「ふう…… こんなものかな?」
一通り、出来上がった料理を見て、僕は頷く。ハンバーグにクリームスープにサラダ。
大急ぎでキッチンを片付け、超特急で作った割にはよく出来たと思う。
『お兄ちゃん。出たよっ!!』
ちょうどその時、真菜ちゃんが疾風のようにキッチンに入り込んで来ると、そのまま
僕に抱きついて来た。
「おわっと!!」
バランスを崩しつつも受け止めると、シャンプーのいい香りが鼻腔を突いた。柔らか
な体が、ギュッと押し付けられる。僕は肩を押さえて優しくその体を離しつつ、真菜ちゃ
んに笑顔を向けた。
「ちゃんと洗って来たね。綺麗になったよ。いい香りもするし」
『ホント? お兄ちゃんに褒めて貰っちゃった。エヘヘ……』
もう一度、僕に抱きつくと真菜ちゃんは頬を胸にこすり付ける。さっきから、散々抱
きつかれてはいるが、お風呂上りになるとさすがに子供とはいえほのかな色気が漂う。
あらためて、子供の成長の速さというのを僕は認識させられた。
『コラ!!』
真菜ちゃんにされるがままに抱きつかれていたら、後ろからポカッと軽く頭を殴られ
た。振り向くと、先輩が怖い顔で僕を睨みつけている。
「あいてっ!! 何するんですか、先輩」
『何するんですか、じゃないわよ。何度も言ったじゃない。小学生とそういう事するの
は犯罪だって』
すると、それまでピッタリ僕にくっ付いていた真菜ちゃんが、手はしっかりしがみ付
いたまま体を離すと、先輩に向かって言った。
『出たな。怪人お邪魔虫』
『誰が怪人よっ!!』
怒鳴り散らす先輩を無視して、真菜ちゃんは僕を見上げて言った。
『お兄ちゃん。真菜は全然大丈夫だから、いつでもいっぱいギューってしていいんだよ?
もし、警察のおじさんが来ても、真菜がお兄ちゃんのこと守ってあげるからね』
先輩の言葉のせいで、どうやら真菜ちゃんまで勘違いしているようだ。僕は、優しく
真菜ちゃんの頭を撫でながら、笑顔で彼女を見下ろして言った。
2
「あっはははは。真菜ちゃん、大丈夫。抱き締めたくらいなら、警察の人もお兄ちゃん
を捕まえないからさ。もしそうだとしたら、世の中のお父さんや保父さんをやってる人
はみんな捕まっちゃうよ」
『ホントに? じゃあもっと』
もう一度、真菜ちゃんが僕をギュッと抱き締めてくる。いや。十歳とはいえ、女の子
にここまでして貰えると、奇妙な嬉しさがあるのが不思議だと、自分でも思う。
『いい加減に離れなさいってば。このバカ!!』
先輩の怒鳴り声が、今度は真菜ちゃんに向いた。すると真菜ちゃんが顔だけ上げて先
輩を見て言う。
『ふーんだ。おねーちゃんも、羨ましいならお兄ちゃんにギューッてすればいいのに。
女の嫉妬ってみっともなーい』
『誰が嫉妬してるか!! バカ言ってんじゃないわよっ!!』
何だか、風呂に入る前よりも口げんかのタイミングが良くなっている気がする。一緒
にお風呂に入れた成果がこれだけだとしたら、いささかガッカリだ。まあ、その程度で
仲が良くなるとも期待はしていなかったが。
『そうじゃなくて、アンタが引っ付いてたらご飯食べられないでしょうが。あたしはお
腹空いてんの!!』
『あ、そうだ。ご飯ーっ!!』
先輩の指摘に、真菜ちゃんはパッと僕から離れると、キッチンへと滑るように入っていく。
『わっ!? すごいっ!!』
そして、感嘆の声を上げた。真菜ちゃんの傍に寄ると、僕はちょっとくすぐったい気
分で謙遜する。
「すごいなんて、大した事ないよ。ハンバーグは真菜ちゃんの種がまだ使えたから、そ
れに余ってたひき肉とかを足しただけだし。他のも残り物で作っただけだから」
『ううん。だって、あんなにめちゃくちゃになっちゃったのに……』
さっきの事を思い出したのか、ちょっとしょんぼりした顔になる真菜ちゃんに微笑み
かけて、僕は言った。
「それはもういいよ。済んだ事だし、真菜ちゃんも十分反省したんだろ?」
『うん……』
3
真菜ちゃんが小さく頷く。僕もそれに頷き返した。正直、素直でいい子だなと思う。
「なら、もう元気出して。ご飯は楽しく食べないとね」
『うんっ!!』
パッと顔を上げ、嬉しそうに笑うと真菜ちゃんは元気良く返事をする。すると、僕の
背後で先輩が言った。
『ふぅん。相変わらず、やるもんねえ』
その、気のないような言い方に真菜ちゃんが食って掛かった。
『何でそんな偉そうなの? おねーちゃんのせいで、台所がぐちゃぐちゃになっちゃっ
たの、お兄ちゃんが全部綺麗にしてくれたのに』
『何であたしだけのせいなのよっ!! 大体、途中の経緯はともかく、手を出したのは――』
「はい、ストップ」
蒸し返しそうになったので、僕は睨み合いになった二人に割って入る。
「ちょっと待って下さい。お風呂で一体何を話して来たんですか? 十分話し合って、
仲直りしたんじゃないんですか?」
確か、そうするように言ったはずだと思い、二人に確認する。すると、二人はお互い
見合ってから、同時に僕の方を向いて言った。
『ええ。そりゃもう、十分に話し合ったわよ。体がふやけるくらい、たっぷりとね』
まず、先輩が言う。続いて、真菜ちゃんもそれに同意した。
『うん。真菜もしゃべったよ。このおねーちゃんと、いっぱい』
「まあ、それは良かった事だと思います。で、結果は?」
僕の質問に、二人は同時に答えた。
『『仲直りなんて、無理!!』』
一瞬の沈黙が降りる。何だか、余計に面倒を抱えたような気分で、僕は深くため息を
つき、片手で額を押さえる。聞き分けのない子供を抱えた先生の気分と言うのはこんな
ものかと思う。
『無理よ。だって、そもそも最初から仲が良くないのに直るわけないじゃない』
先輩の言葉に、真菜ちゃんも同意して頷く。
『そうだよ。それに、おねーちゃんは真菜にとって、敵だもん。ライバルだもん』
どうして、こういうところだけはピッタリと息が合うのだろうか。不思議に思いつつ、
僕は先輩の方を向いて言った。
4
「全くもう。真菜ちゃんはともかく、先輩は少しは歩み寄る努力とか、したらどうなん
ですか。相手は小学生なんですよ。先輩は、もう子供じゃないんですから」
『あたしは大人よっ!!』
即座に先輩は文句を言う。しかし、やってる事は子供と同じじゃないか。そう言おう
と思って口を開く前に、先輩が言葉を続けた。
『ついでに言えば、真菜ちゃんだって、もう子供だなんて言ってられないわよ』
「どういう意味ですか?」
先輩の意図が分からず、僕は質問する。すると、先輩はちょっと失敗したというよう
なしかめっ面をしてみせた。チラリと真菜ちゃんの様子を見てみると、ポカンとした様
子で先輩を見つめている。すると、先輩が、小さく呟いた。
『……十歳だからって、立派な女の子……なんだから…… あんまり子供扱いしてると、
傷つけることになるわよ』
この言葉には、さすがの僕もちょっと驚いて先輩を、そして真菜ちゃんを見つめた。
先輩はというと、うつむき加減に視線を逸らし、渋い表情を作っている。そして、真菜
ちゃんは思わぬ先輩の言葉に、こっちも驚いているようだった。
「そう……ですね。先輩の言う通りかも知れません。それは、肝に銘じておきます」
風呂の中でどんな話をしたかは、まあ、聞いたところで答えて貰えないだろうとは思っ
ていた。しかし、どうやら今の一言から察するに、お互いの存在を認める程度の話はし
たのかも知れないなと推測した。
『真菜、おねーちゃんに立派な女の子だなんて言って貰ったって嬉しくないよ』
先輩から視線を逸らし、真菜ちゃんが小さな声で言う。僕は思わず苦笑してしまった。
全く、意固地なところは誰に似たんだろうかと。
『うるさいわねっ!! 別府君があんまり偉そうに説教するもんだから、一言やり返し
ただけよっ!!』
先輩は先輩で、真菜ちゃんを睨み付けて怒鳴り返す。しかし、先輩が真菜ちゃんの事
を対等の関係と認めてやり合うというのだったら、まあそれはそれで仕方が無いだろう
と、僕は肩をすくめつつ思った。仲良くなるというのは難しいのかもしれないけど、互
いに了解の上で喧嘩し合うのだったら、それはそれで口を挟む事じゃないのかも知れないなと。
5
「ところでさ。二人とも、そろそろごはんにしない? せっかく出来上がったばかりで
温かいのが冷めちゃったらもったいないでしょ?」
先に元気良く頷いたのは真菜ちゃんだった。
『うん!! そうだった。せっかくお兄ちゃんが美味しく作り直してくれたのに、おバ
カなおねーちゃんの相手してる場合じゃなかった』
『だから、誰がバカよっ!!』
先輩の怒鳴り声は無視して、真菜ちゃんはテーブルにつこうとする。
『ねー、お兄ちゃん。真菜の席、どっち?』
二人並びの席を指して、真菜ちゃんが聞く。
「真菜ちゃんは右側の席ね。で、先輩がその隣りで」
そう指示すると、真菜ちゃんがむくれた顔で文句を言って来た。
『えーっ。真菜、お兄ちゃんの隣りがいい。そっち行っちゃダメ?』
「ダメだよ。ちゃんと僕なりに考えて決めたんだから、言う事聞いて?」
僕とどちらか片方を隣りにするとまた揉め事になるし、かといって三人並びと言うの
も変な感じだし、そもそも窮屈だ。そう考えての配置だったが、真菜ちゃんはいたくご
不満らしく、珍しく食い下がってきた。
『だって、せっかくのお兄ちゃんとのお食事なんだもん。楽しく食べたいよ。絶対、そっ
ちの方が美味しく食べられるし』
さて。いざ我がままを言い始めると頑固な真菜ちゃんをどうやって説得しようか。悩
んでいると、意外にも先輩が僕に加勢してくれた。
『もう、うっとうしいわね。別府君がそう言ってるんだから、素直に言う事聞きなさいよね』
すると真菜ちゃんが、今度は先輩に食って掛かった。
『うわ。ここぞとばかりにいい子ぶってる。ホントはおねーちゃんだって、お兄ちゃん
の隣りに並んでごはん食べたいくせに』
すると、先輩がグッと言葉に詰まる。頬を赤らめつつも、強気に真菜ちゃんを睨み付けた。
『あ……あたしは別にその……どっちだっていいけど、別府君がダメだって言うならダ
メでしょ。何も四十六時中いちゃいちゃする必要なんてないし、時と場合を選べっての。
ただでさえ時間食ってんのに、こんな事で揉めてたらまたごはんが先延ばしになるじゃ
ない。あたしはお腹空いてんのよ』
6
珍しく、先輩が僕を立てるような事を言ってくれた。もっともそれは、自分の目の前
でまた、真菜ちゃんが僕にいちゃつく姿を見せつけられたくないからなのだろうが。か
といって、僕の隣りの席を巡って先輩が真菜ちゃんと取り合いをするとは思えないし。
「真菜ちゃん。あんまり我がまま言ってると、真菜ちゃん一人だけ、離れた席でご飯食
べて貰うよ」
真菜ちゃんが何かを言い返す前に、僕は素早くそう言った。真菜ちゃんはビクッと体
を震わせると、僕を見て、それから先輩を恨みがましそうに見つめた。
『おねーちゃんが変な事言うから、真菜、お兄ちゃんの隣りで食べられなくなっちゃっ
たじゃない』
不満気に呟き、大人しく席に着く真菜ちゃん。その隣りに座りつつ、先輩が文句を言った。
『ちょっと。何であたしのせいなのよ。我がまま言ったのは自分でしょ? 大体、席だっ
て決めたのは別府君なんだし』
『何でもいいの。とにかくおねーちゃんが悪いのっ!!』
真菜ちゃんは、そう言い捨てるとプイッと先輩から顔を逸らした。先輩が何か言い出
さないうちに、僕は慌てて言った。
「さ。それじゃもうケンカはおしまいにして、ご飯にしよう。ね?」
それと同時に、先輩にここは我慢してください、と目で合図を送る。多分、真菜ちゃ
んも自分が悪い事は十分に分かっているのだ。だけど、不満のはけ口を僕に向ける訳に
行かないから、仕方なく先輩に八つ当たりしてるだけなのだと。
『分かったわよ。全くもう。ほら、食べるわよ』
頬を膨らましたままうつむく真菜ちゃんを、先輩が促す。珍しく、真菜ちゃんが先輩
のいう事を聞いて小さく頷く。それを見て、僕は食事の挨拶をした。
「はい。それじゃあ、いただきます」
『いただきまーす』
『いただきます』
真菜ちゃんと、それに続いて先輩も挨拶する。それから、真菜ちゃんは早速ハンバー
グを一口、口にする。
7
『美味しいっ!!』
曇りがちだった顔が、パッと明るくなる。
『お兄ちゃん。これ、すっごく美味しいよ』
「ハハ。どうもありがと」
ちょっと大げさに褒める真菜ちゃんに、僕はちょっと照れつつお礼を言った。そうい
えば、真菜ちゃんに今まで僕が料理を作ってあげた事はなかったなと、思い返す。大抵
はうちの母親と真菜ちゃんのお母さんが作って、僕が真菜ちゃんの面倒を見る役目だったから。
『ふーん。まあまあいけるじゃない』
その横で、先輩が感想を言う。基本褒める事をしない先輩だけに、その言葉と満足そ
うな顔だけで、十分に美味しく感じられたのだろうと推測した。しかし、真菜ちゃんに
は不満だったようで、両手にナイフとフォークを持ったまま、キッと先輩を睨みつける。
『何、その言い方。せっかくお兄ちゃんが作り直してくれた美味しいハンバーグなのに。おねーちゃんって、自分では何にも出来ないくせに、ホント態度だけは偉そうなのよね』
ムッとした顔で、真菜ちゃんは先輩を睨みつける。先輩は一瞬、怖い顔をして見せた
が、すぐにバツの悪い顔になった。
『別に、正直に言っただけじゃない。悪い事したからって、いちいちお世辞言う事も無
いでしょ? そーいうのって、却って失礼じゃない』
先輩にしては力ない返事だなと思う。やっぱりまだ、先輩の中ではさっきの一件が罪
悪感となって残っているのだろう。
『ふーん。こんな美味しいのに、おねーちゃんってば、味オンチなんだね』
ジト目で、真菜ちゃんは先輩に嫌味を言う。すると先輩は、一瞬顔をしかめたが、す
ぐに平然とした風を装って言い返す。
『フン。アンタが大げさなだけよ』
そして、もう取り合わないという風に、ごはんを口に運ぶ。真菜ちゃんは、そんな先
輩をうろんげに見つめていたが、僕の方に向き直るとニッコリと笑顔を見せた。
『お兄ちゃん。ありがとう。真菜の手料理を食べさせてあげられなかったのは残念だけ
ど、その代わりお兄ちゃんのお料理が食べられて嬉しい』
正直、真正面からここまで喜ばれると、僕としてもさすがにちょっと気恥ずかしさを
覚えずにはいられなかった。くすぐったい気分で真菜ちゃんに微笑み返す。
8
「ありがとう。でも、これは真菜ちゃんが作った分も入ってるからね。それに、付け合
せの野菜はそのまま真菜ちゃんが作った物だし。だから……そうだね。二人で一緒に作っ
た物かな?」
そう言うと、真菜ちゃんは一瞬、呆然とした顔をする。それからみるみるうちに、顔
中が喜びで満たされたような笑顔に包まれた。
『お兄ちゃんっ!!』
ガタッと椅子を鳴らして立ち上がると、真菜ちゃんは机を回って僕の傍まで来ると、
いきなり抱き付いてきた。
「ちょ、ちょっと真菜ちゃん!! 今、食事中……」
『真菜嬉しい!! お兄ちゃんと二人で作ったって言って貰えて』
どうやら僕の言葉は、想像以上に真菜ちゃんを喜ばせてしまったようで、しっかりと
抱きついたまま離れようとはしなかった。すると今度は、先輩がガタッと立ち上がる。
『食事中に何やってんのよ。うっとうしいわね。ちゃんと食べなさいよっ!!』
すると、真菜ちゃんは顔だけ上げて先輩を睨み付けた。
『うるさいなあ。負け犬。役立たず。悔しかったらお兄ちゃんに褒めてもらったらどう?』
先輩は一瞬、グッと悔しそうな顔で言葉を詰まらせる。しかし、いい言葉が思い付い
たのか、すぐに強気な表情に戻って言い返してきた。
『たまたま、使える材料が残ってたってだけでしょ? あたしのはアンタに真っ黒焦げ
にされたんだからしょうがないじゃない』
『あんなの、どっちみち食べられたものじゃないもん。ね? お兄ちゃん』
にべもなく言い捨てて、真菜ちゃんは僕を見る。先輩の料理の腕前は大体知っている
僕からすれば、真菜ちゃんの言い分は正しいのだろうと思うが、それでもむやみに先輩
の機嫌を逆なですることは避けたかった。
「いや。僕は先輩の料理は見てないから。まあ、確かに残念ながら、一から作り直さな
くちゃいけなかったけどね」
『別に、無理しておねーちゃんを持ち上げなくてもいいのに』
僕の言葉に、真菜ちゃんはちょっと憮然とする。しかし、僕は無理して言ったわけで
はなかった。果たして、先輩が一人でグラタンを作り上げたとしたらどんな物になるの
か、ちょっとした怖いもの見たさ的な興味はあったからだ。
『アンタね。いい加減甘えるのもよしなさいよ。席に戻ってごはん食べたらどうなの?』
僕から離れようとしない真菜ちゃんに、ムスッと不機嫌そうな声で、先輩が説教臭く
文句を言う。しかし、真菜ちゃんは反抗心を剥き出しにベーッと舌を出した。
『ヤダよーだ。おねーちゃんにそんな事言われる筋合い無いもん』
『あるわよっ!! 目の前でベタベタベタベタ。うっとうしくてご飯にならないのよっ!!』
負けじと先輩が怒鳴り返し、二人はまるで歯を剥き出しにした猛獣のように睨み合う。
さすがに収拾つけないとどうしようもない事態になり、僕はため息を小さくついた。
「真菜ちゃん。今は一度、席に戻って。そうでないと僕も真菜ちゃんも、ごはん食べら
れないでしょ?」
2
しかし、真菜ちゃんは僕をジッと見つめると、小さく左右に首を振る。
『大丈夫。お兄ちゃんには、真菜が食べさせてあげるから』
そう言うと、抱き締めていた腕を放し、僕のフォークとナイフを手に取って、手際よ
く一切れにハンバーグを切り分けると、それをフォークで刺して僕の前にかざした。
『はい。お兄ちゃん。お口開けて。あーん』
「え?」
思わず戸惑いの言葉が口をつく。しかしほぼ同時に先輩が立ち上がり、不満の声を上
げた事で、僕の言葉はかき消されてしまった。
『ちょ、ちょっと待ちなさいよっ!!』
睨み付ける先輩を、真菜ちゃんはジロリと横目で睨み返す。
『なーに。おねーちゃん。さっきからやかましいばっかりなんだけど』
それから、すぐに視線を僕に戻すと、ジッと期待に満ちた顔で言った。
『あんな人、気にしないでいいからね。はい、あーん』
しかしここでうっかり口を開けてしまうと、後から先輩が怖い。逡巡していると、す
ぐに先輩が文句を続けてきた。
『だから待てっての。さっきの勝負は無効なんでしょ? なのに、何で一人で勝った気
になって、別府君にご飯食べさせてあげようとしてんのよ?』
立ち上がって机に手を付き、身を乗り出して抗議する先輩に、真菜ちゃんはわざとら
しく得意気な顔をして言った。
『えー。だって、本当は真菜の勝ちみたいなもんだもん。だって、お兄ちゃんと一緒に
作ったんだし。おねーちゃんのゴミとは訳が違うもんねー』
『だからゴミにしたのはアンタじゃないのっ!!』
また、同じ争いを二人は蒸し返してしまう。全く、どれだけ言い争いが好きなんだろ
うかと、さすがに僕もうんざりする思いがした。もっとも、間違った意味で意気投合し
ていると言えば言えなくも無い訳だけど。
「ほら。二人とも食事中だから。喧嘩しない」
ちょっと口調を強めにして二人をたしなめる。すると、先輩の方は少しバツの悪そう
な顔をしたが、真菜ちゃんは相も変わらず強気だった。
『いいんだもん。どっちみち、真菜には関係ないし』
そう言って、真菜ちゃんは表情を和ませると僕に向き直って言った。
3
『だから、気にしないでお兄ちゃん。はい、あーん』
『だから待ちなさいよっ!!』
一瞬、呆気に取られた先輩が再び止めに入る。
『何よもう。うるさいなあ、おねーちゃんは。ご飯の時くらい静かにしてよね』
大人ぶった口調で、真菜ちゃんは逆に説教して先輩の神経を逆撫でする。しかし、今
度ばかりはそれで先輩は怯んだりしなかった。
『何が関係ないのよ。勝負付いてないんだったら、別府君に食べさせてあげる権利なん
てないじゃない。なのにダメよ、そんなの』
すると真菜ちゃんは、つまらなさそうな顔で小さく言った。
『だったら、おねーちゃんもやればいいじゃん』
『は?』
先輩が思わず凍りつく。そんな先輩を睨みつけつつも、何だか言いたくなさそうな感
じで真菜ちゃんが言葉を続ける。
『やっぱり頭悪いのね、おねーちゃんって。勝負がなしになったって事は、お兄ちゃん
をひとり占め出来なくなったってことだけでしょ? でも、お兄ちゃんに甘えちゃダメ
ってことじゃないじゃん。したかったら、おねーちゃんもすればいいのよ。違う?』
先輩は言葉を失ってピタリと動きも止めてしまった。どうやら、頭が混乱してしまっ
たようだ。一方、僕としてもこの中に割って意見を言えるような雰囲気ではない。
『う……まあ、その……そうっちゃそうだけど……』
いささか納得の行ってない様子ながら、先輩にはそれしか答えようがないようだった。
するとすかさず真菜ちゃんが言い返す。
『ホント、おねーちゃんってハッキリしないよね。大人のクセに。だから何やらしても
ダメなんじゃないの?』
キツイ一言に、さすがに先輩も顔を上げて真菜ちゃんを睨み返す。
『アンタねー。何やらしてもって事はないでしょ? たかが一度、料理に失敗したくら
いじゃない。それも、アンタのせいだってあんだからね』
とはいえ、先輩の言葉がいつもと比べてどこか弱々しく僕には感じられた。もしかし
たら、あの先輩ですらストレートな真菜ちゃんの勢いに押されているのかも知れないと、
そんな気がしてしまう。
4
『だったら、せめておねーちゃんも、好きな人には尽くすくらいの事してあげたら? そ
れも出来ないんだったら黙っててよね』
先輩は、それに言い返すことが出来ず、グッと黙ってしまった。普段だったら、僕の
事なんて好きでもなんでもないとか言うところなんだろうけど、それを言うと真菜ちゃ
んのしたい放題になってしまうので、それすら言えないようだった。
『はい。それじゃ、お兄ちゃん。あらためて真菜とお兄ちゃんが二人で作ったハンバー
グだよ。お口、あーんして』
気を取り直して、真菜ちゃんがニコニコ顔でハンバーグを差し出して来る。僕はふと、
先輩からまた何かあるんじゃないかと思ってチラリと視線を送る。すると、先輩がその
視線を敏感に感じ取ったようで、僕を睨んで言った。
『何よ? 何かあたしに含むトコとかあんの?』
「え……いや、その……」
先輩の質問に、僕は戸惑う。果たして、このまま真菜ちゃんから食べさせてもらって
いいものかどうか。だが、それを聞くわけにも行かない。すると、真菜ちゃんが空いた
手で、僕の服をつまんで引っ張った。
『おにーちゃん。あんな人の事、気にしないでいいってば。だから、ほら。早く』
視線を戻して、躊躇いがちに真菜ちゃんに笑い掛ける。そして、もう一度先輩を一瞥
した所で、先輩が不貞腐れたように声を掛けてきた。
『フン。食べさせて貰いたかったら、そうすればいいのよ。バカじゃないの? いちい
ちこっちの顔色を窺ってさ』
その一言で、僕の迷いが消えた。どのみち、断る訳には行かないんだし、先輩に止め
る気もないんだったら、ここは真菜ちゃんに甘えさせてあげるしかない。
「じゃ、じゃあ真菜ちゃん。頂くよ」
『えへっ。はい、あーん』
弾けるような笑顔を、真菜ちゃんが浮かべる。十歳にして既に、男心を蕩けさせるよ
うな笑顔だ。真菜ちゃんが大きくなった時に、好きになった男性が誰であれ、きっと幸
せな人生を送れるに違いないだろうと僕は確信する。
「あーん」
5
口を開け、軽く目を瞑る。すると、口の中にハンバーグが差し込まれる気配を感じた。
僅かに目を開けると、真菜ちゃんがあどけない笑顔で、ハンバーグを差し出しているの
がすぐ間近に見えた。僕は口を閉じる。言い争いで大分冷えてしまったとはいえ、まだ
温かみの残るハンバーグの甘く柔らかな、しかし弾力のある感触が口に広がる。
『えへへー…… どう? 美味しい?』
咀嚼しながら、僕は頷いた。すると、真菜ちゃんが顔いっぱいに笑顔を浮かべる。
『ホント? ね? それって、真菜に食べさせて貰ったから?』
まるで、おねだりをするような顔で聞いてくる。僕は、それに先輩が何らかの茶々を
入れてくるんじゃないかと思ったが、意外にも先輩はジッとこっちを睨むように見てい
るだけで、何も言って来なかった。
「そうだね。ハンバーグそのものも美味しかったけど、真菜ちゃんが優しく食べさせて
くれたから、その気持ちの分、より美味しく感じられたよ」
笑顔で頷いて見せると、真菜ちゃんは驚いたように目を見開く。天真爛漫な笑顔を見
せるかと思いきや、真菜ちゃんはちょっと顔を赤らめて、目を伏せた。
『や……ヤダな。何か、お兄ちゃんにそこまで褒めて貰うと、その……嬉し過ぎて、何
かその……変な気分だよ……』
これは何と言うか、小学生の純真な子供の仕草ではない。まるで、大人の女性が恋人
に対して見せる仕草だ。もし、目の前の子が十歳だという意識が無ければ、コロリと参っ
てしまってもおかしくはなかった。
「ハハッ。大げさだな、真菜ちゃんは。真菜ちゃんみたいな子にそうやって食べさせて
貰えたら、誰だって嬉しいって」
ここは笑ってごまかすことで、何とか心のバランスを保つ。一方の真菜ちゃんは、ま
だ照れた顔のまま、ちょっとだけ不服そうにうつむいて、指を弄んでいた。
『……だって……ホントに、キューッていう気分なんだもん……』
そういう真菜ちゃんの様子は、本当に子供ながらに、大人をドキリとさせるに十分の
色気を含んでいた。女の子は成熟が早いというのは本当なんだなと、しみじみと思う。
『あの……今度は、お兄ちゃんが真菜に食べさせてよ』
不意に、顔を上げて真菜ちゃんが言った。
「え? 僕が?」
6
思わず聞き返す僕に、真菜ちゃんはコックリと頷く。しかし、そこにも笑顔は無い。
照れたような困ったような、どうしてよいか分からないような表情で。
『んと……あのね。真菜も、お兄ちゃんに食べさせて貰った方が美味しく感じられると
思うの。だから……お願い。あーんって、して』
そう言い終えると、あごを上げて、真菜ちゃんは目を閉じる。キュッと閉じた口が、
おねだりするように僕に向けられる。これは断りようが無いなと思い、返事をしようと
思ったその時、いきなり先輩から横槍が入った。
最終更新:2011年08月19日 09:24