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■中部経典 第3経 「法相続経」




〈 和 訳 〉

── このように私は聞きました。

ある時、世尊は、サーヴァッティ近くの「ジェータ王子の林」にある、
祇園精舎〈アナータピンディカ僧院〉に住んでおられました。

そこで、世尊は、比丘たちに話しかけられました。

 「比丘たちよ」

 「尊師よ」

と、── 比丘たちは、世尊に答えました。
そして世尊は、このように言われたのです。

 「比丘たちよ、私の法の相続者になりなさい。
  財の相続者になってはいけない。
  私は、貴方たちに対し、
  〈 わが弟子たちは、財の相続者にならずに、法の相続者であるように… 〉
  ── という憐み〈思いやり〉の思いがある。

  比丘たちよ、貴方たちが私の法の相続者とならずに、財の相続者となるならば、
  貴方たちはそれによって、指摘される〈非難される〉者になるであろう。
  〈 師の弟子たちは、法の相続者てはなくて、財の相続者として住んでいる 〉と。
  私もそれによって、指摘される〈非難される〉者になるであろう。
  〈 師の弟子たちは、法の相続者てはなくて、財の相続者として住んでいる 〉と。

  しかし比丘たちよ、貴方たちが私の財の相続者とならずに、法の相続者となるならば、
  貴方たちはそれによって、指摘される〈非難される〉者になることはない。
  〈 師の弟子たちは、財の相続者てはなくて、法の相続者として住んでいる 〉と。
  私もそれによって、指摘される〈非難される〉者になることはない。
  〈 師の弟子たちは、財の相続者てはなくて、法の相続者として住んでいる 〉と。

  それ故ここに、比丘たちよ、私の法の相続者になりなさい。
  財の相続者になってはいけない。
  私は、貴方たちに対し、
  〈 わが弟子たちは、財の相続者にならずに、法の相続者であるように… 〉
  ── という憐みの思いがある。


余分の捨てられるべき托鉢食


  ここに、比丘たちよ、〈例えば〉私が食事をし、
  充分に食べ、満ち足り、終え、満腹し、飽食しているとする。
  しかも私には、余分の、捨てられるべき托鉢食があり、
  そこへ飢え、衰弱した二人の比丘がやって来たとしよう。

  私は彼らに、こう言う。
  『比丘たちよ、私は食事をし、充分に食べ、満ち足り、終え、満腹し、飽食している。
  しかも私には、余分の、捨てられるべき托鉢食がある。
  もし、望むのであれば、食べなさい。
  もし、貴方たちが食べないのであれば、
  私は今から青草の無いところに捨てるか、生き物のいない水に沈めよう。』と。

  そこで、一人の比丘はこのように思ったとする。
  〈 世尊は食べ終わり、充分に食べ、満ち足り、終え、満腹し、飽食しておられる。
  しかも世尊には、余分の、捨てられるべき托鉢食がある。
  もし、私たちが食べないのであれば、
  今から世尊は、青草の無いところにお捨てになるか、生き物のいない水にお沈めになるであろう。
  しかし、世尊によって、
  『比丘たちよ、私の法の相続者になりなさい。
  財の相続者になってはいけない。』と、こう言われているのだ。
  しかも、この托鉢食は財の一つである。
  私はこの托鉢食を食べず、この飢えと衰弱のまま、このようにして一昼夜を過ごしてはどうだろうか 〉と。
  そこで彼は、托鉢食を食べず、その飢えと衰弱のまま、そのようにして一昼夜を過ごしたとする。 

  また、連れの比丘は、このように思ったとする。
  〈 世尊は食べ終わり、充分に食べ、満ち足り、終え、満腹し、飽食しておられる。
  しかも世尊には、余分の、捨てられるべき托鉢食がある。
  もし、私たちが食べないのであれば、
  今から世尊は、青草の無いところにお捨てになるか、生き物のいない水にお沈めになるであろう。
  私はこの托鉢食を食べ、この飢えと衰弱を除き、このようにして一昼夜を過ごしてはどうだろうか 〉と。
  そこで彼は、その托鉢食を食べ、飢えと衰弱を除き、そのようにして一昼夜を過ごしたとする。 

  比丘たちよ、その比丘が、たとえその托鉢食を食べて、飢えと衰弱を除き、
  そのようにして一昼夜を過ごしたとしても、
  かの先の〈最初に説明した〉比丘こそが、私のより尊敬すべき、より称賛すべき者なのだ。
  それは何故か? 比丘たちよ、それが彼の比丘にとって、
  長く、少欲に、知足に、削減に、養い易さに、精進努力に資することになるからである。

  それ故、比丘たちよ、私の法の相続者になりなさい。
  財の相続者になってはいけない。
  私は、貴方たちに対し、
  〈 わが弟子たちは、財の相続者にならずに、法の相続者であるように… 〉
  ── という憐みの思いがある。

世尊はこのように言われました。
善逝〈ぜんせい〉はこのように言われて、座より立たれ、精舎に入って行かれました。


サーリプッタの説法


そこで、尊者サーリプッタは、世尊が立ち去られてから間もなく、比丘たちに告げて言いました。

 「友、比丘たちよ」と。

 「友よ」と、

彼ら比丘たちは答えました。
サーリプッタは、こう言いました。

 「友らよ、遠離 して住まわれる師の弟子たちは、
  いったいどれだけでもって、遠離 を学ばない ということになるのであろうか?
  また、遠離 して住まわれる師の弟子たちは、
  いったいどれだけでもって、遠離 を学ぶということになるのであろうか?」と。

 「友よ、私たちが遠くからでもやって来るのは、
  サーリプッタ尊者のもとで、この言葉の意味を知るためです。
  どうか、サーリプッタ尊者こそ、この言葉の意味を明らかにしてください。
  サーリプッタ尊者からお聞きし、比丘たちは学びます。」

 「それでは友らよ、聞いて、よく考えなさい。話しましょう。」
 「分かりました、友よ。」

と、彼ら比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。


遠離 を学ばない弟子たちの場合


尊者サーリプッタは、次のように言いました。

 「友らよ、遠離 して住まわれる師の弟子たちは、
  いったいどれだけをもって、遠離 を学ばないということになるのであろうか?

  友らよ、この〈仏教の〉教えにおいて、遠離 して住まわれる師の弟子たちが、
  遠離 を学ばない、 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てない、
  贅沢で放漫になり、堕落を先とし、遠離 に対する責任を放棄している、ということがある。

  友らよ、彼ら弟子の中で、長老比丘たちは、三つの根拠によって非難されなければならない。
  すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ばない 〉
  というこの第一の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。
  〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てない 〉
  というこの第二の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。
  〈 贅沢で放漫になり、堕落を先とし、遠離 に対する責任を放棄している 〉
  というこの第三の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。
  実に長老比丘たちは、この三つの根拠によって非難されなければならないのである。

  友らよ、彼ら弟子の中で、中堅比丘たちは、三つの根拠によって非難されなければならない
  すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ばない 〉
  というこの第一の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。
  〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てない 〉
  というこの第二の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。
  〈 贅沢で放漫になり、堕落を先とし、遠離 に対する責任を放棄している 〉
  というこの第三の根拠によって、中堅比丘たちは非難されなければならない。
  実に中堅比丘たちは、この三つの根拠によって非難されなければならないのである。

  友らよ、彼ら弟子の中で、新参比丘たちは、三つの根拠によって非難されなければならない。
  すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ばない 〉
  というこの第一の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。
  〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てない 〉
  というこの第二の根拠によって、長老比丘たちは非難されなければならない。
  〈 贅沢で放漫になり、堕落を先とし、遠離 に対する責任を放棄している 〉
  というこの第三の根拠によって、新参比丘たちは非難されなければならない。
  実に新参比丘たちは、この三つの根拠によって非難されなければならないのである。

  友よ、これだけをもって、遠離 して住まわれる師の弟子たちが、遠離 を学ばないということになるのだ。


遠離 を学ぶ弟子たちの場合


  次にまた友らよ、どれだけをもって、
  遠離 して住まわれる師の弟子たちが、遠離 を学ぶということになるのであろうか?

  友らよ、ここに、遠離 して住まわれる師の弟子たちが、遠離 を学ぶ、 
  師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てる、
  贅沢でなく放漫にならず、堕落に対する責任を放棄し、遠離を先としている、ということがある。

  友らよ、彼ら弟子の中で、長老比丘たちは、三つの根拠によって称賛される者になる。
  すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ぶ 〉
  というこの第一の根拠によって、長老比丘たちは称賛される者になる。
  〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てる 〉
  というこの第二の根拠によって、長老比丘たちは称賛される者になる。
  〈 贅沢でなく放漫にならず、堕落に対する責任を放棄している 〉
  というこの第三の根拠によって、長老比丘たちは称賛される者になる。
  実に長老比丘たちは、この三つの根拠によって称賛される者になるのである。

  友らよ、彼ら弟子の中で、中堅比丘たちは、三つの根拠によって称賛される者になる。
  すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ぶ 〉
  というこの第一の根拠によって、中堅比丘たちは称賛される者になる。
  〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てる 〉
  というこの第二の根拠によって、中堅比丘たちは称賛される者になる。
  〈 贅沢でなく放漫にならず、堕落に対する責任を放棄している 〉
  というこの第三の根拠によって、中堅比丘たちは称賛される者になる。
  実に中堅比丘たちは、この三つの根拠によって称賛される者になるのである。

  友らよ、彼ら弟子の中で、新参比丘たちは、三つの根拠によって称賛される者になる。
  すなわち、〈 遠離 して住まわれる師の弟子たちは、遠離 を学ぶ 〉
  というこの第一の根拠によって、新参比丘たちは称賛される者になる。
  〈 師がその捨断を説かれた諸々の法を捨てる 〉
  というこの第二の根拠によって、新参比丘たちは称賛される者になる。
  〈 贅沢でなく放漫にならず、堕落に対する責任を放棄している 〉
  というこの第三の根拠によって、新参比丘たちは称賛される者になる。
  実に新参比丘たちは、この三つの根拠によって称賛される者になるのである。

  友らよ、その場合、貪りは悪しきものであり、また怒りは悪しきものである。
  貪りを捨てるために、また怒りを捨てるために、中道がある。
  それは、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くものである。
  しかし、友らよ、その、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くという中道とは何か?
  これこそ、聖なる八支の道、すなわち、正見解・正思惟・正語・正行為・正生活・正精進・正念・正定である。
  友よ、これがその中道であり、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くものなのである。

  友らよ、その場合、
  忿怒は悪しきものであり、また恨みは悪しきものである。
  忿怒を捨てるために、また恨みを捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。
  被覆は悪しきものであり、また悩害は悪しきものである。
  被覆を捨てるために、また悩害を捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。
  嫉妬は悪しきものであり、また吝嗇は悪しきものである。
  嫉妬を捨てるために、また吝嗇を捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。
  諂いは悪しきものであり、また誑かしは悪しきものである。
  諂いを捨てるために、また誑かしを捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。
  強情は悪しきものであり、また傲慢は悪しきものである。
  強情を捨てるために、また傲慢を捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。
  慢心は悪しきものであり、また過慢は悪しきものである。
  慢心を捨てるために、また過慢を捨てるために、中道がある … 〈 中 略 〉 … 涅槃に導くものなのである。

  陶酔は悪しきものであり、また放逸は悪しきものである。
  陶酔を捨てるために、また放逸を捨てるために、中道がある。
  それは、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くものである。
  しかし、友らよ、その、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くという中道とは何か?
  これこそ、聖なる八支の道、すなわち、正見解・正思惟・正語・正行為・正生活・正精進・正念・正定である。
  友よ、これがその中道であり、眼を作り、智を作り、寂滅に、勝智に、正覚に、涅槃に導くものなのである。」と。

尊者サーリプッタはこのように言いました。
かれら比丘たちは喜び、尊者サーリプッタが説かれたことに歓喜したのでした。


〈 和 訳・おわり 〉




● 解 説


ののの


















































































〈 編集中 〉