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■中部経典 第10経 「念処経」




〈 和 訳 〉

── このように私は聞きました。

ある時、世尊は、クル国の、カンマーサダンマという町の近くに住んでおられました。

そこで、世尊は、比丘たちに話しかけられました。

 「比丘たちよ」

 「尊師よ」

と、── 比丘たちは、世尊に答えました。
そして世尊は、このように言われたのです。

 「比丘たちよ、この道は、諸々の生けるものたち(有情)が浄化され、
  愁いと悲しみを越えて、正理を証得し、涅槃を目の当たりに見るための一本道なのだ。

四念処


  すなわち、それが四念処なのである。
  ── 四とは何か?

  比丘たちよ、ここに比丘は、
  身において身を観続け、熱心に、
  正知を備え、念を備えて、世界における欲貪と憂いを除いて住む。
  諸々の受において受を観続け、熱心に、
  正知を備え、念を備えて、世界における欲貪と憂いを除いて住む。
  心において心を観続け、熱心に、
  正知を備え、念を備えて、世界における欲貪と憂いを除いて住む。
  諸々の法において法を観続け、熱心に、
  正知を備え、念を備えて、世界における欲貪と憂いを除いて住む。

出入息


  では、比丘たちよ、どのようにして比丘は、身において身を観続けて住むのか?

  ここに比丘たちよ、比丘は森に行き、あるいは樹下に行き、
  あるいは空屋に行って、足を組んで坐り、身体を真直ぐにしたまま、面前に念を凝らして坐る。
  彼は念を備えたまま出息し、念を備えたまま入息する。
  あるいは、長く出息するときは〈 私は長く出息している 〉と知り、
  あるいは、長く入息するときは〈 私は長く入息している 〉と知る。  
  あるいは、短く出息するときは〈 私は短く出息している 〉と知り、
  あるいは、短く入息するときは〈 私は短く入息している 〉と知る。  
  〈 私は、出息の始めから終わりまでを感知して、出息しよう 〉と学び、
  〈 私は、入息の始めから終わりまでを感知して、入息しよう 〉と学ぶ。
  〈 私は、粗い出息を静めつつ、出息しよう 〉と学び、
  〈 私は、粗い入息を静めつつ、入息しよう 〉と学ぶ。

  喩えば、比丘たちよ、熟練した轆轤(ろくろ)工やその内弟子は、
  轆轤を長く廻しながら〈 私は長く廻している 〉── と知る。
  あるいは、轆轤を短く廻しながら〈 私は短く廻している 〉── と知る。
  比丘たちよ、それと同じように、
  比丘は、長く出息するときは〈 私は長く出息している 〉と知り、
  あるいは、長く入息するときは〈 私は長く入息している 〉と知る。  
  あるいは、短く出息するときは〈 私は短く出息している 〉と知り、
  あるいは、短く入息するときは〈 私は短く入息している 〉と知る。  
  〈 私は、出息の始めから終わりまでを感知して、出息しよう 〉と学び、
  〈 私は、入息の始めから終わりまでを感知して、入息しよう 〉と学ぶ。
  〈 私は、粗い出息を静めつつ、出息しよう 〉と学び、
  〈 私は、粗い入息を静めつつ、入息しよう 〉と学ぶ。

  このように、内(自分)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、内と外の身において、身を観続けて住む。
  また、身において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、身において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、身において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 身体はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、身において身を観続けて住むのだ。

行住坐臥


  次にまた、比丘たちよ、比丘は、
  行きつつ〈 私は行っている 〉と知る。
  立ちつつ〈 私は立っている 〉と知る。
  坐りつつ〈 私は坐っている 〉と知る。
  臥しつつ〈 私は臥している 〉と知る。
  そして彼は、その身が置かれているその通りに、それを知る。  

  このように、内(自分)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、内と外の身において、身を観続けて住む。
  また、身において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、身において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、身において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼に、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 身体はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、身において身を観続けて住むのだ。

正知


  次にまた、比丘たちよ、比丘は、
  前に進むにも、後ろに退くにも、正知をもって行動する。
  真直ぐ前を見るときも、あちこち周囲を見るときも、正知をもって行動する。
  身体を曲げるときも、身体を伸ばすときも、正知をもって行動する。  
  大衣と鉢・衣を携えるときも、正知をもって行動する。
  食べるときも、飲むときも、噛むときも、味わうときも、正知をもって行動する。
  大便・小便をするときも、正知をもって行動する。
  行くにも、立つにも、坐るにも、眠るにも、
  目覚めるにも、語るにも、黙するにも、正知をもって行動する。

  このように、内(自分)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、内と外の身において、身を観続けて住む。
  また、身において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、身において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、身において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼に、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 身体はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、身において身を観続けて住むのだ。

不浄観


  次にまた、比丘たちよ、比丘は、
  この身を、足の裏より上、頭髪より下の、皮膚を周辺とした、
  種々の不浄なもので満ちているものとして、観察する。
  〈 この身には、
    髪・毛・爪・歯・皮膚・肉・筋・骨・骨髄・腎臓・心臓・
    肝臓・肋膜・脾臓・肺・腸・腸間膜・胃・大便・胆汁・痰・膿・
    血・汗・脂・涙・脂肪・唾・鼻水・関節液・小便がある 〉── と。

  喩えば、比丘たちよ、両方に口のある袋があって、種々に詰められた穀物で満ちているとしよう。
  すなわち、それはサーリ籾米、ヴィーヒ籾米、緑豆、そら豆、胡麻、米であるが、
  それを眼のある人(具眼の人)が開けて、
  〈 これらはサーリ籾米である。
    これらはヴィーヒ籾米である。
    これらは緑豆である。
    これらはそら豆である。
    これらは胡麻である。
    これらは米である 〉── と観察する。
  比丘たちよ、まさにこのように、比丘は、
  この身を、足の裏より上、頭髪より下の、皮膚を周辺とした、
  種々の不浄なもので満ちているものとして、観察する。
  〈 この身には、
    髪・毛・爪・歯・皮膚・肉・筋・骨・骨髄・腎臓・心臓・
    肝臓・肋膜・脾臓・肺・腸・腸間膜・胃・大便・胆汁・痰・膿・
    血・汗・脂・涙・脂肪・唾・鼻水・関節液・小便がある 〉── と。

  このように、内(自分)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、内と外の身において、身を観続けて住む。
  また、身において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、身において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、身において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 身体はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、身において身を観続けて住むのだ。

四大要素


  次にまた、比丘たちよ、比丘は、
  この身を、あるがままに、置かれているその通りに、要素(界)から観察する。
  〈 この身には、地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある 〉── と。

  喩えば、比丘たちよ、熟練した牛の屠殺者やその内弟子が雄牛を殺し、
  それを肉片に切り分けて、大道の四つ辻に坐っているようなものなのだ。

  比丘たちよ、まさにこのように、比丘は、
  この身を、あるがままに、置かれているその通りに、要素(界)から観察する。
  〈 この身には、地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある 〉── と。

  このように、内(自分)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、内と外の身において、身を観続けて住む。
  また、身において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、身において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、身において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 身体はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、身において身を観続けて住むのだ。

九段階の死体の推移、その①


  次にまた、比丘たちよ、比丘は、
  例えば墓地に棄てられた死体が、死後一日、あるいは二日、あるいは三日と経つうちに、
  膨張し、青黒くなり、膿ただれて腐ってしまった身体を見るように、この身体のみに集中する。
  〈 この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、
    このような状態を免 (まぬが) れ得ないものである 〉── と。

  このように、内(自分)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、内と外の身において、身を観続けて住む。
  また、身において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、身において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、身において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 身体はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、身において身を観続けて住むのだ。

九段階の死体の推移、その②


  次にまた、比丘たちよ、比丘は、
  例えば墓地に棄てられた死体が、カラスに食べられ、鷹に食べられ、禿鷹に食べられ、
  蒼鷺 (アオサギ) に食べられ、犬に食べられ、虎に食べられ、豹に食べられ、ジャッカルに食べられ、
  あるいは種々の小さな生き物 (虫類) に食べられたりしている身体を見るように、
  この身体のみに集中する。
  〈 この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、
    このような状態を免 (まぬが) れ得ないものである 〉── と。

  このように、内(自分)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、内と外の身において、身を観続けて住む。
  また、身において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、身において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、身において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 身体はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、身において身を観続けて住むのだ。

九段階の死体の推移、その③


  次にまた、比丘たちよ、比丘は、
  例えば墓地に棄てられた死体が、骨が連鎖している骸骨に、
  血肉があり、筋が繋がっている身体を見るように、この身体のみに集中する。
  〈 この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、
    このような状態を免 (まぬが) れ得ないものである 〉── と。

  このように、内(自分)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、内と外の身において、身を観続けて住む。
  また、身において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、身において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、身において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 身体はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、身において身を観続けて住むのだ。

九段階の死体の推移、その④


  次にまた、比丘たちよ、比丘は、
  例えば墓地に棄てられた死体が、骨が連鎖している骸骨に、肉がすでに無く、
  血まみれの、筋が繋がっている身体を見るように、この身体のみに集中する。
  〈 この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、
    このような状態を免 (まぬが) れ得ないものである 〉── と。

  このように、内(自分)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、内と外の身において、身を観続けて住む。
  また、身において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、身において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、身において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 身体はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、身において身を観続けて住むのだ。

九段階の死体の推移、その⑤


  次にまた、比丘たちよ、比丘は、
  例えば墓地に棄てられた死体が、骨が連鎖している骸骨に、
  血肉が無く、筋が繋がっている身体を見るように、この身体のみに集中する。
  〈 この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、
    このような状態を免 (まぬが) れ得ないものである 〉── と。

  このように、内(自分)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、内と外の身において、身を観続けて住む。
  また、身において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、身において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、身において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 身体はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、身において身を観続けて住むのだ。

九段階の死体の推移、その⑥


  次にまた、比丘たちよ、比丘は、
  例えば墓地に棄てられた死体が、諸々の骨にはつながりが無く、
  四方八方に、すなわち別の方向には手の骨が、別の方向には足の骨が、
  別の方向には踝(くるぶし)の骨が、別の方向には脛(すね)の骨が、別の方向には腿(もも)の骨が、
  別の方向には腰の骨が、別の方向には肋骨が、別の方向には背骨が、別の方向には肩の骨が、
  別の方向には頸(くび)の骨が、別の方向には顎(あご)の骨が、別の方向には歯の骨が、
  別の方向には頭蓋骨が散乱している身体を見るように、この身体のみに集中する。
  〈 この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、
    このような状態を免 (まぬが) れ得ないものである 〉── と。

  このように、内(自分)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、内と外の身において、身を観続けて住む。
  また、身において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、身において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、身において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 身体はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、身において身を観続けて住むのだ。

九段階の死体の推移、その⑦


  次にまた、比丘たちよ、比丘は、
  例えば墓地に棄てられた死体の、諸々の骨が白い貝の色のようになってしまった身体を見るように、
  この身体のみに集中する。
  〈 この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、
    このような状態を免 (まぬが) れ得ないものである 〉── と。

  このように、内(自分)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、内と外の身において、身を観続けて住む。
  また、身において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、身において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、身において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 身体はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、身において身を観続けて住むのだ。

九段階の死体の推移、その⑧


  次にまた、比丘たちよ、比丘は、
  例えば墓地に棄てられた、諸々の骨が山積みされて、
  一年が経っている身体を見るように、この身体のみに集中する。
  〈 この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、
    このような状態を免 (まぬが) れ得ないものである 〉── と。

  このように、内(自分)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、内と外の身において、身を観続けて住む。
  また、身において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、身において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、身において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 身体はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、身において身を観続けて住むのだ。

九段階の死体の推移、その⑨


  次にまた、比丘たちよ、比丘は、
  例えば墓地に棄てられた、諸々の骨がすでに腐食して粉々になっている身体を見るように、
  この身体のみに集中する。
  〈 この身体も、このような性質のものであり、このように成るものであり、
    このような状態を免 (まぬが) れ得ないものである 〉── と。

  このように、内(自分)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の身において、身を観続けて住む。
  あるいは、内と外の身において、身を観続けて住む。
  また、身において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、身において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、身において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 身体はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、身において身を観続けて住むのだ。

感受


  次にまた、比丘たちよ、
  どのようにして比丘は、諸々の受において受を観続けて住むのか?

  楽を感受すれば〈 私は楽を感受する 〉と知る。
  苦を感受すれば〈 私は苦を感受する 〉と知る。
  不苦不楽を感受すれば〈 私は不苦不楽を感受する 〉と知る。
  欲(五妙欲・五感)に関わる楽を感受すれば〈 私は欲に関わる楽を感受する 〉と知る。
  無欲に関わる楽を感受すれば〈 私は無欲に関わる楽を感受する 〉と知る。
  欲に関わる苦を感受すれば〈 私は欲に関わる苦を感受する 〉と知る。
  無欲に関わる苦を感受すれば〈 私は無欲に関わる苦を感受する 〉と知る。
  欲に関わる不苦不楽を感受すれば〈 私は欲に関わる不苦不楽を感受する 〉と知る。
  無欲に関わる不苦不楽を感受すれば〈 私は無欲に関わる不苦不楽を感受する 〉と知る。

  このように、内(自分)の諸々の受において、受を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の諸々の受において、受を観続けて住む。
  あるいは、内と外の諸々の受において、受を観続けて住む。
  また、諸々の受において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、諸々の受において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、諸々の受において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 感受はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、諸々の受において受を観続けて住むのだ。


  次にまた、比丘たちよ、
  どのようにして比丘は、心において心を観続けて住むのか?

  比丘たちよ、ここに比丘は、
  貪りのある心を、貪りのある心であると知る。
  あるいは、貪りを離れた心を、貪りを離れた心であると知る。
  怒りのある心を、怒りのある心であると知る。
  あるいは、怒りを離れた心を、怒りを離れた心であると知る。
  愚痴のある心を、愚痴のある心であると知る。
  あるいは、愚痴を離れた心を、愚痴を離れた心であると知る。
  沈鬱・眠気に陥っている心を、沈鬱・眠気に陥っている心であると知る。
  あるいは、浮つき・後悔に浸っている心を、浮つき・後悔に浸っている心であると知る。
  広大な心を、広大な心であると知る。
  あるいは、広大でない心を、広大でない心であると知る。
  有上の(まだ上が有る)心を、有上の心であると知る。
  あるいは、無上の心を、無上の心であると知る。
  定まった心を、定まった心であると知る。
  あるいは、定まっていない心を、定まっていない心であると知る。
  解脱した心を、解脱した心であると知る。
  あるいは、解脱していない心を、解脱していない心であると知る。

  このように、内(自分)の心において、心を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の心において、心を観続けて住む。
  あるいは、内と外の心において、心を観続けて住む。
  また、心において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、心において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、心において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 心はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、心において心を観続けて住むのだ。

五蓋 ( 欲貪・瞋恚・沈鬱と眠気・浮つきと後悔・疑い )


  次にまた、比丘たちよ、
  どのようにして比丘は、諸々の法において法を観続けて住むのか?

  比丘たちよ、ここに比丘は、五蓋の法において、法を観続けて住む。
  では、比丘たちよ、どのようにして比丘は、五蓋の法において、法を観続けて住むのか?

  比丘たちよ、ここに比丘は、
  内に欲貪があれば〈 私の内に欲貪がある 〉と知る。
  あるいは、内に欲貪がなければ〈 私の内に欲貪がない 〉と知る。
  また、未だ生じていない欲貪が生ずれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている欲貪が捨断されれば、その滅尽をその通りに証知する。
  内に瞋恚があれば〈 私の内に瞋恚がある 〉と知る。
  あるいは、内に瞋恚がなければ〈 私の内に瞋恚がない 〉と知る。
  また、未だ生じていない瞋恚が生ずれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている瞋恚が捨断されれば、その滅尽をその通りに証知する。
  内に沈鬱と眠気があれば〈 私の内に沈鬱と眠気がある 〉と知る。
  あるいは、内に沈鬱と眠気がなければ〈 私の内に沈鬱と眠気がない 〉と知る。
  また、未だ生じていない沈鬱と眠気が生ずれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている沈鬱と眠気が捨断されれば、その滅尽をその通りに証知する。
  内に浮つきと後悔があれば〈 私の内に浮つきと後悔がある 〉と知る。
  あるいは、内に浮つきと後悔がなければ〈 私の内に浮つきと後悔がない 〉と知る。
  また、未だ生じていない浮つきと後悔が生ずれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている浮つきと後悔が捨断されれば、その滅尽をその通りに証知する。
  内に疑いがあれば〈 私の内に疑いがある 〉と知る。
  あるいは、内に疑いがなければ〈 私の内に疑いがない 〉と知る。
  また、未だ生じていない疑いが生ずれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている疑いが捨断されれば、その滅尽をその通りに証知する。

  このように、内(自分)の諸々の法において、法を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の諸々の法において、法を観続けて住む。
  あるいは、内と外の諸々の法において、法を観続けて住む。
  また、諸々の法において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、諸々の法において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、諸々の法において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 法はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、五蓋の法において、法を観続けて住むのだ。

五取蘊 ( 色・受・想・行・識 )


  次にまた、比丘たちよ、
  ここに比丘は、五取蘊の法において、法を観続けて住む。
  では、比丘たちよ、どのようにして比丘は、五取蘊の法において、法を観続けて住むのか?

  比丘たちよ、ここに比丘は、
  〈 このように色がある、このように色の生起がある、このように色の消滅がある、
    このように受がある、このように受の生起がある、このように受の消滅がある、
    このように想がある、このように想の生起がある、このように想の消滅がある、
    このように行がある、このように行の生起がある、このように行の消滅がある、
    このように識がある、このように識の生起がある、このように識の消滅がある 〉── と、  

  このように、内(六内処)の諸々の法において、法を観続けて住む。
  あるいは、外(六外処)の諸々の法において、法を観続けて住む。
  あるいは、内と外の諸々の法において、法を観続けて住む。
  また、諸々の法において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、諸々の法において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、諸々の法において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 法はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、五取蘊の法において、法を観続けて住むのだ。

六内外処 = 十二処 ( 眼と色・耳と声・鼻と香・舌と味・身と触・意と法 )


  次にまた、比丘たちよ、
  ここに比丘は、六内処と六外処の法において、法を観続けて住む。
  では、比丘たちよ、どのようにして比丘は、六内処と六外処の法において、法を観続けて住むのか?

  比丘たちよ、ここに比丘は、
  眼を知り、諸々の色を知り、その両者によって生じる結縛を知る。
  未だ生じていない結縛が生じれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている結縛が捨断されれば、その滅尽をその通りに証知する。
  耳を知り、諸々の声を知り、その両者によって生じる結縛を知る。
  未だ生じていない結縛が生じれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている結縛が捨断されれば、その滅尽をその通りに証知する。
  鼻を知り、諸々の香を知り、その両者によって生じる結縛を知る。
  未だ生じていない結縛が生じれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている結縛が捨断されれば、その滅尽をその通りに証知する。
  舌を知り、諸々の味を知り、その両者によって生じる結縛を知る。
  未だ生じていない結縛が生じれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている結縛が捨断されれば、その滅尽をその通りに証知する。
  身を知り、諸々の触を知り、その両者によって生じる結縛を知る。
  未だ生じていない結縛が生じれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている結縛が捨断されれば、その滅尽をその通りに証知する。
  意を知り、諸々の法を知り、その両者によって生じる結縛を知る。
  未だ生じていない結縛が生じれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている結縛が捨断されれば、その滅尽をその通りに証知する。

  このように、内(六内処)の諸々の法において、法を観続けて住む。
  あるいは、外(六外処)の諸々の法において、法を観続けて住む。
  あるいは、内と外の諸々の法において、法を観続けて住む。
  また、諸々の法において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、諸々の法において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、諸々の法において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 法はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、六内処と六外処の法において、法を観続けて住むのだ。

七覚支 ( 念・択法・精進・喜・軽安・定・捨 )


  次にまた、比丘たちよ、
  ここに比丘は、七覚支の各覚支において、法を観続けて住む。
  では、比丘たちよ、どのようにして比丘は、七覚支の各覚支において、法を観続けて住むのか?

  比丘たちよ、ここに比丘は、
  内に念という勝れた覚支があるならば〈 私の内に、念という勝れた覚支がある 〉と知る。
  内に念という勝れた覚支がないならば〈 私の内に、念という勝れた覚支がない 〉と知る。
  また、未だ生じていない念という勝れた覚支が生ずれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている念という勝れた覚支の修習が成就すれば、その成就 ( 完成 ) をその通りに現証する。
  内に択法という勝れた覚支があるならば〈 私の内に、択法という勝れた覚支がある 〉と知る。
  内に択法という勝れた覚支がないならば〈 私の内に、択法という勝れた覚支がない 〉と知る。
  また、未だ生じていない択法という勝れた覚支が生ずれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている択法という勝れた覚支の修習が成就すれば、その成就をその通りに現証する。
  内に精進という勝れた覚支があるならば〈 私の内に、精進という勝れた覚支がある 〉と知る。
  内に精進という勝れた覚支がないならば〈 私の内に、精進という勝れた覚支がない 〉と知る。
  また、未だ生じていない精進という勝れた覚支が生ずれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている精進という勝れた覚支の修習が成就すれば、その成就をその通りに現証する。
  内に喜という勝れた覚支があるならば〈 私の内に、喜という勝れた覚支がある 〉と知る。
  内に喜という勝れた覚支がないならば〈 私の内に、喜という勝れた覚支がない 〉と知る。
  また、未だ生じていない喜という勝れた覚支が生ずれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている喜という勝れた覚支の修習が成就すれば、その成就をその通りに現証する。
  内に軽安という勝れた覚支があるならば〈 私の内に、軽安という勝れた覚支がある 〉と知る。
  内に念という勝れた覚支がないならば〈 私の内に、軽安という勝れた覚支がない 〉と知る。
  また、未だ生じていない軽安という勝れた覚支が生ずれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている軽安という勝れた覚支の修習が成就すれば、その成就をその通りに現証する。
  内に定という勝れた覚支があるならば〈 私の内に、定という勝れた覚支がある 〉と知る。
  内に定という勝れた覚支がないならば〈 私の内に、定という勝れた覚支がない 〉と知る。
  また、未だ生じていない定という勝れた覚支が生ずれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている定という勝れた覚支の修習が成就すれば、その成就 ( 完成 ) をその通りに現証する。
  内に捨という勝れた覚支があるならば〈 私の内に、捨という勝れた覚支がある 〉と知る。
  内に捨という勝れた覚支がないならば〈 私の内に、捨という勝れた覚支がない 〉と知る。
  また、未だ生じていない捨という勝れた覚支が生ずれば、その生起をその通りに証知し、
  すでに生じている捨という勝れた覚支の修習が成就すれば、その成就 ( 完成 ) をその通りに現証する。

  このように、内(自分)の諸々の法において、法を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の諸々の法において、法を観続けて住む。
  あるいは、内と外の諸々の法において、法を観続けて住む。
  また、諸々の法において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、諸々の法において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、諸々の法において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 法はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、七覚支の各覚支において、法を観続けて住むのだ。

四聖諦 ( 苦・集・滅・道 )


  次にまた、比丘たちよ、
  ここに比丘は、四聖諦の各諦において、法を観続けて住む。
  では、比丘たちよ、どのようにして比丘は、四聖諦の各諦において、法を観続けて住むのか?

  比丘たちよ、ここに比丘は、
  〈 これは苦である 〉と如実に知る。
  〈 これは苦の集起である 〉と如実に知る。
  〈 これは苦の滅尽である 〉と如実に知る。
  〈 これは苦の滅尽に至る道である 〉と如実に知る。

  このように、内(自分)の諸々の法において、法を観続けて住む。
  あるいは、外(他人)の諸々の法において、法を観続けて住む。
  あるいは、内と外の諸々の法において、法を観続けて住む。
  また、諸々の法において生起の法を観続けて住む。
  あるいは、諸々の法において滅尽の法を観続けて住む。
  あるいは、諸々の法において生起と滅尽の法を観続けて住む。
  そして彼には、知った量だけ、憶念した量だけ増大した、
  〈 法はこのようなものである 〉という念が現前する。
  彼は、愛や見に依存することなく住み、世間の如何なるものにも執着することがない。

  このように、また比丘たちよ、比丘は、四聖諦の各諦において、法を観続けて住むのだ。

修習するならば


  比丘たちよ、誰であれ、これらの四念処を、
  このようにして七年間修習するならば、二つの果報のうちの一つが期待される。
  すなわち現世にいるままでの完全智 ( 阿羅漢果 )を得ることか、
  あるいは、執着の残りがある ( 有余依 ) ならば、不還果を得ることなのだ。

  比丘たちよ、七年間でなくてもよいのだ。
  比丘たちよ、誰であれ、これらの四念処を、
  このようにして六年間、五年間、四年間、三年間、二年間、
  一年間修習するならば、二つの果報のうちの一つが期待される。
  すなわち現世にいるままでの完全智を得ることか、
  あるいは、執着の残りがあるならば、不還果を得ることなのだ。  

  比丘たちよ、一年間でなくてもよいのだ。
  比丘たちよ、誰であれ、これらの四念処を、
  このようにして七か月間修習するならば、二つの果報のうちの一つが期待される。
  すなわち現世にいるままでの完全智を得ることか、
  あるいは、執着の残りがあるならば、不還果を得ることなのだ。  

  比丘たちよ、七か月間でなくてもよいのだ。
  比丘たちよ、誰であれ、これらの四念処を、
  このようにして六か月間、五か月間、四か月間、三か月間、二か月間、
  一か月間、半月間修習するならば、二つの果報のうちの一つが期待される。
  すなわち現世にいるままでの完全智を得ることか、
  あるいは、執着の残りがあるならば、不還果を得ることなのだ。  

  比丘たちよ、半月間でなくてもよいのだ。
  比丘たちよ、誰であれ、これらの四念処を、
  このようにして七日間修習するならば、二つの果報のうちの一つが期待される。
  すなわち現世にいるままでの完全智を得ることか、
  あるいは、執着の残りがあるならば、不還果を得ることなのだ。  


  〈 比丘たちよ、この道は、諸々の生けるものたち(有情)が浄化され、
    愁いと悲しみを越えて、正理を証得し、涅槃を目の当たりに見るための一本道なのだ。

    すなわち、それが四念処なのである。 〉

  ── と、このように最初に言ったのは、
  それは、このような意味があって説かれていることなのだ」と。

このように世尊は言われました。
かれら比丘たちは喜び、世尊が説かれたことに歓喜しました。


〈 和 訳・おわり 〉




● 解 説


この、中部10経「念処経」と、
ほとんど同じ内容の教えが、長部経典にもあります。

長部 第22経 の「大念処経」がその経典です。

この二つの経典の違いは、ごく僅(わず)かしかなく、
上記の「和訳」の最後で説かれてる「四聖諦」の内容に、
さらに、四聖諦の各聖諦の「詳説(より詳しい説明)」を付加すると、
それがそのまま、長部経典の「大念処経」になってしまうのです。
ですから、この二経は、内容的には「まったく同じ経典」なのです。


内容としては、二経とも、


「四念処」とは何か?


── を、詳しく説明しているのですが、
後世、その内容を正しく理解した弟子は、ほとんど誰も居なかったようです。

何故ならば、釈尊の「八正道」の要(かなめ)とも言える、
「正念(四念処)」や「正定(四禅定)」を、正しく( = 経典に即して)、
そして、詳しく説明した仏教書や論書を、いくら探しても、
今まで、ついに、何処にも見つけることが出来なかったのですから。

 ※ ブッダコーサの「清浄道論」を挙げる人がいるかも知れませんが、
   私は、あの論書を「誤読(間違った解釈)」の代表例として考えています。
  …というか、部派のアビダルマ論者たちの「誤読」が、全ての悪因なのです。



……という前フリはこれくらいにして、@和井恵流の解説を始めましょう。



「四念処」とは何か?

── を、経典に即して「正しく」理解するための、ポイントが幾つかあります。


1.八正道の七番目「正念」に位置する修行であること。

2.経典においては、次のように説明(定型)されている。


  比丘たちよ、ここに比丘は、
  身において身を観続け、熱心に、
  正知を備え、念を備えて、世界における欲貪と憂いを除いて住む。
  諸々の受において受を観続け、熱心に、
  正知を備え、念を備えて、世界における欲貪と憂いを除いて住む。
  心において心を観続け、熱心に、
  正知を備え、念を備えて、世界における欲貪と憂いを除いて住む。
  諸々の法において法を観続け、熱心に、
  正知を備え、念を備えて、世界における欲貪と憂いを除いて住む。 


この定型文(決まり文句)では、いったい何が説かれているのでしょうか?



── 上記の経句を要約すれば、次のようになるのです。

身・受・心・法、の各処において、
「観」の修行を実践することによって、
「正知」と「念」の、二つを備え(身に付け)るようになり、
その結果、「欲貪」と「憂い」を取り除いた「安楽(現世法楽)」に住することが出来る。

 ※「憂い」とは〈 心の苦しみ 〉を意味する仏教用語なのです。

   また、比丘たちよ、「憂い」とは何か?
   比丘たちよ、心の苦しみ、心の不快、
   意に触れて生じる苦しい不快の感受がある。   
   比丘たちよ、これが「憂い」と言われるのだ。

   ( 長部経典22経「大念処経」 )


そして、この「欲貪と憂い」を、別の角度から表現すると「五蓋」になります。

 欲貪 + 憂い ( 心の苦しみ = 怒り・疑い・沈鬱と眠気・浮つきと後悔 )

つまり、「四念処」の修行の主たる目的は、「五蓋を滅する」ことなのです。



── では、五蓋を滅すると、どのような果報を得ることが出来るのでしょうか?

1.現世において、煩悩に振り回されて「のたうち回る」ことが無くなる。
  ( 中部14経「小苦蘊経」で説明されています。 )

2.五蓋の滅(捨断)によって、四禅定の「第一禅」に至ることができる。
  ( 中部経典43経「大有明経」で説明されています。 )

 ※ 上記の二つの中部経典については、gooブログの過去記事 の最初で詳しく説明しています。

四禅定の「第一禅」の条件として説かれている、
五禅支の具わり〈 尋・伺・喜・楽・一境性 〉
の中の「喜」は、単なる「喜び」などではありません。

   友よ、ここに比丘は、
   諸々の欲を確かに離れ、諸々の不善の法を離れ、
   大まかな考察のある、細かな考察のある、
   遠離 から生じた喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。
   友よ、これが第一の禅と言われるのです。

   ( 中部経典43経「大有明経」 )

〈 諸々の欲 〉とは、五蓋の中心となる「五妙欲〈五感によって生じる貪り)」を表わし、
〈 諸々の不善の法 〉が、残りの「怒り・疑い・沈鬱と眠気・浮つきと後悔」を表わしているのです。
そして、五蓋を離れた(捨断した)ことによる「遠離 」から、「喜び」と「楽」が生じるのです。

つまりこれは、「苦受」が「不苦受」に転変した結果、得ることの出来る「喜」と「楽」なのです。

長部2経「沙門果経」を始めとする多くの経典が、
この「喜び」を、「五つの喩え話」を使って表現しています。

  1.負債を抱えて苦しんでいた男が、事業に成功し、
    負債を全て返し終えて、さらに余った利益によって妻を養えるようになる。

  2.重い病気で食事もろくに出来ずに体力を失っていた男が、
    病気から脱して食事を取ることが出来て、体力も身についてきている。

  3.牢獄につながれて苦しんでいた男が、
    牢獄から安全に無事に解かれ、しかも財産は何ら失われていない。

  4.奴隷として他に隷属し、自由が無く欲するままに何処にも行けなかった男が、
    奴隷から解放されて自由となり、独立し、欲するままに何処にも行けるようになる。

  5.財宝や財物を持つ男が、食べ物も無い恐ろしい荒野の道を進むが、
    やがて、無事に荒野を通り抜けて、恐れの無い平穏な村の辺に到着する。

これらの喩え話の後に、経典ではこのような説明が続くのです。

   このように、大王よ、比丘は、
   まだ捨てられていないこれら五蓋を、
   ちょうど負債のように、病気のように、牢獄のように、
   奴隷状態のように、荒野の道のように、自己の中に観るのです。

   また、大王よ、比丘は、
   これら五蓋がすでに捨てられているのを、
   ちょうど無債のように、無病のように、出獄のように、
   独立のように、平穏の地のように、自己の中で観るのです。

   これら五蓋がすでに捨てられているのを自己の中に観る彼には、満足が生じます。
   満足する者には喜びが生じます。喜びの心がある者には身体が軽安になります。
   軽安な身体は楽を感じ、楽のある者には心の統一を得ることが出来るのです。

   ( 長部経典2経「沙門果経」 )

── つまり、

 五蓋の滅 → 満足 → 喜び → 軽安 → 楽 → 心の統一( = 定の確定 )

という、これが、「五蓋の滅」から「定の確定 = 四禅定」へと至るプロセスなのです。

そして、四禅定の「第一禅」において修行者が証知する「喜」の禅支とは、
五蓋を滅することによってのみ体得することが出来る、特別な「喜び」なのです。
ですから、それを得るための必要条件として「五蓋の滅」があり、
その「五蓋の滅」を主目的とした修行こそが、八正道の「正念」、つまり「四念処」なのです。

そしてこの「五蓋の滅」は、「寂止の瞑想」によって心の働きを静めて得られる果報などではありません。
何故ならば、そのような「五蓋の停止状態」は、再び日常生活に戻れば、簡単に崩れ去るものだからです。
── つまり、それらは、経典で説かれている「五蓋の滅」とは〈 異なるもの = 誤解 〉になるのです。

上座部仏教や大乗仏教は、共に、その教義の基礎の多くを「アビダルマ(論書)」に置いています。
そして両方共に、「止観」という瞑想を説明する場合は、最初に「寂止」を修することで煩悩の働きを静め、
心をクリアー(水が澄んだような状態)にしてから、諸法を如実に観察する「正観」を行うことを説いています。
その結果、上座部仏教では、自然界の「真実相(無常・苦・無我)」を証得して、遠離 ・離貪・解脱・涅槃に至り、
大乗仏教では、「諸法実相(縁起=空)」を悟ることで、諸々の煩悩を滅することが出来るとされているのです。

しかし、経典の説明は、その順序が、まったく「逆」なのです。

まず、最初に「寂止」ではなく、「四念処」という「正観(有尋有伺定・無尋有伺定)」の修行によって、
「五蓋」を滅して「有尋有伺定」の究竟(最高の状態)である「第一禅定」に到達することが説かれているのです。
そして、その後で、「尋と伺」が静まる(寂止する)ことで、それに依って成立してた「喜びや楽」も消えて、
それとは異なった、心の安定より生じる「喜びと楽」のある「第二禅定」へと移行することが出来るのです。

 ※ 「第一禅定」では、「(尋と伺に依って生起した)遠離から生じる喜びと楽のある状態」なのに対して、
   「第二禅定」では、「(尋と伺の無い)心の安定より生じる喜びと楽のある状態」へと変化するのです。


── つまり、この「中部10経・念処経」や「長部22経・大念処経」で説かれている「四念処」は、
「有尋有伺定」と「無尋有伺定」という二つの「正観」の修行を、具体的に解き明かした教えなのです。


では、これから経典の内容を、一つ一つ詳しく解説することにしましょう。

内容としては、

 1.入出息
 2.行住坐臥
 3.正知
 4.不浄観
 5.四大要素
 6.九段階の死体の推移、その①
 7.九段階の死体の推移、その②
 8.九段階の死体の推移、その③
 9.九段階の死体の推移、その④
 10.九段階の死体の推移、その⑤
 11.九段階の死体の推移、その⑥
 12.九段階の死体の推移、その⑦
 13.九段階の死体の推移、その⑧
 14.九段階の死体の推移、その⑨
 15.感受
 16.心
 17.五蓋
 18.五取蘊
 19.六内外処
 20.七覚支
 21.四聖諦

── という順番で、
身念処〈1~14〉、受念処〈15〉、心念処〈16〉、法念処〈17~21〉が、
それぞれ各処で説明がされているのですが、最初に、経典において、

  〈 身において身を観続け 〉〈 受において受を観続け 〉
  〈 心において心を観続け 〉〈 法において法を観続け 〉 

とあるように、身・受・心・法の「四処」を〈 観察し続ける 〉修行法なのです。
つまり、これらの修行は、基本的に「正観」の修行であって「寂止」の修行ではありません。

勘違いされやすいのは、〈 観続ける 〉ことによって、心の働きが静まってくるので、
それを理由・根拠として、「寂止(シャマタ)」の修行なんだと誤解してしまう場合が多いのです。

「寂止」の瞑想の特徴は、「観察(対象を相対化して観る・感じる)」ではなくて、
「跳入(そこへ飛び込む・対象と合一する・ただ在る)」という「特相」があるのです。

例えば、下記の経典で使われている「跳入し」というように…

   ちようどこのように、アーナンダよ、
   比丘は村の想を思惟せず、人の想を思惟せず、
   森の想によって、かれの心は 跳入し、清まり、確立し、確知します。

   ( 中部121経「小空性経」片山一良・訳/パーリ仏典中部・大蔵出版 )

というように…


仏典の中で、「大まかな考察」や「細かな考察」と訳される事の多い、
「尋」と「伺」は、思考 や 言葉(語行) と 深く関わる 語句 なのです。

辞書 で 調べてみると、

   ● 尋 [ vi-takka ] … 思い、思いはかり、思いめぐらし、
               思いはからい、思案、考想、尋、尋思、思索。 

   ● 伺 [ vi-cara ] … 考察、伺察、細密な考察。                    

   ( 「 パーリ仏教辞典 」  村上真完・及川真介 / 春秋社 )

漢訳としては、「尋求」や「伺察」がよく使われます。

   【尋求】探し求める、追求する。

   【伺察】ひそかに観察すること。


例えば、私たちが「考え事」をしている時に、少し注意をすれば、
「言葉」を使ってあれこれ一生懸命「独り言」をつぶやいている自分(心の働き)と、
その「独り言」を聞いて確認しているもう一人の自分がいることに気付くでしょう。
そして、その「独り言」に時々頷いたり、たまに、ダメ出しを出したりしているのですが…

── つまり、それが「尋」と「伺」の心の働きなのです。

経典の説明は、〈1~3〉までが無尋有伺定、〈4~14〉までが有尋有伺定、
そして、〈15~21〉までが再び、無尋有伺定の説明になっているのです。

ただし、中部28経「大象跡喩経」では〈5.四大要素〉の有尋有伺定の説明がされています。
また、中部62経「大ラーフラ教誡経」では、〈1.入出息〉と他の要素〈五大や四梵住など〉を組み合わせた
複合的な〈出入息の修行法〉が説明されていて、中部118経「出入息経」でも、出入息を中心とした四念処と、
四念処と七覚支の相互関係を詳しく説いた教えが述べられていて、さらに中部119経「念身経」では、なんと、
身念処を中心とした、四念処 → 四禅定 → 三明六通 に至るまでのプロセスが説明されているのです。

つまり、これらの経典群に、相応部や増支部で説かれている教えなども加えて、その全て統合すると、
釈尊が弟子たちに教えていた、八正道の七番目の修行としての「四念処」の真の姿が見えてくるのです。

しかし、他の経典も加えて説明をしてしまうと、かなり複雑な内容になってしまうので、
ここでは、この経典で説かれている内容「のみ」の説明に限定して進めることにしますが、
実際には、これ以外にも、幾つかのバリエーションがあるのだということは、心に留めておいてください。



1.入出息、2.行住坐臥、3.正知 の三つは「無尋有伺定」であると説明しましが、
例えば、「行住坐臥」については、小部経典「如是語経」において、次のように語られています。


   歩いていても〈行〉立っていても〈住〉、
   坐っていても〈坐〉臥していても〈臥〉、
   思量することを止め、思量の静止を楽しむならば、
   その如是者なる比丘は 最上の正しい覚りに触れる。

   ( 小部経典「如是語」四集 )




 〈 思量することを止め、思量の静止を楽しむ 〉


── これが、「入出息」「行住坐臥」「正知」を実践するポイントなのです。

 ※ ただし、「入出息」の場合は、「身念処」の基本であると共に、
   修行が進めば、複合的な瞑想が出来る、応用の広い奥深いメソッド(技法)なのです。

 ※「正知」は、「行住坐臥」をさらに細かく分類して説明しているのです。

   行 → 前に進むにも、後ろに退くにも、
       行くにも、大衣と鉢・衣を携えるときも、

   住 → 真直ぐ前を見るときも、あちこち周囲を見るときも、
       身体を曲げるときも、身体を伸ばすときも、立つにも、
       食べるときも、飲むときも、噛むときも、味わうときも、
       大便・小便をするときも、語るにも、黙するにも

   坐 → 坐るにも、眠るにも、

   臥 → 眠るにも、目覚めるにも、

この、「正知」については、少し説明が必要となります。
というのは、長部2経「沙門果経」などで説明されている「修行プロセス」の順序からすると、

 1.小戒  2.中戒  3.大戒  4.感官の防護  5.念と正知  6.満足(知足)

と続いて、7.五蓋の除去  つまり「四念処」が来るのですが、この説明も、次のようになっているのです。

   彼は、この聖なる戒蘊を備え、この聖なる感官の防護を備え、
   この聖なる念と正知を備え、この聖なる満足備え、
   森、樹下、山、渓谷、洞窟、墓地、山林、露地、
   積んだ藁といった、人里離れた静かな臥坐所に親しみます。
   彼は、托鉢から戻り、食事を済ませた後で、
   結跏趺坐を組み、身体を真直ぐにして、面前に念を現前させて坐ります。
   彼は、世界に対する欲貪を捨て、欲貪の消えた心を持って生活し、欲貪から心を浄めます。
   瞋恚を捨て、無害の心を持ち、全ての生き物を益し、同情心を持って生活し、瞋恚から心を浄めます。
   沈鬱・眠気を捨て、沈鬱・眠気が消えて、光明想を備え、念と正知を備えて生活し、沈鬱・眠気から心を浄めます。
   浮つき・後悔を捨て、浮つき・後悔が消えて、内に平静な心を持って生活し、浮つき・後悔から心を浄めます。
   疑いを捨て、疑いを脱し、諸々の善法に対する疑惑を持つことなく生活し、疑いから心を浄めます。

   ( 長部経典2経「沙門果経」 )

ここでは、「五蓋の滅」という観点からの修行法が説明されています。
「広義(総合的)」には、これら全てが「四念処」の修行だとも言えるのですが、
今回の「念処経」に沿って言うならば、

  〈 彼は、世界に対する欲貪を捨て、欲貪の消えた心を持って生活し、欲貪から心を浄めます 〉

── という「欲貪蓋」へのアプローチが、
その修行の中心〈 4.不浄観 ~ 14.九段階の死体の推移、その⑨ 〉となるのです。

ところが、三毒には、次のような関係式が成り立ちます。

  無知 → 貪り → 怒り  

つまり、苦の生・滅に対する「無知」から「貪り」が生じ、その「貪り(欲求)」が、
何かによって阻害されたときに、その欲求を妨げたものに対して「怒り」が生まれる。

ですから、「貪り」を滅すれば、自動的に「怒り」も治まって、生起しにくくなるので、
「欲貪(貪欲蓋)」を滅する修行法に集中して、それに専念することは、結果として「怒りの滅」にも結び付くのです。

ちなみに、「怒り・害心(瞋恚蓋)」に直接アプローチする瞑想法は、「四梵住(四無量心)」の瞑想になります。
「怒り」に対して「慈しみ」の瞑想、「害意」に対しては「悲しみ」の瞑想、
「不満」に対しては「喜び」の瞑想、そして「貪り」にに対しては「無関心」の瞑想が対応しているのです。
「沈鬱・眠気(昏沈睡眠蓋)」に対しては「光明想」の瞑想で、「念」と「正知」は、その補助因として働きます。
「浮つき・後悔(掉挙悪作蓋)」には「寂止」の瞑想、「疑(疑蓋)」には「正思惟(法念処)」の瞑想が対応しているのです。

要するに、ここで何を言いたいのかというと、この経典だけでは、把握しにくいのですが、
「四念処」の修行を実践するには、その「前行(予備行・ベース作り)」として、

1.戒行を守る  
2.感官の防護に努める  
3.念と正知(つまり、入出息・行住坐臥・正知という最初の三つの修行が、そのまま当てはまる)
4.満足(知足・少欲)を心掛ける  

という、これら四つの前段階の「条件」を満たしておく必要があるのです。

この中で、少し解りにくい「感官の防護」について、ここで説明しておきます。

   ではまた、大王よ、比丘はどのように、諸々の感官を防護しているのでしょうか?
   ここに大王よ、比丘は、眼によって色を見る時に、その外相(外形など)を捉えることも無く、
   またその細相(動き・働きなど)を捉えることもありません。
   この感官の防護をしないで生活するならば、
   諸々の悪しき不善の法が、欲貪として憂いとして、流れ込むことになります。
   そこで彼は、その制御に努め、目の感官を保護し、眼の感官を防護を達成するのです。

   ※ この後、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法についても、同じ説明が続く。

   ( 長部経典2経「沙門果経」 )   


── つまり、「外部(六境)に意識を向けて、細かく観察(分別・分析)しようとするな!」と言っているのです。
下記の経典は、これと同じ意味のことを説明しているのです。

   すがたを見ることは、すがたをさらに吟味して見ることとは異なっている。
   ここに両者の異なっていることが説かれる。
   昼が夜と異なっているようなものである。
   両者が合することは有り得ない。

   もしもすがたをさらに吟味して見るのであるならば、単にすがたを見るということは無い。
   またもし単にすがたを見る見るのであるならば、すがたをさらに吟味して見るということは無い。
   ここの人は、単にすがたを見るだけであって、すがたをさらに吟味して見るということが無い。
   しかしすがたをさらに吟味して見る人は、つねにすがたを見ることがない。

   (無明に)覆われて凡夫は、諸々のつくり出されたものを苦しみであるとは見ないのであるが、
   その(無明が)あるが故に、すがたをさらに吟味して見るということが起るのである。
   この(無明が)消失したときには、すがたをさらに吟味して見るということも消滅するのである。

   ( 『ウダーナヴァルガ』第27章 観察 中村元・訳/岩波文庫  )

ここで注目すべきことは、この「感官の防護」が、

 〈 この感官の防護をしないで生活するならば、
   諸々の悪しき不善の法が、欲貪として憂いとして、流れ込むことになります 〉

とあるように、その目的が「四念処」と同じくして「欲貪」と「憂い」の生起・流入を防ぐことにある、ということです。








  ★もっとシンプルな説明にするつもりでしたが、書いているうちに、どんどん長くなってしまいました。
   まだ、しばらく説明が続く予定ですが、もし、貴方が「四念処」の実践をしていて、
   疑問や問題を抱えているならば、メールを送って下されば、何かお役に立てるかも…


   和井 恵























































































〈 編集中 〉