桜は、美しく咲き乱れている。
「起きてください、早く降りますよ」。隣に座っていた澪が、敬語、と言うより、いつもの口調で言っ
た。敬語で話す事は彼女にとっての癖なのだ。彼女が、友人と話す時でさえ敬語となることを、僕は知
っている。
ごめん、と慌てて席を立つ。もっとも、この路線は、空港で終点のはずであるから、わざわざ急ぐ必
要もないのだけれど。
「まったく、東京で兄さんが無事に、一人で生きていけるか心配です」さりげなく、僕の座っていた場
所に目を配る澪。「忘れ物はないですか?」。
「もちろん」。それに、もし忘れ物をしていても、ちゃんと澪が気づいてくれるから大丈夫だ。小言は
多いけれど、何だかんだで面倒見のいい、一つ年下の妹である君を、僕と父は信頼している。
バス停の向かいには、桜並木が見える。桜は、満開だった。
「空港には何度も来てるのに、あんなに綺麗な桜があるなんて知らなかった」
「桜は、東京にもありますよ」
桜に見とれて動けない僕と反対の方を見ながら、澪は、「桜は」の語気をいささか強めて応えた。
「桜は」。またくり返す。僕は、この反芻の意味を理解することができなかった。
47 名前:TOKIO 2[sage] 投稿日:2012/01/02(月) 22:16:35.16 ID:5YnJazgH0 [5/13]
黙って空港の入口に向かう。荷物は前もって郵送してあるので、今は小さな肩掛け鞄だけだ。
「父さんは、見送りに来られないそうです」。妹は、まるでそれが自分の責任、とでも言うように、心
底申し訳なさそうな顔をしている。「ごめんなさい」
「それは澪のせいじゃないでしょ」
うつむいた澪に向かって話しかける。今日じゃなくとも父は忙しいのだ。どうせ夏には会えるのだし
、特別配慮してもらうほどのことでもない。
「搭乗手続きは四階だっけ?」。でも、とまた何か言おうとする澪の言葉を遮る。
「三階です」。あきれた、とつぶやく澪。これだから兄さんは――。
それから三階に着くまで、いつもの調子を取り戻した澪主催の講義、「兄さんが一人暮らしをする際
、気をつけること」が行われた。この講釈を何度となく傾聴することで、僕自身に欠けている点が明確
になってきた。先日、その旨を澪に伝えたら、なんとなくばつの悪そうな顔をして、そのまま黙ってし
まったのだけれど。どうも僕ら兄妹は、こうした細かいところでささいなすれ違いを多々経験している
ような気がしてならない。僕にできることと言えば、それが気のせいであることを祈るばかりだ。と言
うか、もう年頃の兄妹なんてこんなものだ、と半ば諦めているのだけれど。
48 名前:TOKIO 3[sage] 投稿日:2012/01/02(月) 22:21:20.83 ID:5YnJazgH0 [6/13]
チケットに指定された時刻には、まだ余裕があるらしい。先に搭乗口に入ってもいいのだが、そうす
ると、澪と別れなければならなくなる。
「あの」澪が遠慮がちに尋ねてくる。「まだ、時間があるようなら――」
こうした所は、さすが兄妹、とでも言うべきことなのだろう。
「きれいですね」。僕たちは、バス停から見た、あの桜並木の中にいる。
「そうだね」。なんだかデートみたいだ、とからかおうとして、やめた。澪が、不機嫌になるだけだ。
拗ねた表情の妹もなかなか可愛いのだが、彼女はもう少し真面目な別れを、望んでいるようだし。
「なんだか、見とれてしまいますね」。そう話す澪は、夢見る乙女のようだ。
「排気ガスの二酸化炭素で育った樹が、こんなにも綺麗な花を咲かせるなんて」
本当に夢を見ているのかは置いておくことにして。
「でも」
今日の妹はよく喋る。仮にも家族の旅立ちの時に、少なからず悲しみとか寂しさという類の感情が湧
くであろう妹を、どうやって慰めるかといった問題に頭を悩ませた挙句、棚上げしていた僕にとって、
それはありがたいことだった。
49 名前:TOKIO 4[sage] 投稿日:2012/01/02(月) 22:25:56.97 ID:5YnJazgH0 [7/13]
「でも、なんだか、心が洗われるというか」
確かに、見事なまでに咲き誇っている桜の花たちを見ると、別れの寂しさなど、とてもちっぽけな事
のように思える。二人で並木道を歩く。
「兄さん」。しばらく黙っていた澪が、突如として口を開く。「私も、来年はそっちに行きますから」
「え?」初耳だ。恐らく、澪本人も初めて口にしたのだろう。言葉に戸惑った響きがある。
「何しに来るのさ」
「もちろん進学です。兄さんと同じです」。だめですか、と早口で尋ねてくる。
「駄目なことは無いさ」突然で驚いただけだ。
澪の表情が急に明るくなる。「よかった」。今まで表情が堅かったのは、これを言おうとしていたた
め、でもあったのだろうか。
そして、また沈黙が続く。僕は、この沈黙が嫌いじゃない。桜の木が春の風と一緒に、美しい協奏曲
を奏でている。僕はそれに聴き惚れる。この曲の奏者は誰だろう、誰だっていい。今は、妹と僕二人だ
けに贈られたプレゼントをくれた誰かに感謝したい。
52 名前:TOKIO 5[sage] 投稿日:2012/01/02(月) 22:30:17.55 ID:5YnJazgH0 [8/13]
ゆっくりと、澪が、自分の右腕を僕の左腕に絡ませてくる。気づかれないようにしているつもりなの
かもしれないが、絡ませているのは僕の腕なので、気づかないわけがない。澪が絡めてくる手すら音楽
であるかのように聞こえてきた。そろり、そろりと。けっして急がない、変化を恐れる変奏曲。
澪は、黙ってしがみついたまま、視線を合わせようとしない。俯いたまま、時々足元の砂利を蹴散ら
している。まるで幼いころに戻ったみたいだ。僕から離れようとせず、寂しがりで甘えんぼうな妹。で
も、人一倍恥かしがり屋な妹。
ある人の話によると、女性が腕を絡ませてくるのは、甘えるためではなくて、暖を取り、寒さから身
を守るためらしい。
まあ、そういうことにしておこう。
一段と強い風が吹き、花びらが舞い上がる。ひらひらと。
そろそろ、時間だ。
53 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2012/01/02(月) 22:34:23.40 ID:5YnJazgH0 [9/13]
――全日航九七八便、東京・羽田空港行をご利用のお客様は、一七番ゲートまで……。
再び空港の中に入ると、僕らを待ち構えていたかのようにアナウンスが響く。澪は、顔を真赤にしな
がらも、まだ僕と腕を組んでいる。普段は並んで歩く事すら嫌がるのに、大したものだ。
「出発ロビーは?」
「二階です」
案内ぐらい見ましょうよ。澪の言葉には、いつもの覇気がない。
「そういえば、兄さんの知り合い、来ませんね」。彼女は、会うたびに妹をからかう兄の友人たちが、
苦手だ。と言うより、むしろ嫌っていると思う。
「あいつらは、僕が今日が出発なの、知らないから」。これは本当だ。
「……どうして?」
出発ロビーの前に着いた。相変わらず騒々しい。
「驚かせようと思って」半分、本当だ。残りの半分は、友人たちのせいで澪が拗ねて、最後までだんま
りを決め込むのが嫌だったからだ。友人たちに僕の旅立ちの日を知らせていたら、あの桜並木の演奏会
にも行けなかったかもしれない。
54 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2012/01/02(月) 22:38:30.07 ID:5YnJazgH0 [10/13]
「変な人」。なんとなく、嬉しそうな顔をする澪。
「そろそろ、行かなきゃ」
「はい。いってらっしゃい」
「いってきます」
まるで、夕暮れまでには帰るかのような、いつもの挨拶。澪の視線を背中に感じながら、ふり返るこ
となく搭乗口を目指す。
閉塞感あふれる機内。こんな場所で仕事をしている人たちは、いったいどういう神経の持ち主なのだ
ろうか。
――携帯電話の電源はお切りください。
忘れていた。携帯電話は、今朝から鞄の中に入れたままだ。折りたたみ式の電話を開け、電源を切り
、鞄の中でなく、ジャケットの左ポケットに入れる。すると、ポケットに入れた手が、既に入っている
何かを探しあてた。それは、小さく折りたたまれた手紙と、その間に挟まっている、手編みのミサンガ
だった。
55 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2012/01/02(月) 22:43:22.73 ID:5YnJazgH0 [11/13]
――願い事は済ませました。兄さんはただこれを、左手につけておいてください。
くれぐれも無くさないように。
元気で
澪
どうやら腕を組んでいた時に入れたものらしい。桜色の便箋に、この文は短すぎて、紙の残りの部分
が、とても広く感じる。その空白が余計に、澪の寂しさとか、不安とか、そういったものを表している
気がした。
彼女はこのミサンガに、どんな願い事をしたのだろうか。腕を組み歩いた桜並木で、澪の言っていた
ことを考えれば、答えを見つけるのはいたって簡単だ。
僕の妹は来年、この窓から今と同じ桜並木を見ることになるのだろう、そんな気がしてならなかった
。
chap.1 東京/マイペース(
http://youtu.be/grbKGjBvaRo)
最終更新:2012年01月05日 21:07