「ふぅ…… ちゃんと出来ているかなあ……」
手に持った雑誌には、さっきから全く目をやっていない。多分、僕が行っても適当に
誤魔化されて追い返されるだけだろうから、様子を見に行きたい欲求を、さっきから辛
うじて抑え込んでいた。
「出来る訳、ないよなぁ。特に先輩は」
先輩も最近は、料理の特訓をし出してはいるという事は、美希ちゃんから聞いて知っ
てはいるものの、先輩の性格から言って、上達しているとは考えづらい。
「せめて、仲良くやっていてくれるといいんだけど……それも、無理だろうなあ……」
さっきから時折聞こえてくる二人の声は、どう考えても言い争ってる声にしか聞こえ
ない。キッチンはドアを閉めると、普通の声は聞こえないのだが、大声はさすがに通る。
特に先輩の興奮した声は、状況が芳しくない事を裏付けていた。
「頃合いを見て、様子を見に行かないといけないよな。やっぱり」
僕はチラリと時計を見る。もう、料理を始めて一時間以上が経過した。そろそろ、一
度顔を出しておいて、場合によっては強引にでも手を貸さないとマズイ状況かも知れな
い。そう思った時だった。
「何だ!?」
キッチンから、一際大きな怒鳴り声がしたかと思ったら、少し間が空いて、ドタンバ
タンと騒々しい物音がする。僕は、反射的にパッと立ち上がった。
「うん。こりゃ、マズイな。絶対に……」
雑誌を放り出し、僕は慌ててキッチンに向かった。
ドアを開けたら、そこは戦場だった。
行き交う食材に飛び散る粉末。迂闊に踏み込めば、両者の戦闘に巻き込まれて即死し
そうなピリピリとした緊迫感がキッチン全体を覆う。その中で、二人の女の子が向き合
い、手当たり次第に掴んだものを投げ合っていた。どうやら、僕が入ってきた事にも、
全く気が付いていないようだ。
「ハアーッ……!!」
さすがの僕も、これには深々とため息を吐いた。まさか、ここまでの惨状とは。もう
一度、深く息を吸い込むと、僕は戦場の空気を一変させるような、怒鳴り声を投下した。
2
「何やってんですかっ!! 二人ともっ!!」
その瞬間、睨み合っていた二人はビクッと体を震わせて手を止めた。そして、パッと
こっちに向かって振り向く。
『別府……くん?』
『おにー……ちゃん?』
二人は同時に、小さく僕の名を呼ぶ。手を止めた二人を見て、さすがに僕も呆れる思
いを隠そうとしなかった。二人とも、とんでもない格好になっている。特に先輩は、顔
にはハンバーグの生肉をくっつけ、小麦粉の粉を頭から被り、さらには卵まで命中させ
られたらしい。対する真菜ちゃんもコショウやら小麦粉やら、みじん切りの玉ねぎを浴
びせられていた。
「全く、二人で協力し合って料理を作るようにって、言ったじゃないですか。一体何な
んですか、この惨状は。説明して下さい」
交互に二人を睨み付けて、僕は詰問する。二人とも、さすがに決まり悪そうに俯いた
が、先に顔を上げたのは真菜ちゃんの方だった。
『だって聞いてよ。コイツ……このおねーちゃんが、真菜のハンバーグをダメにしちゃっ
たんだよ? ヒドイよ。せっかく、お兄ちゃんに美味しいハンバーグをご馳走してあげ
ようとしたのに』
しかし、その訴えに即座に先輩も反応する。
『あれは事故だったって言ってるでしょ!! それに、最初にやったのはそっちじゃな
い。あたしのグラタンソースに大量にコショウぶっかけてさ。アンタの方がよりたち悪いわよ』
『まだ言ってる。真菜が悪いなんて証拠、どこにもないのに。自分で失敗してウソつい
てばっかり。ホント、ひきょーものなんだから!!』
『誰が卑怯者よっ!! そんなの、状況証拠から一発じゃない。誰が聞いたってアンタ
がやったって――』
『真菜はそんな事する必要ないもんっ!! 何もしなくたって勝てるんだから』
「はい。ストップ。そこまで。これ以上言うと、お仕置きしますよ」
僕の仲裁に、二人はピクッと体を動かして、渋々の体で口を閉ざす。直立不動で僕の
前に並ぶ二人は、悪戯をして先生に叱られる小学生みたいだ。もっとも、一人は実際小
学生なんだけど。
3
「いいですか。真菜ちゃんも先輩も。これから、僕の質問に、正直に答えてください。
いいですね?」
二人は、お互いをチラリと見やってから、小さく頷く。
『はーい……』
『わ、分かったわよ……』
明るい真菜ちゃんも、いつもは強気な先輩も、さすがに悪いと思っているのか、二人
ともしおらしく頷く。しかし、そんな二人を可愛いなどと悠長に思っている暇は、僕に
はなかった。
「じゃあ、まずは先輩から。もう、成人してるんですから、子供の手本になるように、
真面目に答えて下さいね」
『……わ、分かってるわよっ!!』
そう言いつつ目を逸らす辺り、相当後ろ暗いところがあるようだ。
「じゃあ、二人の喧嘩の原因となってる事で。先輩。真菜ちゃんのハンバーグに、コショ
ウを大量にぶちまけて、ダメにしてしまったのは本当ですか?」
ジッと、逃さないように先輩の視線を捉える。それを避けるようにしつつ、先輩は小さく頷く。
『そ……それはホントよ。だけど、あれはだからその……事故で……』
「本当にですか? ワザとやったんじゃないと、誓って言えますか?」
答えは聞かなくても、先輩の顔を見れば何となく分かる。この人はウソが下手くそな
のだから。先輩は、しばらく押し黙っていたが、僕と目線が合ってしまうと、即座にパッ
と視線を逸らせて横を向いて、それから呟くように言った。
『……ホントは、ちょっとのつもりだったのよ。この子が、あたしのソースダメにしちゃっ
たから……だから、仕返しにほんのちょっと多めに掛かればいいなって。それに、そう
しないと、この子に負けちゃうって思ったから……』
「何も、子供相手に対抗心燃やす必要ないじゃないですか。大人気ない」
わざとらしく呆れた口調で言いつつも、内心ではそういう子供っぽいところが、実に
先輩らしいなと苦笑する思いであった。しかし、さしもの先輩も、バツの悪そうな苦々
しい表情になる。
『だから、事故を装ったのよ。けど、あんなに掛かるなんて思ってなかったから…… そ
れは本当よ? 嘘じゃないんだからね?』
4
先輩の必死な訴えに、真菜ちゃんが疑わしそうな目を向けるが、僕は先輩が本当の事
を言っていると思って頷いた。
「それじゃあ、先輩の意見は聞きました。今度は真菜ちゃん」
僕は視線を真菜ちゃんに振り向ける。すると真菜ちゃんもピクン、と体を動かして視
線を逸らす。うん。子供が悪い事をした時の顔だ。
『ま……真菜は悪くないもん。全部おねーちゃんが悪いんだもん……』
しかし、僕は安心させるようにニッコリと笑った。
「大丈夫。仮に悪い事をしてもね。正直に話せば、僕は怒らないよ」
『ホントに……?』
真菜ちゃんが、チラリとこっちを窺い見て聞く。僕は大きく頷いた。
「うん。その代わり、嘘つきは嫌いだからね。もし、真菜ちゃんが嘘を言ってると思っ
たら、その時はもう、真菜ちゃんと遊びたくなくなっちゃうかも」
『真菜。嘘つきじゃないもん!!』
必死でそう主張する真菜ちゃんに、もう一度優しく頷いてみせてから、僕は真菜ちゃ
んに質問をぶつけた。
「それじゃ、聞くけど。真菜ちゃんはやってないって言うけど、本当に、先輩の作って
たソースにコショウをたくさん入れたりしなかった? それは先輩の勘違いって事でいいの?」
しかし、僕の問いに真菜ちゃんは答えなかった。すぐに答えないところで答えは出て
いるようなものだったけど、でも、僕は辛抱強く、もう一度聞く。
「大丈夫。僕は怒ったりはしないから。正直に言って? どっちなの?」
すると、真菜ちゃんは俯いたまま、小さく入れた。
『……真菜……入れた……』
『ほら。やっぱりそうじゃないのっ!!』
隣で先輩が勢い込んで言うが、僕はそれを鋭く制する。
『先輩は黙っててください。僕は今、真菜ちゃんと話をしてるんです。邪魔しないで貰
えますか?』
厳しめの口調だったからか、先輩がビクッと体を震わせ、それからバツ悪そうにそっ
ぽを向く。小さくブツブツ言ってるのは無視して、僕は真菜ちゃんに向き直る。すると
今度は、真菜ちゃんが懸命になって弁解を始めた。
5
『でもね。聞いて聞いて。このおねーちゃんてば、グラタン作るの、すっごい適当なん
だもん。真菜が一生懸命おしえてあげたのに。だから、こんなの食べたらお兄ちゃんが
死んじゃうかも知れないから、だから、台無しにすれば諦めるかもって思って……』
その言葉に先輩が何か言いたそうに真菜ちゃんに向き直るが、しかし僕がジッと見つ
めているのを察して、グッと口をつぐんだ。それを見て、僕は真菜ちゃんの方を向くと、
そっと頭に手をやって撫でてあげる。
「分かったよ、真菜ちゃん。ちゃんと、正直に言ったね。うん」
すると、真菜ちゃんの表情が安心したように少し緩む。その横で先輩が憮然とした表
情を見せているが、今はとりあえず無視だ。まあ、先輩は後で嫌だと言ってもたっぷり
と撫でてあげよう。
『ほら。やっぱり嘘だったじゃない。手伝うフリして、ホントはあたしの料理をダメに
するなんて、どーしてくれんのよ』
僕の質問が一通り終わったと見るや、先輩が真菜ちゃんに突っ掛かった。しかし、真
菜ちゃんも負けじとやり返す。
『あたしがダメにする前からダメだったじゃん。あんなの、お兄ちゃんに食べさせて、
もしびょーきにでもなったりしたらどうすんのよ。そしたら、おねーちゃんのせいだからね』
『病気になんてならないわよ。少なくとも、食べられる物だもん』
『無理。絶対、あんなの食べたらびょーきになるもん。もしかしたら、死んじゃうかも』
『な訳ないでしょ。謝んなさいよね。イタズラした事と、嘘ついたこと。ほら、早く』
『やだ。絶対やだ。真菜はお兄ちゃんを守ったんだから、悪い事なんてしてないもん。
アンタなんかに謝んないもん』
「はい、そこまでっ!!」
口げんかを続けさせたらいつまで経っても止みそうになかったので、僕は大声を出し
た。二人とも同時に、ビクッと体を跳ねさせて、それから僕を見つめた。先に立ち直っ
て文句を言ってきたのは先輩の方だった。
『な……何よっ!! 急に大きな声出して。ビックリするじゃない』
しかし、僕は負けじと先輩を睨み返して、わざと厳しい口調で言った。
「いつまでケンカを続ける気なんですか。いい加減にしないと、僕も怒りますよ」
6
一瞬、先輩と僕が睨み合う。しかし、何か言いたそうに口を動かすも、それは言葉に
ならず、先輩は不満そうに口は尖らせるも、視線を逸らして俯いてしまった。一方真菜
ちゃんは、僕に怒鳴られてから、シュンとなってしまっている。
「とにかく、言いましたよね。僕は二人で仲良くご飯を作るようにって。それが何で、
お互いに邪魔し合っているんですか。ちゃんと説明して貰わないと納得出来ません」
僕は、真菜ちゃんと先輩を交互に見やる。すると、真菜ちゃんの方が先に口を開いた。
『だって、真菜……お兄ちゃんに――』
『止めなさいよっ!!』
真菜ちゃんの口を制して先輩が慌てて叫ぶ。しかし、その先輩の態度が、逆にあから
さまに何かがあった事を証明付けてしまった。先輩もそれに気付いたのか、ハッと僕を
見る。僕は、ニッコリと微笑んで二人を見た。
「ううん。真菜ちゃん。ちゃんと話してくれるかな? 僕。聞きたいんだけど」
『アンタねえっ!! 女同士の話に口を突っ込むんじゃないわよ』
先輩が文句を言うも、僕は笑顔を消して先輩を見つめた。
「その、女同士の話が単なる話ならいいんですけど。人の家の台所をめちゃくちゃにさ
れたとなれば、僕にも聞く権利はあると思いますけど。違いますか?」
『そ……それは本当に、悪かったと思ってるわよ。だけどそれは……その……』
ごにょごにょと呟きつつ、必死で言い訳の言葉を探す先輩は放っておいて、僕は真菜
ちゃんに向き直った。
「さ。真菜ちゃん。話して」
真菜ちゃんは素直にコクンと頷く。先輩がまた止めようとする気配を察して、視線で
先輩を止める。
『おねーちゃんと、勝負してたの』
「勝負? 勝負って、どんな?」
『あたしのハンバーグとおねーちゃんのグラタン。両方食べて貰って、お兄ちゃんが美
味しいって思った方が、ご飯の間中、お兄ちゃんをひとり占めに出来るって』
僕は、なるほどと思って先輩を見つめた。これじゃあ、先輩が言わせたがらないわけ
だ。一方、先輩はバツの悪そうな真っ赤な顔で、そっぽを向いていたが、僕の視線に気
付いて慌ててこっちを向くと、言い訳を始めた」
7
『あ……あたしはただ、その……付き合ってあげただけだからねっ!! 別にそんな、
その……真菜ちゃんが別府君にご飯をあーんって食べさせてあげようが何だろうが、どうだっていいし……』
どうだって良くなかったのは、様々な状況証拠を抜きにしても、先輩の今の顔だけで
十分に分かる。
「その割には、随分とムキになってたようですが?」
ちょっと意地悪を言うと、先輩は更に顔を紅潮させて僕に顔を近付けると、唾を飛ば
して言い返してきた。
『あたしは、勝負事になるとムキになっちゃうのよっ!! アンタだって十分知ってる
でしょ? 付き合い長いんだからっ!!』
確かに先輩の言う事は、嘘ではない。とはいえ、今度の事はそればっかりではないだ
ろうけど、でもそれ以上突っ込むのは止めておいた。真菜ちゃんの前でもあるし。
僕は、コホンと咳払いをして、二人を交互に見やって頷く。
「分かりました。理由はともあれ、二人で仲良く協力してお料理を作るどころか、足を
引っ張り合ったそれだけでも、僕の言う事を聞かなかったと言う事で、二人とも同罪です」
『ええーっ!! 先に手を出したのはこの子の方じゃないのよっ!!』
『何でーっ!! 真菜はお兄ちゃんの為を思ってやったのにっ!!』
同時に二人から不満の声が上がる。しかし、僕はパンッ、と一回の手拍子で二人を黙
らせた。それから先輩の方を見て言う。
「ただ、先輩。来年は成人式を迎えようといういい大人が、小学生相手に何をムキになっ
てやってるんですか。先輩はその事をまず、反省すべきじゃないんですか?」
『うっ……』
先輩がバツの悪い顔をして呻く。さすがに先輩も、その事は自覚していたらしい。
「とにかく、二人とも。そんな格好でウロウロされても困ります。片付けはいいですか
ら、まずは風呂に入って体を綺麗にして来て下さい。それと、服は洗濯して乾燥機に放
り込んでおけば、まあ出るまでには乾くでしょうし」
二人は、お互いの格好を見やる。
『うわ。おねーちゃんってばひっどい格好。女として恥ずかしくないの?』
呆れたような口調の真菜ちゃんに、早速先輩がやり返す。
『誰がこんなにしたのよ。誰が。大体、アンタだって似たようなもんだっての』
8
『あたしの方がよけるの上手かったもん。おねーちゃんはヘタクソだから』
『てっ……手加減してあげたのよっ!! 小学生相手に本気出すわけないでしょっ!!』
「はい。また口ゲンカして。いい加減にしないと二人とも、ご飯抜きにするよ」
パンパンと手を叩いて二人を諌める。とはいえ、二人ともさっきの興奮状態から比べ
れば、随分と落ち着いたものだが。
『分かったわよ。ほら。アンタ、早く入って来なさいよ。あたしの方が時間掛かりそうだし』
渋々の体で頷くと、先輩が真菜ちゃんを急かす。しかし真菜ちゃんは、不満そうに口
を尖らせた。
『えーっ!! 何でそんなの、おねーちゃんが決めるのよ。えらそうに。おねーちゃん
の方が汚いんだから、先入ってきなよ。真菜は、お兄ちゃんとお片づけするから』
『あたしが最年長なんだから。大人のいう事は聞くものなの』
『大人だからってダメな人いるもん。そういう人の言う事は聞かなくたっていいもん』
『誰がダメな大人よっ!!』
どうやら、この二人は口を開けばケンカせざるを得ないらしい。僕は心の中で深々と
ため息を吐いた。それから、負けじと大声で会話に割って入る。
「いいですか二人とも!!」
『『は、はいっ?』』
僕の声に、思わず驚いたような返事をして、二人とも僕に向かって直立の姿勢を取る。
どうやら、聞いてくれるようだと確認してから、僕は言葉を続けた。
「お風呂には、一緒に入って来て下さい。いい機会ですから、女同士、じっくりと裸で
腹を割って話し合うのもいいでしょうから」
『えーっ!! おねーちゃんとなんて、ヤダあっ』
真っ先に拒否反応を示したのは、真菜ちゃんだった。むくれた顔で先輩をジロリと見
て、それから僕を見て言った。
『真菜。どーせだったら、お兄ちゃんと一緒が良かったなあ』
とんでもない発言に僕はどう返事をしたらいいか分からなくなってしまった。しかし
そこは、即座に先輩が反応する。
『何言ってんのよ。小学生ったって、もう十代なんでしょ? そろそろ恥じらいっても
のを覚えてもいいんじゃないの?』
しかし、真菜ちゃんは先輩を睨み付けて言い返す。
『真菜、そのくらい知ってるもん。お父さんとはもうお風呂一緒に入らないって言ったし』
『だったら何で別府君とならいいのよっ!!』
すると真菜ちゃんは、両手を頬に当て、恥ずかしそうにしなを作って体をくねらせた。
『だって……好きな人とだったら、大人になっても一緒にお風呂入ってもいいって。お
母さんも、たまにお父さんと一緒にお風呂入ってるし……』
さすがにその発言には、僕と先輩は思わず顔を見合わせずにはいられなかった。真菜
ちゃんのご両親の夫婦仲は、どうやらとても良いらしい。うちでは父さんと母さんが一
緒に風呂に入るなんて、ちょっと想像つかない。
『そっ……そんなのはね。アンタんちが特殊なんであって……』
思わず頬を染めてムキになる先輩を、僕は手で制した。それから、僕は真菜ちゃんと
同じ高さまで腰を屈めて、申し訳無さそうな顔で言った。
「真菜ちゃんゴメン。僕はキッチンを片付けて、それからご飯を作らないと。もう時間
も随分遅くなっちゃったしさ。お風呂を出てからじゃ、遅くなっちゃうし。それに、先
輩一人にやらせたら大変な事になっちゃうしね」
『どういう意味よっ!!』
聞き咎めて先輩が怒鳴りつけるが、それを無視して僕は、真菜ちゃんへの話しを続ける。
「それより、僕の言う事を聞いて、先輩と一緒にお風呂に入って、ちゃんと仲直りして
くれた方が僕としては嬉しいんだけどな」
すると真菜ちゃんは、プッと頬を膨らませて先輩を睨み付けた。
『無理だよぉ。おねーちゃんと仲直りするなんて。大体、最初っから仲良しじゃないし』
2
「じゃあ、これから仲良くなって。先輩は、一見偉そうで性格ひねくれてるけど、本当
は優しくていい人だからさ」
そう言って真菜ちゃんを宥めようとするも、二人から思いっきり反論を食らってしまう。
『ちょっと!! 偉そうでひねくれてるってどういう意味よ。アンタ、普段からあたし
の事をそんな風に見てたわけ?』
『えー。そんな事ないよぉ。真菜、人を見る目はあるもん。おねーちゃんって絶対性格
悪くてしかも大人のクセにガキだもん。救いようないよ』
さっきから、一言言うたびに二人から反論を食らってるような気がする。実に頭が痛
い。
「とにかく。先輩の性格はこの際問題じゃないから。今日の所は二人でお風呂に入って、
仲直りして親睦を深める事。それが出来なければ、二人とも夕食は無し。真菜ちゃんに
は、お母さんに今日の事を全部報告するからね」
断固としてそう言い切ったが、先に不満の声を上げたのは真菜ちゃんだった。
『えーっ。何で真菜だけお母さんに怒られなくちゃならないの。そんなのふこーへーだよ』
僕は真菜ちゃんをなだめる為に、頭に手をやって優しく撫でてあげた。そのまま先輩
の方をチラリと見て言う。
「大丈夫。先輩の方には、もっと有効な、別のお仕置きを考えるから。それで文句無いだろ?」
しかし、真菜ちゃんは頷かなかった。むっつりとしたその顔を見て、僕は頭から手を
離して聞く。
「どうしたの? それでもまだ不満?」
すると真菜ちゃんは、視線を逸らし、ちょっと恥ずかしそうな様子で呟くように言った。
『その……今日じゃなくてもいいけど……今度、真菜と一緒に……お風呂、入ってくれ
る? 真菜、お兄ちゃんの背中流したいから……』
背後から突き刺さる先輩の視線が超絶に痛いが、僕は真菜ちゃんの顔をジッと見つめ
て聞き返す。
「僕が約束したら、真菜ちゃんも、僕の言う事聞いてくれるの?」
僕の言葉に、真菜ちゃんが僕の顔を見る。それから、少し間を置いた後、小さく頷い
て言った。
『うん。お兄ちゃんが真菜と約束してくれるなら……真菜も、お兄ちゃんの言う事聞く』
僕はニッコリと笑って、真菜ちゃんの頭を撫でて頷いた。
3
「分かった。じゃあ、約束だよ」
真菜ちゃんは、撫でられて嬉しそうにしながらも、真剣に僕を見て言った。
『絶対だからね。お兄ちゃん。約束……ちゃんと守ってよ?』
「分かってるから。心配しないで。ね?」
答えつつ、僕は出来る限り早くその機会を作らないと、と思った。真菜ちゃんの年頃
くらいから、女の子は急に成長する。うっかりしてると、とても一緒にお風呂に入れな
いくらいに育ってしまうだろう。かといって、約束を守らないと、今度は真菜ちゃんの
心に傷を付けてしまいかねない。
『別府君…… ちょっと、こっち向きなさいよ』
背後から、氷のような声が聞こえる。さて、今度は鬼を宥める時間が来たようだと覚
悟を決めて、僕は立ち上がると先輩の方を向いた。途端に先輩は、警告もなしにいきな
り僕のこめかみを両の拳で挟むと、グリグリと強く押した。
「あいたたたたた!! 何するんですか先輩っ!!」
『何するんですかじゃないわよ!! このロリコン野郎っ!!』
怖い顔で睨みつつ、先輩は今日、何度目かの罵りを浴びせて来た。首を振って否定し
ようにも、頭を挟み込まれているからそれは出来ない。仕方なく、僕は言葉で必死に訴えた。
「違います違います!! 邪まな気持ちじゃありませんってば!!」
『ホントに? 内心ドキドキとかわくわくとかしてるんじゃないの? 違う?』
「違いますってば!! とにかく手を離して下さい!! イテテテッ!!」
先輩の疑いを、僕は全力で否定した。しかし、うっかりした事を言うと今度は真菜ちゃ
んが傷付きかねないので、あんまり下手な事も言えなかった。
『どーにも信用ならないのよね。アンタの言葉ってすっごい軽いから』
グリグリは止めたものの、手は離さずに先輩はジッと疑わしげな視線を向ける。僕は
コクコクと何度も頷いて答える。
「信じてくださいってば。従兄妹の小学生にそんなふしだらな気持ちを持ったりしたら、
先輩どころか親に処刑されますから」
それから、真菜ちゃんに聞こえないように小声で付け加えた。
「まあ……先輩だったら、さすがの僕も、動揺せずにはいられないと思いますが」
すると先輩の顔が、見る間に首まで真っ赤に染まった。
『んなっ……なっ…… 何考えてんのよっ!! ここっ……このドスケベッ!!』
4
先輩は挟んだこめかみをグッと強く押すと、そのまま後ろに突き飛ばした。勢いはな
かったものの、僕はニ、三歩後ろによろめく。
「いった~っ…… 先輩、本当に乱暴なんですから」
『アンタが変な事言うからでしょうが!! 死ね死ね死ねっ!!』
噛み付くように連呼すると、先輩は腕を組んでフン、とそっぽを向いた。僕は解放さ
れたこめかみを擦りつつ、先輩に向き直る。
「で、先輩。先輩はいいんですよね? 真菜ちゃんをお風呂に入れてあげることに関しては」
先輩はジロリと横目で僕を睨んだ。口を尖らせ、不満そうに答える。
『分かったわよ。ここであたしがごねたってしょうがないし、入れてあげるわよ』
僕はちょっとホッとした。非常に子供っぽい所もある先輩だが、ここは大人の対応を
してくれたようだ。
「よかった。それじゃあ、後は真菜ちゃんの事お願いします」
『ちょっと待った』
やっと落ち着いたかと思いきや、先輩がそれを制止する。
「何ですか? まだ、何かあります?」
僕の問いに、先輩は僕に完全に背中を向けると、ぶつぶつと呟くように言った。
『何って……その……えっと…… 不公平じゃないの? 真菜ちゃんには交換条件を約
束したのに、あたしには何にもなしって?』
「じゃあ、先輩も今度、僕と一緒にお風呂入ります?」
すると先輩がクルリとこっちを向いた。真っ赤な顔で怖い形相で睨み付けながらつか
つかと近寄ると、いきなり僕の両耳を引っ張る。
『だっ……だから何でそうなるのよこのドスケベッ!!』
「イタイイタイ離して下さいってば!! だって、条件同じって言ったらそういう事じゃ
ないんですか?」
先輩の両手首を手で掴んで痛みを軽減させつつ、僕は聞いた。それに先輩が激しく反論する。
『違うわよこのバカッ!! あたしは別に……その…… そんなのしたくないんだからっ!!
こんなエロガキと一緒にすんな!!』
『むーっ!! 失礼しちゃう。真菜、エロガキじゃないもん!!』
グイグイと先輩の服を思いっきり引っ張って真菜ちゃんが抗議する。果たして言葉の
意味が分かっているかは微妙だが、ニュアンスとしては伝わるものなのかも知れない。
5
「分かりました。じゃあ、先輩は何をして欲しいんですか? 一応言っときますけど、
お金使うのはダメですよ」
先輩の願いを聞きつつ、しっかり釘は刺しておく。でないと、一ヶ月お昼を奢れとか
マジで言いかねないから。先輩は僕の耳から手を離すと、苛立たしげに手首から僕の手
を振り解いて言った。
『それは後で考えるわよ。とにかく、一つあたしの言う事を聞く事。それだけはちゃん
と約束してよね?』
「えーっ? 後出しですか? それは何かちょっとズルイような気がするんですが」
後から難題突きつけられても断れないじゃないかと思いながら文句を言うが、先輩は
僕を睨み付け、怒鳴り声を上げてその抗議を一蹴した。
『うるさいっ!! とにかくアンタは大人しくあたしの言う事聞けばいいの。分かった?』
僕は小さくため息を吐く。これはどうやら大人しく先輩の主張を飲むしかないようだ。
もっとも、普段から我がままだから、言う事聞かされる理由を一つ与えただけのように
も思えるが。
「分かりました。じゃあ、後からでもいいですから、とりあえずお風呂に入って来て下
さい。いいですね」
僕が促すと、先輩は小さく頷いて真菜ちゃんを見て言った。
『分かったわよ。ほら、行くわよ』
『言われなくても分かってるもん。ベー』
真菜ちゃんはトトトッと先輩の前に立つと、あかんべーをする。それからクルリと背
を向け、先にお風呂場へと走り出す。
『あ、コラ。待ちなさいってば!!』
その後を慌てて先輩が追う。僕は小さくため息を吐いてから、キッチンに向き直った。
「さて、僕はこれを何とかしなくちゃな」
最終更新:2011年08月19日 09:19