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中部19経・二種考経」(2013/06/04 (火) 03:17:04) の最新版変更点

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*■中部経典 第19経 「二種考経」 &bold(){〈 和 訳 〉} ── このように私は聞きました。 ある時、世尊は、サーヴァッティ近くの「ジェータ王子の林」にある、 祇園精舎〈アナータピンディカ僧院〉に住んでおられました。 そこで、世尊は、比丘たちに話しかけられました。  「比丘たちよ」  「尊師よ」 と、── 比丘たちは、世尊に答えました。 そして世尊は、このように言われたのです。  「比丘たちよ、私は正しい覚りを得る以前の、ただの菩薩であった時、このように考えた。   〈私は、それぞれを二種に分けて、その考えの中に住しでみよう(観察して時を過ごそう)〉と。 -----------------------------------------------------------------  〈 未編集部分 〉 比丘たちよ、その私は、欲の考えになるもの、怒りの考えになるもの、害意の考えになるもの、これを一の部分にしました。   また、欲の無い考えになるもの、怒りの無い考えになるもの、害意の無い考えになるもの、これを第二の部分にしました。   比丘たちよ、このようにして怠けることなく、熱心に、自ら励んで住むその私に欲の考えが起こりました。   その私はこのように知りました。   【私にこの欲の考えが起こっている。それは自らを害するためになり、他を害するためになり、両者を害するためにもなる。   慧を滅し、悩害に与し、慧を滅し、悩害に与し、涅槃のためにならないものである】と。   比丘たちよ、【自らを害するためになる】と熟慮しているうちに、それが私から消えてしまいました。   また、比丘たちよ、【他を害するためになる】と熟慮しているうちに、それが私から消えてしまいました。   また、比丘たちよ、【両者を害するためになる】と熟慮しているうちに、それが私から消えてしまいました。   また、比丘たちよ、【慧を滅し、悩害に与し、涅槃のためにならないものである】と熟慮しているうちに、それが私から消てしまいました。   比丘たちよ、その私は、つぎつぎ起こる欲の考えを断ち切り、取り除き、それを終息させたのです。    ※同じようにして、怒りの考えや害意の考えを終息させていく。そして…   比丘たちよ、比丘がそれぞれについて多く細大漏らさず考え続けるならば、そのとおりに意向は生じます。  比丘たちよ、もし比丘が、欲の考えを多く細大漏らさず考え続け、欲の無い考えを捨て、欲の考えを多く作るならば、   かれのその心は欲の考えに傾きます。   比丘たちよ、もし比丘が、怒りの考えを多く細大漏らさず考え続け、……(中略)……かれのその心は怒りの考えに傾きます。   比丘たちよ、もし比丘が、害意の考えを多く細大漏らさず考え続け、……(中略)……かれのその心は害意の考えに傾きます。   たとえば、比丘たちよ、雨季の最終月の、秋の農繁期に、牛飼いが牛たちを守ろうとする場合、   かれがそれらの牛をあちこちから鞭で打ったり、逆に打ったり、抑えたり、止めたりするようなものです。   それはなぜか。比丘たちよ、かの牛飼いは、そのために殺されたり、縛られたり、没収されたり、   罵られたりする憂き目を見るからです。   比丘たちよ、ちょうどそのように、私はもろもろの不善法の危難・劣悪・汚れの状態を、   もろもろの善法の、欲の無いことの功徳・浄化の側面を見ました。   比丘たちよ、このようにして怠けることなく、熱心に、自ら励んで住むその私に、欲の無い考えが起こりました。    ※引用は、もう少し続くのだが、     この後「無尋無伺定」の説明も登場し、     これらの瞑想法が、四禅定の「前行」であることが分かるのだ。   比丘たちよ、この私はこのように知りました。   【私にこの欲の無い考えが起こっている。   それは自らを害するものにならず、他を害するものにもならず、両者を害するものにもならない。   慧を増大させ、悩害に与せず、涅槃のためになるものである。   たとえ一夜でもそれを細大漏らさず考え続けるならば、そのために私は恐れを見ることがない。   たとえ一昼でもそれを細大漏らさず考え続けるならば、そのために私は恐れを見ることがない。   たとえ一昼夜でもそれを細大漏らさず考え続けるならば、そのために私は恐れを見ることがない。】    ※ここまでが、「思考」を中心とした瞑想法の説明なのだ。     このような瞑想法は、釈尊独自のもので他に類を見ることがない。     そして、次からが「無尋無伺定」の説明なのだ。   【しかし、私があまりに長く細大漏らさず考え続けるならば、身体は疲れてしまうであろう。   身体が疲れたなら、心は乱れるであろう。   心が乱れたなら、心は定から遠ざかるであろう】と。   比丘たちよ、そこで私は内にのみ心を置き、静め、統一し、定めました。   それはなぜか。私の心が乱れないように、ということからです。    ※【心が乱れたら、心は定から遠ざかる】という説明から、     これまでの説明が、瞑想法に関するものであったことが、明らかになる。     そして、思考(考え)に集中する「有尋有伺定」を続け過ぎると、心が乱れて疲れてくるので、     その時に、心を静めて休息するための「無尋無伺定」を説いているのだ。    ※ちなみに、「有尋有伺定」には二つのタイプがある。     一つは「思考」に集中し、確定させるもの、もう一つは「想念」を育成し、確定させるものなのだ。     そして、育成し確定した想念を「念を前面に現前させる」ときに、そのトリガーとなる「無尋有伺定」を修するのだ。     釈尊は、これらの瞑想法(有尋有伺定と無尋有伺定)を、合わせて「観・ヴィパッサナー」と呼んだのだ。     「無尋無伺定」を「止・シャマタ」と呼ぶが、これも二つのタイプがある。     一つは、心を静めて休めるためのもの。     「五蓋」の一つ「掉挙(心の浮つき)」を滅する方法として「止」が説かれている。     もう一つは、無色界定へと至る、ヨーガ的な瞑想法。     (世間で実践されている瞑想の、ほとんどがこれに当たる)。 〈 編集中 〉
*■中部経典 第19経 「二種考経」 &bold(){〈 和 訳 〉} ── このように私は聞きました。 ある時、世尊は、サーヴァッティ近くの「ジェータ王子の林」にある、 祇園精舎〈アナータピンディカ僧院〉に住んでおられました。 そこで、世尊は、比丘たちに話しかけられました。  「比丘たちよ」  「尊師よ」 と、── 比丘たちは、世尊に答えました。 そして世尊は、このように言われたのです。  「比丘たちよ、私は正しい覚りを得る以前の、ただの菩薩であった時、このように考えた。   〈私は、それぞれを二種に分けて、その考えの中に住しでみよう(観察して時を過ごそう)〉と。 -----------------------------------------------------------------  〈 未編集部分 〉   比丘たちよ、その私は、欲の考えになるもの、怒りの考えになるもの、害意の考えになるもの、これを一の部分にしました。   また、欲の無い考えになるもの、怒りの無い考えになるもの、害意の無い考えになるもの、これを第二の部分にしました。   比丘たちよ、このようにして怠けることなく、熱心に、自ら励んで住むその私に欲の考えが起こりました。   その私はこのように知りました。   【私にこの欲の考えが起こっている。それは自らを害するためになり、他を害するためになり、両者を害するためにもなる。   慧を滅し、悩害に与し、慧を滅し、悩害に与し、涅槃のためにならないものである】と。   比丘たちよ、【自らを害するためになる】と熟慮しているうちに、それが私から消えてしまいました。   また、比丘たちよ、【他を害するためになる】と熟慮しているうちに、それが私から消えてしまいました。   また、比丘たちよ、【両者を害するためになる】と熟慮しているうちに、それが私から消えてしまいました。   また、比丘たちよ、【慧を滅し、悩害に与し、涅槃のためにならないものである】と熟慮しているうちに、それが私から消てしまいました。   比丘たちよ、その私は、つぎつぎ起こる欲の考えを断ち切り、取り除き、それを終息させたのです。    ※同じようにして、怒りの考えや害意の考えを終息させていく。そして…   比丘たちよ、比丘がそれぞれについて多く細大漏らさず考え続けるならば、そのとおりに意向は生じます。  比丘たちよ、もし比丘が、欲の考えを多く細大漏らさず考え続け、欲の無い考えを捨て、欲の考えを多く作るならば、   かれのその心は欲の考えに傾きます。   比丘たちよ、もし比丘が、怒りの考えを多く細大漏らさず考え続け、……(中略)……かれのその心は怒りの考えに傾きます。   比丘たちよ、もし比丘が、害意の考えを多く細大漏らさず考え続け、……(中略)……かれのその心は害意の考えに傾きます。   たとえば、比丘たちよ、雨季の最終月の、秋の農繁期に、牛飼いが牛たちを守ろうとする場合、   かれがそれらの牛をあちこちから鞭で打ったり、逆に打ったり、抑えたり、止めたりするようなものです。   それはなぜか。比丘たちよ、かの牛飼いは、そのために殺されたり、縛られたり、没収されたり、   罵られたりする憂き目を見るからです。   比丘たちよ、ちょうどそのように、私はもろもろの不善法の危難・劣悪・汚れの状態を、   もろもろの善法の、欲の無いことの功徳・浄化の側面を見ました。   比丘たちよ、このようにして怠けることなく、熱心に、自ら励んで住むその私に、欲の無い考えが起こりました。    ※引用は、もう少し続くのだが、     この後「無尋無伺定」の説明も登場し、     これらの瞑想法が、四禅定の「前行」であることが分かるのだ。   比丘たちよ、この私はこのように知りました。   【私にこの欲の無い考えが起こっている。   それは自らを害するものにならず、他を害するものにもならず、両者を害するものにもならない。   慧を増大させ、悩害に与せず、涅槃のためになるものである。   たとえ一夜でもそれを細大漏らさず考え続けるならば、そのために私は恐れを見ることがない。   たとえ一昼でもそれを細大漏らさず考え続けるならば、そのために私は恐れを見ることがない。   たとえ一昼夜でもそれを細大漏らさず考え続けるならば、そのために私は恐れを見ることがない。】    ※ここまでが、「思考」を中心とした瞑想法の説明なのだ。     このような瞑想法は、釈尊独自のもので他に類を見ることがない。     そして、次からが「無尋無伺定」の説明なのだ。   【しかし、私があまりに長く細大漏らさず考え続けるならば、身体は疲れてしまうであろう。   身体が疲れたなら、心は乱れるであろう。   心が乱れたなら、心は定から遠ざかるであろう】と。   比丘たちよ、そこで私は内にのみ心を置き、静め、統一し、定めました。   それはなぜか。私の心が乱れないように、ということからです。    ※【心が乱れたら、心は定から遠ざかる】という説明から、     これまでの説明が、瞑想法に関するものであったことが、明らかになる。     そして、思考(考え)に集中する「有尋有伺定」を続け過ぎると、心が乱れて疲れてくるので、     その時に、心を静めて休息するための「無尋無伺定」を説いているのだ。    ※ちなみに、「有尋有伺定」には二つのタイプがある。     一つは「思考」に集中し、確定させるもの、もう一つは「想念」を育成し、確定させるものなのだ。     そして、育成し確定した想念を「念を前面に現前させる」ときに、そのトリガーとなる「無尋有伺定」を修するのだ。     釈尊は、これらの瞑想法(有尋有伺定と無尋有伺定)を、合わせて「観・ヴィパッサナー」と呼んだのだ。     「無尋無伺定」を「止・シャマタ」と呼ぶが、これも二つのタイプがある。     一つは、心を静めて休めるためのもの。     「五蓋」の一つ「掉挙(心の浮つき)」を滅する方法として「止」が説かれている。     もう一つは、無色界定へと至る、ヨーガ的な瞑想法。     (世間で実践されている瞑想の、ほとんどがこれに当たる)。 〈 編集中 〉

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