『全く、何でおねーちゃんなんかと一緒にお風呂入んなくちゃいけないのよ』
ぶつくさ言いながら、真菜ちゃんは服を脱ぎ、洗濯機にポンポンと放り込む。あたし
も服を脱ぎながら、ジロリと真菜ちゃんを睨み付けて言った。
『うるさいわね。仕方ないでしょ? こんな汚いカッコのままでウロウロする訳には行
かないんだから』
あたしは鏡で改めて自分の格好を見る。
『うわ。あたしこんな酷いカッコしてたんだ……』
髪もベトベト。顔は小麦粉で白くなっており、手で拭ったりしているので、まだらに
なっている。ぶつけられたハンバーグの生肉も、ちょこっと付いているし。
『おねーちゃん、妖怪ババアみたいだよ』
真顔で評する真菜ちゃんを、あたしは思いっきり怒鳴りつけた。
『アンタのせいでしょうが!! 全く』
真菜ちゃんも小麦粉の粉を被っているとはいえ、あたしに比べれば全然マシだ。もっ
ともあたしは、理性を失っていたとはいえ、さすがに小学生相手に本気は出さなかったのだが。
『おねーちゃん。あと宜しく』
ポイと下着まで脱ぐと、真菜ちゃんは先に浴室に入って行ってしまった。
『あ、こら。待ちなさいっての』
咄嗟に制止した時は既に遅く、中からシャワーを浴びる音が聞こえてくる。あたしは
ため息を吐いて、洗濯機を見た。
『ま、仕方ないけどね。でも……下着と一緒でいいのかな……って言っても、仕方ない
か。分けて洗うわけにも行かないし、汚いままってのもね……』
諦めて、洗濯機を操作してからあたしも浴室に入って行った。
『あ、こら。もう湯船に浸かってる。先に体洗わないとダメじゃないの』
ゆったりと湯船に浸かっている真菜ちゃんを見て説教すると、真菜ちゃんはチラリと
あたしを見て言った。
『だって、二人も一緒に洗えないでしょ? おねーちゃんの方が汚いんだから、先に洗
わないとダメじゃん。それとも、真菜が洗い終わるまで、裸で待ってた方が良かった?』
2
グッとあたしは言葉に詰まる。どうも、口だけはあたしより余程達者なのは、もはや
疑いようもない事実のようだ。あたしは仕方なく、真菜ちゃんを無視してシャワーから
お湯を出し、体に掛ける。その様子をジッと見て、真菜ちゃんが言った。
『ねー、おねーちゃん。おねーちゃんってさ。おっぱい、小さいよね』
いきなり、ゴンとハンマーで頭を叩くような衝撃発言に、あたしは思わずシャワーを
取り落としそうになる。それから、胸を片腕で押さえて隠し、真菜ちゃんに向き直ると怒鳴った。
『うっさいわね!! これでもBカップはあるのっ!! 小さいとか言うな!!』
『でも、お母さんってこんなんだよ?』
真菜ちゃんは、自分の胸で形を作ってみせる。
『アンタのお母さんなんて知った事じゃないわよ。大体、乳の大きさで女の価値が決ま
る訳でもないし』
『ふーん。負け惜しみ?』
浴槽の縁に腕を置き、その上にあごを乗せて真菜ちゃんは怪訝そうに言った。
『違うわよっ!! そりゃ、その……おっぱいおっきな女の子の方が好きな男は多いと
は思うわよ。だけど、そんなの自分じゃどうしようもないんだから。だから、そんな物
で勝ち負けなんて決められたくないだけよ。大体、真菜ちゃんだってこれから先、大き
くなる保障はないでしょ?』
あたしは、結構真面目に答えた。胸の大きさについては、別府君を意識し始めてから
というもの、ずっとコンプレックスの一つにはなっていたからだ。それまではそんなに
気にもしてなかったのに、男の視線を意識し始めるとこうも違うものかと思うくらいに。
『真菜はおっきくなるもん。お母さんもおっきいし。何かね。人間には、遺伝って言う
のがあるんだって。真菜、まだ難しくてよく分かんないんだけど、とにかくお父さんと
お母さんに似るようになるって、お父さんから教えてもらったの。だから、真菜はきっ
とおっぱいおっきくなるよ。だって、ほら。もうふくらんでるし』
真菜ちゃんは湯船から立ち上がり、あたしに胸を張って示してみせる。確かに、平ら
かと思いきや、乳首を中心に、その胸は僅かに盛り上がりを見せていた。このまま急成
長して、かなりの巨乳になってしまう可能性は、十分に有り得た。
『だからそれがどうだって言うのよ。大体、別府君が巨乳好きかどうかだって分かんな
いじゃない』
髪までお湯で濡らしてから、座ったまま前屈みになって、シャンプーをつける。
『でも、男の人ってそういうものじゃないの? 漫画とかだとそんな感じだけど』
3
『そんなの知らないわよ。現実はそんな単純じゃないんだから。大体、巨乳好きのエロっ
ちい別府君とか見たい?』
たっぷりと泡立てたシャンプーを髪に浸透させるように揉み込む。何かいろんな物を
投げつけられたから、しっかりと洗い流さないとこびり付いたまま落ちなくなってしま
うかも知れない。
『うー…… でも、たまにだったらいーかなぁ…… お兄ちゃんが甘えて来てくれるな
ら、それはそれで嬉しいし。お兄ちゃんてば、いっつも真菜を子供扱いばっかりするん
だもん。だから真菜は、早くおっきくなって、おっぱいもおっきくなって、大人の女だっ
て認めて貰いたいんだもん』
今の言葉で、何で真菜ちゃんが胸の大きさにこだわるのかは分かった気がした。確か
に、大人と認めてもらうには、体が成長した方が手っ取り早い。しかし、洗髪中で答え
るのがめんどくさくて、あたしは何も答えずにいた。すると、真菜ちゃんがまた、余計
な事を口にする。
『おねーちゃんはさ。おっぱいちっちゃいから、いつまで経っても子供なんだよね』
『誰が子供だっ!! 誰が!!』
反射的に文句を言うも、真菜ちゃんは生意気な口調で言い返してきた。
『だーって、おねーちゃんも真菜とおんなじでお兄ちゃんに子供扱いされてるもん。真
菜と同レベルなんて、子供だよね』
『む……っ…… ククク……』
確かに今日のあたしは、子供と言われても仕方ない行動しか取っていない。いや。思
い返してみると、普段から別府君に突っ込まれるような事しかしてない気がする。それ
も、出会った時からずっと。
『あー、ほら。言い返せないんだ。てことは、おねーちゃんもそうだって思ってるんだよねー?』
『違うわよっ!!』
濡れた髪のまんま、思わず顔を上げて叫んだものだから、顔にしぶきがたっぷりと掛
かる。あたしはそれを払いつつ、真菜ちゃんを睨み付ける。
『確かに今日のあたしは子供っぽい事しちゃったわよ。だけど、それとこれとは関係な
いっつーの』
自分の胸をすくい上げるように手の平で持ち上げて示す。しかし真菜ちゃんは疑わし
そうな目線を向けて言った。
4
『そーお? 真菜にはそうは思えないんだけどなー』
『あたしと違って胸が小さくても大人っぽい女性はいっぱいいるの!! だから、それ
とこれとは関係ないんだから』
そこだけはムキになってあたしは否定する。自分の子供っぽさを胸の小ささのせいに
されるのだけは正直、ゴメンだったから。しかし真菜ちゃんは、まだ疑わしげな態度の
ままであたしを見つめて言った。
『ふーん。ま、いいけど。どっちにしても、もう少ししたら、真菜が色っぽい大人の女
になって、お兄ちゃんを誘惑する事には変わりないもん』
この子の言う事には、子供の戯言とは聞き流せないだけの自信があった。実際、今の
可愛らしい顔立ちを見ても、将来は美人になる事請け合いだし、母親並に成長すれば、
かなりの男は真菜ちゃんに注目する事になるだろう。危機感を覚えたあたしは、一応一
般論で釘を刺してみる事にした。
『言っとくけどね。確かに見た目は男を落とす上で重要だけど、性格が良くなかったら
どうしようもないんだからね。美人でもそれを鼻に掛ける嫌な女って結構いるんだから。
あんまり体つきがどうこう言ってると、それで失敗するわよ』
しかし、返って来た答えは実にシンプルだった。
『大丈夫。真菜、少なくともおねーちゃんよりは性格いいもん。おねーちゃんってばお
料理もヘタクソで何にも出来ないくせに、年上ってだけでいばっちゃって最低だもんねー。エヘヘ』
まさに勝ち誇った笑顔とはこの事だろう。うん。実に小憎らしい。頭洗ってる最中で
なければ、頬っぺた引っ張ってお仕置きしてやったのに。
『誰が最低だってのよっ!! 大体、あの別府君がそんな性格悪い最低女を家に入れる
と思う? 一見、お人よしで優しそうに見えて、アレでアイツ、かなり頑固なんだから』
せめて口だけでも抵抗してやろうと、咄嗟に思いつきで口走った言葉に、真菜ちゃん
が思わず言葉に詰まる。
『う…… で、でもそれはきっと、お姉ちゃんの方が年上だから、だと思うよ。真菜も
いつも怒られるもん。年上の人には礼儀正しくしなさいーって』
ちょっと苦しそうな返事に、あたしは早速ツッコミどころを見つける。
『どこが礼儀正しくしてんのよ。あたしにはさっきから生意気ばっかりじゃない』
しかしこれには、真菜ちゃんは実にあっさりと言い返した。
『おねーちゃんは別だよ。だって、ライバルだもん。敵だもん。だからいいんだもん』
5
全く。こんな小学生に互角のライバル扱いされるなんて、我ながらちょっと情けない。
そう思いつつ、二度目のシャンプーを洗い流し、リンスを付ける。すると真菜ちゃんが
ブーブーと文句を言ってきた。
『おねーちゃん。頭洗うの長いー。真菜、ゆだっちゃうよ』
『うっさいわね。誰のせいで髪がベトベトになったと思ってんのよ。それに、お子様と
違って、大人の女はね。髪の手入れに時間掛かるんだから』
『大人大人ってえらそうに。おねーちゃんなんて、綺麗でもないんだから、大して変わんないよ』
『やかましいわっ!!』
そう怒鳴ってから、髪をシャワーで流し、やっと洗髪が終わる。タオルで髪を拭くと、
また急かされた。
『早くー。もう、真菜限界ーっ』
まだ体を洗いたかったが、確かに真菜ちゃんの顔を見ると、随分と赤く上気している。
ここはいっそ、一緒に体を洗うのもありかと思った。別府君から仲良くしろと言われて
る訳だし、ちょっとくらいアリバイ作りもしておいた方がいいだろう。
『分かったわよ。ほら。出てここ座んなさい。あたしが背中流したげるから』
『えーっ? おねーちゃんがぁ? 変な事するんじゃないでしょうね?』
まさに信用ゼロだった。あたしは苦い顔をしつつ、あたしの前を指差して言う。
『うるさいわね。大人しく座んなさい。あたしも体洗わなくちゃいけないんだから、そ
んな無駄な事してらんないわよ。ほら、早く』
『ぶーっ』
まだ不満そうな顔つきながらも、真菜ちゃんは大人しくあたしの指示に従って、前に
座ったのだった。
お互いに、丁寧にしっかりと体を洗ってから、一緒に湯船に入る。あたしの前に、真
菜ちゃんが背中を向けて座る。ちょうど、座ったまま抱っこするような、そんな感じの
ポジションだ。
『ねー、おねーちゃん』
真菜ちゃんが、チラリと視線を後ろに――あたしの方に向けて言った。
『おねーちゃんてさ。何でお兄ちゃんの事が好きになったの?』
6
『へ……?』
不意の質問に、あたしは思わず思考が硬直する。そしてそのまま、あたしは反射的に
聞き返した。
『な…… 何よ、いきなり。何でそんな事聞くの?』
『別に。ちょっと興味があっただけよ』
湯船の中で膝を抱えたまま、真菜ちゃんは視線を戻すとつまらなさそうに答える。そ
れから、一呼吸置いてから言葉を続けた。
『一応……おねーちゃんはライバルだからね。知っといた方がいいかなーって』
『な……何がライバルよ。子供のクセに』
呆れた口調で言い返す一方で、あたしは今、真菜ちゃんの大人な一面をチラリと垣間
見てドキリとする。子供っぽく直球でぶち当たるだけかと思いきや、時折こうやって妙
に大人っぽい考え方をしたりする。もっとも、彼女はそこまで複雑には考えていないの
かも知れないけれど、無意識だとすればそれはそれで怖い。体の成熟度と併せても、意
外と大人になるのは実年齢よりもずっと早いのかも知れないと、あたしは危惧を抱いた。
『それはこっちのセリフだもん。おねーちゃんなんて大人のクセにおにーちゃんを困ら
せてばっかりでさ。真菜の方がよっぽど大人だよ』
またも、ませた口調で攻撃され、しかもそれがあたしの心臓にクリーンヒットする。
確かに思い当たる事ばかりだ。反撃する言葉を思いつくよりも早く、真菜ちゃんが言葉を続ける。
『あーあ。真菜があと、十歳……ううん。六つか七つ年上だったら、おねーちゃんなん
て相手にもならないんだけどなー。子供って損。こんな子供みたいな人と争わなくちゃ
ならないし』
『さっきから子供子供ってねえ。確かに今日は、アンタの言うとおりだけどね。でも、
それは真菜ちゃんのレベルに合わせて相手してあげたからこうなったの。分かる?』
『ああ、そう。はいはい』
やっとの事で言い返した言葉は、呆れた視線と共にあっさりと流された。どう考えて
も、体の成熟度ではあたしの方が大人なのに、完璧に子供扱いされている自分に、さす
がに自己嫌悪に陥らざるを得なかった。
『で、どうなの? 別に教えてくれないならそれでもいいよ』
7
ぶっきらぼうな口調で、真菜ちゃんは言葉を続けた。あたしはちょっと別府君とのこ
れまでの事を思い出してみる。高校時代の部活から今に至るまで、ハッキリ言ってこれ
といって切っ掛けとなる事は思い出せなかった。とはいえ、分からないと答えるのは何
か非常に負けた気がする。時間稼ぎにと、あたしは言い返した。
『別に教えてもいいけど。ただ、人に聞くなら自分から先に教えてよね。真菜ちゃんが
何で別府君を好きになったのかを』
『いいよ。別に、真菜から言っても』
ごねられるかと思ったのに、意外と素直に真菜ちゃんは頷く。思わずキョトンとする
あたしを置いて、彼女は話し出した。
『真菜ね。五歳の時、お祭りで迷子になったの。それで、混んでたから誰か大人の人に
足踏まれて腫れちゃって。痛くて泣いてたところを、お兄ちゃんが見つけてくれたの』
『何よ、それ。ベッタベタじゃない』
何か安物の昼メロでよくありそうなネタに、あたしは思わず呆れた感想を漏らす。す
ると、真菜ちゃんの肘が、ズンとあたしの脇腹を捉えた。あたしに背中を向けて抱っこ
されている格好なので、防御なんて出来っこなく、あたしは小さく悶える。
『うぐっ…… 何すんのよっ!!』
湯船の中で勢いが殺されてはいたものの、それなりのダメージに顔をしかめつつ文句
を言うが、真菜ちゃんは澄ました声で言い返す。
『だって、おねーちゃんが真菜の想い出をバカにするから悪いんだもん。ホントの事なのに……』
言われてみれば、確かにそうだと少し反省する。真菜ちゃんにとっては大切な想い出
なのだろう。それを貶せば確かに怒って当然だ。
『分かった。今のはあたしが悪かったわよ。で、別府君に見つけてもらって、どうだっ
たの?』
『……その後、おうちに帰るまでずっと、お兄ちゃんがおんぶしてくれたんだけど、広
くておっきくてあったかくって優しくって…… その時思ったの。真菜、ずっとお兄ち
ゃんと一緒にいたいなーって。ずっとずっと。大人になってもずっと。一日でも長く。
だから、真菜は、早く大人になりたいって思って、ずっと頑張ってるんだから』
『なるほど。アンタの年に似合わない生意気な口も、そこから来てるんだ』
いくら女の子の精神的成長が早いとは言え、十歳にしてはませてるなと、たびたび思
う事があった。早く別府君に追いつきたいと考えているとすれば、それも納得だ。
『真菜、生意気じゃないもん。こういうのは大人びてるっていうの。おねーちゃんって、
ホント言葉とか間違って使うよね。大人のクセに』
『十歳のガキのクセに大人びた口の利き方するのを生意気って言うのよ!! 全く、ホ
ントに口が減らないんだからこの子は』
ムキになって言い返すと、真菜ちゃんは首を回してあたしを睨み付けた。
『おかーさんみたいな言い方しないでよ。すっごいムカつくから』
心から嫌そうなその態度に、あたしは弱点を見つけた気分で面白がって突付く。
『ほら。真菜ちゃんのお母さんだってそう思ってるんじゃないの? アンタのは大人び
てるんじゃなくて、無理矢理背伸びしてるだけ――あいたっ!!』
2
最後まで言い切る前に、再び真菜ちゃんの肘があたしの脇腹を襲う。
『ムカつく。すっごいムカつく。ちょームカつく!!』
『だから、肘で脇腹叩くの止めなさいよっ!! これ、結構痛いんだからね!!』
子供の力だし湯船の中なので、呼吸が止まるとかはないけれど、距離が近いだけに痛
い事は痛い。しかし、あたしの文句は完全にスルーして、真菜ちゃんはぶすったれた顔
のままで呟くように言った。
『で、おねーちゃんは? 真菜は言ったよ。お兄ちゃんを好きになったのがいつかって』
そうだった。あたしは咄嗟にこめかみを手で掻く。正直、何にも答えを思いついてい
なかった。しかし、真菜ちゃんが正直に答えた以上は、あたしもちゃんと答えないとい
けないだろう。いっそ、正直に言おうとあたしは決めた。
『それがさ。いつ好きになったのかって……自分でもよく分かんないのよね……』
すると、真菜ちゃんは首を回して疑わしげにあたしを見る。あたしも真菜ちゃんの目
を真正面から見つめ返す。そのまま、ほんの少しの間無言でいた後、視線を前に戻すと
真菜ちゃんは呆れたように言った。
『おねーちゃんてさ。バカだバカだと思ってたけど、ホントにバカなんだね』
『何でバカなのよっ!! 正直に言っただけじゃない』
ムカッとして言い返したが、例によってあたしの怒りなど真菜ちゃんにとってはどこ
吹く風だった。
『だって、いつお兄ちゃんの事が好きになったのかも分かんないなんて。自分の事なのにさ』
取り澄まして言う真菜ちゃんだったが、その言葉にあたしはピンと来る物があった。
あたしはフフンと笑うと、ちょっと小ばかにするような物言いで答える。
『そかそか。まだ小学生だもんね。恋に恋する乙女なら、むしろこういう感覚の方が分
かんなくて当然か』
うんうんとさももっともらしく頷いてみせると、予想通り真菜ちゃんは食い付いて来た。
『あーっ!! また子供扱いして。バカのクセに。真菜を他の小学生の子と一緒にしな
いでよ。お兄ちゃんへの想いは真剣なんだから』
『はいはい。それは分かってるから怒らない怒らない』
今は気持ちの上で優位に立っているので、あたしは余裕で真菜ちゃんを宥めようと、
手で頭をポンポンと軽く叩く。すると彼女は、うっとうしそうに手であたしの手を払い
のける仕草をした。
3
『濡れた手で触んないでよ。気持ち悪いじゃない』
『ずっとお湯の外に出してたから濡れてなんてないわよ。ほら』
子供とはいえ、さすがに二人で浴槽に浸かっていれば狭いし、それに長湯で熱かった
事もあって、あたしの両手はずっと浴槽の縁に出しっ放しだった。その手を真菜ちゃん
の前に持って来ると、彼女はあたしの手を確認して不満気に言った。
『でも、少し濡れてるもん。それに、おねーちゃんに頭触られる事自体がイヤ』
『はん。ああ、そう』
肩をすくめて、ちょっと呆れたように返事する。ふと、これってあたしが別府君に言
いそうな言葉だなと思った。もっとも、あたしの場合は照れ隠しでなんだけど、でも言
われた側は同じ気分なのかも知れない。
『で、何で真菜が子供なわけ? おねーちゃんさ。あたしの事、子ども扱いしてごまか
してればそれでいいとか思ってない?』
真菜ちゃんの質問で、話が本筋に戻る。あたしは即答はしないように、よく考えてしゃ
べろうと思った。うっかりした事を言って意味が通らなければ本当にバカ扱いで終わっ
てしまう。ここが大人の女としての見せ所だ。
『違うわよ。子供の時ほど、そういう白馬の王子様みたいな素敵な出会いを期待するも
のだけどさ。実際はいろんな形の恋もあるんだって事。そういうのは、大きくなってい
かないと分からないんだから。いくら漫画や本を読んだってね』
もしかして、真菜ちゃんがませている理由の一つに、背伸びしてちょっと年齢層が上
を対象にした漫画や本を読んでいるせいなのかと思い、付け加える。彼女は首を回して
あたしを見る。その顔はまだ納得行かなそうな感じだ。
『じゃあ、いろんな形ってどんな形? おねーちゃんは、じゃあ何でお兄ちゃんが好き
だって思えたの?』
この質問に、あたしはグッと気を引き締める。ここが肝心だ。ここで真菜ちゃんにバ
カにされたら、今言ったちょっとカッコ良いセリフも全部水の泡と化してしまう。それ
に、子供相手とはいえ今まで誰にも話したことの無い自分の想いを話す事に、ちょっと
緊張もしていた。あたしは、一つ、小さく吐息をついた。
『……気が付いたら、好きになってたのよ……』
『何それ? どういう事?』
4
真菜ちゃんが聞き返す。あたしは、気持ちを落ち着かせようと天井を見て目を閉じた。
別府君との憎たらしくも甘酸っぱい記憶を蘇らせる。
『……最初に会ったのは、高校生の時よ。クラブの勧誘でね。案内の紙を見ながらボーッ
と立ってる別府君を見つけたの。その時は、いいカモとしか思わなかったわ』
『酷い。お兄ちゃんの事、カモだなんて。お兄ちゃんはね。うーん……鳥だったら、大
鷲とかかな? カッコ良いし』
ズレた真菜ちゃんの文句に、思わず笑いそうになってしまう。しかし、真面目な話を
している最中だったので、そこは堪えて話を続けた。
『そーいうんじゃなくって。ウチの部って弱小で、部員集めないと廃部の可能性もあっ
たから、引っ張り込むのに大人しくって優柔不断な奴って最適じゃない。ほら。別府君っ
て一見、そう見えるでしょ?』
『失礼な事言わないでよ。お兄ちゃんは理知的で優しそうって言うの。ホント、おねー
ちゃんって何にも分かってないよね』
あたしは、肩を竦める。ま、確かに好きっていうフィルター掛けるとそうなるか。今
ではあたし自身も、すっかり参っちゃっているんだし。
『ま、いいわよ。それで、同じ部でさ。まあ、先輩としていいようにコキ使ってたはず
だったんだけどね。何て言うのかな。一年くらいも経つと、いつの間にか部室に来ると、
まずアイツの事を気にするようになって……でも、まさか、それが恋だなんて思っても
無かったんだけどさ。特に二人っきりの時とかだと、妙に意識するようになっちゃって、
いないと妙に物足りない気分でさ。それで、もしかしたらって……』
今でも鮮やかに蘇る。部室で二人っきりになったある日。別府君に、あたしのファー
ストキスを捧げた時の事を。しかし、さすがにそこまでは真菜ちゃんに話す気はなかっ
た。もしあたし達が既にもう、何度かキスを交わした間柄だなんて知ったら、大騒動に
なってしまう。
『ふーん。じゃあ、一緒にいただけで好きになったの? 何かキッカケとかなかったの?』
『無かったわね。最初は自分の気持ちも否定してたし。まあ、強いて言えば、好きだっ
て気がついた事がキッカケかな? 一度認めちゃったら、後はどんどん好きになっていっ
ちゃったから』
5
それを口にしてから、あたしは急に恥ずかしくなる。何でこんな事まで言っちゃった
んだろう。これが裸の付き合いの効果なのか? それとも、同じ人を好きになったライ
バル同士だから、なのだろうか。
『何か、それ、分かんない』
真菜ちゃんが納得の行かない様子で呟くのを聞いて、あたしはガクッと脱力感を感じた。
『はぁ? 何よ、それ。人が恥ずかしいのを我慢してまで教えてやったのに、何で分か
んないのよ?』
思わず呆れ声で文句を言うあたしに、負けじと真菜ちゃんが言い返した。
『だーって、いつ好きになったか分かんないなんて、そんなのおかしいもん』
『それはアンタがガキだからよ。大人の恋愛はもっと複雑なんだから。そりゃ確かに大
人になったって、一目会った時から好きになったり、何かの事件がキッカケで好きにな
ることだってあるわよ。だけど、一緒にいるうちに、自然に好きになる事もあるの。そ
ういうのが分かって、初めて一人前になれるのよ』
十歳のお子様相手に口で負ける訳にはいかないと、あたしはもっともらしい言葉を並
べ連ねる。真菜ちゃんは少しの間、無言で考え込んでいたが、やがて顔を上げるとあた
しの方を見て言った。
『じゃあ、もう一つ聞くけど、おねーちゃんはお兄ちゃんのどういう所が好きだって思ったの?』
『え?』
話が微妙にズレたので、ちょっと頭が付いて行けずに咄嗟に聞き返すと、真菜ちゃん
はあたしを睨み付けた。
『だから、好きになったからには理由があるでしょ? 真菜は、お兄ちゃんの優しくて
頼りがいのあるところが大好きだけど、おねーちゃんはどうなのかって聞いてるの!!』
『好きなトコ……好きなトコ……ねえ……?』
どちらかと言うと、質問の中身よりも真菜ちゃんの質問の真意の方を、あたしは考え
てしまった。しかし、まっすぐな彼女の事だ。恐らくライバルであるあたしについて知
ろうと考えての事なのだろう。
『……まさかおねーちゃん。これも分かんないとか言わないわよね?』
考え込むあたしに、疑わしげな目線を肩越しに向けて真菜ちゃんが聞く。あたしは、
慌ててそれを否定した。
6
『まっさか。それくらいはちゃんとあるわよ。別府君の好きなトコでしょ? あたしの
方が年上で先輩なのに全然敬わない傍若無人さとか、人の弱味をすぐに突いて来る陰険
なトコとか、年の割りに説教臭いトコとか、後は……うーん……』
『何それ? 悪口ばっかじゃない。どこが好きなトコなのよ?』
呆れた口調で言う真菜ちゃんに、あたしはブスッとした言い方で答える。
『仕方ないでしょ? 実際、そーいう奴なんだから。アンタも気を付けた方がいいわよ。
別府君って、大人しくて優しくて面倒見がいいフリしてるだけで、実際もの凄くしたた
かなんだから。うっかり油断してると、身も心もボロボロにされて捨てられるわよ』
『お兄ちゃんはそんな酷い人じゃないもんっ!! 勝手な事言わないでよ』
最後はちょっと冗談だったのだが、真菜ちゃんは本気で怒って文句を言ってきた。
『今のは、おねーさんからの忠告よ。あんまり盲目に過ぎると、手痛いしっぺ返しを食
らうかもって事』
ちょっと大人らしく忠告めいた事を言うと、即座に真菜ちゃんはそれを否定した。
『それはおねーちゃんだけでしょ? お兄ちゃんは真菜を裏切ったりしないもん。おねー
ちゃんが勝手にお兄ちゃんを悪く見てるだけじゃない。全部、自分が悪いのに。それで
よく、お兄ちゃんの事、好きだなんて言えるよね』
『だって、しょうがないでしょ。そういう所を全部ひっくるめて、好きになっちゃった
んだもん……』
咄嗟にそう言ってから、自分の言葉に思わず恥ずかしくなってしまう。けれど、今の
は本心からの言葉だった。別府君の事を憎たらしく思うたびに、同時にますます好きだっ
て感じてしまうのだから。
『ひっくるめて…… 全部……』
その時、真菜ちゃんが小さく呟いた。あたしは横から彼女の表情を窺うように見ると、
何だかちょっと考え込むような難しい顔をしている。
『何よ。どうかしたの?』
そう聞くと、真菜ちゃんはハッとしてあたしを見た。その顔はいつになく、真剣で真
面目だった。そのまま、ほんの数秒だけ見合うと、真菜ちゃんは目を伏せ。それからつ
まらなさそうに答える。
『……何でもない。何でもないんだから』
7
自分に言い聞かせるように、二回同じ事を言うと、唐突に真菜ちゃんは湯船からザバッ
と立ち上がった。
『もう出る。長い事入り過ぎたから、体がふやけちゃった』
『あ、そう』
ようやく、広々とした湯船に体を沈めようと思ったが、真菜ちゃんが出て行ったらお
湯の量がグッと減ってしまった。今更、継ぎ足してまで入り続ける気にもならず、あた
しは腕組みをすると、彼女を睨み付けて言った。
『早く体拭いてよね。でないと、あたしが風邪引いちゃう』
すると真菜ちゃんは、あたしをジロリと睨み付けて答えた。
『分かってるわよ。バーカ』
しかし、乱暴な口調とは裏腹に、真菜ちゃんはあたしの言いつけ通りに手早くお湯を
拭き取ると、さっさと脱衣所に上がってしまった。出る間際に、しかめっ面であたしに
向けて舌をベーッと出すのは忘れなかったが。
――全く……生意気盛りなんだから……
続けて湯船から出てお湯を拭き取りつつ、さっきまでの会話を反芻してみる。
――でも……真菜ちゃんは、真菜ちゃんなりに、真剣なのよね……
さっきまでと違い、子供だからとバカにする気持ちは失せていた。お互い、別府君の
好きな理由を、腹を割って話したせいだろうか? 気のせいか、真菜ちゃんのあたしに
対する態度も、多少刺々しさが無くなった気もする。
――うーん…… やっぱり、別府君は凄いのかも。
風呂に入るまでは、こんな風に話をしてしまうなんて思ってもみなかった。まさか、
今まで誰にも話したことのない別府君に対する想いまでを。そこまで考えて、あたしは
ハッと気付く。まさかとは思うが一応釘を刺そうと、風呂場のドアを開けてちょうど着
替え終わった真菜ちゃんに言った。
『ちょっと!! あたしがさっき話したこと、うっかり別府君に言ったりしないでよ?』
すると真菜ちゃんは、ジロリとあたしを睨み付けて、口を尖らせて言い返した。
『当たり前でしょ、そんなの。女の子同士の話だもん。おねーちゃんこそ、真菜の話を
ポロッと口を滑らせて言ったりしないでよね』
『分かってるわよ。そんなの』
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そう答えてから、あたしはちょっと複雑な気分になった。それを敏感に察知して、真
菜ちゃんが聞いて来る。
『どうしたの? おねーちゃん』
『いや、その…… あたし達さ。一応、秘密を共有し合う仲になった……って事よね? これって』
すると真菜ちゃんも、複雑な表情をした。
『……そうかも。で、でもだからって、おねーちゃんと仲良くなった訳じゃないんだか
ら。敵同士だってことに変わりはないんだからねっ!!』
すぐに強気な態度に戻る彼女に、あたしも負けじと言い返す。
『分かってるわよそんなの。こっちだって、お子様に負ける訳には行かないんだから』
『そのお子様に、何にも勝てないくせにっ!! すぐにおっきくなって、お兄ちゃんと
最後に一緒になるのは真菜なんだからね。フンだ』
そういい残し、彼女は脱衣所から外に出て行ってしまった。後に残されたあたしは、
洗濯乾燥機から、乾いた服を取り出しつつ考えた。
――あたしも、いい加減、真剣に考えないとな。でないと、ホントに別府君を取られちゃ
うかも知れないし。本当に、今までが奇跡だったかも知れないんだから……
何度か経験した別府君との甘いひと時。あれを他人には渡したくない。その為には、
自分が頑張らないと。いつまでも甘えていてはダメなんだと、あたしは心に言い聞かせ
たのだった。
最終更新:2011年08月19日 09:23