36 名前:1/4[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 20:27:52.41 ID:l3ULIL5P0 [8/13]
「感銘って…… その……別府君は、私の作品を見て、どういう印象を持ったの? もう
少し具体的に言って貰わないと、信じないわよ」
すると別府君は、腕組みをして難しい顔で俯いた。考えつつ、自信無げな口調で、ポツ
ポツと答え始める。
「うーん…… いや。俺は書道ってよく分かんないからさ。こういう印象が合ってるかど
うかってサッパリ分かんないんだけど、何ていうかさ。その……繊細で優しげな雰囲気な
んだけど、でも決して弱々しい感じじゃなくて、勢いがあるっていうか、文字が生きてるっ
ていう風に見えてさ。字が上手いとか下手とかじゃなくて……いや、もちろん上手でもあ
るんだけど、ただこういうのが芸術作品なんだなって初めて理解したっていうか……」
彼の感想に、私は下唇を噛み、また俯いてしまう。どうしてこう、心がくすぐったくなっ
て、思わず悶えてしまいそうな事を言って来るのだろう? どうしてこんな言葉が、私み
たいなつまらない女子を前にして言えるのか、不思議でならなかった。
「……でも……別府君のおばあさまも、賞を取られたんでしょう? そっちの方が、ずっ
と素晴らしい作品なんじゃないの?」
彼の言葉を聞いていると、まるで私の作品が展示されていた全ての書の中で一番だった
かのように錯覚してしまい、私は慌てて謙遜の意も込めて聞いてみた。すると別府君は、
つまらなそうに、首を横に振ってみせる。
「いや。ばーちゃんのなんてさ。今までまともに見たことが無かったから、ロクに感想も
出なくてさ。でも、今回初めて、委員長の作品見てからばーちゃんの作品も見て、なるほ
どそういう目で見れば凄いなとは思ったけどさ。でも、やっぱり俺は委員長の作品の方が
好きだな」
ドキン、と心臓が激しく鼓動を打ち、私は咄嗟に顔を上げて彼を見つめた。私と目が合
うと、ニカッと笑ってくれる。本当に、本当に信じられない。このほんのひと時で、遠く
から眺めているだけだった距離が、一気に縮まった気がする。私の勘違いかも知れない。
彼にしてみれば、本当に私の書に感じるものがあって、褒めようと思って話し掛けてくれ
だだけだと思うけれど、でもそれでもこの距離を失いたくなかった。
37 名前:2/4[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 20:28:23.32 ID:l3ULIL5P0 [9/13]
「えっと……」
しかし、素直にありがとう、と口に出すことがどうしても出来ない。でも、何か答えな
いと、彼との距離がまた開いて、もうこんなに近くまで来る事は無いかも知れない。その
時、ふと閃いた考えを、私はそのまま口に出してしまった。
「その……そ、そんなに気に入ったのなら……いつだって、見に来てくれても構わないわよ」
「え? マジで? いいの?」
嬉しそうな彼の問いに、私は自分がとんでもない事を口走ったのに気付いて思わず口を
押さえてしまった。しかし、一度発した言葉は取り消せない。それに、私自身も、彼が私
の書を見に来てくれて、じかに感想を言ってくれる事は怖くはあったが、同時に嬉しくも
あった。だから、ためらいがちにではあるが、おずおずと頷く。それから、慌てて付け加えた。
「い……言っとくけど、大人しく見に来るだけなら、の話よ? 別府君てば、すぐおしゃ
べりして他人を巻き込むから、頼むから後輩達の活動を妨害したりしないでよね」
そう釘を刺すと、彼は大真面目な顔で頷いてみせる。
「分かってるよ。邪魔しちゃ悪いし、そもそも委員長ってさっきも言ったけど書いてる最
中はかなり近寄り難い雰囲気だからさ。そんなに長居はしないけど、でも見せて貰えるの
は嬉しいかな。うん」
言葉どおりの気持ちが、彼の顔から出ているのを直視出来なくて、私はプイッとそっぽ
を向くと、まるで捨て台詞を吐くように言った。
「言っとくけど、毎日ちゃんと満足の行くものが書ける訳じゃないんだからね。あと、別
府君の為に書く訳でもないんだから。けれど……もし、見せてもいいって思えるものが書
けたら、その時は声を掛けるわよ」
「ああ。楽しみにしてるよ」
その答えをキッカケに、私はこれが潮時だと感じた。もっと別府君と話したいとは思う
けれど、次の機会も作れたし、いつまでもズルズルと長話をする訳にも行かない。
「それじゃあ、私はもう行くわね。部活、あるから」
彼の脇をすり抜ける様にして歩き出そうとした時、別府君がふと、思いついたように声
を掛ける。
「ああ、そうだ。委員長」
38 名前:3/4[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 20:29:01.21 ID:l3ULIL5P0 [10/13]
「何?」
足を止め、彼を見る。すると、別府君はためらいがちな様子を見せつつも、私を見つめ
てこう言って来た。
「その……今度さ。うちに……来ないか? いやその、俺じゃなくてさ。ばーちゃんが、
書道の好きな若い子が話を聞きに来れば、喜ぶかなって思って。俺じゃあ話し相手にもな
れなかったし。委員長にとっても、もしかしたら何か参考になる事もあるかな、とか思っ
てさ。どう?」
別府君の家にお邪魔出来るというその提案に、私は一瞬心を弾ませ、慌ててそれを必死
で打ち消す。別府君は真面目に、おばあさんや私の事を考えて誘ってくれたのだろう。だ
から、私もキチンと答えなければならない。
「……そうね。別府君のおばあさまのように、書に通じていて経験も豊富な方のお話が伺
えるのなら、価値はあるのかも知れないわね。私だけじゃなくて、部の子達皆でお邪魔し
ても構わないというのであれば、受けさせて貰いたいけど」
それには、やはり一人でいきなり別府君の家にお邪魔したら、動揺しすぎて何を仕出か
すか分からないと言う不安に対する予防線を張った事も、素直に認めなければならないだ
ろう。しかし、別府君はそんな事はつゆとも思わない様子で、頷いた。
「ああ。あんまり大勢だと困るけど、確か書道部って三人だったよな? それなら大丈夫
じゃね?」
彼の返事に、私もコクリと頷く。
「それなら、考えてみるわ。顧問の先生にも相談して、部活動の一環としてお邪魔させて
貰うかも知れないから」
「ああ。返事、待ってるよ」
笑顔を見せる彼に、私はそれじゃあ、と冷静に挨拶をして書道教室へと向かったのだった。
39 名前:4/4[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 20:30:32.45 ID:l3ULIL5P0 [11/13]
「部長。どうしたんですか?」
「え?」
後輩に声を掛けられ、私はハッと気が付いて頭を上げる。
「何か、今日は全然集中出来ていないように見えますけど…… 何かあったのかと思って」
何かあったのかといえば、それはもちろん、私にとっては一大事件と言ってもいい出来
事があったのだが、それを後輩にいう事は出来るはずも無い。
「何でもないわ。ただ、今日はイマイチ調子が出ないみたい。まあ、こういう日もあるわよ」
今日は張黒女墓誌銘の臨書をしようと思っていたのだが、こうも集中出来ないと、やる
意味はない。諦めて、他の事をしよう。どうせこんな気分なら、いっそ別府君に見せる書
は何が良いか考えてみるのもいいだろう。
――彼に見せるなら……漢詩より、和歌の方がいいかな……?
そう思って手に取ったのは古今和歌集。ふと、ある一句に目が留まる。
『忍ぶれば苦しきものを人知れず思ふてふこと誰〔たれ〕に語らむ』
私の心が誰にあるか、きっと彼には分からないだろうな。今の自分にピッタリな気持ち
を歌ったその歌を、私は何度も反芻し続けたのだった。
終わり
最終更新:2012年11月12日 23:48