10 名前:1/6 :2012/04/07(土) 19:23:58.44 ID:AGqdbWch0
生物準備室の前に立つと、私はちょっと感慨に耽った。一体何度、この部屋の前に立っ
てノックしただろうか。でも、それも今日で最後だ。
コンコン。
静かに、ドアを叩く。しかし中から返事はない。もしかしたら留守なのだろうかとちょっ
と不安が過ぎるが、中にいるにもかかわらず返事が無かったことの方が圧倒的に多かっ
た方を思い出し、私は返事を待たずにドアに手を掛ける。案の定、無人なら鍵が掛かっ
ているはずのドアは、簡単に開いた。
『やっぱり…… また眠ってる』
呆れて私はため息をつく。そして、つかつかと机に突っ伏して眠っている白衣の男性
の傍に立つと、大きな声で呼んだ。
『先生。別府先生。起きてください。授業、始まりますよ?』
「へ……や、やばっ!!」
ガバッと体を起こすと、机の上をザッと見て首を傾げる。
「あれ? 眼鏡……どこやったかな?」
『眼鏡ならここにあります。はい、先生』
声を掛ける前に取っておいた眼鏡を渡す。すると先生は、急いで眼鏡を掛けてから、
私を見た。
「ああ、ありがとう。って、そういえば今日って……」
『はい。卒業式です。ですから、授業はありません』
本当に、どこまでボケているのだろう。この人は。これで高校の生物教師なんてやっ
てるんだから、不思議でしょうがない。
「だよね。びっくりした…… 全く、先生を騙すなんて椎水は人が悪いな」
『人を非難する前に自分の態度を反省してください。先生はまだ仕事中でしょう?』
「休憩中だよ。式も無事に終わったし、午後からは1年の期末試験を作らなくちゃいけ
ないから、疲れを回復させておこうと思って」
『相変わらず、言い訳ばっかりですね。隙あらば昼寝しようと目論んでるくせに』
11 名前:2/6 :2012/04/07(土) 19:24:23.72 ID:AGqdbWch0
フン、と鼻息荒く私は憤る。先生とは生物委員として、クラス担任として、そして生
物部員としていろんな縁があったが、私がここに来ると、大抵さっきのように寝ていた
のだ。そう。ああやって、先生を起こすのもまた、これで最後だった。
「そうやってこまめに疲れは取っておかないとね。教師なんて意外と肉体労働者なんだ
し。それより、椎水はどうしたんだ? もう、みんなとっくに帰ったんじゃないのか?」
『友達はほとんど帰りましたね。部活のある子とか生徒会やってた人なんてのはまだ残っ
てますけど』
「そうか。うちは今日は部活休みだぞ。だから、1、2年生も来ないと思うけど」
『知ってますよ。こないだ予餞会の日に、部でも送別会やってくれたじゃないですか』
3年生で卒業するのは私一人。部員6人という小さな部だが、わざわざ私一人の為に
送別会をやってくれたのは嬉しかった。プレゼントを解剖模型の中に仕込むという、何
とも手の込んだ事もやってくれたし。
『蛍ちゃんとか、鳥飼さんとか、式の後でみんな見送りにも来てくれましたし。来ない
のは先生だけです』
ちょっと嫌味を言うと、別府先生は困った笑顔で頭を掻いた。
「その時は僕は教室に行かなくちゃいけなかったからね。今年は二年の担任だから、君
達よりホームルームが終わるのも遅かったし。だからもう、とっくに帰ったかと思ってた」
『……冷たいですね』
ボソッと恨みがましく呟く。もっとも、先生の言ったことくらい理解している。ただ、
言ってみたかっただけだ。
『私がどれだけ、先生の世話をしたと思ってるんですか。掃除をしたり、コーヒーを淹
れてあげたり……私は先生の助手じゃないんですよ? 全く、それなのに、見送りの時
間すら作れないなんて』
「そんな事言ったって仕方ないだろう。仕事なんだからさ。そりゃもちろん、椎水が何
くれとなく世話をしてくれた事は感謝してるよ。だけど、ホームルーム放り出すなんて、
出来ない相談だろう? そんな事くらい、椎水は理解出来ると思ってたけどな」
『分かってます。悔しいから、言ってみただけです』
本当は、心の中では先生に呼び出されたら、なんて期待もしていたのだ。そして、別
れのシーンから盛り上がって……などというくだらない妄想も。だけど、やっぱりこの
人は、いつもの別府先生のままだった。
12 名前:3/6 :2012/04/07(土) 19:24:45.11 ID:AGqdbWch0
「悔しいって……何がだい?」
先生が首を傾げる。本当に、この人は鈍感なのだ。私は怒るよりも呆れて首を振った。
『いいです、もう。それより先生。また部屋を散らかしてますね。どうしていつも、使っ
たものを出しっ放しにしたまま片付けようとしないんですかって、3年間ずっと言い
続けましたよね?』
机の上にうず高く積んだ本と書類の山を選別しつつ手に持ちながら、私は説教をする。
「いやいや。すぐ使う本をいちいち本棚にしまってたら、その方が時間の無駄かと思っ
てさ。つい手元に置いておきたくなるんだよ」
『その言い訳も、ずっと聞き続けました。で、結局いざ使う段になると掘り起こしたり
探すのに時間掛けたりで、結局余計に時間を無駄にするんですよね』
「って……いつも言われてたよな。全く申し訳ない。いつもいつも、椎水に面倒掛けて」
済まなそうな笑顔を見せる先生を、私は思いっきり睨み付けてやった。
『ホント先生って、いつも言葉だけですよね。ありがとうとか申し訳ないとか。なのに、
おんなじことばっかりやっていて。反省する気も無い人の謝罪なんて聞いたって、全く
心に響きませんから』
ブスッとした顔で私は本を本棚に収め、書類の束を先生に渡す。
『これ、いる物といらないものに分けておいてください。その間に、私は出しっぱなし
の実験道具を片付けておきますから』
「あ、ゴメン。そこにあるのはまだやりかけだから――」
『ダメです!! そう言ってそのまま放置しっ放しで、結局乾いてダメにしちゃったり
するんですから。手を離せないような大事な実験なら、放置なんてしないですもんね』
大体、置きっ放しになっているようなのは、授業やらテスト問題の作成の為の実験だ
から、洗って片付けてもすぐにやり直せるようなものばかりだ。だから、問答無用で私
はテキパキとビーカーやらフラスコを洗っていく。
「全く…… 強引な所は、初めてこの部屋に来た日からちっとも変わっていないよな。椎水は」
クスッとおかしそうに笑いながら書類整理をする先生に、私は不機嫌極まりない顔で言い返す。
『だって、あんな酷い部屋見たことありませんでしたから。今日の比じゃないですよ、
本当に。今こうして生物準備室が辛うじて人がいれる環境なのも、私が定期的に掃除し
続けていたからで、そうでなければ今頃立ち入り禁止です』
「そこまで酷くはないと思うけどな。椎水は潔癖症だから耐えられないだろうけど」
13 名前:4/6 :2012/04/07(土) 19:25:09.09 ID:AGqdbWch0
『先生の感覚が異常なんです!! 私は別に潔癖症なんかじゃありませんっ!!』
ダン、と乱暴にカップを置き、私は先生の為にコーヒーを淹れ始める。
「コーヒーまで淹れてくれるのか。スマンな」
『何か、いつもの流れでやっとかないと私が落ち着かないからです。それに、どうせ言
葉だけの感謝のクセに』
電気ケトルで沸かしたお湯をマグカップに注ぎ、私は先生にコーヒーを差し出す。
『はい、どうぞ』
「ああ、ありがとう」
笑顔でお礼を言って、先生は静かにカップに口を付け、コーヒーを啜る。
「うん、美味い。椎水の淹れてくれたコーヒーはいつだって美味しいよ」
『インスタントじゃないですか。バカバカしい』
フン、と鼻を鳴らして私は一蹴する。このやり取りも、もう何度繰り返しただろう。
「コーヒーとお湯の割合が、ちょうど僕の好みなんだよ。まるでビーカーで計った様にピッタリだ」
二口目を啜る先生を睨み付けて、私は言い訳をする。
『何度も淹れてるから、感覚が覚えているだけです。大体、ビーカーで思い出しました
けど、先生って私が来るまでビーカーでお湯を沸かして、そのままコーヒー淹れて飲ん
でましたよね?』
「ああ、懐かしいな。で、椎水に怒られたっけ。実験道具でコーヒー飲むなんて信じら
れませんって」
『そうですよ。消毒してあるから大丈夫って…… その感性が信じられません。なのに
一向に直そうとしないから、仕方なく電気ケトルとカップを、家で使わなくなったのを
持って来たんじゃないですか』
その日のやり取りも、私は鮮明に覚えている。先生とこの部屋で過ごした時間は、褪
せることなく私の記憶の中で色づいていた。
「そうだったね。本当に、椎水には感謝する事だらけだ」
先生の笑顔が、今は痛い。だって、こうやって笑顔を向けて貰える事も、もう無くなっ
てしまうのだから。
『……でも、今日で最後ですからね』
口にしたくなかった一言。でも、私はとうとうそれを言ってしまった。
『こうやって、先生の世話をするのは、今日で最後ですから』
14 名前:5/6 :2012/04/07(土) 19:25:30.46 ID:AGqdbWch0
先生は、カップを置くと椅子を回転させて体ごと私の正面に向けた。そして、小さく頷く。
「そうだな。卒業、おめでとう椎水。今まで、ありがとうな。こんなダメ教師にいろい
ろと世話してくれて」
握手を求めて差し出された手を、私は握らなかった。手を下したままグッと拳を握り
締めて顔を逸らす。その手を握ってしまったら、本当にお別れになってしまう。そんな
気がしてならなかった。
『……明日からは、もう先生の部屋を掃除しに来てくれる生徒も、コーヒーを淹れてく
れる生徒も……もう、いませんからね。いいんですね?』
先生は、手を引っ込めると仕方なさそうな顔で頷いてみせた。
「仕方ないよ。こんなだらしない教師の世話を見てくれる、椎水みたいな奇特な生徒は
そうそういないからね。これからは自分でやるしかないよな」
『出来もしないくせに』
小さく、私は吐き捨てた。しかし先生は、笑って首を振る。
「いやいや。今までの椎水の頑張りに報いる為にも、少しは努力しないとな。でないと、
全部が無駄になっちゃうからね」
先生にとっては、何の気も無い発言なのだろう。しかし、私にはその些細な一言一言
が苛立ちを募らせていった。そして、ついに抑えられなくなった私は、厳しい目付きで
先生を見つめると、感情のままに口を開く。
『……無駄にって……先生は、私が今まで何の為にお世話をして来たか、分かってない
んですかっ!!』
「え……?」
怒りを露わにした私に、先生は戸惑いを見せる。答えがないので、私は仕方なく、言
葉を続けた。
『じゃあ、言い方を変えます。私が何で、先生のお世話をして来たのか、先生は考えた
ことがないんですか?』
「いや、その……」
『それとも、ただの奇特な生徒だと思っていたんですか? 今時教師の世話をしてくれ
るなんて、珍しい、変わった子だって。それだけなんですか?』
15 名前:6/6 :2012/04/07(土) 19:25:53.28 ID:AGqdbWch0
そこまで言うと、私は口を閉じて先生の返事を待った。激しかった感情の波が、言葉
に出した事でスッと引いて行く。すると、入れ替わりに恥ずかしさと、動揺と、不安が
一気に押し寄せてくる。今になって、あんな質問をした事を後悔したが、口に出してし
まった以上、もう後戻りは出来なかった。
「……ゴメン」
先生が、小さく謝罪を口にする。私の心臓が、ドクンと強く一打ちした。その言葉の
意味を考える前に、先生が言葉を続けた。
「僕は、考えたことは無かったよ」
小さく、だけどはっきりとその言葉は私の耳に届いた。同時に、一気に悔しさと悲し
さが押し寄せて、私の心の全てを満たしてしまった。
『……そうですか…… じゃあ、先生にとって私は単なる世話好きの教え子の1人に過
ぎないと、そういう事なんですね?』
私の質問に、先生は答えなかった。視線を落とし、口を真一文字に結んで、黙りこくっ
ていただけだった。それは、私の質問を肯定したのだと気付き、私は感情のままに声を荒げた。
『分かりました。先生にとって、私はその程度でしかなかったって。もういいです。こ
れっきりです。さよならっ!!』
目頭がどうしようもないくらいに熱くなり、涙がこぼれそうになる。それを必死で堪
えて、私は先生に背を向けた。今はまだ我慢だ。私の淡い恋心が全部無駄だった事を嘆
くのは、家に帰ってからだ。少なくとも、この人の前では絶対に涙を見せたくない。気
持ちを断ち切って、駆け出そうとしたその時、いきなり腕を掴まれた。
『何するんですか先生!! もう帰りますから、離して下さい!!』
興奮して怒鳴り散らす私の目を、先生が無言でジッと見つめていた。その視線に、怒
りが引き込まれていく。少し置いて、先生が口を開いた。
「……やっぱり、教師として嘘をつくのは良くないと思ってね」
『……ウソ……?』
鸚鵡返しに聞くと、先生は頷いた。
「ああ。何で、君がわざわざ、僕なんかの世話をしに来てくれたのか、考えたことがな
いって、言ったよね」
私は、小さく頷く。しかし先生は、ちょっと辛そうな顔で、首を横に振った。
「その言葉は正確じゃない。考えたことがないんじゃなくて、敢えて考えようとはしなかったんだ」
23 名前:1/5 :2012/04/07(土) 20:15:19.05 ID:AGqdbWch0
先生が、掴んだ腕を離す。私は先生の方に向き直った。
『……どうして……ですか?』
先生の眼差しをジッと見つめる。すると先生は、気まずそうな顔で私から視線を逸らした。
「……考えちゃ、いけないと思ったから。だって、僕は先生で君は生徒だからね……」
その言葉に、キュッと心臓が縮こまるような感覚を覚えた。少し、息が苦しくなる。
『……ズルい……ですよね。現実逃避ですか? 大人のクセに』
「大人だから、ズルいんだよ。お互いが丸く収まるのだったら、平気で嘘をついたりご
まかしたり出来るからね」
先生は、コクリと頷いて同意する。だけど、私はやっぱり納得行かなくて、先生を睨み付けた。
『だからって、それでいいって事はないです!! 私が、一体どんな気持ちで……』
そこから先は言葉に出来なかった。口にしたら、涙がこぼれてしまいそうだったから。
「……ゴメンよ。椎水。今にして思えば、悪かったって思う。君を怒らせてしまったの
は、僕のやり方が下手だったからだしね」
私は目頭に溜まった涙にハンカチを当てると、頷いた。
『そうですよ。大体、不器用な先生が腹芸なんて出来ると思ったら大間違いです』
「確かにそうかもな。片付けもロクに出来ない子供のような僕が、大人みたいな真似を
して、結果として椎水を怒らせるような事になったんだから」
そう言って穏やかに笑う先生に、私の気持ちも少し和んだ。とはいえ、まだ何も終わっ
てはいなかった。というより、始まってもいなかったのだ。だとしたら、このままお別
れなんて、する訳には行かなかった。
『……私、納得行きません』
「分かるよ。確かにその通りだろう。けれど、やっぱり先生と生徒だからね。だらしな
い先生と世話好きな生徒だっていう……それ以上の事を考えるのは、良くない事だから」
『明日からは、先生と生徒じゃありません』
たしなめようとする先生に、私はキッパリと言った。驚いた顔をする先生に、私は畳
み掛けるように言った。
『だから……私、止めます。ここでお世話しないのを』
「お世話しないのを止めますって……」
24 名前:2/5 :2012/04/07(土) 20:15:46.26 ID:AGqdbWch0
『卒業したら、来ちゃいけないって法律はないですよね? だから私、これからも時間
を見つけてここに来て……先生を罵りながら、掃除をしてコーヒーを淹れてあげます。
幸か不幸か、自宅通いですからここに来るにも不自由ありませんし』
先生はしばし、迷うような表情を浮かべつつ私を見ていたが、やがて一旦視線を逸ら
すと、小さく首を横に振った。
「いや。やっぱり良くないよ。それに椎水だって……大学に入って、これまでとは違う
勉強をしたり、サークル活動やアルバイトや、いろんな事を経験して学ぶ大事な大学生
活の時期に、こんな所で無駄な時間を使ったりしたらダメだと思うし」
『誰のせいだと思ってるんですか』
私は、先生の言葉を一言で撥ね付けた。そして、思いっきり恨みがましい目つきで睨
み付けてやる。
『先生が……逃げてばかりで、ちゃんと考えてくれなかったら…… だから続けるって
言ってるんです。貴重な大学生活を一部たりとも無駄にするのは、先生の責任なんですからね』
「いや、そんな……僕の責任って……」
『何か違いますか? さっき、ご自分でも悪かったって、そう言いましたよね?』
私は、詰るように先生をジッと見つめた。それに耐え切れないように先生は私から顔
を逸らしていたが、やがて観念したようにため息をつくと、顔を上げて私を見た。
「……本当に続けるつもりかい? 大学に入れば、新しい出会いもいっぱいある。僕み
たいなだらしない男に時間を割くのはもったいないと思うけどね」
『それは先生の主観でしょう? ちゃんと考えてくれてないから、そういう事が言えるんです』
不満気に私は吐き捨てた。先生といた二人きりの日々が、どれだけ私の高校生活の中
で重要な時間だったのか、先生は分かっていない。もっとも、そこに至る前に思考停止
させていたのだから、当然なのだろうけど、でもやっぱり不満だ。
「……確かにそれは認めるけどね。でも……」
『でももクソもありません』
先生が何か言いかけるのを、私はピシャリと封じた。
『もう決めた事です。私がどんな思いで先生のお世話をして来たのか、真剣に考えた上
での答えと、それに対して先生がどう思っているのかをちゃんと答えてくれるまで、私
は止めませんから』
私の決意宣言に、先生は少し黙って考えていたが、やがて何かを思いついたように顔を上げる。
25 名前:3/5 :2012/04/07(土) 20:16:09.47 ID:AGqdbWch0
「じゃあ、これから考えてそれを椎水に伝えるというのは……」
『ダメです』
キッパリと私は否定した。
『そんなごまかしのような返事が、私に通じると思ってるんですか? 言いましたよね。
私の思いをちゃんと考えてくださいって。これまで考えもしてこなかった人に、簡単に
見抜かれるほど、私の思いは単純じゃありません』
断言した後で、密かに思う。ちょっと考えればすぐに分かっちゃう程度には、単純な
んだけどね、と。
「つまり、どうあっても今後も椎水は僕の世話をしに学校に来ると。そういう事なんだね?」
先生の確認に、私は首を縦に振って肯定した。
『だって、このままじゃ私の気が収まりませんから。先生がどういう内容であれ、ちゃ
んと私が納得出来る答えを出されるまでは、絶対に止めませんから』
すると先生は、顔を上げて私の顔を見つめ、小さく微笑んだ。
「……椎水は一年の時から全然変わってないな。一度こうと決めたら誰が何と言おうと
絶対に聞かないって。頑固なのもいいが、もう少し適度に柔軟性を持ちなさいって言わ
なかったっけ?」
『そうでしょうか? 特別頑固だとは思いませんけど』
意外、という風に小さく首を傾げてみせて、私は続けた。
『だって、もともとは最後のつもりでお世話しに来たんですよ? それを、先生があま
りにも考えなしだったせいで、続けることにしたんじゃないですか。むしろ柔軟性あり
すぎだと思いますけど』
サラッと反論してみせると、先生は困ったように頭を掻いた。
「やれやれ。どうあっても、椎水には言い包められてしまうな。最初に話した時からずっ
とそうだった。結局、最後まで椎水には勝てないままか」
『だから、最後じゃありませんってば』
即座に、私は先生の間違いを否定した。もしかして、わざとそう言ったのかも知れな
いと一瞬思ったけれど、そんな考えはすぐに放り捨てた。
『これまでのように、とは行きませんけど、これからもちゃんと来ますから。だから私
に勝ちたければ、それなりに理論武装を考えてくるんですね』
ちょっと得意気な笑顔を作ってみせると、先生はまた、頭を掻いた。
26 名前:4/5 :2012/04/07(土) 20:16:30.22 ID:AGqdbWch0
「リベンジかぁ。正直、何度機会を貰っても、ちょっと自信ないかな。僕の言い分なん
て、簡単に論破されそうだし」
『それは先生の考えが足りないからです。全てにおいて』
手厳しく言うと、先生はやれやれと言った感じで肩をすくめる。
「僕には椎水の頭が回り過ぎると思えるんだけどね。その場その場で、すぐに的確に、
僕をやり込めるような事を言って来るし。途中では優勢になっても、いろんな搦め手か
ら攻められて、気が付いたら言い負かされてるなんてよくあった事だし」
『先生は、大抵脇が甘いんです。どこかに適当な話を織り交ぜてくるからダメなんです
よ。そういうのは、分かる人には、すぐ見抜かれちゃうんですから』
「確かに、椎水の言う通りかもね。じゃあ、今度までに椎水を言い負かすネタでも考え
ておくとするか」
『せいぜい、知恵を絞って考えておいて下さい。もっとも、私は言い負かされる気なん
てさらさらありませんけど』
そこで私は、最後に残してあった先生の机の上の整理整頓を始める。テキパキと片付
けていく私を先生は黙って見ていた。最後に、すぐ使いそうな本を手近の棚に収納して、
私は先生に向き直った。
『はい。これで今日はおしまいです』
制服を着て、生物準備室を掃除するのもとうとう最後かと思うと、ちょっと感慨深かっ
た。先生は私の言葉に頷くと、ポケットに手を入れ、中から銀色の鍵を取り出す。
「これを渡しておくよ」
差し出された鍵を、私は両手で受け取った。ネームホルダーに書かれた文字を見て、
私は呟く。
『……これって、この部屋の鍵……いいんですか?』
私の問いに、先生は小さく頷いた。
「本当はいけないんだけどね。でも、椎水が来た時に鍵が閉まっていたら、きっと君に
怒られるだろうから、先に渡しておくよ」
私は、ギュッと鍵を握り締めて、胸に当てた。先生が来る事を認めてくれた、その事
が嬉しかったのだ。
『遠慮なく、お預かりしておきます。必要が無くなったら……その時に、お返しします』
27 名前:5/5 :2012/04/07(土) 20:17:02.73 ID:AGqdbWch0
先生は、承知したという風に無言で頷く。それから、ドアの方を見て言った。
「さあ。それじゃあそろそろ帰った方がいいね。僕も仕事あるし、いい加減卒業生が残っ
てる時間でもないだろう?」
私は、急に寂しくなる。また来ると言っても、高校生活での先生とのひと時はこれで
最後だ。先生に甘えたい。ギュッて抱き締められたい。しかし、その気持ちをグッと心
に押し込める。それは、先生がちゃんと答えを出してくれてからだと。
『そうですね。それじゃあ……今日はこれで、失礼します』
ペコリと一礼してから、ざっと部屋を見回し、先生に向き直る。
『今月はもう来れないかも知れませんから言っときますけど、汚すのもほどほどにして
おいて下さいね。初めて来た時みたいな、廃墟の実験室みたいなのは、もうゴメンですからね』
「分かってるよ。これまでの居住環境は良過ぎたからね。せめて維持出来るように頑張るよ」
私は頷いた。どうせ別府先生が綺麗に掃除出来る訳もないから、そのくらいの意気込
みがあってちょうどいいのだ。
『それじゃあ、先生。また、来る時は電話します』
「ああ。来たくなければ、別に無理する必要もないからな」
冗談っぽくそんな事を言う先生に、私はしかめっ面をして少し舌を出してみせた。
『嫌です。絶対、絶対に来ますからね』
そう捨て台詞っぽく言ってドアを開ける。そして廊下に一歩踏み出したとき、先生が
背後から声を掛けてきた。
「椎水」
振り向く私に、先生は穏やかな顔で頷いて、言葉を続けた。
「……3年間、ありがとうな。そして、これからも宜しく」
『何言ってるんですか。バカッ!!』
照れ臭くなって、思わずそう吐き捨てて私は廊下に出た。準備室の壁に背を預け、先
生から受け取った鍵を見つめる。
『……ちゃんと考えて下さいよ。思春期の女の子が、男の人の世話をしに熱心に通い詰
めるってどういう事なのかを……ね』
一人、そう呟いて鍵をポケットにねじ込むと、私は早足で昇降口に向けて歩き出したのだった。
終わり。
最終更新:2012年04月13日 01:43