ソ連史


概略

  • 指導者を中心としたまとめ
指導者 出来事 米国 日本
スターリン H
マレンコフ
  • 53年のスターリンの死
    • 閣僚会議議長(首相)兼共産党書記局筆頭書記(ソビエト連邦の最高指導者)
    • しかし集団指導体制を構想したマレンコフは、すぐに筆頭書記の職をニキータ・フルシチョフに譲る。
フルシチョフ
  • 53年3月、マレンコフより継承
  • 1956年、「スターリン批判」(第20回党大会の秘密報告)
    • 中華人民共和国とソ連の間でイデオロギー論争
  • 56年10月23日-1956年11月10日 ハンガリー動乱
    • 軍事介入
  • 1957年10月4日、スプートニク1号打ち上げ(11月3日に2号)
    • その後60年5月15日、4号、60年8月19日、5号打ち上げ
    • スプートニク・ショック
  • 58年07月、フルシチョフ訪中
    • 毛沢東との会談で中ソ共同艦隊等の提案をするも毛沢東拒否
  • 59年10月、フルシチョフ北京訪問
    • 毛沢東と会談。意見不一致の為共同声明出ず。
  • 59年、アメリカ公式訪問(アイゼンハワー、雪解け)
  • 60年、キューバ危機・U-2撃墜事件
    • 平和共存に関する中ソ論(キューバ危機、西側にも公然のものとなった)
  • 60年04月、人民日報及び紅旗が共同論説「レーニン主義万歳」発表。
    • 中ソ論争表面化。
  • 60年06月、中華人民共和国に派遣していた技術専門家をひきあげる。
  • 60年11月、モスクワで81カ国共産党会議開催
    • 中華人民共和国とソ連の間で意見調整、妥協的なモスクワ宣言発表
  • 61年に行われたウィーン会談(ケネディ)と会談
    • ベルリンの処遇について対立し、その後「ベルリンの壁」
  • 61年07月、朝鮮民主主義人民共和国(が中華人民共和国と中朝友好協力相互援助条約)、ソ連と軍事同盟を締結。
  • 61年10月、アルバニアと断交して軍事衝突寸前
  • 62年10月、中印国境紛争が発生。
    • ソ連がインドに武器援助を行う。
  • 64年、失脚
ブレジネフ
  • 64年10月13日-14日、フルシチョフは年金生活に入るために「自発的に」党中央委員会第一書記と閣僚会議議長(首相)の地位を辞任(中央委員会総会)。
    • ブレジネフは党第一書記となり、アレクセイ・コスイギンは首相になった。
      • フルシチョフと親しかったアナスタス・ミコヤンは最高会議幹部会議長(国家元首)という名誉職に追いやられたが、1965年にミコヤンも事実上失脚し、後任にニコライ・ポドゴルヌイが就任する。
  • 66年04月、第一書記→(スターリンの肩書きであった)書記長と改称
  • 68年、プラハの春(チェコスロバキア書記長アレクサンデル・ドゥプチェク)
    • ブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)
  • 69年、中ソ国境紛争
    • ウスリー川のダマンスキー島(中国名:珍宝島)において両国の軍隊による武力衝突
  • 71年、米中の関係改善
  • 72年05月、リチャード・ニクソンモスクワ訪問
    • 米ソ両首脳は戦略兵器制限条約(SALT I) に調印
  • 73年01月のパリ和平協定
    • ベトナム戦争の公式な終了
  • 73年05月に西ドイツを訪問し、06月にはアメリカへの公式訪問を行った。
  • 75年07月、ヘルシンキにおける全欧安全保障協力会議(CSCE)
    • ヤルタ体制を認めさせた
  • 75年、アンゴラ内戦
  • 77年、エチオピア・ソマリア戦争(-78年)
  • 77年から単独の最高指導者
    • 06月にポドゴルヌイの引退を強要。
    • ソ連邦最高会議幹部会議長の地位を党書記長と等しくして、再びソ連邦最高会議幹部会議長になる
  • 79年06月、SALT II(ジミー・カーター)
  • 79年12月、アフガン
  • 82年11月、ブレジネフ死去
アンドロポフ
  • 82年11月12日、ソ連共産党中央委員会書記長に就任する
  • 83年06月、最高会議幹部会議長も兼任した。
  • 84年02月、アンドロポフ死去
チェルネンコ
  • 84年04月、チェルネンコ、ソ連共産党中央委員会書記長に就任
  • 国家元首である最高会議幹部会議長を兼務す
  • 85年03月10日、死去した
ゴルバチョフ
  • 85年03月、チェルネンコの死去を受けて、ソ連共産党書記長に就任
  • 85年11月、スイス・ジュネーヴにて、アメリカ合衆国大統領のロナルド・レーガン(当時)と米ソ首脳会談
    • 核軍縮交渉の加速、相互訪問などを骨子とする共同声明を発表した
  • 86年04月、ペレストロイカを提唱。チェルノブイリ原子力発電所事故
    • 情報公開(グラスノスチ)を推進する
  • 86年07月、アフガニスタン撤退(ウラジオストク演説)と中ソ関係改善を表明した
  • 87年08月に国営企業法を制定
  • 87年12月、中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)成立
  • 89年、東欧革命がピークに
  • 89年5月、訪中(中ソ対立に終止符)
  • 90年03月、複数政党制と強力な大統領制を導入
  • 90年12月、シェワルナゼ外務大臣辞任、ヤナーエフを副大統領に指名した
  • 91年04月、来日。
    • 海部(首相)と平和条約締結や北方領土帰属等の問題を討議したが、合意には達しなかった
  • 91年08月、8月クーデター
    • 8月29日、ソ連議会がパブロフの不信任案を可決、ソ連最高会議はソ連共産党の活動全面停止を決定
エリツィン H

ジョーク


  • レーニンがクレムリンのトイレに入ると、こんな落書きがしてあった。
    • 「レーニンのばか」
    • レーニンは落書きを書いた資本家に対し革命を起こした。
  • スターリンがクレムリンのトイレに入ると、こんな落書きがしてあった。
    • 「スターリンのバカ」
    • スターリンは清掃責任者を処刑させた。
  • フルシチョフがクレムリンのトイレに入ると、こんな落書きがしてあった。
    • 「フルシチョフのバカ」
    • フルシチョフは責任がスターリンにあると非難した。
  • ブレジネフがクレムリンのトイレに入ると、こんな落書きがしてあった。
    • 「ブレジネフのバカ」
    • ブレジネフはトイレを閉鎖した。
  • アンドロポフがクレムリンのトイレに入ると、こんな落書きがしてあった。
    • 「アンドロポフのバカ」
    • アンドロポフはトイレの落書きをどうかしようとする前に死んだ。
  • チェルネンコがクレムリンのトイレに入ると、こんな落書きがしてあった。
    • 「チェルネンコのバカ」
    • チェルネンコはトイレの落書きをどうかしようとする前に死んだ。
  • ゴルバチョフがクレムリンのトイレに入ると、こんな落書きがしてあった。
    • 「ゴルバチョフのバカ」
    • ゴルバチョフは落書きをレーガンに見せた。
  • エリツィンがクレムリンのトイレに入ると、こんな落書きがしてあった。
    • 「エリツィンのバカ」
    • エリツィンは酔っていて気づかなかった。
  • プーチンがクレムリンのトイレに入ると、こんな落書きがしてあった。
    • 「プーチンの人殺し」
    • プーチンは「プーチン」のところを「チェチェン人」と書き換えてトイレから出た。
  • 引用元
    • ttp://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Cupertino/2261/sekaishi/j-commu-05.htm

最終更新:2010年09月11日 02:05