■相応部経典 受相応 36.6 箭
〈 和 訳 〉
比丘たちよ、まだ私の教えを聞かない凡夫は、
苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声を上げて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。
けだし、彼は 二重の受を感ずるのである。
すなわち、身における受と、心における受とである。
比丘たちよ、それは、喩えば、第一の箭(や)をもって人を射て、
さらに、また、第二の箭をもってその人を射るようなものである。
比丘たちよ、そのようにすると、その人は、二つの箭の受を感ずるであろう。
それと同じように、比丘たちよ、まだ私の教えを聞かない凡夫は、
苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声を上げて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。
けだし、彼は 二重の受を感ずるのである。
すなわち、身における受と、心における受とである。
すなわち、苦なる受に触れられると、彼は、そこで瞋恚(いかり)を感ずる。
苦なる受に対して瞋恚を感ずると、眠れる瞋恚の随眠(煩悩の種子)が彼を捉える。
また、彼は、苦なる受に触れられると、今度は欲楽を求める。 何故であろうか?
比丘たちよ、愚かなる凡夫は、欲楽を求める以外には、
苦なる受から逃れる方法(すべ)を知らないからなのだ。
そして、欲楽を、喜び願い求めると、眠れる欲貪の随眠が彼を捉える。
彼はまた、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、
あるいはまた、それらからの脱出の仕方も、本当に知ってはいない。
それらを よく知っていない ことから、苦でもなく楽でもない受を感ずると、
眠れる無智の随眠が彼を捉えることとなる。
つまり彼は、もし楽受を感ずれば、それに繋縛(けいばく)させられ、
もし苦受を感ずれば、それに繋縛させられ、
またもし非苦非楽なる受を感ずれば、それに繋縛させられる。
比丘たちよ、このような愚かな凡夫は、
〈 生により、死により、憂いにより、悲しみにより、
苦しみにより、嘆きにより、絶望によりて繋縛させられている。
つまりそれらは、苦によって繋縛させられている 〉 と私は言う。
しかるに、比丘たちよ、すでに私の教えを聞いた聖なる弟子は、
苦なる受に触れられてもと、泣かず、悲しまず、声を上げて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたらない。
けだし、彼はただ一つの受を感ずるのみである。
すなわち、身における受であって、心における受ではないのである。
比丘たちよ、それは、喩えば、第一の箭(や)をもって射られたが、
第二の箭は受けなかったようなものである。
比丘たちよ、そのようだとすると、その人は、ただ一つの箭の受を感ずるのみであろう。
それと同じように、比丘たちよ、すでに私の教えを聞いた聖なる弟子は、
苦なる受に触れられてもと、泣かず、悲しまず、声を上げて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたらない。
けだし、彼はただ一つの受を感ずるのみである。
すなわち、身における受であって、心における受ではないのである。
だから、彼は、苦なる受に触れられても、そこで瞋恚(いかり)を感じない。
苦なる受に触れられても瞋恚を感じないから、眠れる瞋恚の随眠(煩悩の種子)が彼を捉えない。
また、彼は、苦なる受に触れられても欲楽を求めない。 何故であろうか?
比丘たちよ、私の教えを聞いた聖なる弟子は、欲楽以外に、苦なる受から逃れる方途を知っているからなのだ。
そして、欲楽を願わないから、眠れる欲貪の随眠が彼を捉えないのである。
また、彼は、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、
あるいはまた、それらからの脱出の仕方も、よくよく知っている。
それらのことを よく知っている から、苦でもなく楽でもない受を感ずることから、
眠れる無智の随眠が彼を捉えるようなことはない。
つまり彼は、もし楽受を感しても、それに繋縛(けいばく)されることなく、
もし苦受を感じても、それに繋縛されることなく、またもし非苦非楽なる受を感じても、
それに繋縛されることなくしてそれを感ずるのである。
比丘たちよ、このような私の教えを聞いた聖なる弟子は、
〈 生によっても、死によっても、憂いによっても、悲しみによっても、苦しみによっても、
嘆きによっても、また絶望によっても繋縛されないのである。
つまりそれらは、苦によって繋縛されない 〉 と私は言う。
比丘たちよ、私の教えを聞いた聖なる弟子と、まだ私の教えを聞かない凡夫とは、
これを特異点となし、これを特質となし、また、これを相違となすのである。
〈 和 訳・おわり 〉
● 解 説
この経典は、
〈 編集中 〉
最終更新:2013年11月15日 02:08