『ちょっと待ちなさいよ』
その声はけして大きくはなかったが、何だか決然とした思いが感じられる、キッパリ
とした声だった。真菜ちゃんが目を開け、視線を先輩に廻らせた。
『何、おねーちゃん。今いいところなの。邪魔しないで欲しいんだけど』
しかし先輩は、キッと真菜ちゃんを睨み付けて言った。
『アンタさっき、あたしにも権利あるって言ったわよね?』
先輩の言葉に、真菜ちゃんはジッと先輩を見つめていたが、やがて小さく頷く。
『うん。だって、決着付いてないんだもん。まあ、ホントなら真菜の勝ちなんだけど、
でも最後まで作れなかったから……だから、そう言ったよ』
『だったら、次はあたしの番よね?』
そう言って、先輩は立ち上がる。椅子を持って僕の隣に運び、僕の目の前からスープ
を引き寄せる。
『何ボケーッとしてんのよっ!! こっ……このあたしが、アンタに食べさせてあげるっ
て言ってんのっ!! ありがたく思いなさいよね』
あくまで強気に、僕を睨み付けて先輩が言った。しかし、その顔は真っ赤に染まっている。
『やるんだったら早くしてよね。真菜、待ってるんだから』
一方で、せっかくの雰囲気をぶち壊しにされたとばかりに仏頂面になってしまった真
菜ちゃんが文句たらたらな態度で急かす。するとそれを先輩が睨み付けて怒鳴った。
『うっさいわね!! アンタだって時間掛けてたじゃない。あたしにだって、自分のペー
スでさせなさいよね』
噛み付かんばかりに吠える先輩を、真菜ちゃんはただ、フンと鼻息一つ鳴らしただけ
でスルーする。それから先輩は、半ば呆気に取られてやり取りを眺めていた僕の体を掴
んで、無理矢理に自分の方に向けさせた。
『ああ、もうっ!! さっさとこっち向きなさいよね。あたしだって、好きでこんな事
するんじゃないんだからっ!!』
そして、スープをすくって僕に差し出そうとする。しかし僕は、微笑みつつちょっと
嫌な質問をしてみた。
「好きでするんじゃないんだったら、何で食べさせようなんて思ったんですか?」
すると、先輩の眉がギュッと寄る。そして、持ち上げたスプーンを一度戻すと、僕か
ら視線を逸らし、たどたどしく答えた。
2
『き……決まってるじゃない。そんなのっ!! えっと、その……ここで、真菜ちゃん
一人だけに自由にさせたら……それじゃ、あたしが負けた事と同じになっちゃうじゃな
い…… だからその……立場を均等にする為って……そ、それだけなんだからっ!!』
やっとの事で言い終えると、先輩は視線を戻してキッと僕を睨み付ける。僕は両手を
広げて先輩を制してみせる。
「分かりました。分かりましたから、そんなにムキにならないで下さいってば」
『あたしはムキになんてなってないわよっ!!』
そう言いつつ、僕の目にはどう見ても先輩が必死なようにしか見えなかった。何だか、
先輩の方が真菜ちゃんよりよっぽど子供に見えなくも無い。だけど、それが先輩のいい
ところでもあるのだが。
「それはすみませんでした。それじゃあ、お言葉に甘えて食べさせて貰うことにします」
そう言って、僕は先輩の方に体を向ける。すると先輩は片手でスープ皿を持ち、もう
片方の手でスプーンを持ってスープをすくった。
『えっと……それじゃあ、その……た、食べさせるわよ?』
「はい」
先輩の合図に、小さく頷く。スプーンを持つ手が小刻みに震えるのを、先輩は懸命に
抑えようとしていた。僕を見つめるその顔は、首筋までが紅に染まっている。
『目、閉じて。じっと見つめられると気持ち悪いのよ』
「こうでいいですか?」
先輩の指摘に、素直に僕は従う。どうやら、僕の視線が恥ずかしくて耐えられないよ
うだと言うのは、先輩の様子を見ていれば分かりすぎるほどに分かってしまう。
『う、うん。そ、それじゃあ……口、開けて』
先輩が指図すると、僕は無言で頷き、出来る限り大きく口を開ける。正直、先輩の手
元が狂って、スープが胸元にこぼれないかどうか、それだけが心配の種だった。なんせ、
先輩の事だ。十分やりかねないと思う。
しかし、スプーンが口に差し込まれた時、僕は何とかそれが杞憂に終わったと確信し
た。口の中でスプーンの角度が変わり、既に生ぬるくなったスープが口へと注がれる。
軽く口を閉じてスプーンを挟み込むと、ゆっくりと引き抜かれる。
『……ど、どうだった……?』
3
僕が目を開く間もないくらい早く、先輩が感想を聞いてくる。あまりの早さに、僕の
方が一瞬、ついて行けなかった。
「えっと、その……何がですか?」
思わず聞いてから質問の意味に気付いたが、その時はもう、先輩は眉を逆立てて睨んでいた。
『だからっ!! スープを飲ませて貰ってどうだったか聞いてんのっ!! あたしがこ
んな恥ずかしい思いしてんのに、感想何も無しとか許さないわよっ!!』
興奮して先輩が掴みかからんばかりに詰め寄る。うっかり素直な気持ちを口に出して
るのに、それにも気付かないほどだから、余程動揺しているのだろう。
「え、えーと、その……上手でしたよ? てっきり、上手く口に入れられずにこぼすん
じゃないかってヒヤヒヤしてましたから」
思った感想を素直に口にしたら、先輩が目を剥いて怒鳴った。
『そのくらいちゃんと出来るわよっ!! ていうか、真菜ちゃんよりあたしの方を子供
扱いしてるでしょアンタ? バカにしてんの?』
「いやいや。決してそんな事は」
真菜ちゃんがいなければ、軽く頬にキスして黙らせるのに、とチラリと思う。だけど、さすがに従兄妹の前でそれはマズイので、何とか口でだけで宥めなくてはならない。
『じゃあ、ちゃんと感想言いなさいよね。で、どうだったの? 美味しかった?』
それにはさすがに僕は首を捻らざるを得なかった。
「うーん。自分で一から作ったスープなんで、不味いわけは無いですけど……だからと
いって、美味しかったとはさすがに言えないですよね。手前味噌過ぎて」
『じゃあ他には何かないの? まさかホントに……』
先輩の顔が、不安げに曇る。先輩がここまで必死だなんて珍しいが、多分さっき僕が
真菜ちゃんに感じた事を、先輩も傍から見て感じていたのかも知れない。このままもう
少し、不安げな先輩を見ていたい気もしたが、さすがにちょっと可哀想だし、うっかり
キレられると困るので、ここらへんが潮時と僕は笑顔で首を横に振る。
「いや、そんな事は無いですよ。少なくとも、先輩が顔を真っ赤にしてスプーン差し出
して来る姿だけで、嬉しくてたまりませんでしたからね」
すると、心配そうな表情が一転、驚いたような顔になる。と、途端に一度引いていた
赤味が、みるみるうちに先輩の顔を染めて行った。
『バッ……バカにしてんのアンタっ!?』
4
先輩が怒ったような顔つきで怒鳴る。僕はちょっとイヤらしい笑みを張り付かせたま
ま、首を横に振ってそれを否定した。
「いやいや。そんな事無いですよ。先輩の恥らう姿ってすっごく可愛いんですから。多
分ご自分では気付いてないでしょうけど」
その言葉に、先輩の顔の赤味が朱から濃い紅へと変わる。耳元から首筋から、全部が
真っ赤っかである。先輩は僕を睨みつけたまま荒い息をついていたが、次の瞬間、いさ
さか乱暴にスープを掬い取ると、スプーンを僕に突きつける。
『ああ、もういいわよっ!! ほら、もう一口。今度こそ、ちゃんとした感想言わない
と、次は皿から直で飲ませるわよ?』
「正直に、感想言ったんですけどねぇ……」
先輩の脅しに、僕はため息混じりに答える。そして、先輩のリクエストに答えようと
した時、今度は逆に真菜ちゃんから制止の声が掛かった。
『ちょっと待ってよ!! 今度は真菜の番っ!! お兄ちゃんにハンバーグ食べさせて
貰うんだから、おねーちゃんはもう終わりなの!!』
すると、先輩が僕を挟んで真菜ちゃんに文句を言い返す。
『何よ。もう一口くらいあげたっていいじゃない。そのくらい、譲り合いの精神でしょ?』
『こっそり続けようとするおねーちゃんに、そんな事言われたくなーいっ!!』
真菜ちゃんが憤慨して文句を言い返す。このままの状態で口喧嘩を繰り広げられると
非常にやかましいので、僕は急いで二人を宥めに掛かった。
「ほら。二人とも喧嘩しない。でないと、これで終わりにするよ? それでもいい?」
そう聞くと、真菜ちゃんは即座に不服そうな声を上げる。
『えーっ? まだ、全然やってないもん。もっとお兄ちゃんと食べさせ合いっこしたい』
一方で先輩は、わざと平然を装って答える。
『……ま、あたしはその……真菜ちゃんもやらないっていうなら、別にいいんだけど……』
とはいえ、その表情にちょっと残念そうな色が見えるのは、本人は恐らく気付いてい
ない事だと思う。
「だったら、ちゃんと大人しく順番を待つ事。まあ、確かに先輩からは一口頂いてるん
で、公平に行けば次は真菜ちゃんですね。それでいいですか?」
先輩に聞くと、先輩はそっぽを向いてつまらなそうに言った。
『別に、そうならそうでいいわよ。さっさと済ませてきたら?』
5
何となく、諦めた様子で言われたので、僕はそれを納得と解釈して真菜ちゃんに向き直る。
「それじゃ、真菜ちゃん。次は僕が食べさせてあげるんだっけ?」
そう言うと、真菜ちゃんは嬉しそうに顔を綻ばせて頷いた。
『うんっ!! お兄ちゃんに食べさせてもらうハンバーグ……美味しいんだろうなあ……』
ワクワクしながら待つ真菜ちゃんを尻目に、僕はハンバーグを切り分けてフォークで
突き刺すと、真菜ちゃんに向けた。
「ほら。それじゃあ、口開けて。行くよ」
『あーん』
声に出して口を開ける真菜ちゃんに、そっとハンバーグを差し出す。小さな口が閉じ
られてハンバーグを食べると、フォークが引き抜かれるのを待ってから、ゆっくりと噛
んで、そして飲み込まれる。
『美味しい…… ハンバーグも美味しいけど、やっぱりお兄ちゃんに食べさせて貰った
から、嬉しさと美味しさで、真菜、幸せ過ぎる……』
ほんのりと顔を上気させ、幸せに浸った表情の真菜ちゃんに、僕は笑って頷く。
「ハハハ。そりゃ良かったな。僕も食べさせ甲斐があるよ」
しかし、ゆっくりとする間はなかった。うしろから先輩が服を引っ張る。振り返ると、
先輩がもうきっちりとスタンバッていた。
『ほら。今度はあたしの番でしょ? 早くこっち向きなさいよね』
「あ、はい。分かりました」
真菜ちゃんから先輩に向き直ると、今度は後ろから声が掛かる。
『おねーちゃん、早くしてよね。おねーちゃんて、基本グズでノロマだから時間掛かり
過ぎるんだもん』
『誰がグズでノロマよっ!!』
また僕を挟んで文句を言いつつ、今度は先輩は自分の皿を寄せて僕に差し出す。
「え? 今度は僕が先輩に食べさせるんですか?」
そう聞くと、先輩は挑むように頷いて言った。
『当然でしょ? 交互にっつってんなら、今度はアンタが食べさせる番じゃない。それ
ともあたしは一人で食べてろと?』
「分かりました。じゃあ、何がいいですか? スープですか? ハンバーグ? それと
もサラダがいいですか?」
6
肩をすくめつつ、料理を見ながら聞くと、先輩はサラダを指差した。
『えっと……じゃあ、サラダ……』
「分かりました。それじゃあ、行きますよ」
先輩の箸でサラダをつまみ上げ、先輩に差し出す。見ると、先輩はギュッと目をつぶ
り、緊張しているように体を硬直させている。嫌そうに顔を歪めてはいるが、どこか期
待の色が浮かんでいるのが明らかに隠せていなかった。
「ほら、先輩。そんな顔してないで、もっとリラックスして、口を開けて下さい」
『分かってるわよっ!! 御託はいいから、さっさとやりなさいってば!!』
どうあっても強気な態度を崩さない先輩にため息をつきつつ、僕は言った。
「それじゃあ、ほら。はい、あーん」
『あ……あーん……』
真っ赤な顔で、先輩が口を開ける。ホント、純情なのだけは真菜ちゃんを遥かに上回
るなと思いつつ、先輩の口にサラダを差し入れた。先輩が食べ終わるのを待って、聞く。
「どうでしたか? 僕に食べさせてもらった感想は」
『ふぇっ!?』
何だか、ポーッとしている風だった先輩は、ビックリしたような声を上げた。
「だから、感想ですよ。か・ん・そ・う」
先輩に理解して貰えるように、一言ずつ、ゆっくりと区切って言う。すると先輩は、
ハッとしたような顔をしたが、次の瞬間には手で髪をパッとかき上げ、強気な表情に戻
ると、プイッと顔を逸らして言った。
『感想も何も、サラダはサラダよ。まあ、美味しかったけど、それだけだわ』
全く、人には散々感想を求めておいて自分はこうだ。まあ、先輩の場合は口調と態度
が伴っていないせいで、十分感想は貰えたと思うが。
『お兄ちゃん。今度は真菜の番ーっ!!』
終わったと見るや、後ろから、真菜ちゃんが催促を始める。
「はいはい。分かってるよ」
僕は急いで、真菜ちゃんの方を向いた。
『今度は真菜が食べさせてあげる番だからね。お兄ちゃん、何がいい?』
「そうだね。じゃあ、次はサラダにしようかな」
『分かった。ちょっと待っててね』
7
幸せそうにサラダを箸でつまむ真菜ちゃんと、背後からの先輩の視線を感じ、僕は笑
顔を作りつつも、内心でやれやれと思った。
――これ……ずっと、続けるのかなぁ…… 続けるんだろうなあ……
その杞憂は当たり、結局食事が終わるまで、先輩と真菜ちゃん、双方からの食べさせ
あいっこは続いたのだった。
「やれやれ…… やっと食べ終わった……」
食事が終わった時には、さすがの僕もぐったりと疲れて椅子に深く腰掛けたまま、小
さく呟いた。こんなに疲労する食事は、多分人生初めてだったと思う。
『ご馳走様でした。ご飯美味しかったし、お兄ちゃんと食べさせ合いっこ出来て、真菜、
幸せだったよ』
一方の真菜ちゃんは、とても元気だ。僕は出来る限りの努力で疲労を隠しつつ、笑顔
を見せて真菜ちゃんの頭を撫でる。
「それは良かった。僕も、楽しかったよ」
ここで本音を言っても始まらない。もっとも、百パーセントうわべだけとも言えない
が、今は何より徒労感が全身を襲っていた。
『ハァ……どっちかって言うと、あたしはもう疲れたわよ……』
一方で、僕と感覚を共有する人が一人、真菜ちゃんから僕を挟んで反対側で椅子にへ
たり込んでいた。僕は、真菜ちゃんから手を離すと、先輩の方に向き直って微笑みかける。
「お疲れ様でした。先輩」
そうねぎらいの言葉を掛けると、先輩は僕をチラリと見て、うんざりしたようにため
息をついた。
『ハァ…… 全く、最低よ。売り言葉に買い言葉とはいえ、何であんな事しちゃったのか……』
自嘲気味に先輩は呟く。顔を真っ赤にしながら、まるでおねだりするかのように食べ
させて貰えるのを待つ先輩だとか、逆にそっとスプーンを口に運んでくれる先輩だとか、
これまでの人生では体感出来なかった事である。そういった意味では、この疲労も、意
味のある事だと思わざるを得ない。
「でも、先輩も結構ノリノリでやってましたよね?」
その時の光景を思い出しつつ聞くと、疲れているにも係わらず先輩はガバッと身を起
こして僕を睨み付けた。
『あのねぇ? あたしは別に、好きであんな事した訳じゃ……そのっ……な、ないんだ
からねっ……』
強気に怒鳴ろうとした瞬間、真菜ちゃんの事が視界に入ったのだろう。先輩の声が途
中から小さく掠れるようになる。そうなると何だか、ただの照れ隠しにしか聞こえなかった。
『真菜はね。嬉しかったよ。だから、今度またやろうね。おねーちゃんがいない、二人っ
きりの時に』
2
そう言って、真菜ちゃんが僕の腕を取ってギュッと抱きつく。相変わらず小学生なの
に天然のエロス成分が満開だ。僕の腕が柔らかな真菜ちゃんの体に包まれて、何だか変
な気分になりそうになる。僕は一つ深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。
「そうだね。じゃあ、ちょっと手を離してくれないかな。そろそろ後片付けをしないと」
意外に素直に、真菜ちゃんが僕の腕を解放する。駄々をこねられそうな気もしたので
ちょっとホッとするが、それもつかの間、今度は真菜ちゃんは僕の手を両手でギュッと
握って言った。
『ううん。真菜もお手伝いする。お兄ちゃん一人だと大変だろうし、洗い物も真菜、ちゃ
んと出来るもん』
本来なら、有難い申し出なのかも知れない。しかし僕には、何故か不安しか過ぎらなかった。
「いや、大丈夫だよ。真菜ちゃんはお客様なんだから、洗い物みたいな雑用をさせる訳
にはいかないよ。リビングで、テレビでも見ていて」
すると真菜ちゃんは僕の手を握ったままイヤイヤするように左右に振り、口を尖らせた。
『えーっ? 真菜、お兄ちゃんと一緒に食器洗いしたいよぉ』
しかし僕は、そんな真菜ちゃんの頭にポンと優しく手を置くと、そっと撫でた。
「ありがとう。その気持ちだけでも十分嬉しいけど、食洗機もあるから一人で大丈夫。
だから、ね? 言う通りにしてくれるかな」
僕に頭を撫でられて、まるで小動物のような可愛らしさで気持ち良さそうに目を閉じ
ていた真菜ちゃんは、渋々と言った体で頷いた。
『分かった。真菜、本当はお手伝いしたいけど……お兄ちゃんがそう言うなら、言う通りにする』
僕はホッとして、心の中で安堵のため息をつく。視線の先に、こっちの様子を黙って
見ている先輩が目に入った。また二人で競い合って、挙句の果てに食器を壊されたりし
たらたまらないしな、と内心小さく呟く。
「じゃあ、先輩も真菜ちゃんと一緒に休んでいてください。後でお茶でも持って行きますから」
先輩は、僕から先にリビングへと行ってしまった真菜ちゃんに視線を移す。そして、
尊大な態度でため息をついて頷いた。
『しょーがないわね。じゃあ、ま、あの子の面倒はあたしが見るとしますか』
3
しかし、その言葉に若干疲れたような響きが感じられるのを、僕は聞き逃さなかった。
先輩も、真菜ちゃんと競い合うのに、既に十分気力を減らしていたのだろう。実際、僕
にご飯を食べさせている時の先輩の真っ赤な顔を思い出せば、相当恥ずかしさを堪えて
いたのだろうし。
「お願いします。僕も、二人の子供を相手にして、ちょっと疲れましたから」
冗談交じりにそう言うと、先輩がキッとムキになって怒鳴り返してきた。
『あたしは立派な大人よっ!! ちょっと子供のペースに巻き込まれてたからって、バ
カにしたような態度取らないでよね』
ふくれっ面の先輩に、僕は笑顔で返す。先輩のこういう実に当たり前な態度が、僕の
心をホッとさせた。それは多分、これが日常だからなのだろう。
「すみません。それじゃあ、お願いします」
軽く頭を下げると、先輩はフン、と鼻息を一つ鳴らした。
『分かったわよ。手っ取り早く済ませてお茶、お願いね』
そう言うと、先輩は身を翻してリビングに足を向ける。そして、テレビに映ってる画
面を見てから真菜ちゃんに向けてキツイ言葉で言った。
『ちょっと!! 何大河とか見てんのよ。この時間ならイッテQじゃないの?』
『えー? 真菜の家はいつも大河ドラマだよ。お父さんもお母さんも好きだし』
『別にこんなの面白くもないじゃない。チャンネル変えていい?』
『ダメ!! 真菜が先に見始めたんだもん。それに、続き、気になるもん。いーじゃん、
バラエティーなんて一週くらい見なくたって』
『大河なんて土曜日の昼に再放送やるじゃない。こっちは見逃したら再放送なんてないんだから』
『土曜日はお友達と遊ぶから見れないもん。おねーちゃんと違って忙しいの、真菜は』
『録画すればいいじゃない。何ていうか、週末の最後っていつもと同じ番組じゃないと、
変な気分になんのよ。習慣付いてるから』
『そんなの気分の問題じゃない。真菜は楽しみにしてるんだから。どっちみち、リモコ
ンは真菜が持ってんだから、真菜の勝ちだもん』
『だーっ!! もうっ!! 最近の大河って見てると痒くなんのよ。時代考証とか無視
してヒロインが活躍する話に仕立て上げてるんだから』
4
食器洗いをしつつ、二人のやり取りを見て僕はクスリと小さく笑う。真菜ちゃんが若
干精神年齢が大人で、先輩が少し子供なせいか、実際の年よりも遥かに近く感じて見え
る。いがみ合っていても、意外と性格は合うのかも知れない。
『全く……こんな展開有り得ないっつーのに……』
『おねーちゃん、文句ばっか言ってないで、少し黙っててよ。今、いい所なんだから』
二人の掛け合いをBGMにしつつ、食器洗いを完了する。あの様子なら、放っておい
ても問題無さそうだし、今のうちにサッと風呂でも入って来よう。二人には冷たい飲み
物とデザートを出しておけば問題ないだろう。
冷蔵庫からゼリーを出し、冷たい麦茶と一緒にお盆に乗せて、リビングに運ぶ。
「二人とも、デザート置いとくから食べて」
二人の前にお茶とゼリーを置くと、真菜ちゃんが手を引っ張って僕を隣に座らせようとした。
『ね? お兄ちゃんも一緒に見ようよ。真菜の隣で』
嬉しそうな真菜ちゃんに笑顔を向けつつ、僕は首を横に振った。反対側から先輩が睨
みつけているのが気配で分かって、それがチクチクと心に刺さる。
「ゴメンね。そうしたいのはやまやまだけど、僕もそろそろお風呂入って来ないと」
『じゃあ真菜も一緒に入る!!』
即座に言い返した真菜ちゃんに、先輩がツッコミを入れた。
『アンタはさっきあたしと一緒に入ったでしょうが!! 一晩のうちに何度も入る事な
いでしょ?』
『いーじゃない。何度入ったって。真菜、お風呂好きだし、それにお兄ちゃんと一緒だっ
たら、一日中だっていいよ』
先輩相手に口を尖らせて文句を言う真菜ちゃんの頭にポンと手を置き、僕は頭を撫で
た。途端に真菜ちゃんの表情がスッと和らぎ、気持ち良さそうに頭を委ねる。
「ゴメン。ちょっと僕も疲れたからさ。一人で入って来たいんだけど、いいかな?」
すると、真菜ちゃんがボソリと呟いた。
『お兄ちゃん、ズルイ』
「え?」
珍しく、不満の矛先が僕に向いたので驚いて聞き返す。すると真菜ちゃんは大人しく
頭を撫でられつつも、いささか仏頂面になって言葉を続けた。
『こんな風にされたら、真菜、頷くしかないもん。ホントはもっとワガママ言いたいのに』
5
その言葉に、僕の心が僅かに痛んだ。それを表に出す代わりに、もう一度ニッコリと
微笑みつつ、僕は頷く。
「うん。ゴメンね」
最後にポン、と軽く頭を叩いて、僕は体を起こした。真菜ちゃんはもうこっちを見ず
に、黙ってテレビを見つめている。
「それじゃあ二人とも。ケンカしないで大人しくしてて下さいね」
すると、黙ってゼリーを食べていた先輩が、横目でチラリと僕を見てから、小さくた
め息をつきつつ答えた。
『はいはい。おせっかいはもういいから、アンタはとっとと風呂でも何でも入ってらっしゃいよ』
シッシッと追い払うような仕草をされる。何だかうんざりしたような顔つきから読み
取るに、真菜ちゃんとの張り合いに疲れたのだろうと推測する。今回は、何か先輩にも
苦労をかけちゃったな。それは僕のせいではないとはいえ、今度何か簡単なお礼くらい
はしてあげよう。
そう思いつつ、僕はリビングを後にした。
「フゥ…… サッパリした……」
風呂場のモワッとした熱気から外に出ると、空気が気持ちがいい。
「さて、と。あの二人はどうしてるかな……?」
果たして、大人しくしてくれていただろうか? さすがに反省しただろうから、さっ
きのような惨状はもう無いと思うが、それでも一抹の不安を胸に抱えつつ、僕はリビン
グのドアを開ける。
「先輩、真菜ちゃん。お待たせしました……」
二人に掛けた声が、語尾で消える。リビングは静かで、二人の姿も見当たらない。食
べ終わったゼリーのカップも、付けっぱなしのテレビもそのままだ。
「あれ? 二人とも……いないの?」
僕は首を傾げる。トイレだろうか? それにしても、二人同時にと言うのは変だ。た
またまタイミング的に同時に二人が席を外しただけだろうか? 念のために玄関に靴を
確かめに行った方がいいかも知れない。この時間に外に出掛けると言うのも有り得ない
とは思うが、確認しておけば、二人が家の中にいるという安心感が得られる。
6
そう思ってリビングを出ようとした時、小さく声が漏れた。
『ん…………』
その声に反応して振り返った僕は、ソファに近寄る。すると、二人とも折り重なるよ
うにして、ソファに倒れ込んですやすやと大人しい寝息を立てていた。
「何だ。寝ちゃったんだ……」
微かに、そう呟く。そして、前に回ると二人の寝顔を覗き込んだ。先輩は言わずもが
なとしても、真菜ちゃんの寝顔も本当に可愛らしい。何となく、僕は手を差し出すと、
そっと真菜ちゃんのぷっくりした頬を優しく突付いた。
『んん……』
真菜ちゃんがイヤイヤするように首を動かすのがとても可愛くって、僕は自然と笑み
がこぼれてしまう。しばらく二人の寝顔を眺めつつ、いろんな事を考える。
『考えてみれば…… こんな可愛い女の子達と休みを過ごしたんだから、幸せな事何だよな……』
もっとも、真菜ちゃんはまだ子供だけど、だからといって侮ってはいけないというの
は、今日嫌というほど思い知らされた。精神的には随分と大人に近くなっているし、体
もじきに大人になる。かたや先輩の方は、本当に僕の事が好きかどうか、まだ百パーセ
ントの自信はない。とはいえ、暇さえあればいつだって一緒にいるのだ。かなりいい位
置にいるのは間違いない。
「だからこそ……責任、重大なんだよな……」
いずれは二人に対して、ちゃんとした答えを示さないといけない。それが、少なくと
も僕の義務なんだと、二人の寝顔を見つめつつ、僕は肝に銘じたのだった。
最終更新:2011年08月19日 09:25