「そういう乱暴な事を言う子は僕は嫌いだから。ちゃんと先輩に謝って」
真菜ちゃんは、一瞬だけ反抗的な表情を浮かべたが、僕の顔を見つめた途端、その顔
がシュンとなる。そういえば、以前彼女が悪い事をして僕が怒った時は大泣きしたもの
だったが、さすがに小学校高学年にもなると、多少は大人になるらしい。
『……ごめんなさい』
ブスッとした不満気な声だったが、とにかく真菜ちゃんは先輩に頭を下げた。
「すみません先輩。従妹が失礼な事を言って。ただ、ちゃんと素直に謝ったんで、これ
に免じて許して貰えますか?」
『べ、別にあたしはその……大して怒ってないし。小学生の言う事に本気になって怒る
ほど大人気なくはないわよ』
戸惑った様子で、先輩は答えた。機先を制して僕が注意したので、気が殺がれたのだろう。
「それじゃあ真菜ちゃん。こっちの安いプリンは戻して、先輩にも同じのを持って来て」
『えーっ? お姉ちゃんは安いのでいいって言ってたじゃん。真菜、お兄ちゃんとだけ
お揃いがいい』
不満そうな口振りの真菜ちゃんに、僕は断固として言い聞かせた。
「ダメ。買うなら3人一緒のにしないと。もしどうしても真菜ちゃんが言う事聞かない
なら、僕も先輩のと同じにするから」
『何で? もしかしてお兄ちゃん……あの人と一緒のがいいの?』
僕の言葉に、真菜ちゃんは不安そうな顔を見せる。僕は首を振った。
「違うよ。僕は、せっかくちょっと贅沢するなら、みんなで同じ物を食べた方がいいと
思っただけ。真菜ちゃんだって自分だけ仲間外れにされたら嫌だろ?」
真菜ちゃんは、まだちょっと不満そうだったが、やがてコックリと頷いた。
『分かった。変えてくる』
カゴから一つだけプリンを取ると、真菜ちゃんは小走りに駆け去って行った。すると、
今度は背後から、不機嫌そうな先輩の声がする。
『何、今の。ちょっと厳しくするフリして、あたしの目をごまかそうったって、そんな
の無駄だからね』
振り向くと、腕組みをした先輩が、ジト目でこっちを睨んでいる。どうやら、僕の態
度を、甘やかしてばかりじゃないと先輩にアピールするためにわざとちょっと厳しく言っ
たと思われたらしい。
2
「違いますよ。あの年頃から、人を差別するような子になって欲しくないだけです。僕は」
『へえ。自分好みの子に躾けてるって訳だ』
僕の反論を、先輩は一顧だにしてくれない。子供に多少甘い顔をするのは当然のはず
なのに、先輩はそれが気に入らないらしい。
しかし、あくまで先輩がそういう態度なら、僕にも言いたい事はあった。
「一応、言っておきますけどね。先輩」
『な、何よ』
断固たる態度を見せる僕に、先輩は戸惑いを見せる。この人は普段強気なクセに、僕
がちょっと強い態度を見せると、途端に弱気な一面を見せるところがある。まあ、そこ
がまた可愛いのだけど。
僕は、先輩の近くに立つと、囁くように言った。
「真菜ちゃんを甘やかしてるというなら、僕は日頃から、もっとずっと、先輩の方を甘
やかしていると思いますけどね」
先輩の目が、驚きでハッと見開かれる。そして、ほとんど間を置かずに、ポッと仄か
に顔全体がピンク色に染まった。しかし、それも一瞬で、すぐに先輩は顔色はそのまま
に、僕をキッと睨みつける。
『後輩が先輩に尽くすのは当然でしょうが。そういうのは甘やかしてるとは言わないのよっ!!』
「はいはい」
肩を竦める僕に、更に先輩が噛み付いた。
『何よ。文句あるなら、ハッキリ言いなさいよね!!』
「いーえ。別に。さ、真菜ちゃんも戻ってくるし、そろそろ会計済ませて帰りましょうか」
『ズルイ。逃げるの? ちゃんと答えなさいよ、もうっ!!』
先輩の非難を背に、僕は歩き出す。あれは多分、自分が僕に甘えている事をはっきり
と自覚しているな、と僕はほぼ確信に近い思いを抱いた。本当に、子供っぽくて、実に
可愛らしい人だなと、僕はそっと苦笑するのだった。
『たっだいまーっ!!』
真菜ちゃんの元気な声が玄関に響き渡る。一方で僕は、フウ、とため息をついて肩を
落とす。すると、途端に先輩のツッコミが入った。
3
『何疲れた顔してるわけ? 人に荷物持たせといて』
そう。今日は僕一人が荷物持ちではなかった。というのも、真菜ちゃんが率先して荷
物を持ち、競争心を煽られた先輩も、分担して荷物を持ってくれたからだ。とはいえ、
二人のバトルの真っ只中に放り込まれることを考えれば、全員分の荷物を持った方が楽
だったかもしれない。
「すいません。有難うございました……」
言いたい事は無論あるが、ここで文句を言ったところで、先輩と言い合いになるだけ
なので、素直に諦めて御礼を言う。しかし、先輩もてっきり僕が一言二言は言い返して
くると思っていたのだろう。何だかちょっと拍子抜けの顔をしつつ、僕に買い物袋を差
し出した。
『じゃ、これ宜しく。あたしに働かせた分、美味しい料理を振舞わないと許さないからね』
「約束はしませんけどね。まあその……善処はしますよ」
この人は、何を作っても絶対素直に美味しいとは言わないんだよなーと思いつつ頷く
と、先輩は呆れた様子で言った。
『何よ、その答え方。もうちょっとやる気を見せなさいよね。やる気を』
そう言うのであれば、もうちょっとやる気を起こさせるような事をしてくれればな、
と思いつつ、ただ生返事で、僕は頷いたのだった。
『お兄ちゃん。早く早くっ』
真菜ちゃんの急かす声に背中を押されつつ、僕は台所に入る。真菜ちゃんはもう早速、
買ったものをテーブルに並べ始めていた。
『えーっと。お肉でしょ。卵でしょ。パン粉でしょ。あと……何だっけな?』
ハンバーグに必要な材料を、真菜ちゃんは一生懸命考えていた。僕はそれを微笑まし
くも思いつつも、制止する。
「いいよ。真菜ちゃん。あとは僕が準備するから。出来れば先輩と二人でリビングで休
んでてくれないかな?」
しかし、意外にも、真菜ちゃんは僕の言葉をキッパリと否定した。
『ダメ!!』
4
「は……?」
思わず、キョトンとして見返す僕に、真菜ちゃんは胸を張ってこう言った。
『ハンバーグはね。真菜が作るの。真菜が、お兄ちゃんに手料理を作ってあげるから、
お兄ちゃんこそ、ゆっくり待っててくれればいいからね』
『ちょっと待ちなさいよ!!』
瞬間、呆気に取られた僕より早く、先輩が真菜ちゃんを止めに入った。
『別にアンタが出しゃばる事ないのよ。コイツ、悔しいけど料理の腕は一級なんだから、
全部別府君に任せとけばいいのよ』
『お兄ちゃんが、お料理上手だって事は、真菜も知ってるもん』
不満気に、真菜ちゃんは先輩を睨み付けた。
『けど、ママも言ってたもの。好きな人に手料理を作ってあげて、美味しいって言って
貰えるのが、女の一番の幸せなんだーって』
そう言って、一転、ポワンと幸せそうな表情を浮かべる真菜ちゃんに、僕と先輩は思
わず顔を見合わせた。
『だからね。今日は、真菜が頑張ってお兄ちゃんのためにお料理作るの。そう決めたんだから』
さて、どうしようかと僕は考える。真菜ちゃんの好意というかやる気を無にするのは
可哀想だが、かといって、はいそうですと引き下がる訳にもいかない。何より、先輩が許さないだろうし。
『で、偉そうに言ってるけど、アンタ料理なんて出来るの?』
先輩が偉そうな態度でジロリと真菜ちゃんを睨み付けて聞いた。負けじと真菜ちゃん
も先輩を睨み返す。
『出来るもん。お母さんに一生懸命教わってるんだから』
『何よ。まだ見習いじゃない。そんな腕で別府君の料理の代わりが出来ると思ってるの?』
『真菜はお兄ちゃんに美味しいって言ってもらえればそれでいいんだもん。別におねー
ちゃんは食べなくたっていいのよ。真菜だって二人分の方が楽だし』
『別にアンタの料理なんか食べたくないわよ。あたしは別府君に作って貰いたいの。ア
ンタが何をどうしようが勝手だけどね。あたしを巻き込まないでくれる?』
また先輩と真菜ちゃんが低次元の言い争いに突入しようとしていた。僕は争いが本格
化する前に、慌てて割って入る。
5
「わ、分かった。分かったからさ、真菜ちゃん。気持ちは十分にありがたいけどさ。作
るの、ハンバーグだけじゃないし、僕もゆっくり待つ訳には行かないからさ。何だった
ら、二人で一緒に作ろうか? 真菜ちゃんがハンバーグを作って、僕が他のを作るとか」
しかし、断固として真菜ちゃんは首を左右に振った。
『ダメなの。好きな人にご飯を作ってあげて、美味しいって言って貰えるのが、女の幸
せなんだもん。お兄ちゃんが一緒に台所に立ったら、半分は意味が無くなっちゃう』
「そんな事無いって。真菜ちゃんが作ってくれるハンバーグ、とっても楽しみだし。僕
はあくまで裏方だから」
『ダメ。ハンバーグだけじゃなくて、付け合せもちゃんと作るから。お兄ちゃんは、来
なくていいの』
どうやら、頑として僕の言う事を聞く気はないらしい。それにしても、真菜ちゃんの
考えが真香おばさんの受け売りだとすると、おばさんは意外と古風な考え方をする人の
ようだ。うちの母なんて、僕や父を普通にこき使うというのに。
『あたしのグラタンはどうすんのよ? アンタ、それも作るって言うつもり?』
先輩がまた、口を挟んでくる。
『あたしは別に無くたっていいんだもん。食べたかったらおねーちゃんが自分で作れば
いいじゃない。それとも、まさかおねーちゃんってお料理出来ないの? 大人の女なのに?』
わざとらしくバカにしたような言い回しに、先輩の眉がギンッと逆立った。
『バッ……バカな事言わないでよね!! あたしだってその……やろうと思えば料理の
一つや二つ、ちゃちゃっと作ってみせるわよ』
「ええっ!?」
この発言には、思わず僕も驚いて叫んでしまった。先輩は即座にそれを聞きとがめる。
『何驚いた声上げてんのよっ!! あたしが料理が出来たら何か問題あるわけ?』
「いえ。料理が出来る分には何も問題ありませんが、料理の出来ない人に強がられるの
は大いに問題ありだと思います」
そう言った途端、先輩に頭をベシン、と軽く叩かれる。
『自信満々に胸を張って失礼な事を言うなっ!!』
つばが掛かるくらいに思いっきり詰め寄られて文句を言われる。本当の事を言って怒
られるなんて、実に理不尽極まりない事だと思う。
『へー。やっぱりおねーちゃん。お料理出来ないんだ。女のクセにー』
嫌味たらしい口調で真菜ちゃんに言われて、先輩はキッと彼女の方に向き直る。
『失礼ねっ!! い、一応これでも、ちゃんと練習はしてるんだから』
「先輩。それ本当ですか? 僕、初耳なんですが」
先輩が料理の練習をしているなど、先輩の妹さんで何くれと無く情報提供してくれて
いる美樹ちゃんにも聞いた事がない。先輩は、僕の質問にちょっとバツの悪そうな顔を
して、視線を逸らす。
『……うちのお母さんに、無理矢理させられてんのよ。いくら男女平等が叫ばれてる世
の中だからって、女の子が料理も出来ないようじゃダメだって。べ、別にその……アン
タに食べさせようとかは、これっぽっちも思ってなかったんだけどさ……』
「そうですか。ま、僕も先輩に手料理を食べさせて貰えるなんて、これっぽっちも期待
して無かったですけど」
嘘だな、と直感で僕は思った。わざわざ僕の事を持ち出すという事は、かなり意識し
ている証拠だから。しかし、分かっていながらワザと素っ気無い態度を取ったのは、も
ちろん、先輩の反応を見たいからに他ならない。
『ちょ……ちょっとは期待しなさいよこのスカポンタンッ!!』
返って来た反応は、とても理不尽な批判でした。
「いや。だって先輩は食べさせてくれる気ないんでしょう? だったら期待したって無
意味じゃないですか」
『このバカ!! あたしの手料理が食べたいと思ったら懸命にお願いすればいいじゃな
い。そうすればあたしの気だって少しは変わるかも知れないでしょ? 最初から諦めんな!!』
2
「僕は無駄な事はしない主義なんです。先輩もよくご存知の通り」
『アンタのそういうところがダメなのよ。少しは女の子に気を遣えっての。絶対アンタ、
その……女の子に、嫌われるわよ』
先輩が、ちょっと言いづらそうだったのは、自分の言葉に自分でも矛盾を感じている
んだろうなと、僕は推測した。ちなみに普段ならここで、先輩に嫌われなければ、僕は
気にしませんよとでも言ってご機嫌を取るところなのだが、今日は真菜ちゃんがいるの
で、それは言えなかった。
『だって、おねーちゃんの料理なんて食べたくないもん。ねえ?』
また、挑発する事を真菜ちゃんが言った。ここで真菜ちゃんを調子付かせるとそれは
それでマズイので、僕は首を左右に振る。
「そんな事はないけど、嫌だって言う人に無理矢理作ってもらっても、それは美味しく
ないからね」
『だよね。真菜はね。喜んでお兄ちゃんにお料理作ってあげるよ。出来れば、毎日でも』
うん。それは遠慮したいなあと、僕は心の中で呟く。真菜ちゃんの料理の腕は未知数
だけど、予想だと何となく、カレーライスとかハンバーグとかしか作れなさそうだし。
「やる気があるのはいい事だよね。真菜ちゃんは将来きっといいお嫁さんになれると思うよ」
『ホントに? じゃあ真菜、お兄ちゃんのお嫁さんになって、毎日うんと美味しい料理
作ってあげるから』
真菜ちゃんが目を輝かせて言った。ぼかして曖昧に答えたつもりだったんだけど、ど
うやら恋する少女の前には通用しなかったようだ。
『……分かったわよ……』
喜び勇む真菜ちゃんにどう接すればいいものか考えあぐねていると、先輩が震える声
で、背後から言った。
「は?」
僕が先輩の方を振り向くと、先輩は一歩踏み出して僕の間近に立つ、そして顔を上げ
て僕を睨み付けると、掴み掛からんばかりの勢いで言った。
『作りゃあいいんでしょう? 作りゃあ。分かったわよ。こうなったら、別府君があた
しに頭を下げて、毎日料理を作ってくださいって懇願するほどの美味しい料理を作って
やるんだからっ!!』
3
どうやら、とうとう最悪の事態になってしまったらしい。こうなると、いかなる制止
の言葉も、先輩を止める事は出来ないだろう。
「あの、先輩。本当に、お任せして、宜しいんですか?」
ダメに決まっているが、僕は聞かずにはおれなかった。先輩は、自信たっぷりに頷い
て答える。
『当たり前じゃない。あたしはね。もう、別府君が知ってる、家庭科以外では包丁も握っ
た事がないような女じゃないんだから。いい? アンタがあたしの手料理を食べられ
るなんて、100億年に一回あるかないかの幸運なんだからね。感謝しなさいよ』
その大げさな物言いが、却って虚勢を張っているようにしか、僕には見えなかった。
『バッカみたい。偉そうに言っちゃって』
先輩を白い目で見つつ、真菜ちゃんがボソリと呟く。
『お兄ちゃん。あんな傲慢女の料理なんて食べなくっていいからね。真菜だったら、お
兄ちゃんが食べたいって思う時は、いつだってご飯作ってあげるんだから。ね?』
魅力的な笑顔で、真菜ちゃんは言った。大抵の男だったら、真菜ちゃんみたいな素直
で可愛らしくて尽くしてくれる女の子を選ぶだろう。ただし、相手が10歳という小学生
でなく、せめてあと6、7歳年を取っていたら。
「はは。ありがとう、二人とも。えっと、その……楽しみに、してるから」
何とか笑顔を作ろうと思うものの、どうしても僕の顔から引きつりを消すことは出来
なかった。
――一体、あたしは何を間違えてしまったんだろう?
台所に、呆然と佇みながら、あたしは自問自答していた。
――別府君手ずからの、美味しいハンバーグとポテトグラタンを食べるはずだったのに、
いつの間にかあたしが作ることになっていた。一体何が何だかさっぱり分からない。
あたしは、事の元凶となったチビッ娘をチラリと見た。
『ダメ。お兄ちゃんは大人しく待ってないと。お兄ちゃんの分まで、ちゃんとおねーちゃ
んの事も見ててあげるから』
別府君はせめてキッチンにいるだけはさせてくれとお願いしているのだが、真菜ちゃ
んは頑としていう事を聞かない。
4
『とにかく、お兄ちゃんは男らしく、でんと構えて待ってればいいの。分かった?』
結局、押し出されるようにして、別府君はリビングへと姿を消してしまった。全く、
情けない。あんな小学生にいいようにあしらわれて。とはいえ、あたしも人の事はとや
かく言えない訳だが。
『さて、と。まずはこれで良し……と』
満足そうに頷くと、真菜ちゃんはあたしを向いて言った。
『それじゃあ、第2ラウンド、始めましょうか』
『は?』
いきなりビシッと指を突きつけられて、あたしは思わず間の抜けた返事をしてしまった。
『ちょっと待ちなさいよ。一体どういう事?』
『決まってるじゃない。お兄ちゃんを賭けた勝負よ』
腕組みをして、ジロリとあたしを睨み付ける。
『勝負って、何で勝負するつもりなのよ?』
『もちろん、お料理で。おばさんとあたしの手料理。お兄ちゃんに食べて貰って、美味
しいって言って貰えた方の勝ちよ』
自信満々に、彼女はそう言った。
『だから、おばさんって言うなって言ったでしょうが。別府君に嫌われても知らないわよ』
『フン。いいんだもん。お兄ちゃんいないんだから』
別府君がいなくなると、急に鼻持ちならないお子様に大変身だ。もっとも、こっちが
地なんだろうけど。
『で、今度は一体何を賭けの対象にするって言うの?』
ジロリとねめつけるように真菜ちゃんを見つめて聞いた。うっかりこの子のペースに
乗ってしまうと、そのままズルズルと行ってしまう。さっきのゲーム勝負なんか、まさ
にそれで負けてしまったようなものだ。もっともあれは、別府君が真菜ちゃんに味方さ
せるような真似をしてしまったのが最大の敗因なんだけど。
『んー…… そうねぇ……』
真菜ちゃんは、わざとらしくもったいぶるような態度を取る。
『それじゃあ、夕ご飯をお兄ちゃんと食べさせ合いっこ出来る権利ってのはどう?』
『はあ?』
あたしは思わず聞き返した。
5
『ちょ、ちょっと待って。要するにそれって、あーんって食べさせて貰ったりしてあげ
たりって事?』
『そうよ。お兄ちゃんと一緒にベタベタの甘々なご飯を食べるの。すっごく素敵じゃない?』
両手を胸の前で合わせて夢見る乙女ポーズを取る真菜ちゃんを無視して、あたしはそ
の光景を想像してみる。
『冗談じゃないわよっ!! そっ……そんな、その……恥ずかしい事、出来る訳ないでしょ?』
咄嗟に抗議すると、真菜ちゃんはジト目であたしを見つめた。
『ふーん。おねーちゃんてさ。意外と恥ずかしがり屋で純情なのね』
『うるさいわね。怖いもの知らずのお子様と違って、大人になってからの方が恥ずかし
い事ってのもあるのよ』
そう強がっては見せたものの、内心ではあたしはそれを認めざるを得ないと自覚して
いた。ただ、まだ年端もいかぬ子供にバカにされるのは、屈辱でしかなかったが。
『ま、別に、勝ったからってしなくてもいいけどね。それはおねーちゃんの自由だし』
それから、フフン、と不敵な笑みを浮かべて付け加えた。
『それに、心配しなくたって、どっちみち真菜が勝つもんねー』
『そんな事、やってみなければ分からないでしょ。』
自信満々のお子様を睨みつけ、あたしは虚勢を張って言った。
『もう御託はいいから、さっさと始めましょう。ま、別府君を干上がらせてもいいって
言うなら、あたしは別に構わないけどね』
『望むところよ。今度こそ、その生意気な口を聞けなくさせてあげるんだから。ベー、だ』
顔を顰めてベーッと舌を出す。それから、真菜ちゃんはどこから取り出したのか、小
さな子供向けのエプロンを体に着けた。
『えーっ……と。お肉と、卵と、パン粉と……』
ブツブツと呟きながら、彼女はテーブルに材料を並べていく。それをボーッと見つめ
ていたら、真菜ちゃんがジロリとこっちを睨んだ。
『おねーちゃん、何見てんの? さっさと自分のを始めたらいいじゃない』
『わ、わかってるわよ!!』
慌てて視線を逸らし、あたしも買い物袋の中を漁り始めた。
『えっと……じゃがいもと、玉ねぎと……』
あと何だっけ?と頭の中で自問する。何せ、グラタンなんて食べたことはあっても作っ
た事は無い。まあ、見よう見まねでも何とか食べられるものは作れるだろうけど。
『そうだ。エプロン着けないと?』
ふと思い出してあたしは言った。とはいえ、急な料理作りにそんなもの持ってきてい
るはずもない。あたしは急いでリビングに行った。
『別府君!!』
すると彼は、読んでいた雑誌を横に置いて顔を上げた。
「どうしたんですか先輩。もうギブアップですか?」
真顔でそんな事を言うもんだから、頭に来て思わず、脛を軽く蹴っ飛ばした。
『誰がギブアップするって言った!!』
「あいたっ!! 全く、すぐに手が出るそのクセを何とかしないと、婚期を逃しますよ」
『またそういう事を言う!! アンタこそ、その口の悪さを何とかしないと、そのうち
命が無くなるわよ』
思いっきり別府君を睨み付けて、あたしは噛み付いた。全くコイツは、年々生意気に
なって来ているような気がする。今は同学年とはいえ、あたしの方が年長者であるとい
う事実を、一度じっくりと思い出させてあげるのもいいかもしれない。
「で、何の用なんです? まだ始まって5分と経ってませんよ」
別府君の質問に、あたしは一瞬戸惑いを感じた。考えてみれば、ちょっと厚かましい
お願いかも知れない。いや。しかし、エプロンも付けずに台所に立つというのも、やは
り抵抗があるので、あたしは躊躇いを捨てて聞いた。
『あのさ。その……エプロンって、ない?』
「エプロンですか? ありますよ」
意外にも拍子抜けするほどあっさりと別府君が答えたので、あたしはガクッと肩の力が抜けた。
2
『悪いけど、その……貸してくれない? ちゃんと洗って返すから』
「いいですよ。ちょっと待ってて下さい」
別府君は、ソファから立ち上がると、リビングから消えた。その後ろ姿を見送りつつ、
あたしはふと考える。持ってきてくれるエプロンは、果たして誰のなのだろうかと。い
や。普通に考えればおばさんのなんだろうけど、別府君は料理が好きだし、もしかした
ら、自前のエプロンを持っているかも知れない。
「これ、僕のなんですけどもし良かったら使ってください。サイズが合わなくて申し
訳ありませんが」
そんな事を言われたりしたら、一体どんな顔してあたしは着ければいいんだろうか?
エプロンと言えど、別府君が普段着けてるものを身に着けて、平常心でいられる自信な
んて無かった。
「お待たせしました。これ、使って下さい」
『ふぇっ!?』
妄想に耽っていると、いきなり別府君の声がしてあたしは我に返った。
「どうかしましたか? 先輩」
不思議そうに聞いてくる別府君に、あたしは慌てて首を振る。
『ななな、何でもない!! えっと……それより、このエプロン……誰の?』
ごまかしつつ、思い切って聞いてみる。すると、あっさりと答えが返って来た。
「母の、今は使ってないやつです。先輩には少し大きいとは思いますけど、これしか適
当なのが無かったので」
『あ、そ』
そうよね。やっぱりそうよね。少しでも変な期待したあたしが馬鹿だったのよね。そ
う頭の中で繰り返し愚痴ると、別府君が怪訝な顔で聞いてきた。
「どうしました? 何か不満なところでもありましたか?」
『別にないわよ。それより別府君』
「何ですか?」
『あの……グラタンってさ。材料、何使うんだっけ?』
「え……?」
3
あたしの質問に、別府君は思わず呆然としてあたしを見つめた。あたしは、キッと別
府君を睨み付けて、強気な口調で言った。
『確認よ。確認!! うっかり入れ忘れた物があったりしたらマズイでしょ? 念の為
に聞いてるだけなんだから、そんな不安そうな顔しないでよね』
しかし、別府君は顔色を変えず、あたしをジッと見つめて言った。
「じゃがいもに玉ねぎ。あと、冷蔵庫にベーコンがあるからそれも入れるといいかと。
ソースはバターと小麦粉と牛乳に塩コショウで。あと、仕上げにとろけるチーズですけ
ど……作り方、知ってますよね?」
『あ、当たり前じゃない。あたしだって女の子なのよ。バカにすんな』
正直なところ、作り方など全く知らない。けれど、別府君の心配そうな顔を見ると、
何とか見返してやりたくて仕方が無かった。
「それならいいですけど。あと、くれぐれも、真菜ちゃんと張り合おうとかしないで下
さいよ。マセてはいても、相手はまだ子供なんですからね」
『分かってるってば。いちいち上から目線で指図すんな!!』
まさに図星を指摘されて、あたしは苛立った声を上げた。大体、あたしは別に張り合
おうなんて思ってないのに、いちいち喧嘩を売ってくるのは向こうの方なんだし。あた
しは、キッと別府君を睨み上げて言った。
『と、とにかくアンタはいちいち心配しなくていいから、大人しく待ってなさいよ。分かった?』
そして、返事も待たずにあたしは振り返ってキッチンへと急ぐ。すると、真菜ちゃん
が仁王立ちで立ったまま、怖い顔で待っていた。
『おっそーいっ!! まさか抜け駆けとかしてないでしょうね?』
全く、どこでこういう言葉を仕入れて来るんだか。このお子様は。あたしはわざと仰々
しくため息をついた。
『してくる訳ないでしょ? エプロン借りに行ってただけよ。おばさんのね』
余計な疑いをかけられると鬱陶しいから、とっとと事の次第を報告すると、真菜ちゃ
んはまだ疑わしげな目であたしを見つめた。
『ふーん……』
『な、何よ。ホントにそれだけよ。別に隠す事とかある訳ないでしょ』
すると真菜ちゃんは、ようやくあたしから視線を逸らすと、クルリと振り返って、キッ
チンに向き直った。
4
『まあ、いいわよ。どうせ、おねーちゃんなんてお兄ちゃんが相手にする訳ないんだし』
まるで自分に言い聞かせるように言ってから、もう一度あたしを睨み付けて言葉を付け加えた。
『言っとくけど、こそこそお兄ちゃんに教えてもらいに行ったりしたら、反則負けにするからね』
『ぐ』
思わず、あたしの口から呻き声が漏れた。時々、適当に理由つけて聞きに行こうと思っ
てたのに。しかし、こうまで見透かされては仕方が無い。まあ、材料は聞いたし、グラ
タンらしいものを作ればそれでいいだろう。
『あ。何も言えないって事は、ホントにやろうとしてたんでしょ? それとも、もう聞
いて来たとか? ひきょーものっ!!』
『何でそう決め付けんのよっ!! あたしが別府君なんかに頼るわけ無いじゃない』
『さっきまでは、お兄ちゃんに料理作ってもらうつもりだったくせに』
全く、どうしてこうやって次から次へと思いつくのだろうと、あたしは怒るよりも思
わず感心してしまった。今時の10歳くらいの子って、みんな頭いいんだろうか? いや。
きっと変に情報が入り過ぎるから、変な事ばっかり先に覚えてしまうんだろう。
『それは当然じゃない。ホントならあたし達がお客様で、別府君がもてなす側なんだから』
『おねーちゃんはお客様なんだ。真菜はね。お兄ちゃんのこいびとだから、お兄ちゃん
にごはん作ってあげるのが当然なの。負けを認めるんだったら、おねーちゃんの分も作っ
てあげようか?』
『誰も負けを認めるとか言ってないでしょ!!』
思わず興奮して怒鳴ってしまったが、真菜ちゃんは一向に構わないようだった。もっ
とも、怒って泣くくらい子供らしかったら、こんな風に振り回されたりはしないんだろうけど。
『この分じゃ、もう勝負は見えたも同然だけどね。お兄ちゃんを恋人にするのはあたしだから』
『やってみなければ分からないでしょ。そんなの。見てなさいよ。もう、こうなったら
本気出すんだから』
子供相手だから、とバカにしていたら、本気で別府君を持って行かれかねない。危機
感を持ってあたしは、視線を目の前の食材へと振り向けた。
『よし。それじゃあ始めるわよ』
『真菜、絶対に勝つんだから』
あたしの言葉に真菜ちゃんが頷いて呟く。こうして、別府君との甘いお食事タイムを
賭けた、熱い対決が始まった。
最終更新:2011年08月19日 09:14