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■中部経典 第119経 「身至念経」




〈 和 訳 〉

1  このように私は聞いた──
 あるとき、世尊は、サーヴァッティに近いジェータ林のアナータピンディカ僧院に住んでおられた。
 ときに、多くの比丘たちは食後、托鉢食を離れると、講堂に集まり、坐っていたが、そのかれらに、つぎの談話が起こった。
 「友らよ、不思議なことだ。友らよ、珍しいことだ。かの知るお方、見るお方であり、阿羅漢、正自覚者である世尊によって、身に至る念は修習され、復習されたならば、大きな果報のあるもの、大きな功徳のあるものになる、と説かれていることは」と。
 しかし、その比丘たちの談話はそれで中止された。
 ときに、世尊は、夕方、独坐から立ち上がり、講堂に近づいて行かれた。行かれると、用意されていた座にお座りになられた。お座りになると、世尊は比丘たちに話しかけられた。
 「比丘たちよ、どのような会話があって、今ここに集まり坐っているのですか。また、そなたたちに中断された会話はどのようなものですか」と。
 「尊師よ、私どもは食後、托鉢食を離れますと、講堂に集まり、坐っておりましたが、その私どもに、つぎの談話が起こりました。
 『友らよ、不思議なことだ。友らよ、珍しいことだ。かの知るお方、見るお方であり、阿羅漢、正自覚者である世尊によって、身に至る念は修習され、、大きな果報のあるもの、大きな功徳のあるものになる、と説かれていることは』と。尊師よ、これが私どもに中断された談話です。そのとき、世尊がお着きになりました」と。

2  「それでは、比丘たちよ、身に至る念は、どのように修習され、どのように復習され、どのような大きな果報、大きな功徳があるものになるのか。
 比丘たちよ、ここに比丘は、森に行くか樹下に行くか、空屋に行って、結跏し、身を真直ぐに保ち、全面に念を凝らして坐ります。 かれは、念をそなえて出息し、念をそなえて入息します。長く出息するときは 〈 私は長く出息する 〉 と知り、あるいは、長く入息するときは 〈 私は長く入息する 〉 と知ります。また、短く出息するときは 〈 私は短く出息する 〉 と知り、あるいは、短く入息するときは 〈 私は短く入息する 〉 と知ります。 〈 私は全身を感知して出息しよう 〉 と学び、 〈 私は全身を感知して入息しよう 〉 と学びます。 〈 私は身行を静めつつ出息しよう 〉 と学び、 〈 私は身行を静めつつ入息しよう 〉 と学びます。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このように、比丘は身に至る念を修習します。(1)

 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、行っているときは 〈 私は行っている 〉 と知り、あるいは立っているときは 〈 私は立っている 〉 と知り、あるいは坐っているときは 〈 私は坐っている 〉 と知り、あるいは臥しているときは 〈 私は臥している 〉 と知ります。あるいはまた、かれはその身が存するとおりに、それを知ります。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このようにまた、比丘は身に至る念を修習します。( 2 )

 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、進むにも、退くにも、正知をもって行動します。真直ぐ見るにも、あちこち見るにも、正知をもって行動します。大衣と衣鉢を持つにも、正知をもって行動します。食べるにも、飲むにも、噛むにも、味わうにも、正知をもって行動します。大便・小便をするにも、正知をもって行動します。行くにも、立つにも、坐るにも、眠るにも、目覚めるにも、語るにも、黙するにも、正知をもって行動します。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このようにまた、比丘は身に至る念を修習します。( 3 )

 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、足の裏より上、頭髪より下の、皮膚を周辺とする、種々の不浄に満ちた、この身を観察します。すなわち、〈 この身には、髪・毛・爪・歯・皮、肉・筋・骨・骨髄・腎臓、心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺臓、腸・腸間膜・胃物・大便、胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪、涙・脂肪油・唾・鼻液・関節液・小便がある 〉 と。 比丘たちよ、それは、たとえば両方に口のある袋が、種々の穀物に、すなわち、サーリ籾米、ヴィーヒ籾米、緑豆、そら豆、胡麻、米に満ちており、それを眼のある人が開けて 〈 これらはサーリ籾米である。これらはヴィーヒ籾米である。これらは緑豆である。これらはそら豆である。これらは胡麻である。これらは米である 〉 と観察するようなものです。
 比丘たちよ、ちょうどそのように、比丘は、足の裏より上、頭髪より下の、皮膚を周辺とする、種々の不浄に満ちた、この身を観察します。すなわち、〈 この身には、髪・毛・爪・歯・皮、肉・筋・骨・骨髄・腎臓、心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺臓、腸・腸間膜・胃物・大便、胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪、涙・脂肪油・唾・鼻液・関節液・小便がある 〉 と。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このようにまた、比丘は身に至る念を修習します。( 4 )

 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、この身をあるがままに、置かれたままに、要素から観察します。 〈 この身には、地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある 〉 と。比丘たちよ、たとえば、熟練した屠牛者かその内弟子が雌牛を殺し、四大路で切り裂いて坐っているようなものです。比丘たちよ、ちょうどそのように、比丘はこの身をあるがままに、置かれたままに、要素から観察します。 〈 この身には、地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある 〉 と。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このようにまた、比丘は身に至る念を修習します。( 5 )

 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、たとえば墓地に捨てられた、死後一日、あるいは二日、あるいは三日経ち、膨張し、青黒くなり、膿ただれてた死体を見るように、この身のみに集中します。 〈 この身も、このような性質のもの、このようになるもの、このような状態を超えないものである 〉 と。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このようにまた、比丘は身に至る念を修習します。( 6 )

 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、たとえば墓地に捨てられた、鳥に食べられたり、鷹に食べられたり、禿鷹に食べられたり、蒼鷺 に食べられたり、犬に食べられたり、虎に食べられたり、豹に食べられたり、ジャッカルに食べられたり、あるいは種々の生き物 に食べられたりしている死体を見るように、この身のみに集中します。 〈 この身も、このような性質のもの、このようになるもの、このような状態を超えないものである 〉 と。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このようにまた、比丘は身に至る念を修習します。( 7 )

 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、たとえば墓地に捨てられた、骨が連鎖している、血肉がある、筋が繋がっている死体を見るように、この身のみに集中します。 〈 この身も、このような性質のもの、このようになるもの、このような状態を超えないものである 〉 と。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このようにまた、比丘は身に至る念を修習します。( 8 )

 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、たとえば墓地に捨てられた、骨が連鎖している、肉のない、血にまみれ、筋が繋がっている死体を見るように、この身のみに集中します。 〈 この身も、このような性質のもの、このようになるもの、このような状態を超えないものである 〉 と。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このようにまた、比丘は身に至る念を修習します。( 9 )

 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、たとえば墓地に捨てられた、骨が連鎖している、血肉のない、筋が繋がっている死体を見るように、この身のみに集中します。 〈 この身も、このような性質のもの、このようになるもの、このような状態を超えないものである 〉 と。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このようにまた、比丘は身に至る念を修習します。( 10 )

 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、たとえば連鎖のない四方八方に散乱した骨を、すなわち、別の方向には手の骨を、別の方向には足の骨を、別の方向には踝(くるぶし)の骨を、別の方向には脛の骨を、別の方向には腿(もも)の骨を、別の方向には腰の骨を、別の方向には肋骨を、別の方向には背骨を、別の方向には肩の骨を、別の方向には頸の骨を、別の方向には顎の骨を、別の方向には歯の骨を、別の方向には頭蓋骨を見るように、この身のみに集中します。 〈 この身も、このような性質のもの、このようになるもの、このような状態を超えないものである 〉 と。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このようにまた、比丘は身に至る念を修習します。( 11 )

 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、たとえば墓地に捨てられた、もろもろの骨が白い貝の色のような死体を見るように、 この身のみに集中します。 〈 この身も、このような性質のもの、このようになるもの、このような状態を超えないものである 〉 と。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このようにまた、比丘は身に至る念を修習します。( 12 )

 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、たとえば墓地に捨てられた、もろもろの骨が山積みにされ一年経っている死体を見るように、 この身のみに集中します。 〈 この身も、このような性質のもの、このようになるもの、このような状態を超えないものである 〉 と。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このようにまた、比丘は身に至る念を修習します。( 13 )

 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、たとえば墓地に捨てられた、もろもろの骨が腐食し粉々になっている死体を見るように、 この身のみに集中します。 〈 この身も、このような性質のもの、このようになるもの、このような状態を超えないものである 〉 と。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このようにまた、比丘は身に至る念を修習します。( 14 )

3  つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、もろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離 から生じる喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。かれはこの身体を遠離 から生じる喜びと楽によって潤し、あまねく浸し、あまねく満たし、あまねく行きわたらせます。その身体にはどこも、遠離 から生じる喜びと楽の触れないところはありません。比丘たちよ、たとえば熟練した沐浴業者かその弟子が銅の容器に洗粉をふりまき、水を注ぎ注ぎしてこねるならば、その洗粉の塊に染み行き、染み込み、内も外も染み透り、しかも漏れることのないようなものです。
 比丘たちよ、ちょうどそのように、比丘は、この身体を遠離 から生じる喜びと楽によって潤し、あまねく浸し、あまねく満たし、あまねく行きわたらせます。その身体にはどこも、遠離 から生じる喜びと楽の触れないところはありません。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このようにまた、比丘は身に至る念を修習します。( 15 )

 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、大まかな考察、細かな考察が消え、内心が清浄の、心の統一された、大まかな考察、細かな考察のない、心の安定より生じる喜びと楽のある、第二の禅に達して住みます。かれはこの身体を心の安定より生じる喜びと楽によって潤し、あまねく浸し、あまねく満たし、あまねく行きわたらせます。その身体にはどこも、心の安定より生じる喜びと楽の触れないところはありません。比丘たちよ、たとえば、水の湧きでる深い湖があって、その東方にも水の流出口はなく、その南方にも水の流出口はなく、その西方にも水の流出口はなく、その北方にも水の流出口はなく、しかも雲がときどき定期的に雨をもたらすことがない場合に、その湖から冷たい水の流れが湧きだし、その湖を冷たい水で潤し、あまねく浸し、あまねく満たし、あまねく行きわたらせるならば、その池にはどこも、冷たい水の触れないところがないようなものです。
 比丘たちよ、ちょうどそのように、比丘は、この身体を心の安定より生じる喜びと楽によって潤し、あまねく浸し、あまねく満たし、あまねく行きわたらせます。その身体にはどこも、心の安定より生じる喜びと楽の触れないところはありません。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このようにまた、比丘は身に至る念を修習します。( 16 )

 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、喜びが消えていることから、平静にして、念をそなえ、正知をそなえて住み、楽を身体で感じ、聖者たちが 『 平静にして、念をそなえ、楽に住む 』 と語る、第三の禅に達して住みます。かれはこの身体を喜びのない楽によって潤し、あまねく浸し、あまねく満たし、あまねく行きわたらせます。その身体にはどこも、喜びのない楽の触れないところはありません。比丘たちよ、たとえば、青蓮華の池か、紅蓮華の池か、白蓮華の池かにおいて、ある青蓮華か、紅蓮華か、白蓮華かが、水中に生じ、水中に生育し、水面に現れず、水面下に沈んだまま育つならば、それらが先端から根もとまで冷たい水で潤され、あまねく浸され、あまねく満たされ、あまねく行きわたらされ、青蓮華であれ、紅蓮華であれ、白蓮華であれ、そのどこにも冷たい水の触れないところがないようなものです。
 比丘たちよ、ちょうどそのように、比丘は、この身体を喜びのない楽によって潤し、あまねく浸し、あまねく満たし、あまねく行きわたらせます。その身体にはどこも、喜びのない楽の触れないところはありません。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このようにまた、比丘は身に至る念を修習します。( 17 )

 つぎにまた、比丘たちよ、比丘は、楽を断ち、苦を断ち、以前にすでに喜びと憂いが消滅していることから、苦もなく楽もない、平静による念の清浄のある、第四の禅に達して住みます。かれはこの身体を清浄で純白な心によって満たし、坐ります。その身体にはどこも、清浄で純白な心の触れないところはありません。比丘たちよ、たとえば、人が白い布を頭から覆って坐るならば、その身体にはどこも、白い布の触れない触れないところがないようなものです。
 比丘たちよ、ちょうどそのように、比丘は、この身体を清浄で純白な心によって潤し、あまねく浸し、あまねく満たし、あまねく行きわたらせます。その身体にはどこも、清浄で純白な心の触れないところはありません。このように怠けることなく、熱心に、自ら励み、住むかれには、在家的な憶念と思念が遮断されます。それらの捨断により、内に心は確立し、落着き、専一になり、安定します。比丘たちよ、このようにまた、比丘は身に至る念を修習します。( 18 )

4  比丘たちよ、誰であれ、身に至る念が修習され、復習されている者には、どのような明の部分であるもろもろの善法も内に入っています。比丘たちよ、たとえば、誰であれ、心によって大海が遍満している者には、どのような海に至るもろもろの小川も内に入っているようなものです。 比丘たちよ、ちょうどそのように、誰であれ、身に至る念が修習され、復習されている者には、どのような明の部分であるもろもろの善法も内に入っています。
 比丘たちよ、誰であれ、身に至る念が修習されず、復習されていない者には、魔がかれに対して機会を得、魔がかれに対して対象を得ます。比丘たちよ、たとえば、男性が重い石の塊を粘土の堆積の中に投げ入れたとします。比丘たちよ、そのことをどう思いますか。つまり、その重い石の塊は粘土の堆積の中に機会を得るのか、ということです」
 「はい、尊師よ」
 「比丘たちよ、ちょうどそのように、誰であれ、身に至る念が修習されず、復習されていない者には、魔がかれに対して機会を得、魔がかれに対して対象を得ます。
 比丘たちよ、たとえば、樹液のない乾いた木片があり、そこへ男性が鑚木の上部を持って、 『 火を起こそう。炎を出そう 』 と、やって来たとします。比丘たちよ、そのことをどう思いますか。つまり、その男性はこの樹液のない乾いた木片に、鑚木の上部を持って摩擦し、火を起こし、炎を出すことができるのか、ということです」
 「はい、尊師よ」
 「比丘たちよ、ちょうどそのように、誰であれ、身に至る念が修習されず、復習されていない者には、魔がかれに対して機会を得、魔がかれに対して対象を得ます。
 比丘たちよ、たとえば、空 ( から ) の、何も入っていない水瓶が台の上にあり、そこへ男性が水の荷を持って、やって来たとします。比丘たちよ、そのことをどう思いますか。つまり、その男性は水を注ぐことができるのか、ということです」
 「はい、尊師よ」
 「比丘たちよ、ちょうどそのように、誰であれ、身に至る念が修習されず、復習されていない者には、魔がかれに対して機会を得、魔がかれに対して対象を得ます。

5  比丘たちよ、誰であれ、身に至る念が修習され、復習されている者には、魔がかれに対して機会を得ることはなく、魔がかれに対して対象を得ることはありません。
 比丘たちよ、たとえば、男性が、軽い糸玉を、すべてが心材からなる戸板の上に投げたとします。比丘たちよ、そのことをどう思いますか。つまり、その男性は、その軽い糸玉を、すべてが心材からなる戸板の上に機会を得るのか、ということです」
 「いいえ、尊師よ」
 「比丘たちよ、ちょうどそのように、誰であれ、身に至る念が修習され、復習されている者には、魔がかれに対して機会を得ることはなく、魔がかれに対して対象を得ることはありません。
 比丘たちよ、たとえば、樹液のある濡れた木片があり、そこへ男性が鑚木の上部を持って、 『 火を起こそう。炎を出そう 』 と、やって来たとします。比丘たちよ、そのことをどう思いますか。つまり、その男性はこの樹液のある濡れた木片に、鑚木の上部を持って摩擦し、火を起こし、炎を出すことができるのか、ということです」
 「いいえ、尊師よ」
 「比丘たちよ、ちょうどそのように、誰であれ、身に至る念が修習され、復習されている者には、魔がかれに対して機会を得ることはなく、魔がかれに対して対象を得ることはありません。
 比丘たちよ、たとえば、水瓶が台の上に置かれており、水が縁まで等しく、鳥が飲めるほどに満ちているとします。そこへ男性が水の荷を持って、やって来たとします。比丘たちよ、そのことをどう思いますか。つまり、その男性は水を注ぐことができるのか、ということです」
 「いいえ、尊師よ」
 「比丘たちよ、ちょうどそのように、誰であれ、身に至る念が修習され、復習されている者には、魔がかれに対して機会を得ることはなく、魔がかれに対して対象を得ることはありません。

6  比丘たちよ、誰であれ、身に至る念が修習され、復習されている場合、通智による現証のために、それぞれの通智による現証可能な法に心が傾くならば、かれはそれぞれの所において、念の処があるとき、目のあたりに見ることができる状態に達します。
 比丘たちよ、たとえば、水瓶が台の上に置かれており、水が縁まで等しく、鳥が飲めるほどに満ちているとします。そこで、力のある男性がそれぞれの所から揺り動かすとした場合、水は溢れ出るでしょうか」
 「はい、尊師よ」
 「比丘たちよ、ちょうどそのように、誰であれ、身に至る念が修習され、復習されている場合、通智による現証のために、それぞれの通智による現証可能な法に心が傾くならば、かれはそれぞれの所において、念の処があるとき、目のあたりに見ることができる状態に達します。
 比丘たちよ、たとえば、平らな地域に、四角い蓮池があり、堤防が結ばれ、水が縁まで等しく、鳥が飲めるほどに満ちているとします。そこで、力のある男性がそれぞれの所から堤防を解き放つとした場合、水は溢れ出るでしょうか」
 「はい、尊師よ」
 「比丘たちよ、ちょうどそのように、誰であれ、身に至る念が修習され、復習されている場合、通智による現証のために、それぞれの通智による現証可能な法に心が傾くならば、かれはそれぞれの所において、念の処があるとき、目のあたりに見ることができる状態に達します。
 比丘たちよ、たとえば、平坦な地の四大路によく訓練された車が用意され、鞭が置かれ、止まっているとし、そこで、熟練した馬術師である馬の調御師が乗り、左手に手綱をもち、右手に鞭を持って、望むところから望むところへ往かせたり、還らせたりするようなものです。
 比丘たちよ、ちょうどそのように、誰であれ、身に至る念が修習され、復習されている場合、通智による現証のために、それぞれの通智による現証可能な法に心が傾くならば、かれはそれぞれの所において、念の処があるとき、目のあたりに見ることができる状態に達します。

7  比丘たちよ、身に至る念を、行ない、修習し、復習し、乗り物のようにし、礎とし、実行し、積み重ね、よく務めた者には、十の功徳が期待されます。すなわち、不快・快に耐える者になり、不快がかれに耐えない。かれは生じている不快を征服して住みます。(1)
 恐怖に耐える者になり、恐怖がかれに耐えない。かれは生じている恐怖を征服して住みます。( 2 )
 寒さや暑さ、飢えや渇きに耐える者となり、虻や蚊、風や熱、蛇類に触れること、罵られ、歓迎されない、もろもろの言葉の路、すでに生じている、鋭い、激しい、激烈な、不愉快な、喜ばしくない、致命的な、もろもろの身の苦痛を堪え忍ぶ者になります。( 3 )
 増上心にして現世の楽住である四禅を、随意に得る者、難なく得る者、少なからず得る者になります。( 4 )
 種々のさまざまな神通を体験します。すなわち、一つになり、また多になります。多になり、また一つになります。現れます。隠れます。壁を越え、垣を越え、山を越え、空中におけるように障害なく行きます。大地においても、水中におけるように行きます。水上においても沈むことなく、大地におけるように行きます。空中においても足を組み、翼のある鳥のように進みます。あのように大神力があり、あのように大威力がある、あの月と太陽にも手で触れたり撫でたりします。梵天界までも身をもって自在力を行使します。( 5 )
 清浄にして超人的な天の耳によって、遠くのものであれ、近くのものであれ、天の声、人間の声をともに聞きます。( 6 )
 他の生けるものたち、他の人々の心を心によって摑み、知ります。すなわち、
  貪りのある心を貪りのある心であると知ります。あるいは
  貪りを離れた心を貪りを離れた心であると知ります。あるいはまた
  怒りのある心を怒りのある心であると知ります。あるいは
  怒りを離れた心を怒りを離れた心であると知ります。あるいはまた
  愚痴のある心を愚痴のある心であると知ります。あるいは
  愚痴を離れた心を愚痴を離れた心であると知ります。あるいはまた
  委縮した心を委縮した心であると知ります。あるいは
  散乱した心を、散乱した心であると知ります。あるいはまた
  大なる心を、大なる心であると知ります。あるいは
  大ならざる心を、大ならざる心であると知ります。あるいはまた
  有上の心を、有上の心であると知ります。あるいは
  無上の心を、無上の心であると知ります。あるいはまた
  安定した心を、安定した心であると知ります。あるいは
  安定していない心を、安定していない心であると知ります。あるいはまた
  解脱した心を、解脱した心であると知ります。あるいは
  解脱していない心を解脱していない心であると知ります。( 7 )
 種々の過去における生存を、たとえば一生でも、二生でも、三生でも、四生でも、五生でも、十生でも、二十生でも、三十生でも、四十生でも、五十生でも、百生でも、千生でも、十万生でも、また数多 ( あまた ) の破壊の劫でも、数多 の創造の劫でも、数多 の破壊と創造の劫でもつぎつぎ思い出します。『 そこでは、これこれの名があり、これこれの姓があり、これこれの色があり、これこれの食べ物があり、これこれの楽と苦を経験し、これこれの寿命があった。その私は、そこから死んで、あそこに生まれた。そこでも、これこれの名があり、これこれの姓があり、これこれの色があり、これこれの食べ物があり、これこれの楽と苦を経験し、これこれの寿命があった。その私は、そこから死んで、ここに生まれかわっているのである 』 と、このように具体的に、明瞭に、種々の過去における生存をつぎつぎ思い出します。( 8 )
 清浄にして超人的な天の眼によって、生けるものたちが、劣ったもの・勝れたものとして、美しいもの・醜いものとして、幸福なもの・不幸なものとして、死にかわり生まれかわるのを見、生けるものたちが、その業に応じて行くのを知ります。( 9 )
 もろもろの煩悩の滅尽により、煩悩のない心の解脱、慧の解脱を、現世において自らよく知り、目の当たりに見、成就して住みます。( 10 )
 比丘たちよ、身に至る念を、行ない、修習し、復習し、乗り物のようにし、礎とし、実行し、積み重ね、よく努めた者には、これら十の功徳が期待されます」と。
 このように世尊は言われた。
 かれら比丘は喜び、世尊が説かれたことに歓喜した、と。


〈 和 訳・おわり 〉